かつての日常、帰郷のとき
いよいよ退院の日が来た。
呼吸器具が外れて3日、身体に何の違和感もなくなった私は、久々に白い軍服を着込んでベッドに座っていた。
大きな荷物はすでに家に送っていて、手持ちのバッグだけが隣にちょこんと置かれている。
外からは暖かそうな日差しが私を照らしているが、白がところどころ見える地面が寒さを教えてくれていた。
ゆっくりと立ち上がってハンガーにかかった茶色のコートに手を伸ばすと、ガラガラと個室の扉が開けられた。
担当してくれていた壮年の看護士さんと、外と同じように寒そうな真っ白な髪と白衣が覗く。
「準備万端だね」
革靴の音を響かせながら私に近づき、あっという間にコートを奪っていった。
そして両肩の部分を掴むと、着ろと言わんばかりにこちらへ向けてくる。
抵抗するのも疲れた私は、素直に背を向けてコートを着させてあげることにする。
「ありがとうございます」
「うん。……元気になってくれて本当によかったよ」
「雪園室長、お世話になりました」
「いえいえ」
宝石が煌めく青い瞳は嬉しそうに細められる。
この顔を毎日見るのも今日で最後、特に寂しさもないが本人はそうでもないみたいだ。
隣にあったバッグを勝手に肩にかけて、先に出口へ向かってしまった。
「室長、バッグを」
「7係の執務室まで送るよ」
「え、いいです」
「まあまあ、遠慮しないで」
ガラガラと音を立てて再度扉が動くや否や、彼はさっさと出ていってしまった。
困って思わず看護士さんの方を見てみれば、とても穏やかな表情で彼の背中を見つめている。
「本当にお世話になりました」
私の声にようやくこちらを向いた看護士さんは、にっこりと皺を寄せて笑顔を見せた。
「本当にお元気になられてよかったです。……本当に。
さあ、雪園先生のところへ。お早めに。……お待ちですよ」
「あ、はい!」
私は慌てて追いかける形で、長らくお世話になった病室を去ることになった。
――――――――――――――
外は予想通り寒かった。
もう暖かくなっても良い季節だというのに、昨日は大雪だったとテレビが騒ぎ立てていた通り空気が肌を刺してくる。
思わず両腕をさすると、雪園室長はバッグに入っていたマフラーと手袋を勝手に取り出して私に手際よく付けた。
「……室長は寒くないんですか、入口までで大丈夫ですから」
「問題ないよ。執務室までの間に何かあっては大変だからね」
「私はもう大丈夫です。室長がそう言ったから退院したんでしょう?」
「確かに言ったけれど、あくまで検査結果から出した結論だよ」
「でも……」
さく、と雪の音がする、
それは室長がこちらを振り返った音だった。
真剣な顔に、思わず言葉を止める。
「もう少しだけ君の世話をしたい。あと少しで僕から解放されるんだから、もうちょっといいだろう?」
「……なんですか、それ」
「ただのわがままだよ」
……はあ。
私の力のない声は白くなって空に溶けていく。
そう言われるとついつい甘やかしてしまうのは私の悪い癖だ。本当に。
少し早歩きして室長の隣に立つ。
「仕方ないですね、今だけですよ」
「……ふふ、ありがとう」
冬なのに、美しい華が咲いた。
本当に贅沢な顔をしている。いつもは小憎たらしいくらいなのに時折見せる純粋な表情が不意を突いてくる。
脳裏のよぎった彼女の願いが邪魔をして、思わず私も微笑んでしまう。
さく、さく、と。
雪の道に、2人の足跡が残されていった。
「はあ」
手袋をしていても感じる寒さに、私は無駄だとわかっていても息を吹きかけた。
手が温まるよりも前に、その息は一瞬で冷たく解けていく。
寒い?とすかさず彼は私に声をかけた。
「室長よりは温かいですよ。手、冷えてますよね?」
「何もつけてないからね。でも必要ないよ」
そんな強がりを言いながら、彼の手はしっかりと赤くなっている。
これで綺麗な手が荒れたら誰に何を言われるかわからない。
片方くらい渡そうかな。私の対して高くない体温でも少しくらいは役に立つだろう。
左手の手袋を外そうとして―――――隣から素早く白い手に掴まれた。
「何するんですか」
「だめ」
「せめて片方くらいは」
「だめ」
「でも」
「世話させてって言ったでしょ。大切にさせてほしい、今だけでいいから」
こちらを見ている眉間には皺が寄っている。
負けじとにらみ返してみたけれど、効くこともなく両手でしっかりと手袋をはめ直されてしまった。
「はあ、頑固ですね」
「君には負けるよ」
「それはどーも」
頑固、か。
私はいつも通りを装っているだけ。
本当は内心そわそわしていて、いつもの自分がわからなくなっている。
だからだろう。飽き飽きするほど回想した記憶がまた脳裏をよぎっていく。
『お姉さま。お願いがあるの』
あの日、兄たちを追い出した柚那は神妙な面持ちで口を開いた。
急になんだと驚いて頷けば、彼女は私が意識を失っている間の話をしてくれたのだけれど。
それからだった。私が退院の時を緊張しながら待っていたのは。
「……室長」
「ん?」
突然私が立ち止まったからだろう。彼は少し不安そうな顔をしてこちらを見下ろした。
布の擦れる音が聞こえる。私が顔を上げないから覗こうとかがんでいるんだろう。
それほど彼は大きく、いや、私が小さいのだ。
「ちゃんと、食事はできてるんですか」
「食事?」
「昨晩は眠れたんですか」
「僕が?」
「はい」
