二ヶ月の恋をする
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第1話 二ヶ月の恋をする
木箱の少女は桑の葉を食べて成長する。
立てない。
歩けない。
動けない。
言葉も操れず、寝てばかりの少女。
それは少女がまだ二齢幼虫だからである。
這うようにしてゆっくりと時間をかけてこちらへ来た少女は、口を突き出し餌を乞う。
桑の葉を与えると、さも美味しそうに葉を口にくわえ、噛みしだく。口の中の物を燕下すると、もう一口手から桑を食み、美味しいと言う代わりに目を細めた。黒目がちな瞳は、確かに俺の姿を捉えていて、中途半端に開いた唇は物を話すときのように動いたが声は出ない。反射的な物か、それとも人としての遺伝子として感謝の言葉を紡ぐという本能が残っていたのかは定かではないが、少女の表情が笑みの形を取っているのは間違いない。
一畳ほどの木箱の中で、少女は一枚の布を身体に巻き付けているだけだった。人の年齢にすれば十四から十六歳くらいの身体付きだが、無垢な瞳には世を知らない幼子の輝きが宿っている。覗く胸元も恥ずかしがりはしない。
真っ白な髪、真っ白な肌。白磁の白さは冷たく滑らかで、唇の色は限りなく肌色に近い朱。その朱は淡い色のはずなのに、真白の肌には血色が血管から滲んでいると思わせられるほどに際立っている。
柔毛も細く、触れば猫の腹のような手触りをしていた。
誰もが美しいと言わざるを得ない造形の、囲われた少女。
しかし、本質は人ではなく全くの別物。
少女に意志はなく、見目の麗しさと本能的な欲しか備えていない。
人の形をした昆虫。
カイコガの少女だった。
「飼育委員長を呼び出して、今日はどうしたんですか?」
ダークグレーのパンツスーツに白衣を羽織ったメイさんが一つの卵の前で待っていて、俺は茶化してそう声を掛けた。
半年ぶりに訪れた研究所の第五孵卵室には、小学校のプールのような水が溜まっている。プールの壁と床は無機質で白一色。浅く溜まっている水に溶けているのは塩素ではなく塩であり、いわゆる生理食塩水だった。その中に、少女になりかけの虫達の卵が、飼育室と同じように等間隔の仕切りの中に並んで浮いている。自分はプールサイドに立って、自分の膝ほどもある卵を見下ろしている。
ガラスのシャーレで作られた命は、成長に伴い試験管へと移されて、最後は浅いプールに浮いている。最後とは、最初でもある。卵の最後。薄い膜を破り、瞼を開いて、自らの時計を進める最初。薄い膜に包まれた幼生は、羊水の中でどんな夢を見るのだろうか。
「古賀、あんたまだここに来るの嫌いなの?飼育室ではベッタベタな癖に」
俺はこの研究所に配属されてから、主に飼育室で少女の世話を任されていた。
「苦手なものは苦手なんだから仕方ないでしょう……」
正直なところここに来るといつも気持ちが悪くなる。生命の誕生する孵卵室は神聖なものなのだ、と何度言い聞かされても同意は出来ない。カイコガの少女が形成されていく様子が薄い膜越しに見え、人間にも昆虫にも見える幼体がひどく不安定で気を滅入らせた。
卵細胞から細胞分裂を繰り返し、骨格は人間なのに、素材はバッタの足のような節で出来ていて、人間の嬰児と比べれば形成される順序にもおかしなところも多い。骨張っていたり節があったり、どことなくしなやかで柔らかさと丸みを帯びていたりと、あまりに歪な様子はとてもじゃないが神秘的とは言いがたい。人に近付けば近付くほど気味悪さが増すのは、不気味の壁とかそういう理由もあるのだろう。そんな少女達の成長過程をリアルに見られる孵卵室は、本能的に長居したくはない場所だった。
「この子に何か気になることでも?」
「今日中に産まれそうなんだけど、この数値見てくれる?」
メイさんは小脇に抱えていたiPadの電源を入れた。一瞬映った壁紙が、今になって不器用そうに笑う少年になっていることをこの視力のいい目は目敏く見付けてしまう。
メイさんが指を滑らせて画面を変え、資料を映した。検体番号は『237』。様々な数字が項目ごとに羅列してあり、温度変化から脳波までが事細かに記されている。謂わば数値化した少女の成長記録である。パッと見ておかしいところと言えば、心臓の脈拍数、ヘモグロビン量が多い、背が平均より十五センチほど高い、というところか。
カイコガの少女は、遺伝子組み換えによって作られた人間とカイコガの間の子(あいのこ)だ。遺伝子構造的に元々不安定なものだから、時には身体構造に欠陥を持った子も産まれてくる。この感じだと五体は満足だろうし、あまり特筆すべきところはない、と思う。俺の見解ではこのくらいの数値は誤差の範囲内だ。
「飼育係の目からは、どう見えるのかと思って」
水槽には薄い膜ごしに、頭があって、身体があって、足と腕が二本づつある、一見すれば人とも見間違えそうな丸まった少女の姿。もうほとんど人間の形をしていて、いつ産まれてもおかしくはない。
「モデルは?」
「私よ。メイモデル」
「じゃあ美人になるのは確定ですね」
「私の前でよくそういうこと言うわね……」
「口説いている訳じゃないですよ。事実ですから」
メイさんにはちゃんとした配偶者がいるのだから、この言葉に深い意味はない。俺は誓って人妻に手を出すような男ではない。ただ、メイさんは自分の好みの顔であり、入社した当初はメイさんの素性を知らず、淡い恋心を抱いていたことがあったのは素直に認めよう。
少女をじっくりと見ても、数値を見ても今のところ俺には残念ながらデータ以上のことは見出だせなかった。
「俺の目には、とりたてて変わったことは見受けられません」
「そう、か。そうだといいんだけど」
