第二話 テセウスの船

「相澤くん、今から帰りっ?」

いつも通り部活を終え文化部部室棟に向かっていると、愛川岬さんが声を掛けてきた。

「やぁ、愛川さん」

「岬でいいよっ」

愛川さんは長い髪を揺らし、ニッコリと答えた。クォーターと噂の通り、なるほど同じ日本人とは思えないほど透き通った白い肌だ。クラスの男子にイチコロスマイルと言われているのが良くわかる。

「もう部活は終わったのっ?」

「うん。僕は簡単な練習だけだから」

「じゃあ、今から一緒に帰らないっ? 近くに美味しいメンチカツ売ってるお肉屋さんがあるらしいんだけど、女子一人だと買い辛くて」

困り顔で口を尖らせる愛川さん。庇護欲を掻き立てられてしまう。舞奈先輩とは対照的だ。

「いや、僕はこれから部室棟に行く用事があるから」

「相澤くん、文化部兼務してたのっ!?」

今度は目を丸くして驚く愛川さん。美少女がくるくると表情を変えるのは見ていて飽きない。

「知り合いの部に顔を出すだけだよ」

「……そっか。 じゃ、また今度誘ってねっ」

誘われたのは僕なのに、いつの間にか今度こちらが誘うことになってしまっている。

「分かった。こっちから誘うよ。またね愛川さん」

「岬でいいよっ」

「じゃあ、僕のこともたかおでいいよ」

「じゃあね、たかちゃんっ」

「……またね、岬さん」

たかおで良いとは言ったが、たかちゃんを許したつもりは全くなかった。


          ◇            ◇       


「おぉ、来たか」

いつも通り2階で飲み物と食料を調達し哲研の部室へ入ると、先輩が分厚いアルバムを眺めていた。

「何です、それ?」

「これは、哲研誌だ」

「てっけんし?」

「そうだ。創設から今までの哲研の歴史がまとめられている。」

「へー」

先輩の横からアルバムを覗き込むと、キラキラした学園生活を絵に描いたような写真がいくつも掲載されていた。海水浴ではしゃぐ男女、浴衣を着て花火をバックにポーズを決める男女、ホールケーキをみんなで囲みピースサインをする男女……。女子は一様にギャルっぽく、男子は一様に短髪色黒で上裸だった。

「これ、なんの写真ですか?」

「哲研誌なんだから、もちろん哲研の写真だ。ここに写っているのは皆卒業した先輩方だな」

「えー!」

ちょっと、今と違いすぎないか?

「これ、どうみても哲学研究って感じじゃないですよ! なんというか、スクールカースト上位というか、パリピ集団というか。だって海水浴とか行ってますよ!?」

「哲学研究する人だって、海には行くだろう?」

「それはそうですけど……」

なんと言うか、哲学というイメージと離れすぎていて受け付けない。

「この先輩方は、我が哲研を創設したメンバーだ」

「そうなんですか?」

それにしては、写真の画質も映っているファッションも、そんなに古いものには見えない。

「哲研って、創立してどれくらい経つんですか?」

「今年で創立7年目だ」

「歴史浅っ!」

衝撃的な事実だ。少なくとも僕の記憶では、入学してから哲研には先輩しかいない。衰退が早すぎる。既に廃部の危機なのに、創設時はこんなにもキラキラした部活だったのか。

「たかおくんは、テセウスの船を知っているか?」

「テセウスの船? 聞いたことないですね」

先輩は僕の言葉にニヤリと微笑む。

「テセウスの船とは、そのもののアイデンティティがどこにあるのかと言うのを考える時の思考実験だ。ギリシャ神話の中で、テセウスという英雄が乗っていた船を人々は長きに渡り保存した。当然船を形作る木材は時と共に腐っていくので、腐った部品を新しい木材に替えて保存をしていたわけだ。そうすると、ある時点で全ての部品が新しい木材に置き換わってしまう。この時、そこに保管されているのは果たしてテセウスの船なのか? という疑問が残る。当時のまま残るものは何一つないのだから、何を以てテセウスの船と言うのか。もしそれがテセウスの船だというのであれば、そのアイデンティティはどこにあるのか」

なるほど。確かに、全ての木材が入れ替わっていれば、それは当時の船と同じであるとは言えないのかもしれない。

「でも、それは修理を繰り返してきたのだからテセウスの船でいいんじゃないですか? 日本のお城とかも火事で燃えてるけど、同じ名前で作り直してますよね」

「興味深いな。たかおくんはそう考えるのか」

先輩は少し頷くと、またニヤリと口角を上げ、僕に言った。

「では、こういうのはどうだろう。交換した古い木材を集めて、なんとか新しい船を組み上げたとする。形も素材も、テセウスが乗ってきた船とそっくり同じだ。この時、テセウスの船は新しい木材で出来た方と、今組み上げた方、どちらになると思う?」

