第3話

「起きろクズ兄、朝ですよー」

 軽い声とは裏腹に、烏丸蓮からすまれんは思いっ切り全力で蹴飛ばされた。

 そのまま布団から飛び出して畳をずさーと滑り、昨夜寝相の悪さに巻き込まれて無残に転がっていた時計をも巻き添えにしてから、戸にぶち当たってようやく止まる。見事な玉突き事故である。

 免許持ってンのか手前てめえ、とも言いたげな目覚まし時計に内心で詫びを入れ、定位置である枕元に置いてやる。これで少しは溜飲が下がるだろう。それから芋虫のように起き上がり、一言。

「……みやび、流石に兄を蹴るのはまずいと思うの」

 赤くなった右の頬に畳の痕をつけたまま、物申した。なのに、

「自分で起きないどっかのゴミ兄が悪いんですよ。あたし悪くない、これ試験に出るからよく覚えておくように。そんなことよりほら、早くしないと遅刻しますよ。むしろ起こしてやっただけありがたいと思うべきです」

 臆面もなくそんな事を抜かすのは、烏丸雅からすまみやび。雅、と言ってもその髪色は障子戸を透かして部屋を照らす朝日に溶け込むような亜麻色で、そんな髪の穂先を指でくるくると巻きながら見下されたら誰だってむかつく筈だ。くりくりとした大きな山吹色の瞳こそ如何にも可愛らしいが、可愛いのは見た目だけである。

 これは一言言ってやらねば気が済まない。一つ息を吸って、

「いや今何時だと思ってるの?」

「さあ、七時くらいですか?」

 あくまでとぼけるつもりらしい。ならば。

 事故車両(電池の蓋消失)をがばっと鷲掴みにして、ずいっと目の前に突き出して見せる。

「まだ六時だよ! ねえ、ぼくの学校何時まで登校か知ってるよね!?」

「八時十五分きっかり。それがどうかしました?」

「まだあと最低一時間は寝れたんだよ! なんだよ六時って。ぼくは軍人でもないし修行僧でもないんだ。外見てよ、まだお天道さま上ったばっかりじゃん!」

 閉まっている障子戸の向こう側に広がる庭先をずびしと指差し、抗議した。朝日が障子を貫いて畳に降り注いでいる。それなのにこの妹ときたら、

「お天道さまも寝起きみたいだし、ちょうど良かったじゃないですか。それにほらよく言うじゃないですか、早起きは三文の得って」

 いけしゃあしゃあとそう言って、にこりと笑う。今年中三になる雅を物好きにも慕う後輩がひと目見ようものなら、それだけで恋に落ちてしまいそうな見事な微笑だった。

「……僕が三文も得してるように見える?」

 すると、雅は親指から順番に指を曲げて得の数を数えていく。

「目覚まし時計一部破損に頬にずさーの痕に予定より一時間早い起床……と、誰がどう見ても損なんてありませんね。むしろ得しかないです」

「損しかないよ!」

「はいはい分かりましたからさっさと起きて下さい、朝ご飯冷めちゃうので。朝っぱらから喧しくて敵いません、これだから埃兄は」

「語呂が悪いよ! じゃなくて、何でぼくが悪いみたいに、」

「それと」

 急に割って入ったと思えば、襖に手をかけたまま振り返り、無表情で、

「いつまでもおっ勃ててないで、折ってでもいいから即刻静めて下さいね。ご飯が不味くなるので」

「な」

 それだけ言い残して、今度こそ雅は部屋から出て襖をぴしゃりと閉めた。斜めに敷かれた布団の上で烏丸は独り胡座を掻いたままぽつんと硬直して、ややあって、

「これは生理現象だ!!」

 誰も見ちゃいないのに、烏丸は急いで掛け布団で股を覆い隠した。  


       ⑨


「よお、転けちまうぞ」

「え」

 やはり、こけた。

 まだ寝起きなのに今日一日分のエネルギーを先の口論ですっかり使い果たしてしまった烏丸は、今しがた墓場から復活した生ける屍の如く這うようにして表廊下に出て、だだっ広いだけが取り柄の庭を縁側から眺めつつ角を曲がろうとしたところ、その陰から音もなくすっと出てきた足に引っかかった。そのままおっとっとと躓き、あろうことかその足が逃さんとばかりに絡みついてきたものだから、もはや為す術はなかった。床の木目すらはっきりと見えた時にはもう、烏丸は顔面からいっていた。

「ほら言わんこっちゃねえ。突き当たりはしっかり左右確認しねえとな、怪我してからじゃ遅いんだぜ」

 ばっと顔を上げる。男にしては小さな鼻面が真っ赤になって、おまけにちょっぴり涙目ですらある。こかしたくせにけろんとしている犯人をこれでもかと睨みつける。

「……って、こかしたのはそっちじゃん!」

「へえ、ぼけーっとしてるとはいえ流石に気付くか。たまげたなあ」

 どの口が言うんだか。

 放置した盆栽だってもっとマシだろうと思える程にぼさぼさの頭を掻きながらすっとぼけたのは、烏丸襖からすまふすま。寝ぼけ眼はいつも虚空を見つめ、雅からやれ目障りだから髪を整えろだ不潔だから髭を剃れだの言われれば、誰かに頼むのは面倒くさいからと自前の小刀でばっさり切ってしまうような、つまりはそういう男だ。

 一言で言って、出不精の兄である。

 そんな兄がこんな朝早くから日の下に出ているのは珍しい。いつもならまだ冬眠もかくやな熟睡っぷりで布団に包まっている頃なのに。

 烏丸は鼻を擦りながら立ち上がり、ちょいと訊いてみる。

「今日さ、何かあるの?」

「あん?」

 意表を突かれたとはまさにこんな顔を指すのだろう、と思える程度には目を丸くする襖。何だぁ藪から棒に、と顔に書いてある。

「いやその、何だ? 今日はおめえの門出だからな、兄としてちょっくら助言の一つでもしてやろうかと思ってな。ねみいの何のって、慣れねえ事はするもんじゃねえ。まあそのあれだ、……おめえの事は一生忘れねえ。家の事も親父も雅も俺が守ってやっからよ、だからおめえは心置きなく行ってこい」

 途端に真剣な顔を見せたと思えばこれである。烏丸は思わずため息を吐いた。

「兄ちゃんこそまだ寝ぼけてるの。戦争はもう終わったんだからさ、冗談にしか聞こえないよ。ていうか、今日はただの始業式だし」

 間。

 ――?

 おっと、そうか。こいつは一本取られたぜ。なんて返しが来るだろうと思っていたのに。

 が、何故か襖を黙ったままだ。珍獣の目つきでじっとこちらを凝視し、やがて神妙なそれを破顔させた。どこか陰を背負った皮肉げな笑みである。

「あー……そうか。もう終わっちまったんだよな」

 そして空を仰ぐ。烏丸もつられて見上げる。やはり青く、朝日を遮る雲もさほど見当たらない。真夏とはいえ早朝はまだ気温も低く、これから鋭い日差しになっていくと思うと気が滅入るが、少なくとも今は柔らかい朝日だ。まだ蝉の声も静かである。清涼とした風が吹き抜け、烏丸の髪と襖のすね毛を撫で去っていった。早朝独特の静けさも相まって、今が炙るような夏であるのをつい忘れそうになる。

 襖は元兵士だ。塔京から戦火が去って二十年、内周区の一角にある烏丸家にも二十度目の夏が来ていた。


       ⑨


「おう、やっと起きたか。さっさと食えよ、まーた遅刻するぞ」

 台所に立って偉丈夫を機敏に動かしてせっせと朝食の準備をしているのは、烏丸勘助からすまかんすけ。白い三角巾から僅かに覗く短く刈り込まれた髪は青みがかった鉄灰色で、白く清楚なエプロンでも隠し切れずにはみ出しているそれは、幾重にもうねる筋肉で

「って服着てよ!」

「? 着ておろう」

「それは服って言わないよ!」

 年はもう五十を越えているのにその筋肉に一切の弛みはなく、むしろまだ十代な烏丸よりも凄く引き締まってその巨躯を覆っている。それが今見えてしまっているのが問題なのだが。

「おい親父、そんなことより卵焼きかよ。俺ぁだし巻きの方が好きなんだがね」

「あたしはこれでも良いですけどぉ、甘すぎでしょ。もうぜんっぜん卵の味しないじゃないですか。これもう砂糖ですよ、さ・と・う」

「文句垂れるなガキ共、何なら自分で作ってみい。儂だって朝一の筋トレしてえのによぉ……」

 それ以上筋肉を付けて、ゴリラにでもなるつもりなのか。

 卓を囲んで駄々をこねる子供のようにぶつくさ言う二人に、でかい背中を向けたまま言い返した勘助は慣れた手つきでフライパンを振るう。炒める米は鍋の底をさらっと滑って舞い上がり、宙を逆上がりしてぱらぱらと踊って鍋に落ちる。朝からチャーハンはさすがに重すぎると思う。

「ほい、一丁上がりっと。ふむ、我ながら良い出来じゃな」

 勘助は湯気を上げるほくほくのチャーハンを卓に置くと、襖ほどではないが短くてチクチクしそうな無精髭の生えた逞しい顎を撫で擦り、精悍に削げた頬に笑みを刻んだ。

 これで卓に卵焼きとビーフシチューとチャーハンが出揃った。和・洋・中華と如何にも節操がない。あと、朝食である事を全く考慮していない献立である。

「やっぱチャーハンは出来たてに限るよな。流石親父、今日も良い腕してるねぇ」

「ちょ、ぼさ兄。だから塩胡椒かけすぎですって、それじゃもう塩胡椒の味しかしませんよ。……ん、ちょっと親父さん! これ牛肉でかすぎ、ちゃんと切ってから煮込んで下さいよ。豚の餌だってもう少し細かいのに……どうやって食べるんです? これ」

「でけえ方が食った気がしていいじゃねえの。形はあれだ、そう気分だ気分」

「あたし、量より質が大事なんですけどぉ。はぁ、ただでさえ無駄にでかくて邪魔になるし、あり得ないくらい臭いわ汚いわでいいとこなんて一つもないくせに、せめて料理だけは取り柄だと思ってたんですけど……とんだ期待ハズレですね。これだからクソ親父さんは、そんな事だからお袋さんに逃げられちゃうんですよ」

 途端、勘助が消えた。

 烏丸は見失ってきょろきょろと見回すと、すぐに見つけた。台所とお茶の間を区切り今は開け放たれている襖の陰に筋肉の塊が鎮座し、がっくりと項垂れてしょぼくれている。「儂だってなあ、好きでこんなナリしておらん。料理だってなあ、頑張って練習したぞ。それなのによぉ……」と、今にもしくしく泣き出しそうな始末である。

「蓮、それはもうほっとけ。どうせ小半時もすりゃけろっとしてるからよ、それより食わねぇならおめえの卵焼きもらうぞ」

「うん……っていやあげな、もう食べてるし!」

「んむ。やっぱ塩辛いのが一番だな、甘すぎていけねぇ」

「塩かけるって一体どういう味覚してるんですか、なんのための卵焼きだと……。理解に苦しみます」

 あっという間にお茶の間がやいやい喧しくなった。烏丸と襖は行儀悪く互いの箸で卵焼きを引っ張り合い、相手が引く気がないと分かればぎろりと火花を散らし、それを横目に雅は二人の手元にあるビーフシチューのごろっとした牛肉を掠め取る。

 文句を言っていた割に、どうやら味はお気に召したらしい。

 もはや自分らの牛肉が盗難被害に遭っていたと二人が気付くのは時間の問題で、卵焼き争奪戦を始めてからいくらもしないうちに牛肉を巡っての三つ巴の戦いが勃発せんとしたまさにその直前、

 部屋の襖の陰からひょっこりと剛毅な顔を出したのは、勘助。

「そういえば……して蓮よ、お前さんちゃんと宿題は終わっておろうな? 遅刻はせんでもそれを忘れては元も子もないぞ」

 烏丸は、停止。その隙を逃さず襖は卵焼きを頬張る。場の喧騒がすっと引いた。石になった烏丸を雅がちろっと盗み見る。もぐもぐと牛肉を咀嚼したままで。縁側にたむろする雀が可愛らしい鳴き声を上げ、先刻まで勘助がにやにやしながらばら撒いた餌をちょんちょんと突いている。

 そして、烏丸の悲鳴が木霊した。

 それに驚いた雀が飛び去るのと、雅が烏丸の分だった牛肉を嚥下したのは奇しくもほぼ同時だった。


       ⑨


 寝間着のボタンをあと一つだけ外し残して歯を磨く烏丸は、脱ぎかけのズボンのずんだれた裾に足を取られてたたらを踏みつつ、あわや転びかけながら箪笥を引き開けてとっ掴まえた靴下を危なげな体勢で履いた。そして踵を返すや否や押入れを勢い良く開け放ち、制服を引っ張り出して――

 硬直。

 掴んでいたそれは薄くてリボンとセットになっていて、下に履くひらひらとした筒状の衣服も一緒で、

「ってスカートじゃん!」

 危うく口から歯ブラシを飛ばしかける。誰の犯行かは容易に想像がつき、思わず地団駄を踏む。人が急いでる時になんて巨悪を、だがいつまでもこうしてはいられない。更に奥に手を突っ込んで今度こそ男物の制服を取り出してからは早かった。新しくもない寝間着の上と下を一緒くたに脱ぎ捨て、そこら辺に置き去りにしたまま神速で制服に着替えた。鞄良し、ベルト良し、夏休みの宿題良し。しかしやり残したレポートだけが手元になく、夏休みの間中ずっと学校の机の引き出しに置き忘れたままだ。その事をついさっき思い出した。着替えがてらいつの間にか蹴飛ばして部屋の隅に転がっている目覚まし時計だけが、昨夜の仕返しだざまあみろとばかりに刻一刻と無慈悲に長針を動かしていく。時刻は既に六時三十分。何だまだ余裕じゃないかと思うなかれ、確かに余裕で学校には間に合うが社会担当の理屈っぽくて頑固で記憶力が凄まじい墨谷が、朝礼のいの一番で担任を差し置いてレポートの提出を強制するのは火を見るよりも明らかだ。そして宿題を忘れた同志達を教壇に囚人のように並び立たせ、フルネームで呼んだ上に一ヶ月以上も猶予があったというのに何故宿題を忘れたのかと魔女裁判を執って晒し者にするのだ。だが今ならまだ間に合う、早いうちに学校に赴いてタイムアップになる前に教室でレポートを仕上げてしまえばいい。これだ、これしかない。

