第3章 愛する姫よ旧式の


     1



――「だったら何が欲しいわけ? 僕?」

 それはないだろう。自分でも言ってておかしいと思った。

(『香嗅厄祕ファニチェア』より)


 *


「あなたの存在を知ったとき」真っ暗の部屋に入るなり女の声がした。「わたくしは驚愕しましたのよ? 確かにわたくしにもスペアはいますので、存在自体に疑問はありませんわ。ええ、あの方が唯一の存在だと思ってしまったことが、わたくしの思考を妨げていたと言うほかありませんわね。端的に申し上げて、あなたが死ねばよかったのに、と」

 独り言なのか、相槌を求めているのか。

 武天タケソラは。

 何も云わずに跪いた。

「お顔を隠してという言いつけは守っていただいているようですけれど」女の声が続く。「眼障りですの。わたくしの視界に入らないでいただきたいものですわ」

 武天は何の反論もしない。

 マンションを出立して、このホテルに移動するまでの車内で、注意事項の確認は済んでいる。

 これから会う人が、何を言ったとしても一切の反論をすることを禁ず。

「何のために呼んだのか、おわかりになって?」女の姿は見えない。

「発言許可をいただけますか」武天が跪いたまま言う。

「わざわざ発言許可をしないと表明できないような長々としたお答えは期待していませんわ」

「ヨシツネの退路を塞ぐため、かと」

「お兄様がわたくしの申し出を断れる立場にあると認識していることが、浅はかでなりませんのよ。よろしくて?一度しか言いませんから、二度と勘違いなさらないように」女が息を吸い直す。「お兄様は、自分のスペアか何かだと思い込んでいますの。ご自身がこの運命から逃れるために、犠牲にすべき駒が存在していると、内心喜んでいることをお認めになっていない。でもそんなこと、わたくしが認めない。お兄様には、わたくしと共に、同じ地獄に堕ちていただきたいの」

 ヨシツネさんの名前が出てきてゾッとした。

 あの人を苦しめようとする元凶の内の一人。

 なんだろうか。

 兄と呼んでいるということは。

 妹?

 顔が。

 見えないのが恨めしい。

「ところでその犬コロは何ですの? ペットの持ち込みなど認めておりませんわよ?」

「ヨシツネの所有物を取り上げることで、彼を孤立させようと思ったのですが」

「嘘を、吐かないでちょうだいな」女の語調が鋭くなった。「わたくしはお兄様の飼っている犬の処遇まで、命じた覚えはありませんわよ。勝手なことをしないでいただきたいものですわね」

「申し訳ございません」

「ただの犬ごときが、親族会議に参加できる権利があるとお思いでして?」女の声が、こちらに向かって突き刺さる。向こうからはこちらが見えているのだろう。「お外で不審者の番でもしていてちょうだいな」

「スザキ様。彼は確かに犬かもしれませんが」武天が言う。「彼がいることでヨシツネは確実に退路を失いま」

 す、が掻き消された。

 武天の頭に水がかかった。いや、水じゃない。

 これは。

「わたくしに口応えしないでちょうだいと、言ったはずですわ」

「申し訳ございません」

 ぼたぼたと床に垂れるそれは。

 紅茶だ。

 しかも熱いやつを。

「お兄様を追い詰める方法も、タイミングも、手の内も何もかも、わたくしが考えてわたくしが実行します。手助けも、口添えも、わたくしが求めていないこと以外控えていただけますかしら」