不安そうな口ぶりと、メイさんのその少女を見る目付きが気になった。何かが起こることを恐れているような瞳。せわしなく指が滑り、資料の数字と目の前の少女とを比べている。
「どうしてそんなに気になってるんですか?いつものメイさんなら、このくらいなら誤差って言いきるでしょう」
困ったように顎に手を添え、いつも根拠のある自信に満ちたメイさんが、らしくない感じに表情を崩した。
「言葉にしにくいからあんたを呼んだのよ。他の研究員にも言われたわ。誤差の範囲って」
iPadを足許に置き、膝を付いて卵に掌で優しく触れる。
「途中までの数値は他の子達とさして変わりは無かった。けどなんとなく、この子を見ていると嫌な予感というか良い予感というか、何かを感じるのよ。はっきりとした骨格、身体の肉付き、力強い拍動の音。確かにこの違和感に根拠はない。とはいえ違和感を拭えるような明確な根拠もない。だからあんたを呼んだ。あんたは少女のことを数字ではなく、一挙一動の全てを見て触れて少女のことを知ろうとするから。他の研究員は、数値とこれまでの資料を元にしか意見を言わないでしょう?それに比べてあんたはこの研究所の中で一番少女にご執心じゃない?何か私みたいに感じるものがあるんじゃないかと思って」
メイさんは掌で、少女の頭の辺りを優しく撫でる。我が子を慈しむような手付きで、温もりがあることを確かめるように。実際、子供のようなものなのだ。遺伝子の分析から始め、組み換え、幾度となく卵(らん)を作り、試作品を何世代にも渡って産み出してきた。メイさんはそのモデルでもあるわけだから、親に間違いないし、神と言っても差し支えない。
「研究所で『一番』ということに関しては理事がいるので肯定はしませんが、少女のことは好きです。けど力不足ですいません。今の俺にはこの子は普通のカイコガの少女としか言えません」
腰まで伸びた髪が卵の中で揺らめいて、時折寝返りを打つかのように僅かに体勢を変える。産まれたら、きっとこの子も可愛いだろう。腕の隙間から覗く、スッと引けば深く切れてしまう刃物のような目元はメイさんに似て、肌はしんと冷えた日に降る雪のように限りなく真っ白で。
「ご期待に沿えず、申し訳ありません」
「頭は下げないで。本当は今日あなたに求めてるのは意見じゃなくて、歴とした仕事。急なんだけど今日の夜は空いてる?今夜産まれると思うから、一晩泊まりで見といてくれない?残業代は割増で出すわ」
第五孵卵室の特有の、湿っぽくて生き物の臭いのする空気とか、科学的な海の匂いのする水とか、余計に静けさを強調させる測定器が数字を刻む音とか、俺はあまり好きじゃない。
無菌を保っていて、生命はあるのに生きるもののいない場所。孵卵室は嫌いな場所だった。
しかし、そんな俺でも少女の生まれる瞬間だけは嫌いじゃない。
「いいですよ」
だから即答だった。
願ってもない。
あんなに気持ち悪いと思っていた少女も、生まれるときには完璧な造形を持って卵から生まれてくる。一匹残らず不細工な子なんてはいなくて、もしも可愛くない子がいたとしてもその子は『可愛い』という言葉の似合わない、目を見張るほどの『美しい』子なのである。
改めて少女の卵を見る。
薄い膜に覆われて、今にも目を開けて産まれてきそうなカイコガの遺伝子を持つ少女。
肌はポスターカラーようなマットのスノウホワイト。薄い斑の紫色の目が、初めて見るものが俺かもしれないなんて。それほどまでに光栄なことはない。
「何もなかったらそれでいい。私の杞憂で終わるのが一番。そのときはあんたの今月の給料が少しばかり弾むだけよ」
「何も無いことを祈るばかりです」
「後はよろしく。何かあったら電話ちょうだい」
メイさんはiPadを鞄に仕舞い、ピンヒールを鳴らして三歩。不意に立ち止まる。
「……あんたが飼育委員長なら、私は学級委員長かしら」
振り返り、真面目な顔でそんなことを言う。
「担任に決まってるでしょう」
「生徒したかったのに」
「メイさんがいないと、この研究所は成り立たないわけですし」
少女たちの母親でもあるんですから。
その言葉は、メイさんが今でも痛む部分を尚も抉るような言葉になるから口をつぐんだ。言えば俺もメイさん同じように痛むから言えなかった、というのもあっただろう。
「みんな頼りにしてますよ」
だから代わりにそう言った。生徒として、同僚として、この研究所の長として、俺達はあなたのことを頼りにしています。そんな意味を込めて。
カイコガを養殖し絹糸を紡ぐ養蚕業は、有史以来重要な産業として台頭し続けている。
文献には五千年前の時点で既に絹糸の生産は行われていたという。
『古事記』や『日本書紀』などの神話にもカイコガが登場するほどに、人間の生活に不可欠なものとして位置付けられていた。蚕を中心に歴史を語れるほどで、交易路をシルクロードとはよく言ったものだ。
カイコガは虫の中で唯一家畜化された生物である。人の手がなければ餌も取れず、逃走本能も失い、もし外界へ出れたとしても白い姿のせいで数分で他の虫に補食される。そんな野生の虫としては弱いカイコガだが、人の手にある限り安全は確立されたものだった。
しかし絹糸の需要は時を経るごとに減っていく。
一つは化学繊維により絹よりも安価の代用品が出来たこと。
一つは養蚕業を営む農家が減少したこと。
一つは海外製品が増えたこと。
養蚕業が衰退しつつあったとき、もう一段階上へと引き上げたのが、今まさに少女に桑の葉を与える男、白木養蚕紡績工業の社長白木正(しょう)である。
元々日本の絹糸の生成技術は世界一を誇る。それは養蚕業が縮小しても変わらない。彼はそのレベルを落とさず、カイコガから取る絹の生産量を増やし養蚕業を再び隆盛させるため、更にカイコガの品種改良を重ねた。
環境、餌、様々な要素を一から考え直した。しかし結果は芳しくなく、ついには遺伝子の組み換えに手を出した。