 ダッフルバッグを肩に引っ掛けて部屋を飛び出し、表の廊下を一直線に駆け抜けて些かも減速しないまま角に差し掛かり、靴下を履いた足で滑りながら上体を投げ出すように傾けてぎりぎりで曲がり切った。そのままどたばたしながら洗面所に駆け込んで口の中のモノを吐き捨て、放り投げた歯ブラシが見事な放物線を描いてコップの中でからんと音を立てた時には既に、烏丸は居間へ到着していた。

 そこでは襖が胡座を掻いてぼけーと食後の爪楊枝で歯と歯の間をいじいじして、雅が体育座りをしながら真剣な表情で足の爪にネイルを塗って、ようやく朝食にありつけた勘助が嬉々としてがつがつ口と箸を動かしている。

 取り敢えず時間もないので、一言だけ言い残しておく。

「雅、帰ったら覚えといてね」

 渾身の睨みを利かせた。が、当の雅は、

「……………………」

 ぽかんと呆けている。黄昏のような色の瞳をぱちくりとさせ、烏丸を奇妙に窺っている。変な反応だなと思っていると、やがて何かに得心したかのように「ああ」と頷き、

「――昔に還ったわけじゃなくて、あくまでパイさんなんですね」

 何言ってんだこいつ。

 独り不可思議に思うだけで、すね毛な襖も半裸な勘助も爪楊枝と朝飯に夢中で雅の発言を気にも留めていない。何が何やらだけど今は時間が惜しい。

「それじゃぼくは先に出るから、雅も遅刻しないようにね」

「はいはい、いってらっしゃ~い」

 もう烏丸を見もせずにネイルへと戻り、声も素っ気ない。元より期待なんてしていなかった烏丸は急いで玄関に滑り込む。一昨日洗いたてでそのままのスニーカーの靴紐を苛立たしげに結んで、躓く勢いで引き戸を開けた。そこから裏手に回り、ビールケースと物置小屋の壁との間に見るも無残に挟まれた立ち漕ぎ橇を取り出す。夏休み中そこでずっと炙られていたそれからは、多分の酒臭さと少量の埃っぽさと微かにお日様の匂いがして――その時には既に軸足である左足を掛け、ほぼ同時に両手でハンドルを握り、やるが早いか思い切り右足で蹴り出した。

 勢いの良い加速で石畳を走り抜ける。左右には空っぽの石灯籠が整然と並び、その間を颯爽と駆けていく。遠近感でこんがらがっていた高い石塀がみるみるうちにどんどん大きくなっていき、すぐに厳かな門戸を抜けて表通りへと躍り出ていた。

 右よし左よし。

 一切速度を緩めずに体ごと投げ出すように車体を右に倒し、強烈な遠心力を強引に捻じ伏せる。すぐ目前まで迫っていた人ん家の壁に激突するのをすんでのところで回避し――そこら辺に転がっている小石に車輪を取られて木製の電柱に体当たりしかけた。

「あっぶな!」

 咄嗟にハンドルを右に切って躱し、胸を撫で下ろしている間にも立ち漕ぎ橇(そり)はどんどん加速していく。急な斜面に差し掛かる。内周区の中でも端っこに位置する烏丸家周辺で、幾人の膝を突かせてきた最強過ぎる険しい坂道だ。下手をすればそのままごろごろ転げ落ちて目も当てられない。しかし、だからこそ。

 夜明けまで飲み屋を梯子して酔っ払ったおっさんが電柱に腹の中をぶちまけて楽になったのは、ちょうどその時だった。

「おじさん、すみません!」

 当人に躱す気はなかっただろうけど、運良く再び吐き気が来てあわやといったところでおっさんが電柱に寄りかかり、烏丸は逆方向へとハンドルを切った。さして広くもない坂道の右側の壁に黒い髪を微かに擦り、肩に引っ掛けたダッフルバックが一瞬前までおっさんの頭があった位置を掠め、遠心力と段差に車輪を取られたせいで鞄がばたつき、

「いっつ!」

 チャックの金具とキスしてしまった。冷たかった。

 とにかく急ごう。早ければ早い程、それだけレポートの猶予が伸びる。だから、

「近道っと!」

 更に細い路地に無理やり切り込み、相変わらずの急な坂を駆け下りていく。

 朝日に晒された住宅街は日向と日陰をくっきりと作り、遠くには内周区中心の半ば要塞化した街並みが見渡せる。坂道は下れば下るほど、都市をぐるりと囲う環状線に沿って湾曲していく。そして左手には内周区――正式には「塔京都中心区域」を真っ二つに区切るドでかい河が流れ、朝焼けを映してきらきらと瞬いている。

 風を切り、耳元で空気が唸る。鼻先に空気の壁を感じる。時速百キロくらいで駆け下りているのではないかと思う。

 気付けば住宅街を物凄い速度で抜け、左手にはもはや河だけが横たわっている。河の向こうには今でも改修工事が行われている木偶の坊の通信塔乙号と、内周区と外周区を隔離する高架と防壁が望める。木製の杭を土手に打ち込んでその間に麻紐を繋いだ簡素な欄干が川沿いにどこまでも続き、真上から河と交差するように架かる環状線に合わせて坂道も弧を描いている。ブレーキは使わない。立ち漕ぎ橇のすぐ下をアスファルトが尋常ではない速度で流れていく。来る。掌に滲む汗が凄まじい風圧で冷たく濡れたように感じる。更に、更に加速していく。来る。瞬間、半円を描く道が切れる。来た。

 ハンドルから手を離し、両腕を大きく広げる。足だけで体勢を保つ。もはや曲がり切れない速度に達した立ち漕ぎ橇は、風もかくやな疾走でL字路に直進していく。先は欄干、その先は河。河ぽちゃ間違い無し。が、

 そのまま突っ込む。

 欄干の狭間、そこだけ麻紐がぶち切れてぱっくりと穴が開いている。ぞっとするスピードで屈んだまま欄干の下をくぐり抜け、間髪を入れずに手摺を掴み、ほんの一瞬で逆上がりよろしく体を持ち上げて――飛ぶ。


 吹き荒ぶ風に全身を洗われる。

 視界の中央に存在していた眩く輝く太陽が次の瞬間には、陽光を照り返して水面に閃きを乱舞させる河に取って代わっていた。

 空中。立ち漕ぎ橇がぐるりと一回転していく。


 心臓が縮み上がるような浮遊感と共に、驚異的な速度と高度の放物線の頂点で全身が伸び切る。その時見た。遥か彼方、防壁よりずっと高く雲に届かんばかりに聳え立つ蒼い塔。あれこそが、「塔」京の所以。転じて、奇妙なほどゆっくりと落ちていく。握り締めたハンドルを振って足場たる板の位置を修正する。よし。このまま両足を揃えればいい、後は着地時に出来るだけ衝撃を殺すだけ。幸い対岸の着地点には人っ子一人おらず、もはや眼下には街中を流れる河と落下防止用のお粗末な柵と簡易的なゴミ捨て場と、

 猫。

 瞬間、目が合う。

 着地失敗。

 突然の遭遇に一瞬だけ思考に空白が生じた。慌てて逃げ出した猫に着地点を塞がれた事もあるが、何よりもその一瞬が命運を分けた。結局、烏丸は何も出来ぬまま跳ねるような勢いでゴミ山に頭から突っ込んで、尻だけを無様に出したまま沈黙する。落下の衝撃でのたうち回った挙句に裏返った立ち漕ぎ橇の車輪がからからと回る音だけが、朝の静寂を控えめに小さく破る。

 思う。

 危うく衝突しそうになったあの猫は、摩訶不思議な猫だった。眼は虹彩まで黒一色で、毛色は真っ黒で、尻尾は長かった。烏みたいな猫だった。だけどその眼の中に、ヒトに似た何かがあった。それが何かは烏丸には分からない。だって猫は今や影も形もなく、確かめようもないから。

 ゴミ山から頭を引き抜いてからも、未だに呆けてそう考えていた。だから座り込む自分を塗り潰さんばかりに巨大な影が落ちていた事に、烏丸はすぐに気付かなかった。

 朝日を反射してちかり、と光る手が烏丸の背に伸びて。


       ⑨


「ありがと、助かったよ」

 巡回中の機械兵に横抱きにされながら学校に到着した烏丸は、礼を言い残して校庭を突っ切り校舎に飛び込む。

 外周区はともかく、内周区は帝のお膝元という事もあって機械兵が電脳に記録された通りのルートで巡回している。それも何十体という規模で。ああいう雑務も頼めばこなしてくれるから、烏丸含め市民からはお巡りさんよりも信用されている。振り返れば、全身を鈍色の装甲で包むゴツくて大の大人よりもでかい機械兵が掌を律儀に振っていた。最近の電脳は戦後から実務以外の部分、平たく言えば礼儀とかユーモアというやつが発展してきている。このまま戦後がずっと続いてくれれば、戦闘面以外の能力開発が進んでいつかは人間と冗談を交わす日がくるかもしれない。

 下駄箱で靴を履き替えるもそこそこに、階段を二段飛ばしで登っていった烏丸はあっという間に二階の一年一組の教室の扉を引き開け、自分の席にダッフルバックを放り置いた。ついでに立ち漕ぎ橇も床に置く。正門が開いていた以上誰か職員なりがもう来ているのだろうが、朝の教室は静寂に沈んでいる。

 時刻は七時きっかり。机の引き出しからレポート用紙を取り出しつつ時間を確認した。奇しくも雅が叩き起こしてくれたのと、河を飛んでのショートカットと機械兵が運んでくれたおかげで予定より早い。が。

「雅には絶対感謝してやるもんか。ぼくの牛肉食べたし」

 後で絶対仕返ししてやる、食欲的な意味で。

「ふふふふふふ…………」

 私怨を胸中で燻らせつつさっそくレポートの始末に取り掛かる。まだ控えめな朝日が差し込む教室に、鉛筆の軽やかな踊りだけが小さな音を立てる。

 十五分後。

 レポートの最後を句点で締めた烏丸は鉛筆を置き、椅子に背中を預け両手足をだらんと放り出して脱力した。前もってレポートの内容は考えていたのでそう時間はかからなかったし、何もそこまできちんとした中身である必要もないし、この際筆跡が汚いのはご愛嬌だろうと思う。

 今はまだ首を振っていない天井の扇風機を見上げ、視界の隅でカーテンが揺れる。

 ――揺れる?

 教室前側のカーテンが揺れていた。つまり開けっ放しの窓から吹き込む風が、紐で括られていないカーテンを棚びかせているわけだが、無論烏丸がどうこうしたわけではない。恐らく夏休み中に学校にいた生徒か教師かが閉め忘れたか、或いは自分より先にこの教室に来た誰かが開けていったのか。

 自分も教室窓際最後尾の席に陣取っていながら気付かないとは、よっぽどレポートに集中していたようだ。特に深く考えたわけでもなく、何となく席から立ち上がってからりと窓を閉めようとした。

 それは風を切るような鋭い音だったように思う。窓から頭を突き出して視線を巡らせ――屋上から聞こえてくる。下手すれば風鳴りに紛れてしまいそうな、小さいやつ。誰かいる、しかも屋上で孤高しているわけでもないらしい。書き終えたレポートをちらりと一瞥し、ついでに時計も確認する。

 行ってみよう。

 時折木の床が軋む音が廊下で鳴り、空っぽの教室を幾つも通り過ぎ、しんとした静寂が仄かな涼しさすら漂わせ、屋上へと続くリノリウムの階段で一人分の足音が反響して幾重にも木霊していく。そしてついに最後の一段を登りきり、そこで扉にかかっている南京錠が外れているのに気付く。少し躊躇ってから、えいっと押し開けた。途端、朝日が飛び込んできて目を眇める。目蓋の裏にすら光を感じ、それでも耳に届くその音の正体を知りたくて目を開けた。


 鮮烈な朝焼けを浴び踊る少女がいた。いや、躍っていた。


 音の出処は今まさに少女が振るっている警棒だ。真っ黒な細長い棒が、絶え間なく空を裂いて笛の音じみた風切り音を刻み続けていく。しかと受け、流れるように打ち、廻すように払い、隙のない足取りで躍り、舞うように突く。演舞としてのそれではなく対人戦用だと理解できたのは、一瞬足りとも淀まない足捌きと唯の一つとして同じ動きのない型が見て取れたからである。目にも留まらぬ一連の動作を前にして、首を刈られるのは必至だと思える。

 無駄に広い屋上を少女が躍動する。それに合わせ、影が殺風景な床を忙しなく滑っていく。もはや気迫どころか、鬼気迫る戦闘機動と言っていい。まさに少女は今、想像の中の仮想敵を即刻撃破しようとしているのだ。しかし烏丸は別のものを見ていた。それは陽光を受け宙で輝く汗の飛沫であり、虚空を泳ぐ一括りされた赤髪であり、触れようものなら八つ裂き間違なしの真剣な横顔であり、正面を睨む苛烈な瞳である。

 動きは乱れず、瞳は一瞬さえも敵から離さず、攻撃に容赦はあらず。戦闘のための型は一手一手に破格の威力を内包していながら、とても――

「……………………綺麗」

 ぴた。

 人とは思えないほどの急制動をかけ、突きの姿勢のまま停止した少女。それからきっかり二秒後に瞳を閉じて居住まいを正し、残心。そして深く息を吐き、烏丸に視線を留めた。どこか異国の血でも引いているのか、その虹彩は線香花火のような淡く静かな赤。