「現時点で私にできるお手伝いはありますでしょうか」武天は俯いたまま、滴る紅茶を拭わない。

「わたくしの協力者を気取って、その壁にもたれて立っていて?」

「かしこまりました」

 武天にかけられた紅茶が乾いた頃、本当にヨシツネさんがやってきた。

 俺の存在にも武天にも気づいたようだったけど、特に何も言わなかったし、眼も合わなかった。

 それはそうか。

 能登を連れ戻すと大見栄切って飛び出したのに、肝心の能登は医者に攫われて行方不明で。

 合わせる顔がないのはこっちの方だ。

 しかも困ったことにこの闇は、一向に眼が慣れない。

 ヨシツネさんの顔は記憶でわかるけど、妹とやらの顔がまったく見えない。

「お兄様は、お母様、つまり北京もしくはベイ=ジンについてどこまでご存じ?」

「北京にいてはるさかいに、どっかの誰かが勝手に付けた名前ゆうことくらいかな」

 ヨシツネさんと妹だけ椅子に座っている。

 武天は命令通り壁にもたれて立っている。

 俺は。

「スザキちゃんよ」ビャクローが言う。テーブルに身を乗り出しながら。「俺それ知ってるから外出てるね。なんならワンころも摘み出すけど?」

「どちらなりと」妹の口調はどうでもよさそうだった。

「んじゃあ引きずってく」ビャクローに脛を蹴られた。「おら、表出ろ、クソ犬」

 ヨシツネさんが止めたら居座ろうかと思ったが。

 誰も何も言わないので廊下に出た。

「怒んないのは、感情殺してんの?」ビャクローが言う。

 照明のせいで眼がぱちぱちする。

「なんか言わないとホントに犬になっちまうよン?」

「俺の代わりにヨシツネさんを守ってくれたことは感謝してる」

「ナニソレ」ビャクローが莫迦にしたように嗤う。「テメェの都合でツネちゃん守ってると思ってるわけかあ?」

「そうじゃないのか」

「じゃあテメェはツネちゃんに死ねっつわれたら死ぬのかよ? あ?」

「ヨシツネさんがそう望むならそうする」

「莫迦じゃねぇの? 莫迦にもほどがあんだよ。だからツネちゃん追い詰められてんじゃねえのか?」

 ヨシツネさんが追い詰められている?

「どういうことだ。ヨシツネさんは」

 元気だった?

 そうじゃなかった?

 見てない。見えていない。

「部屋が暗かったこと言い訳にすんじゃねえぞ?クソが」ビャクローが低い声で凄む。「テメェがボヤっとなんもしねえから生き映し君がいなくなったんじゃねえのかよ」

「それについては何も言い訳するつもりは」

「ンな下んねえこと聞いてんじゃねんだよ」ビャクローにネクタイを掴まれる。「テメェだけが知らない生き映し君の最新情報教えてやっから、耳かっぽじってよーく聞いとけ」

 飛び降りで自殺未遂。

 意識不明の重体で集中治療室に。

「なんでこんなことになったかわかるか?」ビャクローが俺の鼻に食らいつきそうな至近距離で怒鳴る。「テメェが守るもん守らねぇでボヤっと生きてっから」

「犬のしつけならお外でやって下さらない?」ドアが開いて女が出てきた。

 やっと、

 見えた。

 赤い髪の。

「ごめんごめん、スザキちゃん。ついつい熱が入っちゃって」ビャクローが誤魔化すように笑って俺を壁に押し付ける。「犬の散歩めんどいし、置いてっていい? 俺だけ単品で散歩してくんね」

 女はいいも悪いも言わなかったが、ビャクローは「ばいばーい」と気の抜けたようなセリフを残して行ってしまった。

 やっと見えた。

 女の、妹の顔。

「どう致します? 餌でも召し上がる?」

 思っていたほど。

 似ていないのはなんでだ?

 部屋は暗いまま。

「では、気を取り直しまして。どこまでお話ししましたかしら」女が席に着く。「そうでしたわ。ベイ=ジンは、ご自身のお気に入りの殿方にしかお会いになりませんの。どうしてか。おわかりでしょう?」

「お前みたいなのがいてるさかいにな」ヨシツネさんが鼻で嗤う。

「お兄様はお会いになったことが御座いますでしょう? ベイ=ジンには、まったく同じ顔のタ=イオワンという弟がおりますの。困ったことに、このお二人は、時折入れ替わってわたくしたちを惑わせる。ここまでが、お母様と取引した公安が掴んだ表向きの情報ですわね」

