少年の運命、或るは神様の、

「お前に再び会うことになるとは、思ってもいなかった」


美しい女が、桜の幹にもたれかかりながら、みつるのことを見下ろしていた。

満開の桜から、風もないのに、ひらひらと花弁が落ちてくる。人によれば、まるで桃源郷のようだとでも言いそうな、美しい光景だった。今が五月でなければ、みつるだって呑気に花見にしゃれ込んでいただろう。

そう。今は、五月だ。断じて、桜が咲く季節ではない。普通の桜は、当に花を散らし、新緑を芽吹かせている。

そもそもみつるがここに辿り着いたのだって、普通の方法ではない。誰も居ない昇降口を潜り抜けた瞬間、気が付けばここに居た。


この光景は、多分、この世ならざるものだ。そう、直感がみつるに囁く。


「お前、ここはどこだ?」


みつるはすっと目をすがめると、女に向かって問いかけた。ただの女には見えるが、この怪奇現象の原因は、恐らく彼女だろう。

女はくすくすと笑うと、軽く肩を竦めた。薄い色彩の瞳が、みつるを捉える。どこかで見た事がある色だ、とみつるは思った。


「ここはかつて、桜神社と呼ばれていた場所だ。わらわは、この桜に憑く………まあ、神様もどきといったところか。ここの祭神はとうに去っている。だから、わらわが代わりにここを守っているのだ」


思い出した。あの色は、桜の花の色だ。


「敷地に咲く桜が美しいから、神社の名前に桜と付ける。安直だろう?その結果、わらわが神の端くれとなったのだから、あまり笑うことも出来んが」

「桜神社なんて名前、聞いたこともない。お前、ここは、普通の場所じゃないな?」

「勘がいいな。その通りだ。この場所は、わらわの神域。わらわが招かねば入れない」


そういって、神様を名乗った女は、すうっと目を細めた。途端に足が萎えて、みつるは地面に膝をついた。疑うまでもない。この女は本当に、人ならざる者だ。

何を問われるかとみつるが身構えていると、神様はこほんと咳払いした。


「単刀直入に聞く。そなた、ほまれが好きか?」


思ってもいなかった名前が出て、みつるは思わず目を剥いた。

ほまれ。佐倉ほまれ?まさか、彼女のことか?

だが、何故今その名前が出てくる。どうしてこの神様に、そんなことを聞かれる?

いくつもの疑問がぐるぐる頭を回る。しばらくたって、ようやくみつるの口から出たのは、単純な疑問だった。


「お前、佐倉を知っているのか?」

「はて、答える義理はないな。そなたがわらわの問いに答えるのならば、言わんでもない」


ついでに、答えなければ、みつるを帰す気もなさそうだ。

みつるはため息を吐くと、美しい神様の顔を睨みつけた。そして、未だ本人すら伝えていない想いを、唇に載せる。


「好きだよ。俺は、佐倉が好きだ」


恋に落ちた瞬間を、今でもみつるは鮮明に思い出すことが出来る。


その日の昼下がり、高橋みつるは、うとうとと船を漕ぎかけていた。

昼食後に眠気に襲われるのは、みつるにとってはいつものことだ。だが、その日のそれは、日頃と比べても特に酷かった。なにせ、前で喋っている教員の言葉すら、子守歌のように聞こえてくる始末だ。これでは、授業に集中するどころか、目を覚ましていることすら危うい。

とは言え、授業中に寝てしまうのは、甚だ外聞が悪い。おまけに現在授業を受けている古典の教師は、特に厳格なことで有名だ。みつるは手の甲をつねって必死に意識を保っていたが、限界は早々にやってくる。一瞬がくりと机に突っ伏したみつるは、その拍子に、見事に消しゴムを床に落とした。


てんてん、と消しゴムが、隣の席の下まで転がっていく。みつるは、消しゴムを拾ってもらおうと、地面から隣の生徒の方へと顔を向けた。


その時見たものを、みつるは今も鮮明に覚えている。


その少女は、佐倉ほまれは、みつるのことを見て、小さく微笑んでいた。宝物を見つめる幼い子どものような、優しく甘い、あどけない笑みを浮かべていた。


その瞬間、みつるは、佐倉ほまれに恋に落ちた。


人が人を想うのには、大した理由はいらない。想い続けることは、中々難しいが。


「俺は質問に答えた。今度はお前が、答える番だ」

「そうさな。わざわざ秘め事を吐き出させたのだ。わらわが話さぬわけにもいかぬよ」


ぱん、と神様が手を叩く。その瞬間、動かなくなっていた足に、力が戻る。みつるは地面に手をついて、もう一度立ち上がった。神様は相変わらず、みつるのことを見下ろしている。


