第三話 ソリテス・パラドックス(干しブドウ理論)

いつものように部活後、コーラとパンを買い哲研の部室へいくと、珍しく先客が居た。

「おお、来たか」

「あら、相澤くんじゃない」

扉を開けた僕を向かい入れたのは、先輩と肥田先生だった。先日写真で見たギャル時代の姿がフラッシュバックする。前髪を真っ直ぐに揃えたおかっぱに、控えめなナチュラルメイクな現在の姿とはかけ離れたイメージだ。

「あなた、野球部じゃなかったかしら?」

「部活が終わったので、遊びに来たんです」

「たかおくんは、未来の哲研部員ですよ」

先輩がすかさずねじ込む。

「あら、それは嬉しい」

肥田先生は目を細めて微笑むと、僕の手を取り強く握った。

「ようこそ、哲学研究会へ! 未来の部長さん」

長い睫毛から覗く黒目がちな瞳に吸い込まれそうになる。じっとこちらと目を合わせたまま目線を外さない。そして、とにかく顔と顔の距離が近い。免疫のないクラスの男子が次々に陥落していった、肥田先生の必殺アイコンタクトだ。

「僕、入ると言ったことはありませんよ」

気恥ずかしくなり、こちらから目線を外してしまう。照れて少し声が上ずってしまった。

「そうなんだ。残念」

そこまで残念そうでもなく、淡々とコメントする先生。

「時間の問題ですよ。先生」

先輩の言葉を無視して、僕はいつもの窓際席に座った。いつもの流れで鞄からゲーム機を取り出そうとし、手を止める。今日は先生がいるのだ。学校にゲーム機を持ってきていることが知られたらおしまいだ。

「部室に先生がいるなんて珍しいですね」

手持無沙汰になった僕は、先生と先輩のどちらともなく話しかける。

「顧問だから、たまには顔を出さなくちゃね」

肥田先生はにこにことしながら僕の目の前に座った。

「相澤君は哲研の部室には良く来るの?」

「そうですね。2ヶ月くらい前から、ちょくちょく来ます」

「野球以外に夢中になれること、見つかりそう?」

「どうですかね……」

僕はどう答えればいいか迷い、なんとなく買ってきたコーラに手を伸ばした。ボトルキャップを開けようと手を掛けた時、キュルルという音が聞こえた。肥田先生の方を見ると、僕が買ってきたパンを見つめてお腹を押さえている。

「聞こえちゃった?」

どうやら先ほどの音はお腹の虫の鳴き声らしい。先生は少し恥ずかしそうに、呟いた。

「食べます?」

「食べる食べる!」

言うや否や、チョコチップメロンパンを取り出す先生。全く遠慮が無い。この距離の詰め方も元ギャルの為せる技なのだろうか。

僕は残りの葡萄パンを取り出すと、舞奈先輩に差し出した。

「先輩もどうぞ」

「私はいらないよ。今はお腹いっぱいだからね」

「僕に気を使わなくて良いですよ。どうぞ」

「いや、本当にお腹いっぱいだから大丈夫」

いつも腹ペコの先輩が珍しい。

「もしかして、葡萄パン嫌いですか?」

「いや、なんなら普通の葡萄より干しブドウの方が好きなくらいだ」

「そうですか。先輩、干しブドウ理論ってご存知ですか?」

「干しブドウ理論? 聞いたことがないな」

理論、という言葉に興味を惹かれたのか、目を見開いてこちらを見つめてくる先輩。日頃は教えを乞うばかりで、こちらから講釈を垂れる機会など中々ない。僕は少し得意になって説明した。

「お腹が限界までいっぱい、もう何も食べられない! という状況でも、あと干しブドウ1粒だけ食べろと言われたら食べられますよね? そして一粒食べたあと、やっぱりもう限界! となっても、また干しブドウ1粒だけなら食べることが出来る。これを繰り返していくと、干しブドウは無限に食べることが出来るのではないかという理論です」

「それ、この前の金曜日にお笑い芸人のラジオで言ってた話よね?」

先生の一言で早くも鼻っ柱を折られてしまった。

「先生も同じラジオ聞いてるんですね……」

「先生はTBS派だから」

チョコチップメロンパンを頬張りながらニッコリと笑う肥田先生。同じラジオのリスナーが近くに居て嬉しい気持ちと、ラジオで得た知識を披露して早々にバラされた恥ずかしい思いが入り混じった、複雑な感情だ。