 何の話をしているかよくわからないから、ヨシツネさんの表情を見守っていることにする。

 餌としてもらったクッキーをかじりながら。

「これからお伝えするお話は、知らないほうがいいことですの。知ったところで何ら得はありませんし、知る必要のないことですから口封じされる可能性も生まれますわ」

「そこまでゆうといて、俺に言わはるリスクは」

「お兄様には、わたくしと共犯になっていただきたいの。リスクも何もかも、そのお命ごと一蓮托生ですわ」女の口元が上がる。「ベイ=ジンと、タ=イオワンを、対の関係だと誤認してしまったことが、あの方の致命傷になってしまった。というのはわたくしの個人的な別件なので横によけますけれど、そうですわね。まずはわたくしたち後継者候補四家の説明を致しますわ。ベイ=ジンを頂点とする北、タ=イオワンを頂点とする南、キジ=ハンを頂点とする東、そして、ビャクローの西という四家がございまして、東南西北の順で血が濃くなりますの。つまり病弱短命になりますわ。ビャクローについては少々込み入っていますので後回しにしますけれど、北と南は裏表の関係。東は分家のような立ち位置ですわね。ちなみにお兄様とわたくしは南、そこに突っ立っている黒い塊は北。お兄様は東にお会いしたことは御座いますかしら。車椅子に乗った肢のない女ですけれど」

 車椅子の女。

 あいつは。

 肢がなかったのか。

「知らへんな。俺が会うたことあるんは、北京とサダと、奥様て呼ばれてはった低反発枕みたいな奴と、先代と、あとは」

「お兄様が先代と仰っているのは、禎楽さだらくが自身のお仕事をサボタージュするために作った檀那様システムの生贄第一号のことですかしら? あの哀れな男なら、後継者でもなんでもありませんのよ。お兄様こそが後継者なのですわ。禎楽が攫ったあの少年、ええと、お名前が急に出てきませんわね。ま、まま、まき」

「まきちよか?」ヨシツネさんが苦笑いする。「あいつ、そないに印象薄いか?」

眞緒まきちよや、養子として売り払った金髪碧眼などは、ベイ=ジン預かりですから北ですわね。あのお二人はわたくしたちとは関係がないので放っておきますけれど」

「親族一同の紹介なん、どないでもええわ。俺が知りたいんは、なんじょう俺が北京を殺さなあかんのか、ゆう」

「お兄様のそのせっかちなところ、嫌いではありませんけれど」女が勿体つけて息を漏らす。「お兄様はどうしてご自身が後継者なのか、知りたくありませんの?」

「全然どうでもええわ。なあ、北京は殺されへんやろ? あの女は殺しても死なへん部類なのと違うん?」

「さすがお兄様ですわ。そうなのです。ベイ=ジンは死なない。いいえ、死にますけれど、死なないのですわ。そのからくりをご説明するために、長々と前置きが必要なのですけれど」

「結論だけゆうてくれへん? 眠うなってきたわ」ヨシツネさんが大きなあくびをする。

「ではお兄様の眠気を一気に消し飛ばして差し上げますわ。先ほどベイ=ジンとタ=イオワンが対の関係だとお伝えしましたけれど、もう一対、スペアが存在しますの。まったく同じ顔の個体ですわ。双子というよりクローンといったほうが近いですわね。片方に何かあった場合、簡単に言うと命を落とした場合、そのスペアが役割を代わるのですわ」

「スペアが先に死んだった場合は?」

「あり得ませんわ。だって、本体が死んだ後に電源が入るようになっていますので。原則は」

「含みがあらはる言い方やけど」ヨシツネさんが言う。「俺のスペアがそこで突っ立っとることに関係しとるんかな」

「いいえ。お兄様のスペアは存在しませんわ」

「ほお、違うんか。ほんなら」

「無視していただいて結構ですわ。わたくしの作戦遂行上、必要不可欠なパーツではありませんもの」

 武天の表情に注意していたが。

 外から見る限り何も変化はなかった。

「ベイ=ジンもタ=イオワンも、それぞれ男女一対、つまり、計4体をすべて殺さないと、わたくしたちは自由になれない。中でもベイ=ジンの女性体は、絶対に外には出ない。ですが、たった一つ、会う方法が、会う権利のある方が」

