てっけん

トシロー

第一話 無限猿の定理

 放課後部活動を終えた僕は、文化部が集まる部室棟へ向かった。

 アメフト部やウェイトリフティング部が集う1階ジム、シャワー室を兼ね備える2階更衣室を見ると、「文化部が集まる部室棟」という表現は不適切なのかもしれない。浸食されているのだ。スクールカースト上位勢に。

 僕は更衣室入り口に設置されている自販機でプロテインバーと菓子パン、コーラを2つずつ買うと3階に足を踏み入れた。今までの明るい照明が嘘のように、フロア全体が暗い。一面に扉がずらりと並ぶ中を、僕は奥へと進んでいった。扉にはそれぞれの部活動名が掲げられている。

「先輩、いるかな」

 一番奥の『哲研てっけん』と書かれている扉の前で立ち止まり、ノックを2回。返事は無かったが、カタカタとキーボードを叩く音が聞こえた。

「失礼します」

 一応、一言断りを入れドアノブに手をかける。

 扉を開けると、目隠しをしながら一心不乱にキーボードを叩く舞奈まいな先輩が居た。

「おお、来たか」

 舞奈先輩はキーボードを叩く手を休めることなく、目隠しをしたまま僕の方を振り向いた。

「すまないが今実験中でね。適当にそこら辺で休んでいてくれ」

 そういうと、またパソコンの方へ向き直り、一心不乱にキーボードを打ち込み続ける。

 またよく分からない実験をしているのだろう。僕は特に質問をすることもなく、いつも通り窓際の席に腰掛けると鞄の中からゲーム機を取り出した。電源を入れ、起動している最中に素早く菓子パンの袋を開け、一齧りする。

「たかおくん。その音は新しいゲームかね?」

 音に気付いた先輩が声を掛けてきた。

「マイティアクションXっていう、何年か前に流行ってたアクションゲームです。安かったので、この前買ってきたんですよ」

「そうか」

 それだけ言うと、また黙ってキーボードを打つ作業に戻る。僕のゲーム音と先輩の打鍵音だけが部屋に響いた。

 しばらくして、先輩がまた口を開く。

「たかおくん。今日は、何のパンを買ってきたんだ」

「メロンパンですね」

「そうか」

 また沈黙。カタカタと規則的に無機質な音が聞こえる。心なしか、先ほどより強めにキーを叩いているように感じる。やはり今日も、こちらから切り出さないといけないのだろうか。

 僕はため息をつくと、ゲームの電源を落とした。

「先輩が今やっている実験というのは、何をしてるんですか?」

「気になるか!」

 ガタッと立ち上がり、目隠しを外して僕を見つめる先輩。長い前髪の隙間から、黒目がちな瞳がキラキラと覗く。

 最初から語りたくて仕方がなかったのだ。この人は。しかし、自分から語ることはない。誘い受けタイプだ。おかげで、いつも知りたがりな僕に仕方なく先輩が教えるという構図が出来上がってしまう。

「これは“無限猿むげんさるの定理”というものの実験だ」

「無限猿の定理?」

「そうだ」

 先輩は僕の隣の席に腰掛けると、僕が買ってきたコーラを開けて一口飲み、言葉を続けた。

「無限猿の定理とは、どれだけ確率が低い事象も、膨大な試行回数を繰り返せば必ず起こりうるという確率論の解釈だ。猿にタイプライターを叩かせれば、いつかはシェイクスピアの戯曲を打ち出すと例えられ、このように呼ばれている」

「猿が、シェイクスピアですか」

「その目、どうやら信じていないようだな」

 先輩は僕の買ってきたプロテインバーを齧ると、ニヤリと笑った。

「例えば、サイコロを2個振ってどちらも1になる可能性は36分の1。約2.8%だ。これは分かるな?」

「当たり前じゃないですか。馬鹿にしないでくださいよ」

 6面ある内の1つが出る確率が6分の1。2個同時であれば、6分の1掛ける6分の1で、36分の1だ。小学生で習う分数の掛け算だ。

「じゃあ、サイコロを10個同時に振って全て1になる確率は分かるか?」

「パッと計算出来ませんけど、ものすごい低い確率だということは分かります」

「約0.000002%だ」

 すごいドヤ顔でこちらを見てきた。暗算など出来るはずもないし、おそらく予めこういう話をしようと覚えてきたのだろう。

「はぁ。凄いですね」

「……むー」

 適当に応えたのを見透かされたのか、露骨にむくれる先輩。目を合わせず、ボリボリとプロテインバーを両頬に溜めながら黙ってしまった。相変わらず、子供のような人だ。

「いやぁ、本当にすごい! 僕そんなに早く暗算出来ませんよ。やっぱり哲学が好きな人は頭の回転が違うなー」

 さりげなく哲学好き全体を褒めつつ、先輩の頭の良さを称える。先輩はプロテインバーでパサパサになったであろう口にコーラを流し込み、またニヤリと口角を上げた。

「まぁね」

 すごくチョロい。先輩の今後が心配になるが、取りあえずは機嫌が治ったようで良かった。ちなみに、サイコロ11個の確率は? と意地悪な質問をしてみたいと加虐心が芽生えたが、ぐっと堪える。これでまた黙られてしまったら大変だ。