様々な生物の遺伝子を組み込んだ。しかし改良は思うようには行かず、諦めて別の方法を考えていた頃、失敗を承知で最後に人の遺伝子を組み込んだ。虫であるカイコガは哺乳類とは全く異なる遺伝形質を持つため、成功は有り得ないとたかをくくっていた。遊びのつもりで、冗談のつもりで、戯れのつもりでやったのだ。
それが、予想外にもうまくいってしまったのである。
これまで人に都合の良いように改良されてきた昆虫には、やはり人が一番合ったということ。カイコガの遺伝子は、人の遺伝子に出会ったとき突然変異を起こしすんなりと人を受け入れた。そうして研究を重ねていくうちに次第に遺伝子は安定し、一つの個体が生まれる。
それが、カイコガの少女だった。
メイモデルは目が切れ長で、他のモデルに比べると肌が一段と白い。そのせいか、産まれた瞬間は内側から淡く発光しているようにも見えると言われている。ちなみにレナモデルは丸い目が特徴で美食家、イツミモデルは少したれ目の食いしん坊で、他にもモデルはいるけれど安定しているのはその三つくらいだった。
正直に言うと俺はメイモデルが好みで、同僚にもどこかメイモデルの少女達に甘いと言われている。ただ、どれだけ少女に愛をもって世話をしたり、他のモデルよりも多めに柔らかい餌をあげたところで少女達が自分になつくことは無かった。何せ相手は少女とはいえ本質は虫。生きることには忠実だが、人のことなどお構い無しなのである。
この子もいつ産まれてもおかしくない。半透明の膜の向こうに、少女の姿が見えた。
触れれば、目を開けるだろうか。
俺は手を伸ばす。
指が触れると、柔らかい膜が僅かに波打つ。このくらいの衝撃では少女はびくともしない。撫でるように指を引くと、綿のガーゼのような手触りで、冷えた手には優しい温度だった。
その熱にもっと触れようと、掌を卵に付ける。温もりが伝わって、手が温まっていく。
すると卵の中の少女が気付いたようで狭い卵の中、ぐい、と顔を上げてこちらを振り向いた。手の影の下で、少女の目は開いている。
膜ごしに、瞳と瞳がぶつかった。
二度瞬きをして、首をかしげる。
「……え?」
少女も同じように手を伸ばし、濡れた手が膜ごしに俺の手と合わさった。指と指が膜を巻き込みながら絡まり合い手を繋ぐ。柔らかな温度の肌の感触を確かに感じて、程なくして指の隙間から卵の膜は破れていき、そこから卵を満たしていた羊水が流れていく。
ああ、白く発光している。
確かに発光しているようだった。膜が取り払われて、白い肢体が露になる。身体に沿う髪、細い腕、華奢な肩、慎ましやかな胸。やはり一番目を引くのは、その不思議な色を讃えた瞳。
美しいその姿は、しめやかにここにいることを主張するように、淡く発光しているようだった。その身体の一部が、俺の手と絡まっていることに、背徳さえ感じる。
濡れてふやけた手は、人間そのもので、すがるようでいて、離すことは出来ない。
カイコガの少女特有の血色と薄い蒼色の混ざった瞳が、白い睫毛の奥で思案する。俺の顔を視界に入れて、はっきりと俺を認識した……ように、見えた。
そんなことはあり得ない。餌を持っているならまだしも、カイコガの少女が人に興味を持つことなど絶対にない。
しかし少女は俺のことを見ながら口を開いて、パクパクと何かを伝えようとしている。
やっぱり、認識している――?
どうした?と無意識に身を乗り出して耳を傾ける。
何か言葉を発しようとした瞬間、少女の口から水が溢れた。咳と共に水を吐き、全て吐き出したところで空気を吸った。初めての呼吸に驚いて、何をしているのか訳が分からなくなったのだろう。そのままポロポロと瞳から涙をこぼす。
泣き出してしまった。
赤子のように、泣き声を憚らず大声で。
自分の在処が分からないのだろう。卵の中の世界と比べたら、ここは無限のように広い場所だから。
君はここにいるよ。
俺の目の前に、今こうして生まれた。
そうして俺は泣いている少女の手を引いて、泣かなくても大丈夫と伝えるように強く強く抱き締めた。
少女が泣くのを初めて見た。
頬に涙の粒をいくつもいくつも溢して、手は俺と繋いだままだから涙を拭うこともしない。君は生まれたてだから、多分拭うことすら知らないのだろう。
目の前で泣いている子がいたら、泣き止んで笑ってほしいと素直に思う。絡んだままの手を身体の方に引き寄せて、少女に腕を回して抱き締めた。頬と頬が触れる。少女は行かないでとでも言うように、俺の背を握りしめる。
唇に涙が触れて、生まれたばかりの少女の涙に、味はないことを知った。
「大丈夫だから。君はここにいて、俺もそばにいるよ」
しばらくあやしていたら泣き疲れた少女が俺の肩を枕にうつらうつらと舟を漕ぎ出して、そのまま身体をこちらに預けて眠ってしまった。高くない体温と程よい重みが心地よく、俺はどこか安心してしまう。
さてはて、最近の少女はこうして産まれるときに泣くことがあるのだろうか?
曲線の綺麗な睫毛を伏せて目を瞑り、微かな寝息をたてる少女の顔を見る。
「動かすけど、起こしてしまったらごめんな」
飼育室へ移動させなければいけなかった。
眠っているし、起きていたところで言葉は理解できないと分かっていつつも俺はそう言って、少女の脇に手を入れ引き上げ、用意されている絹の布で身体を拭いてやる。これは少女の衣服としても使っているもので、もちろんカイコガの少女の繭から作られたものだった。
裸の少女は見慣れているのでもはや何の感慨も浮かばないが、それでも綺麗だ、とやはり思う。
裸に絹を一枚巻いて、もう一枚で髪を拭いてやる。
下を向かせて髪を拭く。髪に指を通して、乾いていくと指触りが良くて、ずっと触っていたくなる。
不意に甲高い音がした。
……笑った?