「俺がマネキンにされるのとどっちが先やろ? ヤる前にぶっ殺せゆわはるんか?」

「ええ」女が満足そうに頷いた。「チャンスはこちらで作ります。近日中にお兄様に呼び出しがかかりますわ。その際にわたくしも同行いたします。お兄様がスムーズにベイ=ジンの女性体を葬れるよう、全力でサポート致しますわ」

「無理やろ。それに俺は」

「あら、ご自身の欲望のためにお友だちを殺したのでしょう? その手で」

「殺してへん」

「いいえ、殺しましたわ。全部知っていますのよ」

 ヨシツネさんが椅子から立ち上がってドアノブに手をかける。時間差で椅子が倒れた。

「どちらに?」女が呼び止めるが。

 ヨシツネさんは何も言わずに出て行ってしまった。

 大きな音がしてドアが閉まる。

「仕方のない方ですわね」女が溜息を吐く。「犬コロ? 命令ですわ。お兄様を連れ戻してちょうだいな」

「俺はあんたの犬でもなんでもない」

「歯向かい方も犬そのものですわね」女が肩を竦める。

 いまやっと思い出した。

 この女の声。

「わたくしに知らないことがあるとするならば」女が歌うように言う。「それは奇跡以外に説明のつかないことですわね。そんなもの、あり得ませんけれど」

 すべてを見通しているのではなくて。

 あらゆることは、この女の手の平の上。

「ねえ、わたくしの言う通りになさいな。そうしたらまたお兄様の番犬になれるよう、計らってさしあげますわ」

 そんなことわざわざ他人にされなくても。

「俺はあの人以外に従うつもりはない」

 武天がこっちを見たような気がしたが。

 知らないふりをして廊下に出た。

 闇からいきなり光の下に来たので眼が痛い。

 ぎゅうと瞑って。

 開けた。

 よし、見える。

 ヨシツネさんはエレベータの前にいた。

「連れ戻しに来たん?」ヨシツネさんはこっちを見ずに言った。

「違います」

「ほんなら」

「俺が殺します」

 やっとこっちを。

「俺がやります。俺がやりますから、ヨシツネさんは」

「無理やろ。あいつが言わはったことがほんまなら、俺がやらなあかんさかいに」

「そう思わせて、ヨシツネさんを追い詰めることが狙いじゃないんでしょうか」

 見てくれた。というか。

 避けていたのは俺だろう。

「キサガタを、いえ、能登を連れ戻せなくて申し訳ありませんでした」頭を下げた。「それに、あんなことになっているなんて」

「聞いたん?」

「ビャクローから」

「ああも、なんじょう来ィひんのやろ」ヨシツネさんがエレベータのボタンを殴りつける。「階段。階段は」

「お兄様」女が追いかけてきた。「お逃げになるのですかしら?」

「逃げようにもいま捉まったわ」ヨシツネさんが冗談ぽく両手を挙げる。「なあ、妹、ちょお提案なんやけど」

「なんですの?」

「逃げへんさかいに。ちゃんと話も聞いたる。せやから、朝まで部屋貸してくれへん?」

「念のために聞きますけれど、お部屋をお貸しして、一体どうしますの?」

「寝る」ヨシツネさんがあくびを見せつける。「頭働かんわ。お前のゆうたはることも、ほんまかどうか疑う気力もあらへん」

「それなら尚のこと朝までコースがわたくしとしては都合がよろしいのですけれど」女が口に手を当てる。「確かに意識朦朧としているところにとっておきの秘密の作戦をお伝えしても、記憶に残らない可能性も御座いますわね。わかりました。お兄様のご希望通りに」