「遅かったな。予測より三分五十秒も。しかしまあ……どうやら襲撃を受けたわけでもないように見えるし、単なる遅刻か」

 絹のように滑らかな声は、女性にしては低く芯の通ったものだ。

「…………えっと、」

 ともあれ、よく分からない少女らしい。烏丸があわあわ戸惑っているのを他所に、少女は突然お告げでも聞いたかのように明るむ東の空を仰ぎ、眉を顰めた。

「……っ、そうか。これで五人目だな、救われん」

 それから特に唇が動いていたわけでもなく、少女は無言になった。なのに、烏丸には少女がまだ喋っているように思えた。そんな筈はないのに、そもそも声を出さずにどう喋って誰と話すというのか。

 好奇心こそあったが、少女の悲しげに伏せられた瞳を見れば問うのは憚られた。そうこうしている内に少女の瞳から感情が消え失せ、何事もなかったかのようにそれをぽいっと放り投げてきた。

「わっ、と、え?」

 慌てて胸で受け止めた。どこから出したのか、少女のそれと同じ色と形の伸縮式警棒が烏丸の手に収まっていた。金属製で重くて硬い。

「レポートはもう終わったであろう。ならば少し付き合え、どうせ時間はたっぷりあるのだから。少なくとも今のところはな」

「えっと……でもぼくこんなの使ったことないし、」

 それより何故レポートの事を知っているのか、何故こんな朝っぱらから屋上で素振りをしているのか、そもそも君は誰なのか。幾らでも訊くべき事があったのに、いきなり予想だにしない事態に出くわしたから烏丸は結局そんな言葉を返すので精一杯だった。

「いや、ある」

 なのに少女は烏丸の戸惑いを一蹴し、

「お前好みの得物ではないが、どうにかなるだろう。右手で握り、左足を引いて構えろ。そうだ、そのまま左手を隠すように半身を保て。それこそがお前が研鑽と鍛錬の末に会得した構えだ。本来ならば左手は空いていないのだが……まあ今はよかろう、所詮これは遊びである」

 そう言う割には目が本気である。というか、烏丸はただの一度もこんな得物など使用した覚えはないのだが。最近物忘れが激しいなとしみじみ思う。

 言われるがまま構えてみる。が、棒を伸ばすのを忘れていたので伸長してから構え直す。その様を正面から少女がじっと眺める。しばらく二人の間に沈黙が流れ、烏丸がそろそろ気まずくなって身動ぎし出した時になってやっと少女は「ふむ」と頷く。

「似合わんな」

「君がやれっていうからやったのに……」

 そりゃ男にしては体は貧相だし、顔も男前ではないし、雅曰く「女だったら良かったのに」くらいだし。

「そう気を落とすな。様になるのと実際の力量に何ら因果関係はない。それに、お前の腕前は小生が保証している」

「いや……でも……」

 保証されたところでやはり気乗りしない。ここに至り、未だ煮え切らない有様を見た少女は憮然とした面持ちでかぶりを振り、

「いいからやれ。たとえ気休め程度の組手であろうと、やらないよりマシだ。少しは躰も思い出すだろう、いくぞ」

「え、ちょ、待」

 待って。そう言い終わるより早く少女が一歩踏み込み、

 ろくに用意できていない烏丸が反射的に一度だけ瞬きをした直後、すぐ目の前に少女がいた。正面から袈裟斬りの払いが、烏丸の喉元でぴたりと止まる。一瞬遅れて、棒圧の生み出した風が首筋を撫でた。ごくりと唾を飲み込むと、喉仏が漆黒のシャフトを微かに掠める。夏なのに羽織っている真紅の外套の裾は、機動で生じた風圧で今も揺らめいている。

 ほんの一瞬で苛烈さを極めた赤い瞳が、生まれて初めての至近距離から烏丸を見据えている。あれだけ速く動いたのに、少女の呼吸は乱れを知らない。だからこの鼓動は自分のものだ。数センチ先にいる少女に聞かれてしまわないか、そう思うと変な汗が出てくる。朝日を受けて伸びる二人の影は、重なり合って一つの塊になっていた。

 こうして見ると、烏丸より少しだけ背が高い。もし自分に姉がいたのならば、今みたいに威厳のある目で見つめてくるのだろうか。雅とは大違いだ。

 生徒は自分しかいない筈の学校で、誰もいない筈だった屋上で、見知らぬ少女と共に山吹色の朝日に照らされて、

 夢かうつつか幻か。

 音もなく警棒を下げ、

「一本」

 淡々とした声で、烏丸はようやく現実に引き戻された。

 何を言っているのか、しばらく分からなかった。が。

「……っ、だから無理って言」

「五センチ」

「ぅえ?」

 未だ一歩分の距離を置いた目前に立つ少女が、朴訥と続ける。

「小生は組手において寸止めし損ねたことはない故、相手が如何に回避しようと多少は照準を補正できる。そして今、小生はお前の動きをトレースして五センチ照準をずらした」

 つまり。

「びっくりして仰け反っただけじゃ」

「正しい。が、それだけではない。もう一本するぞ、今度は目を閉じるな」

 言うが早いか軽く真後ろに跳び退って、一気に五メートルほど間合いを取った。あり得ないジャンプ力である。ますます得体が知れない。

「用意せよ」

 二つの影が、片や素早く片や鈍く動き続ける。二本の警棒の片方だけが空を打ち、風を切って払い、標的の躰を突かんとする。

 最悪この場から逃げてしまえばいいのだが、こうも少女が間髪を入れずに突撃を敢行して来ては背中を見せるのが恐怖でしかなかった。押しに弱いのもある。結果、ギョロ目もかくやな血眼で少女の動きを追いかける羽目になった。

 そのおかげか、四本目は二撃目で一本を取られた。少女が一人稽古をしていた時より圧倒的に手を抜いているのは明らかだったが、それでもドジを自覚する烏丸にしては目覚ましい成長である。

 とはいえ、何が何やらな烏丸と、あまりに強引な少女との組手は傍からすれば烏丸が追い立てられているようにしか見えない。そんな最中、烏丸は少女が頭の後ろで一括りにしている赤髪を見ていた。少女の速過ぎる機動の軌跡として宙に流れるので、その様を見た瞬間に思い切り跳び退けばぎりぎり攻撃を回避できるからだ。もっとも、追撃でやられてしまうのだが。その様は、猫じゃらしを前に油断なくじろじろ凝視する猫にも似ていた。

 そして、それは八度目に仕切り直された組手の時だった。

 終始押されまくりな烏丸だが、このまま手も足も出ないままでは男が廃ると考えた。それに、そろそろ目が慣れてきたような気がする。自分でも馬鹿げた勘違いだと思う。でも、頭の片隅でもう一人の自分が高速で思考しているのだ。今まではそもそも「何をされているか」てんで分からなかったが、それがいつからか「どう回避するか」に次いで「どう反撃するか」を動きの勘定に入れているように思える。自分の一挙手一投足を俯瞰しているような感覚。

 途端、少女の姿が消えた。

 これで八本目を取られる、筈だった。

 視えていた。赤髪だけではない。左に回っていた少女と視線がぶつかり、意外そうに赤目を見開く。這うような低姿勢からの打ち上げが、烏丸の顎を狙う。が、その瞬間にはもうとっくに烏丸は上体を逸していた。少女は須らく打突の軌道を修正し――その軌道上に警棒のシャフトを構えていた。棒と棒が擦れ合って甲高く鳴り、逸らされた打突は烏丸の前髪をぎりぎり掠めただけで終わり、衝撃を受けた烏丸の右手も空を切る。

 攻めの失敗と受けの成功、そこに勝敗の帰趨がある。より驚愕の勝った方が出遅れる。

 僅差だった。

 瞬き一回分の時間差で次の一手を仕掛けたのは、烏丸である。少女を見る黒の双眸の奥で、熱が燻る。

 衝突のままにあらぬ方向へ泳がせていた警棒を翻し、逆手に持ち換え、

 猫。

 今朝出会ったばかりのあの猫が、突如として足元に飛び込んで来た。踏み込む足と、黒色の疾風に釘付けになる目と、回避か攻撃かの逡巡で乱れる戦闘思考と。意識を完膚なきまでに持っていかれた。ものの見事に足を踏み外し、警棒が手からすっぽ抜けた。

 こける。

 脳裏でそう思ったが、既に遅く。

 あっという間に視界が真っ暗になった。ほぼ同時に落ちた警棒が床で跳ねて甲高い音を立てた。二人しかいない屋上は静まり返り、そこを黒猫が素知らぬ顔でとことこ歩いてすとんと座り、呑気に毛繕いをし始める。

 柔らかい。

 ただ、その感触だけがあった。微睡むように温かい、まるで体温のような――気付く。

 烏丸は、正面から少女に抱き止められていた。いや、少女の胸に飛び込むようにしてこけたのだ。豊かな膨らみに顔を埋め、二つのそれはなよやかに潰れて、形を変えている。

 一定のリズムを刻む音が聞こえる気がする。これは自分の音じゃない。だって、これじゃ遅過ぎるから。

 そう理解した瞬間、烏丸は弾かれたような反応を見せた。顔のみならず耳まで瞬く間に真っ赤になる。ひとたまりもなくしゅばっと飛び退き、勢いそのままにがばっと頭を下げてみっともなく叫ぶ。

「ご、ごめんなさい!! わざとじゃないんですー!」

 そして脱兎の如くあたふたと逃げ出した。扉にぶち当たるようにしてノブを思い切り回し、転がり落ちる勢いで階段を駆け下りて行った。

 頭の中のもう一人の自分は、いつの間にか思考を霧散させていた。


       ⑨


 独り屋上に取り残された少女は朝日でくっきりと明暗に分かれた塔京の街並みを見通し、感慨深く目を細める。早朝故にまだ目覚め切っていない塔京は今もなお鋭意復興中だが、それでも所々が未だ手つかずだ。空っぽのビル群の割れた窓には強い風が吹き込み、室内に溜まった澱のような埃や塵を渦巻かせて外へ吐き出していく。ひび割れたアスファルトから伸びた蔓が、斜めに傾いた電柱に巻き付いている。崩落で寸断された道路、忘れ去られた路地、駅のホームの残骸、日に焼けた看板、そのどれもが時代に取り残されていた。

 二十年。

 今や戦争を知らない世代が、外周区より更に外側にある「廃墟区」を野ざらしにする事で優先的に整備された内周区で生活している。吹きさらしの瓦礫なんざ専ら外周区や廃墟区でしか見れず、下手をすれば彼らは生まれてこの方戦争の傷跡を生で見た事はないかもしれない。全ては知識として、教科書の中での出来事でしかない。

 戦争は、歴史は、時代は風化していく。瓦礫と同じように。

 と、感慨に耽る少女はふと視線を感じてそちらを見遣る。

 先程の黒猫が入念な毛繕いを終えたようで、舐めていた前足を下ろしてじーっと少女を見上げている。深淵を内包したかのような目は生物的でもあり、無機的でもある。

「久しく会ってこの仕打ちとは、そこまでヘイの真似事をする必要もあるまい」

 憤然と腕を組む少女の鋭い眼差しを受け、黒猫は長いヒゲを微かに揺らす。

『適合率及ビ接続効率化ニ必須ト判断ス。而シテ貴君ノ《緊急記憶初期化》ニヨル準備ハ必要也』

「余計なお世話だ、馬鹿者」

 吐き捨てるが、先程の事件を思い出して頬をにわかに紅潮させる。胸元にはまだ烏丸の体温と感触がほんの微かに残っている。

『【蟻ノフォーミカリアム】ノ【処女王女ヴァージンクイーン】ガ採集ヲ活発化サセテイル模様』

「……先刻、《彗星》から聞いた。これ以上無用な犠牲を出すわけにもいかぬ」

 頬の朱をすっと引き、沈痛げに眉を寄せる少女。

『我等ノ予測演算ノ結果、0200時ニテ作戦決行スルベシ。是カ非カ」

「他の奴等もそれで承知したのだろう、ならば小生もそうするまで。…………所詮、我らはお膳立ての前座である。最後に落とし前をつけるのはあいつだ」

 そして少女は視線を転じる。理知的な切れ長の瞳は、外周区より遥か彼方で青い霧に包まれてなお威容を晒す《沈黙の塔》を決然と見つめている。

「長い夜になるな」

 突風に攫われた呟きを、黒猫だけが傍で聞いていた。


       ⑨


「で? お前それで逃げたわけ?」

 あれから一時間近く自分の席に座り込んで懊悩でうなされ続けた烏丸を、前席の森久保が放っておく筈もなく、例の如く事情聴取されたので烏丸はため息混じりに事の顛末を明かしたわけだが、

「珍しく遅刻してこなかったから何事かと思えば、まだ寝ぼけてんのか。虚偽妄言も大概にしとけよ」

 取りつく島もない。

 これまでの烏丸の人生において類を見ない大事件は、キの字な奴を見る目つきで妄想だとばっさり切り捨てられてしまった。

 大方クラスメイトが出揃いつつある夏休み明けの教室の中で、それぞれが各々の夏がどうであったとか、夏休みの前後で見た目が変わっただの彼氏彼女がどうだの言い交わしているのに、烏丸だけが夢遊病者の戯言をほざいていたのだった。

 机にぐったりと突っ伏して組んだ腕に顎を乗せる烏丸は、ぞんざいな扱いに唇を尖らせる。

「嘘じゃないもん」

 椅子に後ろ逆さまに座る森久保は、

「もし、仮に、疑わしいが、ひょっとして、万に一つの確率で嘘じゃなかったとして、だ。それはそれでお前、すげえ酷い男だな。結局あれだろ、女にセクハラしといて一発も殴られずに逃げたんだろ。うわ、ヤリ逃げじゃんか」

「事故だよ、わざとじゃないもん」

 拗ねるとこういう語尾になってしまう烏丸を見かねて、「だからそれきめえよ」と顔を顰めた森久保だったが、すぐに「それよかさ」と前置き、

「切り裂き権兵衛、また出たんだってよ」

「……えー、またその話ぃ……」

 露骨に顔を顰める烏丸に気を遣う素振りなど一切なく、むしろ愉快そうに嗤う森久保。森久保の父は一般市民の安全確保も兼任している中央の生存者探索チームに所属しており、祖父は今でも現役の機械兵整備士である。情報の出処はとうに知れている。