「それは、ソリテス・パラドックスのような話だね」

先輩は顎に手を当て、何かを考えるようにしながら答えた。

「ソリテス・パラドックス?」

「別名、砂山のパラドックスという理論だよ。ある砂山から砂粒を1粒だけ取り出しても、そこは変わらず砂山だと言える。砂粒1粒程度では何も変わらない。では、どんどん砂粒を取り除いていって最後に残った砂粒1粒は、果たして砂山と言えるのか」

「……『砂山』は膨大な数の砂粒の集積なわけで、最後に残った砂粒1粒は、あくまで砂粒ですよね。『砂山』ではなく」

「では、この砂山はどのタイミングで砂粒になったのかな?」

「うーん、そうですね……」

なるほど、砂粒を『砂粒』として認識出来るレベルの個数だと、『砂山』ではなく、砂粒だよな。しかし、じゃあ何粒から『砂山』なの? と聞かれても困る。『砂山』という言葉に、砂粒の個数が定義付けられているわけではないし。

「『砂山』の定義をどうするか、によると思います」

苦し紛れの回答をしてしまった。しかし、先輩はその回答に満足したようで、大きく頷いた。

「正に、そういうことなんだよ。定義や境界が曖昧なものをどう扱うか、というのがこのソリテス・パラドックスの主題で、この曖昧な部分をどう定義付けるか、そもそも定義付けられるのかというのが争点になる。数学や科学のような分野では、『1000粒以上の砂粒を砂山とする』と決めてしまえば簡単だが、論理学や哲学の世界ではそうもいかない。特に人の信条や宗教が絡んでくる場面ではね。だからその都度話し合って答えを決める、弁護士や裁判官という職業が必要になる」