「お前……なのか?」
顔を覗いてもキョトンとした顔をしていた。俺の周りにはもちろん誰もいない。
気にせずまた髪を拭くと、また甲高い音がして少女の喉から発せられていることを確信する。楽しそうな音は、箸が転べば笑う幼いときの姪っ子を思い出した。
こんな反応も、やはり初めてだった。見たこともなければ、聞いたこともない。だって、カイコガの少女には声帯がない。
くすぐったい?感覚がある?そして、今のは本当に……笑い声、なのか?
続けてクシュッ、と小さな声がした。
「ごめんな、寒かったな」
しっかりと髪の水気を取って、もう一枚少女に布を巻いた。
膝の裏に腕を入れ、背を支え持ち上げた。生まれたばかりの少女の体型は大体小学生高学年から中学生くらいで、この子の身長も一四〇センチ前後ほどなので平均的と言える。腕の中にすっぽりと収まってしまった。
居心地が悪かったのか、少女が体勢を変えようと身をよじる。揺られて気持ち良さそうに胸にすり寄ってきたのは……気のせい、と思う。そういうのは自分の願望に違いない。夢にまで見るほどだから。少女達が、自分に甘えてくれるなんてそんなことはないはず……。
「いや、けど。どう見ても、少女の手は俺の服を掴んでいるように見える」
少女は俺にちゃんとしがみついていた。
「お前ねぇ、なんでそんなに俺に引っ付くんだ?俺に愛着があるわけでも無いだろうに」
小鳥のように刷り込みがあるわけもあるまいし。
しかし、尚もすり寄る。
その仕草が、家にいた猫を思わせた。そこで俺は思い至る。あれは冬の日。ストーブの点いていない部屋で待っていた猫が俺にしたこと。その日は寒い日で、不服そうに白猫の彼女はやってきて、部屋に入ってきた俺の足にすり寄った。
「人の熱が、そんなに恋しいのか?」
顔を隠す髪の毛を払ってやる。表情からは何の感情も読み取れなかったが、尚も腕の力が強くなる。駄々をこねる子どものようだ。
「自分よりも暖かいものを触ったのが、初めてだからか」
俺は君の初めてをさらっていくらしい。
俺だから、ではなく熱を持つものに触ったからだ、と言い聞かせてはいるけれど、俺に心を許してくれたように思えたから、仕方ない子だと甘やかせるように少女の頭を撫でて、白く美しいその顔を見下ろしている。
いつもの俺の庭、第一飼育室。馴染んだ場所に俺はどこかホッとする。
カイコガの今で二十六人いるはずだが、今の時間だとどの子も箱の仲で身を丸めて眠っているようたった。近くの空いている箱に抱えていた少女を下ろす。
少し前までここにいた少女は一昨日糸になったらしい。今頃は布になって誰かの身体に纏われて、暖めているに違いない。
携帯電話を操作してメイさんに繋げた。ワンコールも終わる前に「産まれた?」とメイさんの明瞭な声がした。起きていたらしい。
「虫よりも、もう何割か人に寄っている。メイさんの違和感は、これじゃないですかね?」
俺の少女に対する所感はこれだった。虫よりも、人に寄っている。普通のカイコガの少女は、中身は限りなく虫に近く人の形を取っていてもその器官を人として使うことはほぼない。足や腕も何かを触ったり歩いたりすることも出来ず、唯一の移動手段は身体をうねらせて這うことだけだ。
「人に寄っていて、表情がある?それが本当なら今更ね」
「今更ですよねー」
本当に、今更だった。せめて三年前に彼女が産まれたならば良かったのに。
「少女が泣くのを初めて見ました。産まれてくるときに泣くことって最近はよくあるんですか?」
沈黙。電話が切れてしまったのではないかと不安になるほどの透明な無音が流れる。どうしたのだろう、と思わず携帯電話のスピーカーを見る。
沈黙を収めたのは、吐き出された短いため息。
「明日、いつも通り検査するからそのつもりでいて」
それだけを言う。不服な俺は話を続けた。
「孵るところは久しぶりに見ましたが、内側から発光しているように見えるって本当だったんですね。さすがメイモデル。手足も――」
「古賀」
幕を下ろすように、あまりに静かな声でメイさんが俺の名を呼ぶ。少女は上に手を伸ばして、何もない空虚を楽しそうに触っていた。
「……早く寝なさい」
「はい、そう、します」
そうして、電話は切れた。
報告に、メイさんは喜ぶと思っていたから、どこか釈然としない。
少女を向けば、先ほどまで電話の向こうにいたメイさんに似た子が目の前にいた。
「なぁ、お前の名前はどうしようか?」
いつも通り、名前を付けなければいけない。基本的にはイメージで決めていて、それぞれのモデルの名前の一部をもじっていた。
「明るくなるまで寝てな。俺も寝るし」
俺は少女の頭を一度撫でる。斑の瞳がこちらをじっと見ていた。
「また明日必ず来るから」
飼育室を出て、休憩室に向かう。
休憩室は仮眠室も兼ねていて、布団や毛布が置いてある。まともに干してない冷たい布団だったが何も無いよりましだった。
また飼育室で寝てたら怒られるし。家に帰るのもここに泊まるのもさして変わりはないから。
布団に寝転がりながら、腕にあった感触と重みを思い出す。
メイモデルの、女の子。
ナンバー《237》。
彼女のことに思いを馳せて、名前の候補をいくつか上げれば、いつしか眠りの底についていた。
次の日。
飼育室の新人、綺麗な綺麗なお妃さま。
「名前はメイヒ。どう?」
知ってか知らずか偶然か、顔を上げてくれたので「よく分かったね」と頭を撫でる。
「気に入ってくれたのなら良かった」
今日は検査だ。
産まれたばかりの少女は一通りの検査を受けなければいけない。この時点で異常が見られたり、十分な絹糸の生成が認められないと判断された場合は廃棄処分も視野に入れることになる。
願わくば、この子が審査を通ることを。
検査室には腕を組んだメイさんが待っていた。
「いってらっしゃい、メイヒ」
「また名前付けてる」
メイさんに呆れられてしまった。
「いいじゃないですか。誰に迷惑掛けるでもないし」
「自分に迷惑になっても知らないわよ」
検査には全身の成分検査や知能テスト等も含まれるため、終わるまでに一週間程度かかる。
飼育室のメイヒの前で、いつものようにメイさんのiPadを借りて検査結果を見ていく。
結果は、概ね俺が予想していたとおりだった。
「人に寄った少女、ね……。その内産まれるとは思ってたけど」
「今更ですね」
「……どうしてこうなるのかしらね」
一通り話した後の呟きは、誰に聞かせるつもりもない、一人言のようだった。ある種の絶望と諦念を含んだ声色だった。
「最高級の絹糸が取れるなら、生かしておけるわよ」
今のところ人間に寄せれば絹糸の質も生成も悪くなっていくことが分かっている。
不安定な個体と奇形と絹糸の生産が見込めない少女は処分すると決まっている。これはどうしようもない。何より、そんな欠陥を置いておく場所もない。
「あんたって、この少女にご執心よね」
その言葉が引っ掛かる。確かに、この少女は自分が立ち会ったこともあり愛着はあったけれど。
「自覚無いのね。――だから心配なのよ」
心配、されても。
二の舞になるとでも?