「ほまれは、ここの神職の裔だ。それ故あの子は、この場所に自由に入ることが出来る。だからわらわは、ほまれのことを知っているのだ」


佐倉は、桜の響きから取られた名前なのだと、続けて神様は語った。


「当人が知らぬといえど、あの娘はこの神社の縁者。ならばわらわは、妙な虫がつけば、きちんと追い払わねばならん。わらわはあの子に、幸せになってほしいのだ」


その口調は、いやに芝居がかっていたが、それが猶更彼女の真剣さを強調していた。この女は多分、本心から佐倉のことを愛している。


「俺が、悪い虫だと?」

「それを確かめるために、わらわはお前を呼んだのだ。わらわはお前が悪い虫か、それともあの子の為になる存在か、そのことが知りたい」


神様は、はらりと扇を広げた。桜の柄が印された扇が、神様の口元を隠す。表情を見せることを、拒むかのように。

そののち、語り出されたことは、まるで作り物語のような話だった。


「この神社は、かつては縁結びの神がおわしてな。そのせいで、あの子には、運命の赤い糸が見えるのだ。人の小指の先に結ばれた、己が運命と繋がる、赤い糸が」


ぱちりと、神様は扇を閉じた。桜色の瞳が、みつるを捉える。その瞳には、はっきりと、みつるの内心を探る光が灯っていた。


「お前はほまれの目のことを、信じるか?」


そう言われて、みつるはぱちくりと目を瞬かせた。


「お前から聞いて、信じるわけがないだろう。お前が今言ってることは、多分、佐倉の口から聞くべきことだ。あいつの秘密を、勝手に聞いていいわけがない」


みつるの言葉に神様は、ほう、と呟いた。少し、意外そうな口調だ。

妙なことを言ったつもりはない。神様の言っていることが本当だとしても、佐倉の口から言われていない限り、みつるにとって意味は無い。彼女の秘密を勝手に知ってしまった以上、知っていること自体を伏せるべきだろう。

だが、腑に落ちることは、一つだけあった。


「でも、例えお前の話が本当だとしても、俺は佐倉が好きだ。例え、佐倉の赤い糸が、俺と繋がっていなかったとしても」

「……‥お前には、赤い糸は、見えないはずだが」

「時々あいつ、俺の指を見ながら、すごく悲しそうな顔をするんだよ」


そして、彼女は決して、みつるに関わろうとしない。常に一定の距離を保って、近寄ろうとしない。

あんなにみつるのことを見て、愛おしそうな顔をするのに。

それが意味することは、つまり、そういうことだろう。


だけど、とみつるは心の中で呟いた。


「それは、俺が今佐倉を好きなことと、何の関係もないだろ」


みつるは、佐倉ほまれのことを、ほんの少ししか知らない。ただ、あの笑みに焦がれているだけだ。神様に何を言われようとも、それは決して変わることはない。

そう。みつるは、彼女が苦しんでいる運命なんて、少しもわからないのだ。


ただ一つわかるのは、もし運命がみつるの恋を邪魔するのならば、みつるはそれを否定するのだろうことだけだ。

暫しの沈黙が、二人の間に流れる。やがて、神様は、ふ、と笑みを零した。


「合格だ」


神さまが、そう呟いた。次の瞬間、ごう、と桜が吹雪く。


「___お前がほまれに惚れたのは、何の因果だろうな。わらわがこの手で、あの運命を切り捨てたはずなのに」


そんな呟きが、桜吹雪の中で、聞こえた気がした。

花弁が目に入りそうになって、たまらず目を瞑る。暫く立って、目を開けたみつるは、いつの間にか昇降口に立っていた。


・・・


ざあざあと、窓の外で雨が降っている。降り注ぐ雨は、世界を白く覆って、みつるから彼女の姿を隠している。

からからと、ココアの缶が転がって、みつるの足元で止まった。


「………行くか」


彼女に、信じていると、伝えるために。

そして、運命なんかよりお前がいいと、はっきりと教えるために。


高橋みつるは、佐倉ほまれに、恋しているのだから。

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赤い糸を別つ恋 紫野晴音 @nathume-crowley

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