「もちろん、ちゃんと食べているし眠れているよ。うーん、やつれて見える?」
「……別に、そういうわけじゃないですけど」
『蛍都お兄さまとできる限りお話をしてほしいの』
『お話?』
『そうよ。……その、ね。さっき蛍都お兄さまが錯乱状態になったって言ったけど、そのあとお兄さまを診察した精神科の先生がお父様と私たちを呼び出したの。
今回の事件のショックで昔の状態に戻りしつつある、って』
『昔の状態?』
『そっか、お姉さまは子供のころに聞いただけだものね。
私たちが雪園家に来る前、蛍都お兄さまは慢性的な無気力感に悩まされていたの、燃え尽き症候群がきっかけだったらしいわ』
燃え尽き症候群。心をすり減らし多大な努力を重ねた結果、それが叶わなかったとき、または充分に叶ったときに起こりうる脱力感から抜け出せないような状態のことを言うのだとか。
『お兄さまは容姿も良ければ頭も良いし欠点が何もないでしょう?人々は誰しもお兄さまに完璧であれと願いを込めて持ち上げて、お兄さまもその期待に応えようと一生懸命だった。
完璧を強要され続けた結果、いつしか心が擦り切れてしまって、日々を過ごす力どころか、生きる気力すらも失っていたそうなの』
「確かに。君の治療に専念してた時はちょっと疎かにしたのは事実だけど。父さんたちに怒られて休憩中は見張られるくらいだったな。もう遠い昔の話のようだよ」
「見張られてたって……」
「はは。僕は君のことになると周りが見えなくなることが多くてね」
『今回は、お姉さまは治療のかいあってようやく安定した、ってところで魂が分離してしまったの。だから、今までの努力が徒労に終わったんじゃないかっていう強いストレスがきっかけだったみたい。
お兄さま、休憩中も何かつぶやいては出ていこうとするのよ。独りにさせられなくて、お父さまがずっと付き添っていたの』
「……まったく、心配しすぎじゃないですか?」
「考えすぎは良くないってわかっているんだけどね、やっぱり君が関わるとね」
『……まったく、あの人は何でそんなに私のことで大げさになれるのか、意味がわからない』
『その通りよ!やりすぎよね。……まあ、わからなくはないけれど』
『そうなの?』
『うん。だって蛍都お兄さまが心を取り戻したのも、生きる理由を見つけられたのも、菜子お姉さまだもん』
『……え?』
「わ、私の、私のことばかり心配してたら命がいくつあっても足りないです」
「君は優しいね。でも大丈夫、僕は1つの命で済むようにいろいろと努力してる。安心して頼ってくれていいんだよ」
あなたはすぐにそういうことを言う。
私はじろりとできる限りの力で睨んで見せた。
今度は満足げな表情、なんでだ。何に満足しているんだ。
わからない。わかってはいけない。
『お兄さまったら、今まで雪園家っていう才能あふれた人たちの中で暮らしてきたでしょう?だから、お姉さまのあまりの不器用さにびっくりしちゃったんだって!』
『……ええ、ええ、そうでしょうね、私は昔っから符術が全く展開できなかったよ悪かったわね』
『はは!
覚えてる?私たちが雪園家に来て1週間後に別荘に移ったこと』
『ええぇ……全く覚えてないけど』
『それ、実はお姉さまが原因だったんだよ。
家の扉や鍵やら何でもかんでも符術で便利に暮らしてたから、お姉さまがトイレの扉すら開けられなくて大問題になったんだって!』
『「ええぇ……」』
『それを見てお兄さま、庇護欲に完敗。お姉さまのお世話にどっぷりとハマっちゃって、ふふ、もう溺愛。結果的にだいぶこじらせちゃったけど、昔よりよっぽどいいわ』
「やりすぎはやめてください。前から言ってますけどなんでもかんでも私を甘やかすのは良くない!」
「うーん。可愛いから無理」
「はあ!?」
『どんなに甘やかしてもめったに素直にならないところが余計くすぐったみたい。私、お姉さまのその自尊心、大好き』
と、いうのもあってね。
おしとやかさがすっかり剥がれ、昔の少女の面影を見せる妹はけらけらと笑っていた。
『精神的に不安定なお兄さまに、もう一度完敗してもらいたいの。よろしくね、お姉さま!』
「……どうして」
立ち止まったままどれだけ経ったのだろう。
一向に増えない雪の足跡は、私がずっと見てきた景色のようだった。
あれから、たくさんの愛を与えられた雪園 菜子は、ある事件を境に魔力を制御出来ない身体となり、縁視となり、彼らに捨てられ
穢れのない白い園。私の足跡はあまりに醜く、踏んだところで地面にも届かずただ白いくぼみとなり、風が吹けば音もなく掻き消える。
だから踏むのをやめたんだ。美しいものは美しいままで、醜いものはしかるべき場所からひっそりと眺め、人知れず消えていけばいい。
だから、雪園家から逃げ出した。
捨てられたなんて嘘だとわかっていた。
縁視になっていずれ
辛い選択をさせた大切な人々に、これ以上悲しい思いをさせたくなかった、だけ。
『ねえ、蛍都お兄ちゃん』
『ん?』
『大好き!』
『……ふ、ははは、僕も大好きだよ!菜子ちゃん』
「気持ちを言葉にしてしまった、あなたの心を縛った……人生を狂わせた罰くらい、独りで受けさせてよ……!」
「あ……」
こぼれた涙を拭う白は、冷たくて暖かかった。
今も、昔も、きっとこれからも、優しい劇薬なんだろう。
ああ、完敗したのは、私じゃないか。
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