言の葉は絆となりて
ぽたりとひとつぶだけ溢れた温かい涙はすぐに肌を冷やし始めた。
それ以上に冷たい指先がさっと拭い去り、強い刺激が和らぎ消えていく。
自ら心に刺した針が痛みを感じる前に抜かれてしまったようだった。
少しだけ気恥ずかしい気持ちで顔を上げれば、今度はほっとした表情が視界に入る。
「心を縛った、か」
指先を私の頬から離さないまま、蛍都さんは回顧するようにゆっくりと瞬きをする。
「菜子ちゃんは、心の形はどんなものだと思う?」
「い、きなりなんですか?」
初めて私たちに沈黙が訪れた。静かで違和感すらない心地よい無音。
私が応えるまで何も語るつもりはないらしい。
早々に彼へ白旗を挙げて、考えながら口を開くことにした。
「人によって違うんじゃないですか?自分で決めるものだと思います」
「そうだね。正解はないし、好きに決めていいものだと思う。僕はずっと形がなかったんだ。君に出会うまでは」
「形がない?」
「自分で自分のことがわからない。どんな形かわからないまま、人が僕に対する理想の形に合わせて生きてきたんだ。そんな自分に何度も嫌になって、自暴自棄になって、家族にたくさんの迷惑をかけた」
「……」
「君は僕に言霊を使ってしまったことを後悔しているのはわかるよ。当時無自覚だったとしてもね。でも、僕は感謝してるんだ」
「え?」
頬を撫でる手が止まった。そのまま肩に置かれて、私たちは同じ高さで見つめ合う。
いつもの宝石のような瞳がいつもより輝いて見えるのは、気のせいだろうか。
「君が僕を好きだと言ってくれた。今まで多くの人に言われたけれど、君の言葉は初めて僕の心に届いたんだ。
その時気づいたんだよ、僕の本当の気持ち、考え、生きることの希望。
君の言霊は僕に心の形をくれたんだ」
「っ」
私の罪は、罪じゃなかった?
身体の内側から熱が広がった。
にじみ出る汗に顔まで赤くなってしまいそう。
「だから気にすることなんてないんだ。どうしても罰としたいなら、身勝手に君を生き方にした僕も受けるべきだと思わない?」
どんな罰を受けようか。
言葉と相反して、彼の表情は晴れやかだ。
「主治医として君を支え続けようか。喉が痛いときは符を作ろう、もちろんお金はいらないよ。万一職を失うことがあれば僕が養おうね、永遠に君を幸せにしてみせるよ」
「ちょ、ちょっと待って」
「……はは!」
大きな声が雪に吸い込まれた。めったにない笑い声に私は一瞬抗議の声を引っ込めてしまう。
「か、からかいましたね!?」
「ふふ、ははは」
「まったく、その顔で冗談はやめてください」
私じゃなかったら、みんな原型もなく溶けてなくなってしまいそうだ。
刺激が強すぎる。
「……冗談ですよね?」
「……さて、もう少しで7係がある棟だ。行こうか」
「ちょ、ちょっと!」
もう一度彼の大きな声が聞こえた。
―――――――――――――――――――――
7係の執務室がある棟は人の気配がなく、違和感だらけの玄関が私たちを迎えた。
どうしてだろう。と不思議に思っていると、蛍都さんは今日は日曜日だよと教えてくれた。
え、そうだったの?すっかり感覚がずれていて自分で自分を呆れてしまう。
どうりで道中誰ひとりとしてすれ違わなかったのか。
「ここまでで大丈夫です。あとは荷物を置いて吉川家に戻ります」
「……やっぱり家まで送らせてくれないかな?」
「だめですよ。私知ってますよ、このあと呼ばれているんでしょう?」
「え、どうしてわかったの?」
「病院から出るとき、近くにいたスーツの方と縁が繋がってました。ちょっと明るくてはっきりした紺色、緊張した関係です。こういうのはだいたいあとで仕事関連の約束があるときです」
「へえ、そんなことまでわかるんだ」
縁視を研究してる身でもわからないことだらけだ。蛍都さんは首を振って言う。
本当にそうだろうか?