「死亡推定時刻は六時から六時半の間で、いつも通り頭はぶった切られてたらしいんだけど、今回はぐっちゃぐちゃだったんだと」

「ぅぅ……、気持ち悪いぃ……」

 烏丸は吐き気を催したかのように大袈裟に胸をさする。

 切り裂き権兵衛、なんでも異国の連続猟奇殺人事件の犯人の通称をもじったものらしい。

 一度目の犯行は六月三十日で夜中の一時頃、内周区中央部の繁華街へと伸びる大通りで起こった。三十過ぎで所帯持ちの女性だった。仕事帰りだったらしい。首級をばっさりと刈られ、首なし死体だけが街灯でてらてら光る血の池を作りながら道端に放置されていた。腸があられもなく飛び出し、性器には細長く深い切り傷があった。

 二度目の犯行は七月八日で夜が明けた四時三十分頃、内周区の防壁近くの路地裏に捨て置かれ、巡回中の機械兵が発見した。五十近くで最近夫を亡くし独り身となった女性だった。若年の痴呆気味で放浪中に殺害されたらしい。同じく首を切られ、日の出の斜面が剥き出しの首元と胴体を陰影できっぱり分けていた。大腸も肩まで引きずり出されていた。一度目とは違い、子宮と膀胱と性器まで切り取られていた。

 三度目の犯行は七月三十日で犯行時刻のおよそ十分前に、被害女性と犯人と思しき人物が目撃された。妙齢の女性だったらしく、ガイシャも同年代の年若い独身女性だった。無論首は切断されていたが何者かの邪魔に遭ったのか、或いは単なる気まぐれか、臓器は摘出されていなかった。しかし片方の耳が傷つけられていた。

 四度目は同日で僅か四十五分後に起こり、左の腎臓と子宮を首もろとも持っていかれていた。犯行推定時刻はおよそ二時過ぎ。それはさながら屠殺場の様相を呈し、腸(はらわた)が一塊で右肩の辺りに店を開いていた。この件だけより一層の惨状と成り果てていたのは、偏に三度目の殺人で不満が残っていたからかもしれない。

 烏丸としてはもう今にでも綺麗さっぱり忘れてしまいたいのだが、事件が起こる度にこうも森久保が言い聞かせてきては無理だった。事件が凄惨過ぎるというのもある。

 そして本日九月一日、頻発する殺人の五度目はこれまでで一番酷かった。

「喉元を深く切り裂かれて、頭は綺麗さっぱり失くなってて、おまけにおっぱいまで切り取られてさ、しかも左腕は削いだらしくて皮一枚で胴体にぎりぎり繋がっているような状態。鼻も削ぎ落とされてるわ、額の皮は剥かれるわ、大腿なんて脛まで裂かれてぺらっぺらにめくれてるわ、散々だったらしくてさ。そんで腹はばっさり縦に切り裂かれてよ、内臓が抜かれて空洞のできあがり、こだわりか知らねえけど肝臓は両脚の間に置かれてたんだと。仕上げに剥がされた皮膚やら切り取られたおっぱいやら鼻とかはテーブルの上にそりゃもううず高く積み上げられて、そこでなんか足んねえと思ったのか手持ち無沙汰になったのか、片手は丁重に折り畳んで腹の中にぎゅうと押し込まれてた、だってさ。しかもガイシャ十歳くらいの女の子、現場はまさかの自室。親が共働きでなかなか家に帰れないらしくて、今日も不在でさ、五つ年上の兄がいたらしいんだが、朝飯作ってて、いざ妹を起こしに行ったらってやつ」

「……………………」

 顔面蒼白になる烏丸は、半ばドン引き半ば呆れ顔で見返した。

 もはやそれまでの比ではなかった。しかも最年少、おまけに自室ときた。

 そこでふと、恐ろしい憶測が脳裏に浮かび烏丸の表情から更に血の気が引く。

「――まさか、森久保が」

「んなわけねえだろ、寝言は寝て言え」

 一蹴である。

 未だ疑り深い目つきをしている烏丸を見て、それはもうありありと呆れ顔を作る森久保は、

「ふつーに考えてみろ、なんで俺がんなことしなきゃならねえんだよ。それやってなんの得がある? もし仮に俺がやったとしても、もうとっくに足がついてお縄についてるだろうが。機械兵舐めんなよ。それにこの一連の事件はな、人の力じゃまず無理なんだよ首切りなんて。精々肉は切れても骨は断てない」

 そこまで聞いてやっと烏丸の頭の中で疑念の霧が晴れたので、恐る恐る尋ねる。

「じゃあ、犯人は機械兵ってこと……?」

「その線もあるが、実際に中央は保有する全ての機械兵の電脳を洗いざらい調べたらしいけど、特に異常なし。それに機械兵の兵装には首を綺麗に切断するだけのピアノ線……、いやワイヤーか、そういうのは搭載されてない。かと言ってそこら辺に転がってるような凶器でもねえし。となると、三人目の被害者と一緒にいた女が怪しいってことになるんだが……」

「だが?」

 先を促すも、森久保自身わけが分からないのか頭をがりがり掻く。

「三人目の遺体が早く見つかったもんだから、機械兵らも捜査網を敷いてたんだと。案の定、四人目が殺害された時にいいとこまで犯人かもしれない人影を追い詰めたんだ。けど、袋小路で唐突に消えちまった。ガイシャの血痕だけ残して、な」

 まるで幽鬼のようだと烏丸はぶるると身震いする。機械兵の優秀なセンサーから消えるステルス性能、いやそもそも人を遥かに上回る俊足を誇る機械兵から逃げおおせるなんて、そんなの、

「人間じゃない」

 呆然な呟きに、だろう、という顔を見せる森久保。お互いに顔を見合わせ、唸る。

 いつの間にか好奇心をそそられている烏丸である。不快感は何処へやら。考える烏丸に助け船か、森久保は補足する。

「首を刈り取るだけでもすごいんだが、特にやばいのは臓器摘出だ。素人じゃまず無理、そうなると死体解体とか解剖学に通じてる医者とかそこらへんになるんだが、どうも尻尾は掴めないらしい。そもそも犯人は男かもしれないし、まあどっちにしろまともな奴じゃない。なにせ五件も殺人事件をしでかしてやがるのに、目撃情報がそのたった一件しかねえんだから」

 そこで匙を投げた森久保は自分で話したくせに、もうこの話題に興味を失いかけたその時、ぽつりと、

「お兄ちゃん」

「は?」

「…………ん?」

 目を丸くする森久保を鏡写しするように、烏丸も唖然とする。無意識だった。

「今ぼく何か言った?」

「お兄ちゃん、つったぞ」

 烏丸は首を捻り、

「え、嘘? なんでお兄ちゃん?」

「いやそんなの俺が知りてえよ」

 烏丸は首を傾げる。はて、何故急に「お兄ちゃん」なのだろうかと思う。自分は弟であるし、よもや最近どこかでその単語を小耳に挟んだのだろうか。正面で怪訝な顔をしている森久保なんて一顧だにせず、目線を上向けて記憶の箱をひっくり返してみる。またもや最近物忘れが激しいなとしみじみ思いつつ、なんとか思い出そうとして、

 その時、鐘が鳴った。これより後に登校したら大目玉である。

 教室中の誰もがいかにも未練たらたらな感じで席につき始め、森久保も烏丸の謎発言にはさして興味もなかったようで、すぐに後ろ逆さまから前順に座り直す。

 森久保の背中の一点をじっと見つめ、烏丸はひとり思う。

 あの女の子のことである。

「お兄ちゃん」のことを考えていたくせに、その途中でふとあの女の子は一体誰だったのか、と道草を食う。容疑者が若い女性かもしれない、と聞いたせいかもしれない。

 が、仮にそうだったとしてもあの女の子は大人びていたとはいえ、どう見たって二十代には見えない。そもそも烏丸には、あの女の子がそんな残酷で非情な殺人を犯すとはどうしても思えなかった。ただ人並み外れた動きができるというだけで疑うのは早計である――が、まだ何かが頭の片隅でしこりのように残っている。

 何故こんなにもあの女の子にこだわっているのか、烏丸にもよく分からない。

 そもそもあの女の子は存在していたのか。

 虚偽妄言、森久保もそう言っていたではないか。ならば自分は白昼夢か若しくは幻を見ていたことになる。無理はない、なにしろ起こった事柄の全てが荒唐無稽なのだ。実際、何かしらの物的証拠はゼロ。むしろまだ切り裂き権兵衛の方が実在している可能性はずっと高い。屋上から逃げなければ、或いは。

 今日の自分はどこかおかしい、それは烏丸にも分かる。

 しかしどこがどうおかしいのか、それは烏丸には分からない。

 思わず《ガーディン粒子》のせいだろうかと思い立つ。顔が強張る。が、つい一ヶ月前の検査でシロだったのはよく知っている。なら記憶障害なわけではないし、だからこそ自分がどういう風に変なのか烏丸は知識的によく知らない。

 烏丸は苦笑する。堂々巡りだと自分でも思う。屋上で女の子と八度目の組手をしていた時、頭の奥底からもう一人の自分が湧き上がってきた感覚を思い出す。それだ、それこそが夢の原因かもしれない。あれはまさに「どうかしている」やつだ。記憶の混乱は無理でも、それなら幾らでもこじつけられる。不毛な思索に、もう我ながらうんざりしていたところだ。

 だけど。

 それでも。

 屋上の床を躍動する影を、競走馬の尻尾の如く宙を流れる赤髪を、風にはためく目に染みるような外套の赤を、やけに堅苦しい口調を、確信に満ちた声を、警棒の刻む風切り音を、互いの吐息さえ聞こえそうな超至近距離から真っ直ぐに覗き込んできた紅の瞳を、その一切合切を夢の一言で片付けたくない自分がいるのも確かで――

 教室の入り口の引き戸は滑りが悪く、それを強引に引き開けて耳障りな音を立て、目障りな墨谷が入ってくる。やはり担任を差し置いて朝っぱらからやって来やがった。これ以上一瞬足りとも墨谷を視界に入れたくなくて、すぐに目線を窓の外に逃した。窓の向こうには毒々しい青空と空気を焦がす太陽が、底が抜けたような無限の夏で塔京をどこまでも支配している。今になって蝉の鳴き声を喧しく感じる。早朝とは打って変わって、夏の日差しはどこにも影を作らずに校庭を焼いて、陽炎が踊っている。

 墨谷が何かを喋り始めている。耳も貸さない。が、不意に声が途切れたと思えば今度は担任の坂上が何か喋り始めた。墨谷が割り込まれるなんて珍しい、と音だけで状況を把握しながら思う。

「えー、先生が先に言わなかったのが悪かったんだが、後から紹介するのも色々とアレだと思うので、ここは墨谷先生の時間をお借りしまして、」

 すると、教室がざわつく。坂上が何か言っている。転入生を紹介すると来た。珍しい事が続くものだと呑気に思う。視界の隅っこで森久保が烏丸の机をかたかた指で叩いている。何かの遊びかと呆れる。ざわめきが漣のように自分へと近付いてくる。そこで視界の端っこに、見覚えのある赤が閃いた。

 振り向いた。

 真紅の瞳が、石になった烏丸を見下ろしている。いかにも着慣れしていない風に真新しい夏服を着て、烏丸の席の脇に立っている。汚れ一つない未使用感ばりばりの鞄を手に下げて、これから踵を踏み潰されるであろう上履きを履いている。窓から吹き込むそよ風が、赤いポニーテールの一房を靡かせる。女の子の背景にある黒板には、時雨凜――綺麗な達筆でそう書いてある。

 周囲の喧騒などまるで聞こえていなかった。時間の流れが遅い。女の子の固く引き結ばれた唇が、妙にゆっくり動く。

「小生と付き合え」

 その声だけは、はっきりと聞こえた。


       ⑨


 二十年前、大きな戦争があった。

 世界を丸ごと巻き込む大戦だ。瑞穂もまたその戦火から逃れる事は叶わず、海の向こうにある大国を相手取った。最初期こそ戦況は瑞穂の優勢だったが、徐々に劣勢へと追い込まれる。中期に至っては本土にまで火の手が及びつつある程に戦局が激化の一途を辿っていった。

 そして本土の殆どが廃墟と化した戦争の終盤、それは爆発的に広がって瑞穂のみならず世界をも呑み込んだ。

 ある種の精神疾患である。

 瑞穂で初めに理論を提唱した臨床心理学者はこれを《心因性結晶型健忘症》と名付けた。しかし、その内実を鵜呑みにする人間など今ではむしろ探す方が難しい。それ程までにこの学説は、科学的反証に耐え得るものではなかったのだ。その理由は主に二つある。

 一つに、これはあくまで原因を究明するだけで、それ以上の成果を挙げなかったからだ。そもそも心因性の病気は原因を特定するのが困難を極め、様々な要因が複雑に作用し合って発症に至るのが常であり、詰まるところ唯でさえ不確定な「原因」であるというのに、それをさも真実として反証するには土台無茶な話なのだ。

 実際にその科学者は反証のための実験を幾度となく試みたが、結果はどれも芳しくなかった。第一に被験者それぞれの個別な「主観」によって発症する心因性の病気を、「客観的」に観測して尚且つ万人にとって説得力を持つ言説に纏めるのは、少なくともその科学者の力量では不可能だった。

 体温、血圧、脈拍、神経系の異常などの発汗や痙攣、体内にある神経伝達物質の数値変化など、その時々の健康状態で千差万別であるし、数値的にはほぼ同じ条件下で実験をした事もあるが、その時でさえ発症していく様はお世辞にも同系統とは言えなかった。

 要するに辛うじて原因を解明するだけで肝心な原因療法、とまでは言わないまでも姑息的療法すら生み出す事ができなかったのだから、誰からもそっぽを向かれたのは当然と言えよう。