「おおきにな」

「これがキーですわ」女がカードをヨシツネさんに渡す。「そちらの奥のお部屋をお使いくださいな」

「ほな。行くえ」ヨシツネさんが俺を見る。

 いいのか。

 俺で。

「ケイちゃんに見張っといてもらわんと。朝起きたら事後やったなん、最悪の展開やろ?」

「まあ、わたくしがそのようなはしたない女とお思いですの?」

「わからへんやろ? ヤらへんゆう保証もあらへんさかいに」

 しばし睨み合い。

 根負けしたのか、女がふっと息を漏らす。

「では、おやすみなさいませ、お兄様」

「ああ、えっと、なんやったっけ、名前」

朱咲スザキですわ。どうぞ、スーザと、お呼びくださいまし」

「ほんなら、スーザ。おやすみ」

「ええ、おやすみなさいませ」

 部屋に入るとヨシツネさんは、ばたんとベッドに倒れ込んだ。

「ああ、あかん。限界やわ」

「どうぞ、お休みください」

「ああ、ゆうたこと気にしてはるの?」ヨシツネさんが首を上げた。「チェーンかけといたらさすがに夜這いなんせぇへんやろ」

「どうでしょう。俺は別に不寝番でも」

「まあ、寝たなったら無理せんと」

 3時を回った。

 寝息が聞こえるまでそんなに時間はかからなかった。掛け布団の上に寝てしまったので、抱き上げて布団をかける。

 いい匂いがした。

 煩悩を洗い流すためにシャワーを浴びた。

 ドアの前に椅子を持っていって座った。

 ここならドアを蹴破られても対応できるだろう。

 いや、ここだとベッドが見えない。ビャクローなら窓から入れるだろうし。

 とか言い訳して。

 ベッドサイドに椅子を運んできた。

 部屋が多すぎる上に大きすぎるのがいけない。

 そうだそうだ。

 寝顔を見るのは。

 何日ぶり。

 しかも。

 こんなに近くで。

 何か。

 音が。

 と思ってカーテンを開けたら。

「お前か」

 本当にビャクローが貼りついていた。

 うるさくされても困るので鍵を開けた。

「さんきう」ビャクローが小声で話す。「つかな、どうやってチューザ、じゃなかった、スザキちゃん説得したんだよ」

「見てたんじゃないのか?」話したいことがあるなら隣の部屋に行くことをジェスチャーで伝えたが。

「さすがに寝てるとこ邪魔しねぇよ。言ってなかったかぁ? 俺は、後継者の爪と牙なんだよ」

「用がないなら」

「あいあい、出てきますよーっての。ツネちゃん無事なら俺あそれで」

 今度はドアから出ていった。

 何がしたかったんだ?

 また椅子に座る。

 寝息と寝顔。

 朝までずっと見ていてもいいなら、不寝番も全然つらくない。

「ケイちゃん」

 ビックリした。

「すみません、起こしましたか」

「知ってはるやろ? 俺の眠り浅いん」

 そうだった。

 のか?

「すみません」

「なあ、ビャクロー熨斗付けてあの黒いのに突っ返すさかいに。ケイちゃんまた俺んとこ戻ってきてくれへんかな」

「いいんですか」

「どうゆう意味やろか」

「いや、ヨシツネさんさえよければ全然」

「そか、おおきにな」ヨシツネさんが笑った。

 気がした。

 ああ、

 そうか。

 これだ。

 この笑顔を護るために俺は。

「ゆっくり休んでください。起きるまでここにいますので」

「おおきにな。おやすみ」

「おやすみなさい」

 ヨシツネさんが眼を瞑ったのを確認して。

 廊下に出る。キーを忘れずに持って。

「すんません」女がいた部屋をノックする。「武天タケソラいますか」

 しばらく間があって、武天が出てきた。

「なんだ」武天が後ろ手にドアを閉める。

「あんたの護衛はもうできない。ビャクローと交換してほしい」

「ヨシツネの意志か?」

「俺の意志だ」

「わかった。ビャクローには私から言っておく」

 やけに。

 あっさり。

「なんだ? 早く戻れ」

「いいのか」

「あのときは迷っていただろう? いまはそうは見えない」

「わかるのか?」

「お前はわかりやすい。そこが長所でも短所でもある」

 そうなのか。

 そうか。

「世話になった」

「ヨシツネが後を継がなくてよくなる方法が、お前にはわかるか」

 呼び止められた。

「あんたが継ぐ以外で、か?」

「私にその資格はない。わかっただろう?」

 妹と名乗る女。

「逆らうなと、言っておいたはずだが。スザキ様のお心の広さには頭が下がる」

 そうか?