病室で過ごす間、視える縁が異常に少なかった。
それは病室を訪れる人だけでなく、廊下を通る人が少なかったことを指している。
看護士の方が口を揃えて言っていた。
この病室は人通りの少ないところであると同時に、できる限りの人払いができるからと彼が指定していた病室なのだと。
「室長」
「ん?」
「ありがとうございました」
私は彼に深々と頭を下げた。
きっと私が知らないところでたくさんの気遣いと、やさしさと、心配をかけていたんだろう。
彼の心を覗いてしまったからだと思う。今までのような冷たい態度をとる気にはなれなかった。
「頭を上げて、菜子ちゃん。僕は僕のできることをしただけなんだから」
「それでも感謝を伝えたかったんです。だめですか?」
「うっ」
彼が私の上目遣いに弱いのも噂好きな人々から聞いた話だ。
こちらに伸びる手は少し震えている。
少し抵抗しながらもおどおどとこちらに近づくそれに、私は彼の方へ一歩踏み出した。
互いの距離は、1mもない。
驚いた顔をする室長に、私はマフラーで口を覆いながら言った。
「撫でたいなら、どうぞ」
「っ!」
ぽん、と大きな手が乗る感覚。
じっとしていると、やがてその手はゆっくりと撫でた。
「……今だけですからね」
「ふふ、ふふ……っ」
撫でた手が、不意に後頭部に回る。
なんだろうと思って顔を上げた瞬間。
私の視界は布で覆われていた。
「かわいい、ほんとうにかわいい…」
「ちょっ」
頭を撫でる左手は変わらず動かしたまま、腰の後ろにも手の感触。
抱き、寄せ、られた?
感じたことのない感覚に、私は完全に固まっていた。
「きみにはかてないなあ」
……つまり負けたということ?
それなら、柚那の願いは叶えられたと思っていいのかな。
「ねえ、菜子ちゃん。本当はもう、わかっているんだろう」
「え?」
上から聞こえる声。
さっきまでどこか遠く聞こえていたそれが、今はすぐ近くから聞こえて、ぞくりと震える。
「君は本当に、僕が君のことをただの妹として好きなのか」
「……違うんですか?」
「本当にそう思ってる?」
「……はい、そう思っています」
「……ふふ、君はずるいね」
ぬくもりが消えた。
また冷たい空気に覆われた私は、突然ひとり取り残されたような感覚に襲われる。
一瞬で距離を保った彼は、こちらを見て微笑んでいた。
「ねえ、菜子ちゃん」
「……なんですか」
「君と僕をつなぐ縁は何色かな?」
「……視えませんね」
「ふふ、嘘つき」
そんな言葉を投げかけつつも、彼はそれ以上何も言わないで歩き出した。
背中を追って再び足を動かし、彼を隣から覗き込む。
それはいつもと変わらない、けれど、なにも読み取れない穏やかな表情だった。
「あ」
結局執務室まで送ると言われて流されるままエレベーターを降りたとき、私は見慣れた姿を見つけて、思わず声を出した。
ピタリと2人の歩みが止まる。
廊下の向こうには、4人の姿が見えていた。
ショッキングピンクの長い髪。
一番背の高い細いシルエット。
両目を隠してこちらを向く顔。
眼鏡を光らせて片手を振る姿。
「みんなだ」
「……そうだね」
呟いた声に、優しい声が返ってくる。
自然な動きで室長を見れば、取り上げられていたバッグをこちらに差し出していた。
「僕はここまでみたいだ。行っておいで」
「……ありがとうございます」
遠慮なく手を伸ばして、バッグを掴む。
肩にかけようとしたら―――――何故か引っ張られた。
「……」
「……」
「……あの、離してもらえますか」
「……うん、ごめんね」
小さい声のあとに、だらりとバッグの取っ手が垂れた。
改めて肩にかけた私は、そのまま仲間たちのもとへ足を進める。
数歩歩いて、止まる。
振り返ってみる。
そこには明らかに名残惜しそうな情けない姿がいた。
「……来週」
「ん?」
「退院後の定期検診、来週金曜日でしたよね?」
「うん、君が、来てくれれば」
まったく。
これだけ冷たくしてきたのに、よくもまあ、私にそんな表情が見せられる。
もし私が雪園家に甘えて優しい人たちに囲まれて生きることを選んだなら、どれだけ幸せだっただろう。
何度彼の暖かい手に包まれて生きることができただろう。
だからこそ、私のことは放っておいてほしいと願って、行動してきた。
優しい人たちを、私のせいで不幸にはしたくない。
いつか神隠しに遭っていなくなったその時に、深く悲しんでしまわないように。
私が何になってしまったか気づいて、深く傷をつけてしまわないように。
それなのに。
「仕方ないから受けてあげます」
「え?」
「二度は言わないです」
「ま、待って、菜子ちゃん、それって」
「だから、そんな顔しないでくれます?また会えるんだから」
「嘘ではないよね?信じていいんだね?」
震える声に思わず笑うと、彼はつられるように不格好な笑顔を見せた。
「待ってるよ。信じて待っている。
ずっと、待っているから」
「……うん」
もう3歩、歩いてもう一度振り返る。
「助けてくれてありがとう。またね、蛍都さん」
「!!」
私はもう振り返らず、仲間たちのもとへ小走りで向かっていった。
彼のように耳が赤かったらどうしよう、そんなことを考えながら。
エニシミエシミ ~異能女子お仕事徒然帖~ 綾乃雪乃 @sugercube
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