 そしてもう一つ、建設的な理論を物に出来ずにいた科学者に致命打を叩き込んだ主因こそが、生物学者なのにエネルギー関連の塔京研究機関に帰属していたもう一人の科学者による《ガーディン粒子》の発見である。

 心因性結晶型健忘症はその名の通り一種の精神疾患であり、決して感染症でも被曝でもない――そう断定していた人々を絶望させる程度にはガーディン粒子の発見は世間を震撼せしめた。

 基本的には外部被曝を及ぼすが、高濃度の粒子ともなれば内部被曝の危険もある非常に厄介な代物である。発生源は心因性結晶型健忘症の発症者並びに不運にも外部被曝してしまった被曝者で、体表に結晶化が見られたらもはや手遅れであるとされる。

 結晶化、これは即効性結合と遅効性結合に分類される。どちらで結晶化するのか、その必須条件は未だ解明されていない。

 結合しているのは、ガーディン粒子だ。

 漏洩しているのは無論、《記憶》の欠片である。

 短期記憶、長期記憶、エピソード記憶、意味記憶、須らく粒子となって頭の中から外界へ漏れていく。それはまさに青い霧のようで、低濃度であれば日中では殆ど肉眼で確認できず専ら夜間にその存在を認められる。月光に晒されて光り輝く粒子は美しくもあるが、美しい物には棘があるとも云う。もっともこの場合は棘どころか、毒そのものであるが。

 そして臨界点を突破したその瞬間、肉体の結晶化が進行していく。遅効性はともかく、即効性の場合は爆発的な速度で結晶化し、あっという間もなく保有する記憶の殆どを吐き出して蒼い結晶へと成り果てる。

 それはつまり、死を意味している。

 この事からもはや原因療法だの対症療法だの心因性だの、それら全てが不毛な議論になってしまった。目下、ガーディン粒子の発生源である発症者と被曝者への対処を如何にするか、汚染区域の封鎖をどうするかが国家の解決すべき最重要案件となった。

 ガーディン粒子プルームの拡散やホットスポットの拡大は、かの大戦すらも一応の終結へと至らしめ、各国の戦争の勝敗さえうやむやにしてしまった。それは瑞穂も例外ではなく、ガーディン粒子が今日日の死活問題になっている。

 畢竟、以上の二点から一人目の科学者の存在も病気の原因も歴史の残骸となって、今では精々歴史の授業でちろっとその影を垣間見せるだけに留まっている。

 それが良い事なのか悪い事なのか、ぼくには分からない。それでもやはり、忘れてはならないと思う。何故ならば、心因性という原因こそがガーディン粒子問題の根本的解決の鍵を握っているからだ、ぼくはそう思ってやまない。

                ――以上、夏期休暇用レポート全文


 うっかり魂までゲロってしまいそうな程の重いため息を吐く。

 烏丸蓮である。

 結局あの後ざわめきを一喝で収束させた墨谷にほんのちょっぴり感謝しかけたのも束の間、死刑囚よろしく教壇に並ばせる候補者選定を始めたのだが、何故か烏丸まで呼ばれて無罪を主張したものの「内容が浅い」という死刑宣告を受けてごってり油を絞られたのだった。それから他の宿題提出からの始業式での校長のクソ長い自己満論を経て終礼してーの、今なのだ。

 力なく下駄箱の蓋を閉めて靴を放り出して無造作に履き、ついさっき生き埋め状態からよろぼい出た生還者のような足取りで昇降口を出る。今でさえ好奇の視線とひそひそ話に絶賛包囲されている。午前中で終わってしまったので他の帰宅部もやはり帰路に着くわけで、つまり家に帰るまでが地獄の遠足なのである。

 そもそも美人なのが悪いのだ。

 元を辿ればやっぱりそこに行き着く。いや確かに突然の転入生というだけでそこそこの話題性はあるだろう。それでその転入生がよっぽどのハンサムだったとしても、女子が喜ぶ男子が妬むでそれ相応の注目度があるだけ。だがもし、それが目も冴えるような美人だった場合どうなるか。

 男子がもれなく天動説を信じるようになる。

 つまり錯乱する。

 だがしかし、それだけならまだ烏丸には何ら危害はないのだ。それこそ便乗して同志にでもなればいい。そうすれば烏合の衆の仲間入りである。けれど、よりにもよってあの女の子は自分に声をかけてきて、しかも「付き合え」ときた。

 いくらなんでもそれはないと思う。

 せめて学校案内にとか、帰路にとか主語を付けて。それはそれで危険を免れぬ結果になるだろうが、そっちの方がマシだった。なのに、その一言を放ったきり女の子は何事もなかったかのように教室中央最後尾の席に陣取って――それで終わりである。何もない。武田信玄だってもっと身動ぎした筈だ。

 誰かを恨んだところで過去は帳消しにはならない。理性では承知しているが、感情は納得していない。

 だから、ため息くらい吐いたっていいと思う。

 大きくもない高校故に噂が根も葉もなく尾ひれがついて流れたのか、現在進行系で今にも質量を持つのではないかと思われる視線をあちこちから照射されて、それでも烏丸はなけなしの胆力を振り絞って重い足を一歩、また一歩と踏み出してそろそろ校門から脱出すると思って一瞬だけ気を抜き、思わず俯けていた顔を上げ、

 それがいけなかった。

「奇遇だな。お前も今帰りか」

 門柱に軽く寄りかかっていた女の子、時雨は向き直って堂々とそう言った。どう見たって烏丸を待ち受けていたとしか思えない。とにかく機先を制せねば、また強引に振り回されてしまう。

「……っ、どうも。それじゃぼく帰るんで」

「む。では小生もそろそろ帰投するとしよう、日光浴も飽きた」

 こんなクソ暑い日差しの下で日光浴などと、もう少しマシな嘘はなかったのだろうか。あくまでしらばっくれるようだ。ともあれ、いつまでも校門の前に立つ二人は無論周りの下校していく同級生やら二人の関係性は知らないまでもやはり時雨を好奇心も露わに眺めているので、ほんのちょびっとだけ後ろめたい気持ちを引き摺りながらにべもなく歩き出す。

 少しだけガタついている歩道を進んでいると、アスファルトの熱気で歪む空間が異界へと続いているように思えてくる。このまま白昼夢へと没入してしまいそうな――夏空の下は蝉の声を背景にして無性に此処ではない何処かへ行きたいという欲望を掻き立てる。

 額に滲む汗を夏服の袖で拭い、ふと電線に区切られた夏空を見上げ、気配。

 瞬時に周囲の下校している生徒の様子を窺う。さも自然に通学路から外れて、幾つか無駄に角を折れて同級生の目を逃れる。

 ぐっと立ち止まり、ばっと振り返る。

「…………あの」

「む」

 感情が見えないわけではなく、感情は見えても真意が読み取れない赤目が烏丸を見つめている。烏丸を観察する目つきで、しかし昆虫観察ほど淡々としているわけでもなく、かと言って小動物を愛でるそれとも違う。烏丸には分からない。

 そんな困惑を持て余しながら口ごもりつつ、

「……、なにか用、ですか。まさか帰り道が一緒、なんて……」

「先刻言った筈だが」

 首を傾げ、「ああ」と得心がいった。やはり実に誤解を生む言い方である。念のためぐるりと周囲を見回す。昼で学校を終えた小学生組が缶蹴り版の鬼ごっこをして、空き缶が甲高い音を立てながら道を転がっていく。電柱に貼られたポスターの青い霧をバックに機械兵が仁王立ちして「機械兵には視えているぞ」の文字と、馬鹿みたいにジャンプを繰り返してブロック塀からしきりに顔を出す飼い犬と、餌を探してごみ集積所にたむろする野良猫と烏。

「内周区しか案内できないけど、いい?」


       ⑨


 商店街で安い・早い・旨いの三拍子の揚げ物を買い食いし、繁華街の人波を縫うように歩き、百貨店で特に何か買うわけでもなく色々と冷やかしていく。終始間を持たせようと烏丸が珍しく喋り倒すも、時雨は退屈した風でもなかったが「ふむ」だの「ほう」だの時折思い出したように相槌を打つだけだった。塔京に初めて来たような口ぶりだったが、その割には物珍しくきょろきょろするわけでもなく、となるとその腹の中は如何なものだろうかと烏丸はつくづく思った。

 そして気付けば日も暮れ、流石にくたびれて遊歩道に立ち並ぶ街路樹の下のベンチに腰掛けていた。で、「用を足してくる」と男もかくやな素っ気なさを見送って、烏丸はぐったりと背中をベンチに預けながら目の前を疎らに行き交う人々をぼけーっと眺めている。夕日を受けて幾つもの影が長く伸びている。右に行けばこれから賑わっていく歓楽街へと到り、左に行けば商店街や学校などの教育施設を抜けて住宅地へ行き着く。

 いざ無言になると、ふと思う。

 やはり時雨凜は変だ。それとなく探りを入れても腹の底は見えず、分かっている事と云えば登坂高校一年一組の転入生という事、朝の屋上で目にも留まらぬ速さで警棒を振っていた事、その程度である。普通の高校生でないのは分かる、何なら盗み見た横顔は同級生にすら思えないまである、だがそれだけだ。それ以上は何も分からない。

 正体不明、それはどんな素性も自由に当て嵌められるわけだ。ならば切り裂き権兵衛か、しかしそれは無いと既に結論は出ている――そこまで考えて、他にも何かあったような気がする。都市伝説的な、森久保から夏休み前の終業式の一学期最後の終礼中にこそこそと聞かされた筈で、確か

 目に留まる。

 風呂敷を重そうに背負って喘ぐお婆ちゃんである。外周区からやって来たのか、はたまた塔京より外の地方から上京して来たのか、どちらにせよ大変そうである。

「………………」

 頬をぽりぽり掻く。別にお人好しというわけではない、ただ困っている人をみすみす見なかったフリをしたくないだけである。そんな事をしでかす自分を許せそうにないだけだ。

 気付けば声をかけていた。そこからが長かった。息子さんとの待ち合わせのために歓楽街まで荷物を背負って手伝って、しかし結局はお婆さんが伝えてきた場所が間違っていて運良く息子さんとばったり会ったものの、いざ帰ろうとすれば迷子に縋られて一緒に母親を探したり、途中でぐずるから百貨店の饅頭で餌付けしたり、無事に親御さんに見つけてもらってトンボ返りしてみれば今度は道端で痴話喧嘩しているカップルを必死に仲裁したり、こんな時に限って機械兵がうろちょろしていないのだから困る。

 見てみぬフリをすればいいものを。

 傍から見れば烏丸は底抜けのお人好しか、絶対にNoと言えない小心者にしか見えなかった。巻き込まれ体質ここに極まれりである。

 最終的に烏丸はポケットティッシュとか電気街の特売券とか「平穏の科学」とか云う宗教勧誘のパンフレットなど錚々たる物々しい装備を山と抱えていた。やっとこさ元いたベンチにどっさりと装備を置き、一息つこうとして、

 風船である。数ある街路樹の一本に引っかかっている。その下には子供達の姿が見える。辺りを見回すも行き違いか、かなり時間が経ったのに時雨も見当たらない。

 ここまでやったら最後までやってやる。

 妙な意地に突き動かされるまま烏丸は重い腰を上げ、大股で木の下に赴く。

「風船?」

「おにいちゃんだれえ」

「ちょっと暇してる人。風に飛ばされた?」

 イガグリ頭の坊主がうんと頷き、その隣で五歳くらいの女の子が囚われの風船をじっと見上げている。

「ちょいと待ってて」

 いざ幹に手をかけ、ぐっと力を込めて体を持ち上げた瞬間に両手で幹にしがみつく。不格好ながらも木をよじ登り、目と鼻の先で白い風船が風に揺られている。ぐっと手を伸ばし、指をぷるぷる震わせて、指先が風船の紐に触れて――

 ぐるん。

 悲鳴を上げる刹那も与えられず、体が一気に回った遠心力で為す術もなく両手を離して、落下

 がくん。

 しなかった。

 一瞬だけ視界がアップダウンした。紅の瞳が見返している。みっともなく落ちた烏丸をぼすんと受け止めたのは、時雨だ。立場が逆だと思う。それに気付いてかあっと赤面する烏丸を事も無げに降ろすと、時雨は我関せずにひょいと跳んであっさり風船を回収してのけた。嘘のような滞空時間で、高さ三メートルの木から。

 目を丸くする子供達を見下ろし、

「これは誰の物だ」

 この年にして胆力の差が出たのか、じっと風船を見上げていた女の子がちょこちょこ歩み寄ってきた。が。

「ほう、そいつが相棒か」

 女の子は胸に猫のぬいぐるみを抱いている。というより猫だか狸だか分からない造形のやつ。それはガワの布がくたびれて皺も入り、どうやら狸っぽく見えるのは市販の布で破れた箇所を補修したからだ。内や外にいつも連れ回していたのは明らかである。一発で相棒と呼ばれたのは初めてだったのか、女の子は嬉しさと照れの合わさった微笑みを浮かべる。

「ねこたぬきさん、でして」

「名は体を表すか。良い名だ、覚えやすい」

 おもむろに掌を伸ばして女の子の頭を撫で、目線の高さを合わせる。そして風船の紐で大きな輪っかを作り、女の子の手首に引っかけてやる。これなら手が空いてなくても風船を手放す事はない。

 おーい何やってんだー、と声が飛んできた。見れば、通りの向こうで子供達が数人手を振っている。イガグリ坊主がどうもと礼を言ってからいくぞと言い、女の子は二人を見比べてまごついている。時雨が頷くのを見て、女の子は後ろ髪を引かれる顔で駆けて行った。ぱたぱた手を振ってくるのに軽く振り返し、ここに至り初めて烏丸に「らしくないことをするからだ」と苦言を呈する。