「戻る」

「ああ」

 部屋に戻ってベッドの上を確かめる。

 よかった。

 ちゃんとここに。

 うとうとしているうちにカーテンの隙間が明るくなってきた。

 内線で朝食サービスの案内があったが、ヨシツネさんはまだ眠っている。

 オレンジジュースだけ頼んで電話を切った。

「お兄様? 起きてくださいな。朝ですわよ?」女がドアをノックしている。

「すまないが、まだ寝ている」ドア越しに返事をした。

「まあ、仕方のない方ですわね。30分だけ待ちますわ。それを超えたら強制的に押し入りますと伝えなさいな」

 それはまずい。

 しかし、ヨシツネさんは朝に弱い。

「ヨシツネさん」揺すってみる。「起きないと妹が」

「なんや?」

 届いたオレンジジュースを渡す。眼を覚ましてもらおうと思った。

 結局、妹の提示した時間ぎりぎりになった。

 無理矢理起こしたので、ヨシツネさんは滅茶苦茶機嫌が悪い。

「お兄様? そのように殺人光線を発されていますと、お話もできませんわ」

 妹の言うとおりだ。

 今朝は昨日と違って暗黒会議ではない。カーテンも開いているし照明も明るい。

 妹の顔も、武天の顔もよく見える。

 ビャクローはいないようだった。

「もう、お兄様。聞いていらっしゃいます?」

「なあ、お前ほんまに妹なん?」

「ええ、正真正銘わたくしはお兄様の」

「せやのうて」ヨシツネさんが眉間にしわを寄せる。「性別のことなんやけど」

 そういえば。

 ヨシツネさんは。

「症状出ぇへんさかいに、すっかり忘れとったんやけど、俺な、女苦手なん。女見るとこう、サブイボがな。ぞわっとするんやけど、お前見てもなんも感じひんし。治ったか思うたけど、ルームサービスの姉ちゃんでやっぱりあかんかったし。こっからわかるんは、お前が女やあらへんゆう」

「失礼極まりないお話ですわね」妹が首を傾げる。

「身内補正があるんかな」

「わたくしにお聞きになるの?」

「それもそうやな」

 妹が一口紅茶をすする。

 ヨシツネさんがあくびをした。

「お兄様の元にベイ=ジンから贈り物が届くはずですわ。そうしたらわたくしに教えて下さいます?」

「贈りもん?」

「ええ、届きましたら中身を検めることなく、速やかにわたくしに」

 そう言って、その場は解散となった。

 ヨシツネさんは「銃でも送ってきはるんかな」と冗談を言っていたが。

 数日後、屋敷に届いたのは。

 赤ん坊だった。

 連絡を躊躇うヨシツネさんだったが、それを見越したのか、

 妹がやってきて。

 赤ん坊を連れ去った。

 そして、それからまた数日後。

 妹が迎えに来た。

 お母様が呼んでいる、と。











     2


――「冤罪なんだよ、俺は。さっさと出してくんねえかな」

「7年前に言えばよかったでしょうに」7年も経ってなにをいまさら。


――「真犯人は7年間罪の意識にさいなまれてその末に血迷ってまた同じこと始めた?」


(『エバルシユホフ』より)



 **


 兄の意識が戻った。

 らしい。

 というのも、僕は兄の退院を知らなかった。

 口座引き落としにしている入院費が、今月支払われていなかったので、病院に確認したら、2ヶ月前に退院したとのことで。

 先月ならまだしも、2ヶ月前?