かつて起きた、あなたの息子の事故がまた起きるのではないかと。
「人間、本来はそう簡単に死ぬわけないじゃないですか」
iPadの壁紙になっていた少年の顔を思い出す。俺とも仲の良かったメイさんの息子の健君のことを。
俺は健君とは違って、大人で仕事と割り切っていて、少女と人間との線引きはちゃんとしていて、何より自分の命が惜しいしそれなりに生に対して貪欲で意地汚い。並みの人間よりも死ぬという選択肢を自ら取る確率は低いだろう。自負している。
「死ぬわけ、ないでしょう」
もう一度口にした。
少女は産まれたばかりでこの工場の狭い世界に興味津々らしい。視線は下から上へ、そしてそのまま後ろへと倒れ込む。勢いの殺し方も分からず軽く頭を打ったらしく「クゥ」と不服そうな声を上げた。
仰向けになって天井をまっすぐに見据えている。本当の天には天井なんて無くて、果てしない宇宙の広がる空があることを君はまだ知らない。今は初夏だから、そろそろ夏の大三角形なんて見えるのかもしれない。そうやって検査前の束の間の穏やかな時間を過ごしている。
少女が二ヶ月後に死ぬことを、考えないようにして。
次の日、メイヒの殺処分が決まった。
今から三年前、カイコガの少女と共に少年が溺死した。
製糸段階で使う釜の熱湯に、二人は飛び込んで生を終えた。
表向きには事故死として処理されているが、現場を見た俺はそれが心中だったことを知っている。
釜の湯を抜くと、底には二人の姿があった。茹で上がり水を吸って白くふやけた身体。彼の腕にはほどけかかっている繭に包まれた少女が大事そうに抱きかかえられている。一人の未来ある少年が、自分といつも楽しそうに話していた少年が、命を落としたということに胸が鷲掴みされるかのように痛くなる。けれど、その表情を見ればその感情はきっと自分本意なものであるのだと諭されるようでもあった。
そんなに満足そうな表情で、後悔など微塵もないような表情で死ぬなんて――
「なんて、うら……」
口に出かかった言葉を飲み込んで、現実を見るために目を閉じた。
自ら死を選ぶ行為はいけないことなのだと、自分に言い聞かせる。
飼育係の自分になついていた少年。彼こそが、メイさんの息子である健君である。健くんは自分が飼育していた少女と一緒に死んだのだ。心中とも言う。
後に、息子は少女のことを愛していたのだ、と彼の父親の正さんが呟いていた。
正さんは虫狂いだ。カイコガの少女に心を奪われて、自分の人生を捧げた人。カイコガの少女と世界を天秤にかければ、迷いなく少女を選ぶ人。 カイコガを愛玩し、生殖し、食べることで、少女への愛を体現する人。
きっと健くんも同じだったのだろう。
少女の美しさに心を囚われて、そのまま人生を投げ出すことも厭わないほどに、入れ込んだ。虫狂いではないけれど、俺も似たようなものだから、よく分かる。
仕事という大義名分が無ければ、自分もきっと健君や正さんのようになっていただろう。健くんじゃなければ、きっと俺がその内やっていた。まるで犯罪者に肩入れする人のように、そんなことを思っている。
それほどまでに少女は魅力的で、妖艶で、心を掴んで離さない。煙草や麻薬よりも中毒性のある、触れれば味わい尽くしたくなる甘い毒。
故に、当時行われつつあった愛玩用としての少女や、人に近い思考能力を持った少女の研究は、健くんの事故を受けて凍結された。
この子達は、本人達も知らぬ間に人を殺すほどの毒がある。美しさという甘い毒。
二ヶ月で終わる命に、感情を移してはいけない。
「……そう思ってた、はずなんだけど」
地図帳を見て、桑畑のマークを探す。今でこそ重要度の下がった地図記号は、今の俺にとっては大事な指標になる。
隣の少女のサラリとした髪をすき、額にキスを落とす。
メイヒはフードの服を着せて車の助手席に乗せていた。
殺処分が決まった日、俺は《カイコガの少女は貰います》と一言だけ書き置きを残して少女を車に乗せ、研究所を出た。
いつも俺は残業で最後まで残ることが多い。人が少なくなった後に決行すれば、怪しまれることはない。
ただ、監視カメラは付いているのでさすがに今頃大騒ぎになっているのだろう。
その証拠に、電源を切り忘れていた自分の携帯電話には鬼のように電話や連絡が入っていた。もちろん全部無視だ。
機密漏洩で仕事はクビだし、会社の物を盗んでいるも同然なのでおそらく刑事事件にされるだろうけれど、メイヒが生きている間に捕まるわけにはいかない。
マンスリーマンションの契約を済ませる。家具一式付きにしたけれど、食器等は少し買い足さなければいけないだろう。不動産で新婚なのか同棲を始めるのか初々しいカップルが相談に来ていて、メイヒのことを思い出した。
同時に、未来がないことも知る。
寿命は二ヶ月。
この件に関して、実験結果からもこれ以上生きるという奇跡は有り得ない。
借りたのは、山の麓のアパート。
山には桑の木が残っていて、少女のエサを採るには事欠かない。
マンションに着いて、メイヒを背負い二階の部屋へと行く。
すると、丁度隣の部屋の人に出会ってしまった。六十代くらいの、目元の笑い皺から人の良さが滲み出るような女性だ。
「隣に引っ越してきた方ね?よろしくね」