「らしくないって……、そうかな?」

「……いや、ある意味らしいかもしれぬ。つい、お前として捉えてしまった」

 どこか感傷的に目を伏せる時雨の真意はどこまでも窺い知れない。何よりも。

「何を言ってるのかよく……」

 頭に疑問符を浮かべる烏丸に対し、時雨は一つに纏めた赤髪を撫で付ける。呆れ顔で一言、 

「お前が女々しいのがいけない」

「なんで!?」

 そういえば森久保にも似たようなことを以前言われたが、女の子相手では雅以来だ。どうしてこうも自分の周りにいる女子は遠慮がないというか、礼儀なんぞ犬も食わんという態度なのか。

 じろりとした目つきに気圧されて視線を彷徨わせていたその時、視界に見覚えのある人影を見つけた。えんじ色のリボンを結わえ、水色の襟に白い夏服で華奢な肢体を包むのは、雅である。中学と高校の違いがあるとはいえ、途中まで通学路が一緒なわけだが今日はどうしてか一人である。珍しいなと思っていると、通りの向こうではたとこちらに気付く。そしてこれまた珍しい事に嬉々とした笑みで、軽やかに人の通りをすいすい抜けてきた。

「初めまして、あたし烏丸雅です。うちの兄がまた何か悪さしちゃったみたいですみません」

「む」

 相変わらず人見知りをしない妹だが、当の時雨は少し面食らう。彼女も別に鉄面皮というわけではないらしい。が、これは流石に兄としてどうにかせねばと思う。

「雅はそんな悪さをする兄の妹になっちゃうんだけど……!」

「え? あたしとへたれ兄、腹違いだから厳密には妹じゃないですけど」

「え嘘?」

「嘘だけど。そんなことより、えーと……」

 雅がわざとらしくじーっと上目遣いで窺うので、時雨は嘆息する。

「時雨だ」

「時雨さんですか。もし時間があればですけどー、お詫びと言ってはなんですが家にすっごい美味しい――」

「悪いが先約がある。それに早めの帰宅を推奨する。最近物騒だからな」

 雅が言い終わるより早くきっぱりと断る。だが雅は気にした風もなく、

「そうですかー。でも大丈夫です、あたしはそこの頼りなーい人の妹じゃないんで、か弱い女でもないし」

「え? 結局どっちなの?」

「それでは失礼する」

「じゃまた今度の機会で、うちの兄がお世話になりましたー」

 短く謝辞して踵を返した時雨の背中が街角に消えて行くまで見送っていた雅は、びっくりするくらいふっと無表情になった。

「あたし帰るから」

「ちょっと待ってよ、結局どうなのさ」

 急に素っ気なくなった妹の変わり様がちょっぴりむかっときて、ベンチに置きっぱなしだった貰い物の数々を胸・ズボンのポケットにぐっと詰め込み、残りは両手で抱えながら足早に隣に並んで強めの語調で問い詰める。いくら美人が好きだからって、あまりに露骨である。

「だからさっき言ったじゃん忘れたんですか、お詫びって」

「……ああ、そうならまどろっこしい言い方しないでよ。もやもやしたじゃん、あと怖いこと言わない」

「冗談も通じないとはつまらない兄ですねー」

「別に面白い必要ないし」

 二人分の足音をアスファルトに響かせて、しょーもない会話をしながら二人は帰路に着いた。

 その中で、雅が意地悪く振ってきた話がある。切り裂き権兵衛とは違う、烏丸が中々思い出せなかったもう二つのとある都市伝説である。

 一つは【陽気な少女の電話】である。ある日電話がかかってきて知らない女の声で、「あなた、陽気な少女って知ってる? それって私なのよ」と言うのだ。それから何度も何度も「すごいでしょ」「信じてないの?」「証拠、見せよっか」などと電話をかけてきて最後は「私よ、今あなたの後ろにいるわ」と云う言葉が電話口と肉声で同時に聞こえるらしい。振り返ったらどうなるか、そこまでは語られないのがみそ。

 一つは【炯眼】である。夜の塔京を暗躍する謎の人影が、心因性結晶型健忘症者の吹き溜まりである廃墟区を駆け、発症者を狩っている。眼の異様な色彩が残光の如く軌跡を引き、標的を視ているからそう呼ばれているんだそうだ。中には外周区で目撃されたという噂もあり、またガーディン粒子を自由自在に操るとも云われ、内周区で機械兵による発症者の捕獲件数が著しく低いのは彼の人影が粒子を操作して廃墟区だけに閉じ込めているからだとか、機械兵よりも早く内周区における発症者を何処かへ誘拐しているからだとも。沈黙の塔で急性被曝させて即効性結合で廃棄しているという眉唾ものの話まであり、終いには死体の頭蓋骨を被っている云々まである。

 ともあれそんな話を聞かされてビビったら雅の思う壺なので、烏丸は努めて「所詮ただの噂でしょ」みたいな顔を終始していた。実際、切り裂き権兵衛と比べればインパクトに欠ける。何でも通う中学校で今そういうのが流行っているらしい。都市伝説なんてどこ吹く風とばかりの体でいたが、「噂っていうのはたった一つの事実に尾ひれがついた情報のことを言うんですよねー」という雅のおどけた声が、嫌に烏丸の耳にいつまでも残っていた。


       ⑨


 その夜、烏丸は不思議な夢を見た。およそこれまでの人生の中で最も奇怪な夢である。

 烏丸は誰かと手を繋いで歩いていた。誰か、と云うのもその相手の顔にモヤが入っていて良く見えないのだ。ただ握っている手が小さいこと、自分よりも背が低いこと、そしてまるで初めて外の世界を目にしたような独特の恐れと不安に満ちた雰囲気を漂わせていることが分かるだけで。あと、見えないくせに相手が辺りを油断なくきょろきょろしていることも直感している。

 西の空には暮れなずむ落陽の朱、東の空には夕闇に忍び寄る星屑の紺。手で繋がった部分は架け橋のようになりながら長い影が東に伸び、電柱のそれと一体となって同化している。数羽の烏が夕陽に向かって帰路に着く。どこぞからカレーの匂いがする。季節は夏、時刻は夕。ひぐらしの声が残照を惜しむように聞こえる。急に夕刻を告げる音楽がサイレンのように鳴って、繋ぐ手がびくっとなる。

 烏丸は声をかける。それはとても優しいものだった。それでも未だびくついている相手に更に言葉を募ろうとし、そこで相手が声を上げる。視線を追えば、そこには竹垣で囲われた公園があった。さして広くもない。半球状のドーム型で幾つか穴が開いて中にトンネルが通っている山、前に鉄柵のある乗り手のいないブランコ、ぽつねんと簡素なすべり台、片方に傾いたままのシーソー、ひと夏がかりで散々に踏みにじられた痕跡を残して崩れかけの山がある砂場、そのどれもが地面に影を刻んでいる。

 誰もいない公園に烏丸は相手の手を引いて入ろうとし、止まる。見れば、アスファルトの路地と公園の地べたとの境目で相手がきゅっと立ち止まっていた。烏丸が何か言う、相変わらず諭すような口調で。それからぐずる子供を相手にするかのように何度も何度も促すと、やがて相手はおっかなびっくりに公園へ足を踏み入れて――


 ぱちり。

 夜である。開いた目蓋は存外に軽く、意外なほど明瞭な視界を占めている天井の木目まではっきり見える。襖の障子越しに月光がほんのり部屋を照らし、薄暗い。どこかで音程のズレた蝉が独りでじわりと鳴いた声が、耳に届いた。特に寝苦しかったわけではないが、何か夢を見ていたような気がするけど肝心の内容は一向に思い出せない。

 とりあえず起き上がる。

「…………?」

 変だ。

 布団が乱れていない。いつも阿呆みたいにしっちゃかめっちゃかになっているくせに、今は驚く程ぴしっとしている。まさか夜な夜な雅がついに痺れを切らして一々整えているわけでもあるまい。ここで珍しく自分の寝相が良かったと考えないのが、我ながら残念に思 

 もぞり。

 驚いた。か細い悲鳴だって上げた。いきなり掛け布団がもぞもぞ動いたと思えば、ぬうと持ち上がり、ずるずると脱げていった。

 少女である。

 ぺたんと女の子座りして、こちらの動揺などお構いなしに片手を口に当てて「ふわぁ」とあくびをする。その手で小さな握り拳を作ると、猫みたいに目元をくしくし擦る。そして、少女と目が合う。日本人形もかくやな切り揃えた前髪の下の、あくびのせいで今も目尻に涙を湛える猫科じみた大きな瞳は、夜のように深い深い紫色だ。

 小柄な見た目からして十を少し過ぎるくらいだと思う。着る、というより着られている薄い襦袢の色は赤で、眠気覚ましを済ませた握り拳をすっと降ろす所作に合わせて力なく垂れたなめらかな袖が畳に広がる。はだけた襦袢から覗く右肩や鎖骨は折れそうなほど華奢で、肌はぞっとするくらい白い。

 誰だろう、とすら考えられない思考停止が烏丸を襲う。

 速る動悸とは裏腹に烏丸は石像になったまま、ただその場で少女を見返すしかない。

 突拍子もない事態だ。雅と共に家路に着いて父の勘助から頼まれ、縁側の軒下でぐーすか大の字で寝ていた襖を叩き起こし、全員揃って卓を囲んで夕餉を食べ、朝から時雨関連で変な目にばかり遭ったものだからその時になって疲労と眠気の波状攻撃にボロ負けて布団に倒れてそれから、

 向かい合う少女のあどけない顔がくしゃりと満面に笑み、見た目不相応に不思議な色気すら感じさせる唇が言の葉を紡ぐ。

「会いたかったよ、お兄ちゃん」

 誰だろう、とようやく思考が回転し始めた。

 いつから同衾どうきんしていたのか。いくら寝付きが良いとはいえ、さすがに気付くだろうと自分でも思う。そんじょそこらで見かける装いではないし、まさか幽霊でもないだろうし、そもそも今何と言ったか。

「…………お兄ちゃんって、ぼくのこと?」

「うん! ずーーっとね、お兄ちゃんのこと待ってたんだよ。だけどね、もう待ちくたびれちゃって。だから蓮華の方から会いに来たの! ほんとはもっとびっくりさせようと思ったんだけど、うとうとしちゃった」

 舌足らずの無邪気な口調でそう一気に捲し立てた少女は、本当に嬉しそうに微笑む。

 自分しかいない筈の寝室で見知らぬ蓮華という少女と面と向かって話している、この状況は一体なんなのか。夏の夜に見た夢、ではない。

 不気味だ。

 把握したくない現実を前にして、混乱する頭の中心で思ったことがそれだった。何かまずい、それも時雨より悪い意味で。言い様のない恐怖は芽生えたら最後、摘み取れない。

 気付けば、口を開いていた。

「あ、ちょっと、僕トイレ」

「うん、じゃあ蓮華も、」

「いや君はここで待ってて! さすがにトイレにまでついてこられるのはその、あれが出ないと言うか」

 自分でもよくもまあここまで舌が回るもんだと頭の片隅で思いながら、冷や汗を拭くのも忘れて尻で後退りながらがくがくの足でふらふらと立ち上がり、障子襖を背にしてぎろぎろの目つきで蓮華を見つめる。目を離したら最後、どうなるか知れたものではない。

 蓮華は目をぱちくりさせて、細い指を顎に当てて唸る。

「んーーわかった。あ、でも、今お外――」

 烏丸は後ろ手に襖を開け、足早に廊下を通って父か兄に助けを求めようと回れ右を

 血。

 視界に閃いた赤が何なのか、初めは分からなかった。眼球をゆっくりと庭先へ動かし、視界の真ん中にはいつも通りの広いだけが取り柄の庭がある筈だった。噴き出した冷や汗が頬を伝って顎を滴り、床にぽたりと落ちる。でこぼこの土が剥き出しの庭は今や少し黒ずんだ赤に染め上がり、月明かりをぬらぬらと映している。血の池だった。烏丸は青褪める。寒気がするような量の血液を止めどなく垂れ流しているのは、吹きさらしにされた三つの死体。

 頭を綺麗に刈り取られ、コルク抜きのような穴が開いて臓器を抜かれて空っぽになった腹に頭が丁寧に押し込まれ、切断された脚は頭があった場所に交差して括り付けられ、脚があった場所には腕二本が絡みつくように捻くれて掌同士が握手し、土蔵の隣にある松並木の一本でオブジェになっている――烏丸雅。

 体中の皮という皮を全て切り取られ、理科室の筋肉を剥き出しにした人体模型さながらにぼさぼさの髪だけを残して、野ざらしにされた周囲を生ハムの如く表皮で彩られた――烏丸襖。

 筋肉だけが取り柄だなんて雅に揶揄され、その筋肉をブロック片にぶつ切りにされてうず高く積まれ、頂上に頭部を置かれてだるま落としになっている――烏丸勘助。

 烏丸の目が泳ぐ。意識が砕けていく感覚。真夏の夜の夢であると信じたい。が、夜風に乗って運ばれて来る臭いは紛れもなく血生臭く、光を失くした山吹色の瞳は見間違えできないくらい妹で。夜空を残酷に映す眼下に嵌まる緑色の目ン玉は兄であり、鮮血で塗れた肉のタワー頂上で虚空を見ている青の双眸は父である。

 ほんの数時間前に食卓で交わした馬鹿らしい夕食の争奪戦を思い出す。烏丸と襖の取り合いを、横で雅が呆れた目で見ていて、勘助は台所で背を向けながら大食いの自分用で賄いを作っていた。いつもの日常がそこにはあった。なのに。

 どうして、こんな。

「どう? びっくりした? お兄ちゃんには昔っからびっくりさせられてたからね、こんくらいやらないとだめかなーって。どうせ無駄なのに暴れるからいまいち綺麗に切れなかったんだよこれが。蓮華、これでも勉強したんだよ? お父さんよりは上手くできたつもりなんだけど、まだまだかな。うーん難しいね、やっぱり。最近いっぱい練習したんだけどなー、今回はお兄ちゃんに褒めてほしくてちょっとあーと? な感じにしてみたんだ。ありさんがね、こーゆう風にした方が見栄えがいいからって」