「先ほどのサイコロ10個で同時に1を出すのは、ものすごい低い確率だというのは分かるだろう。でも、確率はゼロじゃない。つまり、何万何億何兆回か繰り返せば、必ずいつかは全て1が揃う瞬間が来るということだ。猿がタイプライターを打つのも同じ理屈さ。膨大な、途方もない試行回数があれば、いつかシェイクスピアの戯曲ぎきょくだって打つことができるという例えが無限猿の定理なんだ」

「なるほど」

「ちなみに、実際猿にキーボードを打たせる実験が2003年に行われたそうだぞ」

「え、そうなんですか!?」

 そんな無謀なことをする人が世の中にはいるのか。

「流石にシェイクスピアの戯曲は長すぎるが、何か意味のある言葉を打つのではないかと期待されてな」

「実験の結果は、どうだったんですか」

「意味のある言葉は生まれなかったらしい。それどころか、実験で打たれたほとんどの文字が“S”だったそうだ」

「それって、逆にすごい確率なんじゃないですか?」

「そういうことではないよ。要するに、猿も人間と同じ、思考や好みがありタイピングをしたということだ。何かしらの意図が働いている以上、完全な乱数ではない。その時点で確率論として、この理論は破綻しているのさ。我々人間が、ワードのシートを“S”で埋めるのはたやすいだろう?」

 確かに。ただSのキーを押し続ければ良いだけだ。確率でもなんでもない。そこに自分の意思が働いている。猿も同じということか。

「それで、先輩がさっきやっていた実験っていうのは……」

「うん。実際にキーボードをランダムに打ってみた」

「……何時間くらいやってたんですか?」

「今が17時半だから、1時間くらいかな。流石に指が疲れたよ」

 僕が来る前から、一人で目隠しをしてキーボードを打っていたというのか。この人、アホだ。

「さぁ、実験結果を見てみよう! もしかしたらシェイクスピアの一節くらい、打ち出されているかもしれないぞ」

 先輩はそういって勢いよく立ち上がると、パソコンの方へ向かっていった。僕もコーラを片手に先輩に続く。

「何か意味のある言葉は出来ているかなぁ」

 先輩の後頭部越しに画面を覗くと、ワードシートの中に大量のアルファベットが並んでいた。先輩が画面をスクロールしていくと、途中で気になるフレーズを発見する。

「先輩、ちょっとストップ」

「ん、なんだ?」

 アルファベットの無作為な配列の中に“たか、すき”の5文字が見て取れる。

「ここに“たか、すき”って書いてありますよね」

 途端、先輩の顔が耳まで真っ赤になる。

「こ、ここ、これはたまたま! ただの偶然だから! 確率はゼロではないし、シェイクスピアだって猿が打つかもしれないわけだしっ!」

「でも、自分の意図が働いて内容に偏りが出るんでしたよね?」

「そ、それは」

 先輩は益々顔を紅くさせながら、口をぱくぱくさせて目を潤ませている。小動物のような人だ。普段は冷静を装っているが、メッキが剥がれると脆い。そして、そのメッキが恐ろしく薄い。

「僕も、先輩のこと好きですよ」

 ハッと先輩の表情が固まり、動きが止まった。

「……大人をからかうのは、止めなさい」

 喉の奥から振り絞るような声とは裏腹に、先輩の表情はにやけきっていた。


          ◇            ◇       


「すっかり陽も長くなったなー」

 チャイムに背中を押されながら校門を出ると、18時を過ぎたにも関わらず外は明るかった。

 長い前髪をヘアピンで留めた先輩に並んで、自転車を押しながら商店街を歩く。近くの肉屋からは我々学生をターゲットにしているとしか思えない匂いが漂ってきており、メンチカツ80円、牛肉コロッケ50円の表示を見ないよう、目を逸らす。

「たまには食べていくか」

「さっきメロンパン食べましたよ、先輩」

「メロンパンとメンチカツは別腹だろう?」

「どちらも同じ腹に入る、カロリーモンスターですよ」

「モンスターなら討伐してやらないとな!」

 先輩は財布を出すと、メンチカツを2つ買い、一つを僕の方へ寄越した。

「自転車引きながら食べられませんよ」

「なら自転車を止めれば良いだろう? もう制限する必要はないんだから。好きなものは好きな時に食べるべきだ」

「……そうですね」

 先輩に促され、自転車を道の端へ止める。

 受け取ったメンチカツを一口食べると、口いっぱいに熱々の肉汁が飛びだした。

「野球、もう行かなくていいんじゃないか?」

 先輩が上目遣いで僕の表情を伺いながら、口にした。あまり踏み込んではいけない話題なんだと、自分でも分かっているのだ。

「まぁ、まだ部員ですし」

「でも、辛いだろう?」

「入学した時、卒業まで続けるって決めたので」

「……そうか」

 先輩はそういって口をつぐむと、握ったメンチカツをじっと見つめた。

 この人はいつもそうだ。自分が悪いわけではないのに、優しすぎて、思い詰めてしまう。

「哲研に入らないか? たかおくんの役に、私は立ちたい」

「……舞奈ちゃんは優しいね」

 子供の頃から変わらない。身体のサイズは逆転してしまったけど、舞奈ちゃんは近所のお姉さんのままなのだ。

「え?」

「なんでもないです」

 僕は少しだけ冷めたメンチカツを頬張ると、残りのコーラを鞄から取り出し、喉の奥へ一緒に流し込んだ。

「また部室遊びに行きますよ。先輩」

「……ん」

 先輩は小さな口でメンチカツに齧り付きながら応えた。

 サクサクと小気味のいい音を聞きながら、僕は少しずつ伸びていく影をぼんやり眺めていた。

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