「なるほど。先輩が言う砂山のパラドックスはなんとなく分かりました。でも、僕が言った干しブドウ理論とはちょっと違うんじゃないですか?」

「そんなことはない。人それぞれお腹いっぱいの定義は違うということだ」

そういうこと、なのか? なんか微妙に内容が違うというか、似て非なるもののように感じるけど。

納得がいかないまま少し考えていると、グゥ~ という重低音が先輩の方から響いた。先輩を見ると、お腹を押さえ、恥ずかしいのか目線が泳いでいる。

「なんだ先輩、お腹空いているんじゃないですか」

「違う、これは、違うから! お腹いっぱいだから! 私の定義ではこれでお腹いっぱいだから」

「なんか、ダイエット始めたみたいでお昼も食べてないらしいよ~」

チョコチップメロンパンを食べ終えた先生が、先輩用に買ってきたコーラを勝手に飲みながらニヤニヤと僕に教えてくれた。

「先輩、別に太ってないですし、気にしなくて大丈夫ですよ」

「いや、お腹とかお尻とか、本当にヤバいから!」

恥ずかしさで右手で目を隠し、耳を真っ赤にしている先輩。目の隠し方が、夜の店のそれっぽい。

「あぁ~……」

遂にはその場にしゃがみ込んで、両手で顔を覆ってしまった。

「せめて、もう少し可愛い音でお腹が鳴ってほしかった……」


恥ずかしかったの、そこなんだ。


          ◇            ◇       


「この前のメロンパンとメンチカツのコンボが、良くなかったのだと思う」

長く伸びる二人の影を見つめながら、先輩が呟く。寂れ始めた商店街にポツリポツリといる買い物客とすれ違いながら、僕たちは駅へ向かっていた。

「たかおくんが部室に来るようになってから、気が緩んでしまっていたんだな。好きなものを好きなタイミングで食べることが当たり前になってしまった」

「だからって、いきなり食べなくなることも、身体に悪いですよ」

「身体に悪いかどうかじゃない。体重に悪いかどうかで判断しているんだよ。今は」

「それにしても朝の1食しか食べていないのはやりすぎですよ」

「これから帰ったら食べるよ。学校を含め、家以外の場所では水しか摂取しない。これが私のダイエット法だ」

「極端だなぁ」

いつもの肉屋が近づいてきて、揚げ物の匂いが漂ってくる。

「ここが正念場だぞ、私」

先輩は目をギュッと瞑り、僕が引く自転車のサドルに手を掛けた。

「私は今何も見えない。たかおくん、私を導いてくれ!」

「そんな赤い彗星みたいなこと言われても……」

先輩が転ばないよう、ゆっくりと歩く。肉屋の正面を通り過ぎようとしたその時、

「たかちゃんっ」

後ろから聞き覚えのある声がした。振り返ると、矢筒を担いだ愛川さんが立っていた。

「やぁ愛川さん。今帰り?」

「岬でいいよっ」

愛川さんは目をキラキラさせながら、両手の人差し指で肉屋を指差した。

「たかちゃん、あれあれっ。この前誘ってくれるって言ってたメンチカツ屋さんっ」

「メンチカツ屋さんじゃなくて、お肉屋さんだけどね」

そして僕からは一言も誘っていない。

「ずいぶん親しげだけど。たかおくん、この方は?」

突然の愛川さん登場に、先輩が僕へ紹介を求める。心なしか、声が怖い。

「この子は、」

「愛川岬ですっ!」

僕が紹介しようとすると、愛川さんは元気よく自己紹介した。体育会系の部活だけあって、上級生に礼儀が正しい。

「たかちゃんとは同じクラスですっ」

「音楽の選択授業だけね」

愛川さんと僕は隣のクラスだ。

「……私は哲研の足立舞奈です。たかおくんとは小さい頃からの幼馴染なんだ」

先輩はなぜか誇らしげに答えた。

「足立先輩、せっかくですから一緒にメンチカツ食べませんかっ? たかちゃんに食べようって誘われてるんですっ」

「僕は誘ってないけどね」

「私は今お腹がいっぱいだから、大丈夫」

「そうなんですかっ。じゃあ、たかちゃん食べよっ。2つ買ってきてっ」

「いや、僕もそんなにお腹減ってないんだけど……」

「じゃあ今日は私のおごりっ!」

そう言って160円を僕の手にギュッと握らせてくる愛川さん。

別にお金が無いわけではないが、これ以上は断り切れそうにないので、愛川さんに言われるまま僕はメンチカツを2つ買い、片方を愛川さんに手渡した。ぐいぐい来る美人は、なんというか圧がすごい。ここで断っても、最後には屈服してしまうだろうという凄みがある。

愛川さんはサクリとメンチカツを齧ると、目をギュッと閉じて

「んん~っ!」

と足をバタバタさせた。全身で美味しさを表現しているようだ。

「美味しぃ~っ」

カツの油で唇をほんのり艶やかにしながらニッコリと喜ぶ愛川さん。見ているこっちまで幸せになってくる笑顔だ。

「随分鼻の下を伸ばしているね、たかおくん」

先輩が冷たい目でこちらを見ている。どうもあまり機嫌が良くないらしい。

「もう1個たべちゃおうかなっ。これは何個でも食べれちゃうよーっ」

ペロリと平らげてしまった愛川さんは、早くも追加購入をしようと財布を出し始めた。

「メンチカツは予想以上にカロリーが高いから、その場のノリで食べ過ぎると後悔するよ」

僕は先輩を見ながら愛川さんに言った。正に後悔している人物がここに一人。先輩はバツが悪そうに目線を逸らす。

「大丈夫っ。私顔から痩せて胸から太るタイプなのっ」

笑顔を崩さず、あっけらかんと言い放つ愛川さん。対象的に、先輩の周りの空気が冷たくなっていくのを僕は感じた。

「あっ、でもっ、これ以上胸が大きくなると弓が弾きにくくなって困るかもっ」

自分の胸に手を当ててエヘヘとはにかむ愛川さん。先輩が人を刺しそうな目で愛川さんを睨みつける。

「たかおくん、私は先に帰るよ」

先輩は低い声で呟くと、愛川さんが2個目のメンチカツを買いに行っている隙に一人歩き出し始めてしまった。

「待ってください先輩」

「止めてくれるな、たかおくん。これ以上この場に居たら、殺してでもメンチカツ奪いたくなっちゃうから」

殺人一家に生まれた3男坊のようなことを言いながら、トボトボと歩いて行ってしまった。

「足立先輩、帰っちゃったのっ?」

「なんか、用事があるみたい」

「もっとお話ししたかったなっ。たかちゃんっ、今度哲研の部室に連れてって」

「え、あぁ、うん」

なんとなく、これから波乱が起こりそうだなと感じながら、僕はすっかり冷めたメンチカツを1口頬張った。

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てっけん トシロー @toshi_low

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