 薄暗い寝室の真ん中で蓮華は独り佇みながら、図画工作を頑張ったと言わんばかりに胸を張ってにこやかに説明した。紫色の目が怪しく光っているように見えた。

 頭の奥底から飛び立ったもう一人の自分が言う――場所が悪い。

 即応し、裸足のまま庭へ飛び出す。横目で血溜まりと三人の亡骸を見て、歯を食いしばってぎゅっと目を瞑り、止まることなく素通りした。でこぼこの地面に足を取られそうになり、足の裏で小石を踏んづけて刺すような痛みが脳天を突く。それでも走り続ける。夏の夜の生暖かい夜風を切りながら本宅の表に回って、速度を落とさず石畳を駆け抜ける。並ぶ石灯籠の中に焚かれた灯火が真っ直ぐに突っ切る烏丸の影を揺らめかせ、菜種油の燃える甘酸っぱい匂いが鼻につく。背後に気配はないが瓦塀の門までは遠く、転ばないように懸命に足を回転させる。危機も現実も唾液も飲み込めないまま息せき切って走り、走って走った。そして。

 鈴の音がした。月を横切り、月光を一身に浴びて小さな影を石畳に落とし、宙を舞い、曲芸の如く空中で身を翻し、ふわりと降り立った。烏丸の逃走を阻むように、十メートル隔てた正面に。襦袢と似た色の、いつの間にか履いていた朱い高下駄がからんと音を立て、同時にまた鈴の音が凛と響く。ゆったり垂れた袖が着地の風を孕んで膨らみ、やけにゆっくり萎む。二本に結われた長い濡烏の髪が尾のように躍り、月の光を浴びて淡い燐光を放っているように見える。

「鬼ごっこ? なら負けないよ、昔とは違うから」

 小首を傾げる素振りは小動物のように思えるが、今の烏丸にとっては血液を凍えさせるような光景にしか見えない。どう見てもただの人間ではない、それはつまりどう足掻いても逃げ切れないということだ。窮地に追い込まれた烏丸の頭は、不意に冷えていく。屋上の時と似たような感覚に任せて、息が絶え絶えなのも忘れて口火を切る。

「ぼくの妹は雅だけだ、君なんて知らない」

「嘘」

 即答である。蓮華は瞬き一つせずに、無垢な語り口で続ける。

「お兄ちゃんの妹は蓮華だけだよ。あ…………、やっぱりありさんの言った通りなんだ。そっか、そうなんだ。じゃあ今のままだと、お兄ちゃん、もらえないんだ。そういう風にしちゃってるんだよね、からすさんが、ねこさんが。どうして蓮華の邪魔、するのかな? お父さんもお母さんもそうだった。蓮華はお兄ちゃんのおかげでせっかく自由になれたのに、なんで次から次へと」

 そこで言葉が途切れ、唇を悔しそうに噛む。噛みすぎて唇が切れ、白い顔貌に真っ赤な血がつーっと一筋垂れる。首筋を伝って襦袢の襟元に血液が染みるのにも気を留めず、ふっと微笑んだ。

「まあいいや、どうでも。そっちがその気なら蓮華にだって考えがあるよ。ちゃんと作戦、考えてきたんだから。まずはお兄ちゃんの情報凍結、解かなきゃ。だけどここじゃあ邪魔が入っちゃうかも、だから行こ? ちゃんとお家もあの公園も用意してあるの、お兄ちゃんに見てほしいしちょうどいいから、蓮華と一緒に、ね? 大丈夫、蓮華すっごーい技使えるから。すぐに着くよ」

 面妖に光る瞳を曲線にして、嬉々として笑む。表情を変えずに軽快な足取りでにじり寄り、からんからんという高下駄の二本歯の音が烏丸には死への警鐘に聞こえる。なのに今になって膝が笑い、うんともすんともしない。心の中のもう一人の自分も黙りこくり、助言をくれない。どうすればいいのか。逃げられない。ならば戦うか。どうやって。勝てっこない。斬殺死体、綺麗な切断面、鋭利な線、人ならざる者――まさか。

 自分でも遅過ぎると思えるタイミングで、その名を口にする。

「切り裂き、権兵衛……!」

 二人の距離が五メートルまで縮まり、

 夜の気配が濃い空で、真っ黒く見える雲がぼんやりと月を隠す。雲の形として落ちた大きな影が彼方と此方を分かち、

 一陣の風が吹き抜けた。

 疾風の色は、赤。

 急制動の余波で赤の一房がゆらりと靡き、ゆったりと背中に流れた。忽然と姿を現したそれの、闇の只中でさえ鮮烈な色素として映える赤、ただその一点に烏丸の目は射止められていた。それは見覚えのある色。

 生気を失くした声が、口から零れ落ちる。

「……………………時雨、さん……?」

 その時、強い夜風が吹きつけた。瓦塀と同じく家を囲むような木々がざわめく。石灯籠の灯が横殴りに揺れ、烏丸と蓮華の黒髪が波打ち、遥か上空の雲が流れていく。

 満ちた月がのぼる空の下、姿を晒した。

 烏丸は自分で言ったくせに、その発言に疑問を乗せていた。異様、その一言でしか表現できない出で立ちだからだ。

 斜め後ろに影を伸ばすシルエットは、人であって人ではない。闇を塗り固めたかの如き光沢のない漆黒を全身に鎧い、剥き出しの筋肉繊維さながらで焼け爛れたようにくすんだ赤銅色の首筋や四肢の関節部は時折びくびくと蠢動し、フレームを彷彿とさせるガンメタルの骨格や脊椎は月光を氷のように照り返す。溶岩もかくやな凸凹の表面にはでたらめに亀裂が入り、その隙間から微細な欠片状の蒼い粒子がちらつく。胸部に穿孔された穴は酷い火傷じみて、深淵を覗かせる。そして何よりも目を引くのは満月に似て白く丸い、髑髏。

 烏丸の落ちた呟きを拾い上げたのか、ゆらりと振り返る。本来ならば眼球がある筈の眼窩は、ぼんやりと浮かぶような強く妖しい深紅の鬼火を燈している。胎児の頭蓋骨を模したような造形の額には円形の穴が穿たれ、そこから頭頂部にかけて後頭部までが深くぱっくり裂けている。生気など初めから無い真っ白な目元から放射状に伸びている毛細血管の如き筋が、血液じみた深い赫きを夜闇に滲ませる。

「存外、逃げたものだな。未だ《彩雲》は補助に回っていない筈だが、腐ってもヘイ……か。まあよい、定刻通りだ。これより作戦を開始する」

 須らく肉も皮も無いが口は頬までざっくり裂け、音もなく開いた剥き出しの不揃いな乱杭歯の奥にある口腔は真っ暗な空洞で、なのにその声は紛れもなく時雨のもの。灯る石灯籠の火とは明らかに違う、眼窩の内側で燃える異質で不気味な火の玉が眼の如く横長に細まる。

「あなた…………もしかして、けーがん?」

 問いを黙殺する。目を丸くして梟のように首を傾げる蓮華に視線を留め、陽を拒絶する黒色に包まれた左手をおもむろに正面へ突き出す。途端、左黒腕表面で血管さながらに脈動する亀裂から一際多く蒼き粒子が溢れ出し、まるで意思を持っているかのように宙を流れて掌へ集合し、蠢いてそれを形成していき――ばき。

 そして、闇を封じ込めるかの如く黒化。

 黒光りする伸長された警棒が、そこにある。

 その警棒で蓮華を指し示したのは一瞬で、すぐに油断なく切り払う。金属質な音と共に伸び切った警棒を烏丸と蓮華だけが見ていて、その間も髑髏に灯る赤い光は微動だにせず、二人の注意がほんの少しだけ警棒に逸れ、

 足音は、絶無。

 微かな風切り音を聞いた気がした頃には、蓮華の背後に黒い躰があった。月光が疾走の影を浮き彫りにしていたかどうかすら分からない。黒い躰から漏れる蒼い粒子が残像のように散る。人間の動体視力では到底追えない速度域に一瞬のうちに至った漆黒は、最小限にして最高速の動作で警棒の一突きを見舞う、

 それから先の三つの出来事を、烏丸は辛うじて視た。

 先端を跳ね上げ、突きの一閃で精確にうなじを狙う刹那、その無駄のない攻撃が瞬発的に軌道を変え逆回しめいて中止し戻る。

 凄まじい慣性を強引に捻じ伏せ、疾風の如く旋転した。

 回転そのままに宙を泳いだ警棒が、唐突に火花を散らした。

 石畳の砂塵を巻き上げつつ独楽のようになりながら勢いそのままに距離を取った時雨の右手には、半ばから折れて鏡のような断面を晒す警棒がある――否、断絶痕がある。そして切断された警棒の一部はくるくると宙を舞い、意外な程の間を置いてかつんと落ちた。

 咄嗟に警棒で受け、直撃を回避したのだ。その激動を、真っ黒な外殻の背中で乱れた赤髪が証明している。

 直撃を狙った方は、時雨が数秒前まで立っていた場所を未だに眺めていた。高速で背後を取って仕掛けた時雨に対し、その場から全く動かずに迎撃してのけた蓮華はようやくと思える時間差でゆっくりと振り返る。

「人の言う事はちゃんと聞きなさい、ってお母さんに教わらなかったの? 駄目だよ答えなきゃ、蓮華が質問してるのに」

 高下駄が軽く鳴り、鈴の音がする。膝下まである長い黒髪が小さく揺れた。

 視ている。

 五メートル離れた後方に立ち尽くす烏丸を、蓮華は確かに視ている。

 目視される感覚とは別種のそれ。訳も分からずぞっとする烏丸を視ながら、同時に距離を隔てた時雨をも見ている。

「それじゃあ、」

 妙にゆっくりと頭の上まで両手を持ち上げ、十指を小指から順番に曲げていき、襦袢の袖が垂れ幕のように烏丸の視界から遠間の時雨を隠し、

「けーがんのお兄ちゃん、貰うね」

 薄闇の宙には、海月の触手の如く躍る何かが月光を反射して煌めく。

 そこからの一部始終を目撃していた筈なのに、あまりの速度に烏丸の思考は追いつかない。

 僅か一秒にも満たぬ攻勢――十指全てが折り曲がった瞬間、中空に光がちらつく。恰も海中を漂う触手のようだったそれらが途端に生物めいた動きを見せ、今度ははっきりとピアノ線と思える細い細い光で幾筋も爆発的に迸った。そして夜闇の只中でピンと張り詰め、光の糸が蓮華の手元へ集束して握り拳を作ったまま思い切り両腕を振り下ろした時、

 蓮華を中心とした百八〇度に存在する一切合切が端から端まで徹底的に切り刻まれた。

 ここに至り、場の夜気が激動する。尋常ならぬ破壊に対してむしろ遅すぎるタイミングで、石灯籠が、石畳が、瓦塀が、松並木が、無駄にでかい正門が、地面が完膚なきまでに蹂躙された。土塊が弾け飛び、石製の物は拳大の礫となって滅茶苦茶に飛散し、灯っていた火は跡形もなく消え去り、三メートルはある塀は冗談のように瓦礫へと変じ、お化けのようであった木々は細切れになった。数瞬遅れて腹の底を震わす轟音が烏丸の耳を聾する。

 濛々と厚い土煙が立ち込め、斬閃の余波として発生した風圧で一瞬前まで木々だったものが、粉微塵にされた無数の葉と共に夜空へと散っていく。烏丸の視界の隅から隅まで嘘のように風通しが良くなり、表の道路や電柱や近所の家々まですっかり丸見えだ。本来なら塀の上に立たないと見えない筈の、つい最近になって遠くの街外れに新しくできた仏壇屋の広告塔まではっきり見える。

 開けた視界でありながら、今も分厚い土煙に覆われたその場所の何処にも時雨の姿は無い。

 ものの一秒で目につく物全てを切り裂いた蓮華は、烏丸に背を向けたままたった一度の壊滅的な攻勢に比してあっけらかんと呟く。

「なんだ、簡単じゃん。昔はもっと大きくて硬そうに見えたのに」

 恐らく「ね、お兄ちゃんもそう思うでしょ?」と聞こうとして振り返り、

 反応。

 火を恐れる獣の如き即応。すぐさま夜空を仰いだ蓮華につられて烏丸も上向き、そして見た。

 骨にも似て白く冴えた満月を背負う、髑髏を。

 満月を背景とする時雨の右手から再び蒼色の粒子が零れ、右手に持つ警棒に纏わりつき――鏡のような断面を修復・再構築。目測でも軽く二十メートルを超える高度にその身を晒し、一房の赤髪が空中を泳ぐ。そして月光よりもなお明るく光る赤き眼がぎら、と毒々しく獰猛に輝く。まるで呼応するように真っ白な髑髏に走る血じみた筋が一際強く光を湛え、

 右の警棒を全力で投げつけた。腰の捻りも無く踏ん張りようもない空中において、もはやただの投擲では説明のつかない速度で蓮華を狙う。が、

「ありさんに聞いてたより速いね」

 空を裂き回転しながら飛ぶ警棒は、宙を走る光の糸によって当然のように虚空で真っ二つに切断された。一瞬だけ闇を照らす火花でしか顛末を確認しようがない攻防であり、烏丸はただ置物のように傍観するしかない。

 しかし、未だ夜空にある時雨は違う。

 投擲が容易く迎撃された頃には、もう既に暗黒の外殻から瀑布の如く蒼い光の粒子が溢れかえっていた。天と地の狭間には蒼き光芒が惜しげもなく撒き散らされ、それらが余す事なく全てそれぞれ集合・形成・黒化し警棒へと変わる。

 粒子は瞬時に二十八は下らぬ警棒へと姿を変えた。

 そして時雨はありったけの警棒の群れに視線を走らせ、手始めに両手で一本ずつ握り、視認さえ難しい速さで思い切り投げ下ろした。

「疾ッ!」

 把持・投擲、把持・投擲、把持・投擲、把持・投擲、把持・投擲、把持・投擲、把持・投擲 把持・投擲、把持・投擲、把持・投擲、把持・投擲、把持・投擲、把持・投擲、把持・投擲、把持・投擲把持・投擲、把持・投擲、把持・投擲、把持・投擲を手当たり次第に高速で繰り返す。間髪を入れず地上に叩き込まれた警棒は鋼の驟雨となりて、敵に容赦なく殺到する。笛の音のような甲高い音を鳴らし、超高速回転しながら飛来する単独による飽和攻撃は、機械兵ならば最初の一秒で戦闘不能になる過剰攻勢でありながら、実際は一本残らず敵の急所を照準する狙撃に他ならない。