声音からもおおらかさが滲み出ている。
「古賀です。よろしくお願いします」
それだけを告げ、俺は急いでアパートへと入る。
メイヒといる間、極力人目に付かないようにするはずだったのに、タイミングが悪い。
「メイヒって呼ばない方がいいんだろうな。見付かるかもしれないし」
メイヒを床に置き、仰向けになって初めてのフローリングの固さと冷たさを楽しむ少女に俺は言う。
迷うこと無く彼女の新しい名を呼ぶ。
「キサキ」
かわいいかわいいお妃さま。
まるで雪の日に舞い降りた花嫁のような少女。
新しい名前はキサキだ。
フローリングを楽しんだ後は、日の当たるところへ移動していた。どうやら日向ぼっこがお好きらしい。
窓に近いところにいたけれど、尚もゴロゴロと転がれば窓ガラスにぶつかって、頭頂部を押さえて痛がっていた。
「外に出るなよ」
人の言葉なんて分からないだろうが、そう言った。
俺はキサキの側に寄り添うように座り、今更ながら自分がどうしてこんなことをしてしまったのかについて考える。
綺麗な瞳が、ベランダから遠く、君の手の届かない空を向く。
「俺は君に、外の世界を見せたかった」
初めての物を見るたびに、目を輝かせる少女に、外の世界を見せたい。
なのに、この世界に産まれたことを全身で喜ぶ少女に待っているのが殺処分だなんて、悲しすぎる。いろんな物をみて、この世界があのプールや木箱や研修室だけではないのだと知って欲しかった。
この家には一つ欠陥がある。
ベランダに出ると、隣との敷地の境目にある仕切りが壊れていた。時間をどうにかずらせば隣人に会うことも無いだろうと思っていたのだが、どうやら先日会ったおばさんはガーデニングが趣味らしく、不定期にベランダに出てくるらしい。
そして、ついに洗濯物を干しているときにおばさんと会ってしまった。
目が合えば、少したれ目がちな目が優しく細められる。
「ごめんなさいね、少し前の台風でこの仕切りが壊れてしまっていて」
「ああ……そうだったんですか」
優しそうなおばさんに申し訳なく思ったが、簡素な返事だけをして逃げるように俺は濡れた洗濯物を持ったまま部屋へと戻る。
「食器とか必要なものを買ってくるから家にいてな」
その後、俺は一人で出掛ける。一人にしておくのは不安だったが、毎回連れ出すのもそれはそれで危ない。
返事の代わりにごろんと寝返りをうって、キサキは日向ぼっこしている。
そして買い物が終わった数時間後、家に帰るとメイヒがいなかった。
心臓の鼓動が一気に早くなる。
窓ガラス開いていた。焦りつつ、ベランダに出て下を見るもおそらく落ちてはいないらしい。
そのとき、隣の部屋から声がした。
「古賀くん!」
物音に気付いたのだろう、隣の部屋から声がした。ベランダから、隣の部屋へ行くと、そこにはテーブルの側には苦しげな呼吸をするキサキがいた。
「キサキ!――何を、してるんですか!」
「ごめんなさい。ベランダから顔を出していたから、良かったらと思って誘ったんだけど……」
テーブルの上には紅茶とクラッカー、クラッカーに乗せるジャム。
それを見て、頭に血が上るようだった。手が、怒りに震えていた。
「何か、食べさせたんですか……?」
「紅茶とお菓子を少し……」
「勝手なことを!しないでください!!」
責め立て、突き放すようにそれだけ怒鳴り、俺はキサキを連れて部屋へと戻りベランダの戸の鍵を閉める。
呼吸が苦しそうだ。
もう外には出ない。
出さない。危険にはさらさない。
おそらくメイヒは自分で鍵を開けたようだった。人間に寄っているからか、多少は指が使えるらしい。だから、細工してもう開かないようにもした。
キサキの喉に入ったものを吐かせて、水を飲ませる。窒息しかかっていたのかぐったりしているが、もう大丈夫だろう。
ホッと一息吐いて、「心配をかけないでくれ」と少女の額にそっと唇を付ける。
チャイムが鳴り、玄関に出るとおばさんが立っていた。その手には白い袋が握られていた。
「ごめんなさい。お詫びといってはなんだけど、良かったらこれを。好きそうだったから」
そんなわけ、あるはずがない。
キサキが食べられるのは桑の葉だけで、それ以外は食べない。もしも好きそうだと勘違いしたならば、僅かに動いた顔の筋肉をそう勝手にこの人が解釈したに過ぎない。
断るのは忍びなく、話すのも切り上げたかったので、奪うようにそれを貰ってため息を吐きながら部屋へと戻る。
好きなもの、なんてあるわけ無い。
そう思って袋の中を見たら、入っていたのはマルベリーのジャムだった。
俺は、キサキがこれを食べてしまった理由を理解した。
マルベリーとは、桑の実だ。桑の実ならば、桑の匂いがするから間違って口にしてもおかしくはない。
そうか、それでキサキは食べたのか……。
理由が分かったが、だからなんだというのだ。
外に出す気は無い。
しかし、そんなことがあってからキサキは時々ベランダから外を見て、笑っていることがある。
どうやらおばさんが花の水やりのときに、姿を見付けると笑うらしい。
ごろりと転がり、にこりと一度笑う。
その程度で「会わないでください」なんて、おばさんを怒るわけにもいかなくて、もどかしくなる。
だって、そもそも。
外の世界を見せたいと言ったのは誰だ?