「それは……」

答えに窮してしまった。難しい問題だ。

「どっちも、ってことにはなりませんかね」

「そうなるとテセウスの船は無限に作れることになってしまうぞ」

「それもそうですね」

うーん、難しい思考実験だ。確かに、答えがあるようで、無いような気もする。アイデンティティがどこにあるのか、か。考えたこともなかったな。

「なんとなく、その場で自分がこちらだと思った方を選ぶと思います。中学の時に修学旅行でみた金閣寺も1950年に全焼したと書かれていましたが、今の金閣寺が偽物だとは思わないし。実は昔燃え残っていた木材があったとして、それで隣に新たな金閣寺を建てたとしても、今の金閣寺は金閣寺だと思うというか」

「たかおくんは面白い回答をするね」

先輩は僕の答えが気に入ったのか、ニコリと微笑むとコーラを一口飲んで、「この問題に明確な答えはないよ」と続けた。

「哲研も同じさ。昔の哲研とはメンバーも、おそらく活動内容も異なるけど、哲研は哲研だ。そんな曖昧な回答でも、私は良いと思う」

そう言って、写真の中の人物を指さした。

「この人が誰か分かるかい?」

先輩が指さした人物は、水着姿でピースを決める一人の女性だった。茶色く染めた巻き髪をアップに束ねて、舌を出しながら表情を決めている。胸の凹凸が分かりにくい、ひらひらした素材の水着を纏っていた。周りで映る人と比べ、一際細身だ。スタイルが良いとは言えず、むしろ健康状態が心配になる華奢さだった。

「全然分かりません」

「この方は私の担任の肥田先生だ」

「えっ!」

肥田美佳子先生は、僕のクラスでも国語の授業を受け持つ先生だ。学校では珍しい若い女性の先生で、男子生徒の人気も高い。だが、僕が持つ肥田先生のイメージとは似ても似つかなかった。写真の女性とは真逆の、黒髪おかっぱで清楚なイメージだ。ぽっちゃりとまでは言わないが、ムチムチしているというか、グラマラスな体型をしている。ギャルっぽいイメージとは結び付かない。

「今と全然違うじゃないですか!?」

「体型も違うし、この写真からは5年以上経っているから体細胞もほとんど入れ替わっているだろう。だけど、この写真の人物と肥田先生は同じ人だ。正にテセウスの船だね」

「いやー……」

あまり知られたくないであろう先生の過去を覗き見してしまったようで、少し申し訳ない気持ちになってくる。クラスの男子に言ったら驚くだろうな。

「この写真を見たことは、くれぐれも内密にな」

僕の心を見透かしたのか、先輩はアルバムを勢いよく閉じるとチクリと釘を刺した。


          ◇            ◇       


「私を哲研に誘ってくれたのは、外ならぬ肥田先生だったんだ」

帰り道。まだまだ沈みそうにない夕日はじりじりと僕らを焼き付ける中、先輩が口を開いた。

「先生は大学を出て母校に戻ってきた時、自分の創設した部活が早くも無くなろうとしていたのが悲しかったのかもしれない。哲学の面白さを私に教えてくれたのも、先生だ」

「先輩、中学まで運動部でしたもんね」

「この学校の運動部は、どれもスパルタ過ぎるよ。それに私は身長がないからダメだ。中学生まではなんとかなったが、高校生になると体格の差は覆せない」

「そうですね」

残酷だが、それは真理だ。高校スポーツは努力でどうにもならないところはある。体格はその中でも最たるものだ。入部して顧問が最初に見るのは身長と骨格だ。その時点で振り分けが行われ、ほんの一握りの卓越した技術があるもの以外はレギュラー候補から外される。僕はそんな場面を何度も見てきた。

「私、先生には感謝しているんだ。高校生活の中で、自分なりに探求していけるものを見つけられたから」

先輩は昔のように上目遣いでニコリと僕に微笑んだ。学校を出ると、先輩後輩の関係から近所のお姉さんに自然と感覚が戻っていく。僕が感じているだけなのだろうか。先輩――舞奈ちゃんも同じ気持ちでいるのだろうか。

「たかおくん、哲学の定義は分かるかい?」

「定義ですか。何だろう。禅問答のような、答えが出ないことを真剣に考えるような、そんなイメージはありますけど」

「それも哲学の一側面だね。哲学というのは、単純に知を探求することを指すんだ。直訳すると“愛智”となる。どのような学問であっても、そこで知を探求することは哲学なんだ。この前話した無限猿の定理も、今日話したテセウスの船も、広義で捉えれば哲学の一種ということになる」

いつの間にか僕たちは商店街を抜け、駅の前まで辿り着いていた。先輩はポケットから定期券を出すと、改札の前で僕に振り向く。

「私はたかおくんが哲研に入るのを、いつでも待っているよ。一緒に知の探求をしていこう」

「……また部室に顔出しますよ」

先輩は僕に手を振ると、改札の中へ消えていった。

僕は汗でじっとりと湿った手のひらをシャツで拭うと、押していた自転車に乗り家路に着いた。

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