 月光の照り返しでしか警棒の存在を認識できない驚異的な速度で降り注ぎ、蓮華の矮躯を埋め尽くす。 

 が、蓮華はその場から一歩も動かない。ただ再度ゆっくりと両手を上げ――その矮躯を挟む形で扇状に広がった襦袢の袖から一斉に光の糸が奔流の如く飛び出した。何条もの糸のうねりが闇を走り、軟体動物さながらに撓り、瞬く間に巨大な怪物の掌のように広がった。

 無論それらは出鱈目に蠢くわけではなく、その一本一本が警棒の落下軌道、云わば射線上を舐め尽くした。

 火花。

 多量の火花が烏丸の視界を覆い尽くす。中空で弾けまくった強い火花は闇を蹴散らし、光の糸は警棒の弾雨を外科手術のような正確さで切断せしめ、ある一本は鋭角的に、ある一本は横一文字に、ある一本はぶつ切れな鉄屑と化す。相殺に次ぐ相殺。耳をつんざく甲高い音が場を埋め尽くし、標的から逸れた警棒だった物が滝のように落下して続々と地面に突き立ち、或いは蓮華や烏丸の頭上を高く飛び越え石畳に跳ね返って次々と大きな音を立てる。

 そうして弾丸じみた投擲を難なく全て防ぎきった蓮華は止まる事を知らず、宙の警棒を投げ尽くし既に落下している時雨の着地際を狙う。しゅるしゅると蠢く光の糸一本一本が攻守を切り替え、四方八方から時雨を取り囲むべく猛烈に宙を飛ぶ。一呼吸分遅れて昇竜の如く時雨の上を取った糸の塊がさながら滝口に達し、飛瀑じみた怒涛の速度で流れ落ちていく。同時に、悪魔的な速度で蓮華の袖から無数の糸が展開されて網を組み地を覆う。時雨がどの位置にどんな角度でいつ着地しても捕縛できるよう、考え得る予測点を計算し尽くした盤石の戦術である。

 上下前後左右どこにも逃げ場がない時雨は赤髪を躍らせ、未だ破壊の痕跡として立ち込める土煙に落下し、その中で眼窩の鬼火がぼんやりと浮かび、

 閃光。

「わっ」

 不意に何か激烈な光が弾け、烏丸の視界が戻る頃には時雨は蓮華から見て真横数十メートル先にいた。如何なる技を使ったかは分からない。だが、完成された糸の包囲陣の一部が一本一本にほつれているのは分かる。この期に及んで初めて時雨の足が硬質な音を立て、強烈な踏み込みで足元が砕ける。地面に亀裂が走り、次の瞬間には烏丸の目前に現れていた。

 驚く間もない。土煙に紛れたのも束の間、蓮華の正面からくの字に跳んで自分の元に来たのだと烏丸が理解するよりも早く、時雨は軽々と烏丸を抱きかかえて――光が瞬く。

 眩い光が収束し反射的に目を瞑った烏丸が気付く時には、二人は更に斜め後方の塀の傍に移動していた。ごつごつした黒腕から解放された烏丸は松の木の下でへたり込み、濃い影を落とす木陰の冷たい地面の感触で足がひんやりする。その様を確認するまでもなく時雨は駆け出す。最初のただ一歩の踏み込みで時雨の躰は最速へと到達し、

「蓮華、追いかけっこは好きだよ。存分に逃げれば? どうせ無駄だけど」

 閃光も蓮華にとっては一時の目眩まし以上の意味を持たなかった。

 獲物を捕獲し損ねた光の糸を巧みに操作し、振り向き様に再展開。束の間、ぱり、と糸が光を帯びたのを烏丸は見た。空を切る光の糸はまさしく統率のとれた回遊魚の群れに等しいが、その速度は比較するのが馬鹿馬鹿しいほど桁違いである。

 時雨の走る軌道に痕跡として残る蒼の粒子は、そこを続け様に辿る糸の嵐によって呆気なく掻き消される。軌道上の一切合切を微塵に切り刻む怪物的な糸に追い立てられる時雨は、しかし影が滑るような疾駆を一歩たりとも淀ませやしない。むしろ更に加速して家屋を回り込み、当然だが糸は追撃する。

 巻き起こされるのは、圧倒的破壊。

 質量を持った嵐が吹き荒れる。進路上に存在する物全てが木っ端微塵に切り裂かれ、あっという間もなく原型を失っていく。斬撃の余波を受けてカタカタと揺れる瓦屋根はたちまちめくれ上がるように吹き飛ばされて高々と宙を舞い、柱や梁は薙ぎ倒されるが如く切断され、居間の畳や襖や縁側は地面ごと螺旋状に砕かれて見る影もなく、衝撃を受けて軌道上に浮き上がった沓脱石に光の糸が滑り込み、ついでのように凹凸のない断面を晒す。

 ついさっきまで存在していた烏丸邸が、冗談のようにバラけて滅茶苦茶に飛散していく。爆発めいた崩壊による局所的な激震でブレる烏丸の視界に映るものは千切れ飛ぶ雑草であり巻き上がる土塊であり吹き飛ぶ無慮数万の木片であり、烏丸の耳朶を叩くのは数知れぬ瓦のぶつかり合う音であり窓ガラスの破砕音であり食器類などの金物の絶え間なく響く甲高い悲鳴である。

 距離を隔てた烏丸の元にも突風が吹き付ける。思わず目を眇める。押し寄せるそれには、木屑と土の臭いが混ざり合っている。

 一帯は目も開けていられないほどの爆音と土煙に埋め尽くされ、その只中を当然のように突き抜けていく時雨。一房の赤髪を風圧で躍らせるその身には一撃たりとも命中した斬撃はなく、鮮やかな赤の眼光を宙に刻む。月光すら遮る土煙を穿ち、全身に塵と白煙を細く引きながら一息に飛び出す。

 そこに待ち構えていたかのように、前方から幾本もの張り詰めた光の糸が横薙ぎに襲い掛かる。後方からは家屋を悉く崩壊せしめた、恐らく蓮華が展開できる最大数の糸の群れが今なお猛追している。前にも後ろにも引けない。

 ぞっとする相対速度で急速接近し、

 風切る疾駆そのままに躰を仰向けにスライド、いつの間にか右手に形成させていた警棒を逆手に持ち換え、自己の頭上目掛けて柄尻で空を打つ。

 ばちん、と蒼白い光が爆ぜた。崩落した瓦礫が長く濃い影を刻む。

 烏丸が二度見た閃光よりも遥かに強い光が闇を打ち払い、烏丸の視界が真っ白になる。目を瞑るのが遅れた。それから五秒後かはたまた十秒後か、恐る恐る瞼を持ち上げてみたが案の定視界は一段と暗く、上下左右には薄黒い靄がかかった感じだ。まるで貧血を起こしたかのように思わずがくっと頭を垂らす。何とか数回ほど頭を振り、寝起きじみた鈍さで顔を上げてみる。

 時雨と蓮華が闇を隔てて対峙している。その距離は約二十メートル。蓮華がお返しとばかりに石塀をぶち壊す以前と似た構図だが、違う点が二つ。一つはありったけの光の糸を展開させていた蓮華の周囲には目を凝らしてもその煌めきが確認できず、つまり唯一の攻撃手段を一旦収めたという事。もう一つは月の光を背に影を前に伸ばす時雨の頭部、汚れ無き白の髑髏に放射状に入った深紅の筋が今までで最も仄暗い光を滲ませている事。

 二人にとって周辺の物という物は障害物にすらならなかった。

 砕け落ちた瓦礫は未だ濃煙に包まれ、宙を漂う塵は微風に巻かれて踊り、時雨の背後は瓦と木材と岩塊とが一緒くたに地面を覆って初めから石塀など存在していなかったような有様で、蓮華の背後も同様に木造家屋の残骸が山のようになった崩壊痕しかない。

 戦闘が始まってからロクに開いていなかった空っぽの口を動かすのは、時雨。

「やはり磁気か、《彗星》の報告通り大した威力だな。散々殺してきたんだ、流石に手慣れている」

「だから何?」

 ここに至り、初めて蓮華は押し殺したように呟く。ぶらんと下げた両手がめきっと強張る。悪びれる気配もない。が、時雨は落ち着き払った声で構う事なく続ける。

「貴様が大袈裟に仕出かしてくれたせいで、じきに機械兵が殺到して来る。小生としても此処で塔京の奴等と事を構えるつもりはない。……同格の敵との交戦は久方ぶりだったのでな、少々時間はかかったが、」

 眼窩の空洞の奥で揺れる火の玉が、ぎん、と発光した。

「貴様の能力わざはもう見切った。――狩らせてもらうぞ」

 ぞく。

 時雨が構えを取る。流麗、その一言に尽きる信じ難い戦闘態勢。流水のような所作のどこに動きの始点があったか、予備動作が一切無かった。結果として、まるでコマ送りの二コマほど見逃してしまったように烏丸も蓮華も瞠目する。しっかり見えていたのに全く反応できず、ほんの少し遅れて蓮華がぴくりと動く。が、時既に遅し。技の出がかりを気付かせない完璧な立ち上がりのまま、

 警棒を両手でしかと握り、

 右足を引き、半身を晒し、

 腕を高く上げ、矢を引き絞るが如く力を込め、先端を蓮華に照準、

「特攻術、起動。【集束熱線ジェットレイ】――抜刀」


 一閃。


 蒼き雷霆が、きいぃん、と闇を穿つ。蓮華の頭部より一メートルほど右、瞬き一度にも満たぬ一瞬を超高温の線が突き抜けた。蓮華の背後で濛々とする土煙に大穴を開け、行き掛けの駄賃に瓦礫を刹那に消し飛ばし、何ら抵抗なくその向こうの石塀をも溶断し、路地を一直線に貫く。何百メートルも先にある車庫は溶解を通り越して瞬時に蒸発し、正面から射抜かれた車両は爆発。一、二秒ほど遅れて爆発音が烏丸の耳に届いた。

 光が、消失する。後に残されたのは撹拌していく土煙と、そこだけ黒く焼け焦げた石塀と、茫然自失とする兄妹と、そして平静と腕を下ろす時雨だ。

 光が通過した後の空間は、ばりばりと音を立てている。それに伴い、後ろで二本にまとめた腰まで届く蓮華の黒髪が沸き立つように逆立つ。それは、無数の鳥の囁きにも似たスパーク音だった。

 戦闘の気配が失せたのも束の間、時雨が動く。

「フィールド展開、第四態刀刃を形成」

 右手の警棒にピキッと亀裂が走り、濃い蒼が滲み――発光。

 警棒の先端から半分以上が蒼白く光り輝き、燃え上がるように覆い尽くしていく。暴発寸前だった光は次第に指向性を得て、一振りの刃へと形成される。もはや警棒の面影など無い、在るのは柄の先で奔流の如く迸る直前の状態で刃と成った物質の第四態である。

 踏み込む。

 今までのどの踏み込みをも凌駕する速度だった。蹴散らした土塊すら衝撃で吹き飛ばし、音速にさえ迫らんばかりの速度で飛ぶように駆け、

「【電流纏ライデン】ッ!」

 蓮華の猛る叫びに呼応して袖から発射された光の糸が荒ぶる。宙で地で狂うようにもんどり打ち、ありとあらゆる方向から斬撃を仕掛ける。斬撃に比して遅く聞こえる風切り音を烏丸の耳が捉えた頃には、時雨は既に助走をつけて柄ごと刃を振りかぶって投擲していた。

「くっ!?」

 蓮華は咄嗟に攻撃を中止、すんでのところで跳躍。それから一秒と経たずその真下を刃がすっ飛び、操作が緩んだ光の糸が最後の煌めきを残して蒸発した。飛ぶ刃は元烏丸邸の瓦礫の山を溶かして穿孔し、石塀に突き刺さって赤熱化させた次の瞬間には爆発、爆ぜた炎と黒煙が花を咲かせた。生じた爆風と火の粉で烏丸の肌がひりつく。

 それでも牽制目的でそのまま斬撃を食らわせる光の糸を、時雨は右手に新たに形成した奔流の刃を振るって躰も急速回転させた。横倒しの竜巻じみた機動はその躰に糸が滑り込むのを許さず、人間技ではない疾走で糸を振り切り、尚も迫る糸は見切り、直撃する軌道の糸だけを刃で触れたそばから次々と消し去っていく。

 恐るべき事に、無傷。

 時雨は驚異的な速度のまま素早く体勢を立て直し、構う事なく着地。凄まじい慣性で地面も石畳も削りながら五メートル以上も滑り、二つの黒いブレーキ痕を残した。

 そして間髪を入れず、空中にいる蓮華目掛けて更に形成した左の警棒を向ける。刃の代わりに迸るのは、蒼白い【集束熱線ジェットレイ】。

 狙撃。

 強烈で獰猛な雷光を瞬間的に束ね、放つ。

 耳をつんざく甲高い射出音が轟くよりも早く、爆発よりも溶断に特化した小さく細長い雷霆が闇を貫く。眩い一条の閃光は、まさに死線。

「ッ!!」

 蓮華は即断した。光の糸を飛ばして地面に打ち込み、空中に在る躰を無理やり地面に引き戻した。寸毫の差で、蓮華。一瞬前まで蓮華がいた宙を閃光が貫き、それと同時に蓮華は瓦礫の山に叩きつけるように突っ込んだ。

 轟音。もはや墜落と言っていい退避で、瓦礫が砕け飛び粉塵が煙となって立ち込める。後に残ったのは、夜空の彼方に消えた閃光の軌道上で帯電している射撃の余波のみ。

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斯くして彼はフギンとムニンに還る @kyugenshukyu9

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