外、とは研究所の外という訳じゃないだろう?色々なものを見て触れて会ってほしいということを願ったんじゃなかったのか?
「キサキ、お前はどうしたい?」
寝転ぶ少女に聞いても答えは無かった。
今日もメイヒはベランダの向こうへ笑いかけていた。きっとそこにはおばさんがいるのだろう。
俺はベランダの戸を開けた。
「……先日は、すいませんでした」
「こちらこそ、事情を知らず悪いことをしたわ」
おばさんが言う。そして、迷ったような表情の後、言葉を続けた。
「キサキちゃんがこんな風に笑うのは、古賀くんがそんな風に優しく笑顔を向けているからなんでしょうね」
そんな些細な一言に、俺の行動を、肯定されたような気がした。
俺のエゴを、許してくれる気がした。
「……キサキは、二ヶ月しか命がないんです。この子のためなら、俺はなんでもしますよ」
気づけば、吐露してしまっていた。
「歩けないし、話すことも出来ないようだから、何かあるとは思っていたけれど」
「ええ、……少し、外に出せたらいいんですけど」
「それならいい考えがあるわ」
おばさんに、車椅子を勧められた。
レンタルが出来て、最近では予約もネットで出来るらしい。便利な世の中だ。普通の車椅子であれば、クッションや配送料を含めても月一万はかからない。
夜なら散歩にも出られる。
フードをかぶせたキサキと一緒に外へ出て、桜の並木道をゆっくりと歩く。キサキは目に入るもの全てに興味津々で、動くものがあれば目で追い、葉っぱが膝に落ちたなら不器用そうに触ってそれが何かを知ろうとしていた。
「春なら、桜が見れただろうにな」
少女はーー二週間もしない内に死ぬ。
その事実を不意に思い出して、胸をハンマーで殴打されるような痛みが抜けた。同時に北風が吹き抜けるような寂寥が襲う。
まだそんな季節じゃないのに。
どうしようもなく愛しくなってしまう。
一人でいかせたくないという気持ちが、嫌という程分かってしまって、だから正さんの食べるという気持ちも、だんだん理解が出来るようになる。
これは間違った恋だ。
一方的な恋なんだ。
君の気持ちは、どこだろう?
人として終わらすか、昆虫として終わらすか。
健は人だと思い、正さんは虫だと言い聞かせていた。
自分は。
自分は……?
人は人を好きになるとき、どういうところを見ているのだろう?
見た目、性格、雰囲気、相性。
そういうのもあるだろうが、キサキはどうだろうか。
何とも比べず、自分を受け入れてくれるところ。
無償の笑顔を、純粋な感情を、全身で表現してくれるところ。
憧れ。
こうなりたかった。
こうありたかった。
子どものように、自由でありたい。
そういう願いもあっただろう。
だから、惹かれるんだ。
純粋で染まらない尊さが、かけがえないもので。
君のようになりたかった。
そんな君だから、俺は幸せにしてやりたいと思うんだ。
それが俺の責任だ。
ここまで連れてきた俺の責任。
全うしよう。
俺の身勝手で、君は幸せになってくれ。
君は笑顔をたくさんくれる。
だから、俺も君のことを純粋に愛してやろうと思う。
人だからではなく、昆虫だからではなく、カイコガの少女だからではなく、キサキだから俺は君が好きだ。
君を見たときの、全てが好きだった。だから好きだ。
明確にしなくてもいいのだろう。
恋なんてそんなものだったじゃないか。
頭でするものじゃなく、感情優先。
抱きしめたくなった。笑い続けてほしいと思った。
それだけだ。
「キサキ、行きたい場所があるんだ」
そうキサキに伝えて、俺は少しばかり買い物をするのだ。
チャイムが鳴った。
「キサキちゃんいる?」
隣の家のおばさんだ。
「ここのところ、体調が悪くて外に出られないんです」
「そう。良かったら、これ食べて」
近くのスーパーの名前の入った袋の中には、赤黒い実がたくさん入っていた。桑の実だった。生の実ならば、もしかしたら食べられるかも知れなかった。
「ありがとうございます。大切に食べます」
それだけ言って、部屋へと戻る。
「キサキの好きなもの貰ったよ」
返事は無かった。
俺はキサキの側にいく。
キサキは、カイコの繭を作っている。
糸は作れないかもしれないという話だったけれど、羽化する分には大丈夫そうだ。糸に出来るほど強い糸ではないだろうけれど、糸を使うわけではないから構わない。
初めて会ったときのことを思い出した。
薄い繭の向こう、キサキは俺の手に重ねるように手を重ねる。
この中で、少女はもう一段階成長するのだ。
しばらくすれば繭はさらに厚くなり、キサキの姿はほとんど見えなくなった。
二週間後、羽化する。
俺は羽化したら、生殖を求めることを知っていた。
彼女は人か、それとも虫か。
自分はどうするべきかとずっと考えていた。
するか、しないか。または、正さんのように食べるか、食べないか。その問いを。
結論は出た。
単純なことだった。
白い繭から少女は羽化をする。
キサキが求めるならば、俺はなんでもしよう。
そう思っていた。
すると、額にキスをした。
「……え」
首をかしげて、もう一度。
可愛いとか好きだとかそう思ったときに、俺はいつも額にキスをしていた。
その俺の気持ちを同じように返すように彼女も同じことをする。
俺の愛の形を、キサキはちゃんと受け取っていて、それを返してくれたのだと理解する。
愛は伝わっていた。
抱きしめれば、抱きしめ返して、俺はキサキの羽の産毛の中で温もりを感じている。
愛しくて、あまりに愛しくて、俺もメイヒの額にキスを落として、抱きしめ返す。
暖かくて、優しくて、嬉しそうに君が微笑む。愛しいから、キスをして、抱きしめて、子を成す行為を、愛する行為をしてしまいたくなるほど純粋に愛しくて、けれど俺は求めない限りしないと決めたからそれはしない。
抱きしめているだけが、こんなにもつらいことだと知らなかった。
愛しさが溢れることがこんなにもつらいことだと知らなかった。
先のことなんて考えたくないのに、ちらついてしまって、頬を拭って、つらくて、つらくて、つらくて。
つらくて、けどあまりに幸せで。
数時間しか持たないこの幸せを、全身で噛み締めている。
「最近はキサキちゃんは元気」
俺は笑って誤魔化した。俺の表情をどう取ったのか、おばさんはただ一言「そう」とだけ悲しげにつぶやいた。
おばさんにレースを編んでほしいと頼んだ。おばさんは編み物が趣味だった。
「古い、実家の倉庫から見付けた絹糸なんです。祖母には思い入れのある糸だそうで、どうにかしたいんです」
切れ切れの弱い糸だけど、出来るのなら。そう嘘を吐いて、糸を渡した。
「……あなたたちは、恋人でも、兄妹でも、血縁でも、無いんでしょうね。けど、二人は似ていて、キサキちゃんは古賀くんの娘みたいに見える。古賀くんを見ていたら、恋人にも見える。あなた達の関係が、公に出来ないようなものだというのは何となく察してる。それでも、悪い関係では無かったんでしょうね」
マンションを引き払い、おばさんにも挨拶をした。
一人になった今ならば思う。
キサキに対しての俺の感情は。
恋であって、恋でしかなかったのだろう。
キサキからは、分からなかったけれど。
一旦実家にでも帰るか、と思ってたら腕を掴まれる。
そこにいたのは。
「……メイさん?」
「やっと見付けた」
「え、なんで……俺クビでしょう?」
「席なんてあるわけないでしょ。話があるわ」
近くのチェーンのカフェへと入った。
「あの少女はどうしたの?」
「死んだので、埋めましたよ」
「でしょうね」
近くの桑の木の生えた山に。おばさんのくれたマルベリーと一緒に埋めた。カイコガは羽化をすれば物を食べられないから、キサキはあれを食べることは出来なかったのだ。
「俺への処分ですか?大人しく受けますよ。機密漏洩ですし」
「そう、それなら話は早いわ」
一枚のA4の紙が机に置かれた。
白い紙の上の方、強調されるように書いていた文字には、《辞令》。
「古賀係長」
「…………は?」
内容を読めば、俺の昇進の書類だった。
「席は無いと言ったはずよ」
「メイさん、さすがに辞退します……というか、会社のものを盗難して廃棄して欠勤したのに昇進って、意味も分かりませんし」
今更職場に戻るのも、居心地が悪い。
「逃げるな。責任を取りなさい」
「そうは、言っても」
「あの子の糸は?」
「ありますよ。ハンカチになってますけど」
「あら、素敵じゃない」
「資料として残しておくべきかとは思いまして」
俺はハンカチをメイさんへ手渡した。
「やっぱり少し弱いわね。けど、柔らかくていい手触り。あんたは機密漏洩って言ったけど、それはどう考えても違うわ。相手のことを思って、自分のことを省みず救おうとしたんでしょう?これってなんて言うか知ってる?」
《盗難》では無いと思った。あの子は《物》じゃ無い、と俺は認識していたから。きっとあなた方は、《物》だと思っているけれど。
「誘拐?」
馬鹿じゃないの?というような目で睨まれた。
「駆け落ちよ」
思考が、止まる。
「あの子は、嫌なときは拒否を示す。それをしなかったなら、同意したも同然。両思いで、駆け落ちしたのよ。そこにあるのは、愛でしょう」
そう言われて、どこか吹っ切れた。
「じゃあ、ここを出るときの、あのときの言葉は間違えてましたね」
メイさんに、真っ直ぐに向き直る。
「娘さんを、俺にください」
遅いだろうか?遅いだろう。彼女はもう死んで、俺が埋めてしまった。
それでも俺は、認めて欲しい。
あの日々を、鮮やかに過ぎていった二ヶ月を。血を分けた、もとい遺伝子を分けた貴女にこそ、認めて欲しかった。
土に静かに眠る白いウェディングドレスを着た彼女と俺の薬指には、揃いの銀の指輪が嵌まっているのだから。
「馬鹿ね」
ハンカチを返されて。
「使っても、いいんですか」
資料と思って渡したのに。
「あんた以外に誰が使うのよ」
俺はハンカチを目に当てる。
どうしようもないくらい、目の前が滲んでいた。瞬きをすれば、涙が溢れていく。
「二ヶ月間、愛した少女についての古賀の見解は?」
「愛玩はやっぱり無しの方向でいきましょう」
健くんのように、心中しかねない。俺もその気持ちはよく分かった。そこまでさせるだけの価値を彼女たちは持っている。
正さんのように割り切れたら良いけれど、あんな人滅多にいないと思う。食べることで恋する気持ちを昇華、もとい消化するなんてどんな性癖だよ。常人には無理だ。
そもそも。
思い浮かぶのはメイヒの姿。一瞬のカイコガの姿が、嬉しそうに羽ばたかせる姿が、美しくて愛しくて……
肺の息を丁寧に吐き、目を閉じた。沸き上がるものを抑えて、目蓋の裏に浮かぶメイヒに集中する。
乗り越えられるのはいつになるだろうか。
「古賀、大丈夫?」
「はい、大丈夫です。俺は、大丈夫」
何でもないことのように、言い放って、振りきるように手の甲で頬を擦る。
だって、ねぇ?
二ヶ月の恋なんて、つらすぎるからさ。
二ヶ月の恋をする 2121 @kanata2121
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