 書類上の保証人は、弟の僕なんだから、真っ先に僕に連絡が来たっていいだろうに。

 不慣れそうな新人くさい事務員にクレームを言ったところで時間の無駄だし。

 保証人の僕に黙って兄の身元を引き受けた、自称恋人の先輩に連絡をする。

「あ、ごめん。忘れてた」先輩は悪びれもなく電話に出た。「マズに代わる?」

 マズ、というのは兄のこと。

 それと、僕の記憶が確かなら、先輩の口調に違和感がある。

「マズ、上手く喋れないからいいって。あ、顔見に来る?」

 先輩のマイペースぶりにいつも調子が狂う。

 そしてやっぱり、口調に違和感がある。

 この人はこんなに、流暢に喋れていただろうか。

「いえ、兄さんが無事ならそれで」

 7年だ。

 7年前のあの夜、兄は。

 うちの神社の石段から足を滑らせて。

 違う。

 追いかけてきた先輩に吃驚して。

 違う。

「兄さんの退院祝いに何か送りますよ。住所は」

「前のとこは引っ越したんだ」先輩が言う。「えっと、郵便番号は」

「メールで送ってくれます?」

「わかった。でも気を遣わなくていいよ」

 それは、

 兄のセリフでは?

 とにもかくにも僕は、一刻も早く先輩がいない状況で兄に会う必要がある。

 甲斐甲斐しく世話を焼く、最重要関係者を気取る先輩に席を外させるには。

「兄さんに言付け頼めます?」

 兄は、僕が白竜胆会の総裁を継いだことを知らない。

 知ったら何と言うだろうか。

 何も思わないだろう。

「マズルさんが退院したというのは本当?」姉が待ち構えていた。

 なんで総裁の僕が本部に滞在しないのか。

 姉が我が物顔で居座っているから。

「知っていて黙っていたのでしょう?」

「じゃあ逆に訊きますけど、姉さんに黙っていることで僕に何のメリットがありますか? 僕が利のない無駄なことをしないことなんか、姉さんだってよくご存じでしょう?」

 万が一、僕が兄さんの退院を2ヶ月前の退院日よりも前に知っていたとして、姉さんに黙っている利点なら実は一つだけある。

 姉さんはそのことに気づいている。

「私への嫌がらせに決まっているでしょう? マズルさんはいまどこなの? アパートは引き払ったと聞いていますから」

「それを知ってどうします?」

「あなたにだけは教えない」

 まずいな。

 どんどんとややこしい方向に転がってはいまいか。

 そもそも姉にバラしたのは誰だ。

 僕じゃない。僕がそんな迂闊なことをするはずがない。

 本部に来たのだって久しぶりだし。例え用があったって来たくなんかないし。

 一体誰なんだ。

 僕の妨害をして悦に浸っているのは。

 主犯をあぶり出すのは後にして。僕にはやらなきゃいけないことがある。

 夜。

「じゃあ、マズ。終わったら迎えに来るから」先輩は車椅子から手を離した。

「僕が連絡しますよ」

 先輩は心配そうな顔をしていたが、さすがに部外者が本部内に立ち入れないことは弁えてくれている。

 建物に入ったと見せかけて、通り抜けで外に出る。

 姉に見つかる前に。

 待たせていたタクシーに乗って、僕の別宅へ。今日のこの日のために借りた。

 家に他人を入れたくないし、そもそも足の踏み場がないから車椅子のまま入ってもらうのが物理的に不可能。

 何もない。バリアフリーの無害の空間。

「兄さん」兄の正面に椅子を持ってきて座る。「僕のこと、わかりますか?」

 兄の眉が微かに動く。

「喋れないんですっけ? 言語聴覚士とか雇いましょうか?」

 病院も病院だ。なぜ7年も寝たきりだった若者を、意識が戻ったというだけでぽんと退院させてしまったのか。

 先輩か。

 先輩が無理繰り連れて帰ったのだろう。

 久しぶりに会った兄は、ひどくやつれていた。

「口から食べれてます?」

 兄が肯く。

「歩けますか?」

 兄が首を傾げる。

「ちょっと思ったんですけど、先輩の入れ知恵でこれ、全部演技ってことありませんか?」

 兄の眼線が落ちる。

「本当は僕に知られずにこっそり退院したかったんだと思いますが」

「そうじゃない」

 兄の口の動きを読んだ。

 声は掠れて微弱。

「兄さんは、僕がまた同じことをすると思っている。違いますか?」

 兄を陥れて。

 悦に浸る。

「ああ、そうだ。これ使ったら話しやすくなるんじゃないですかね」

 兄の膝にタブレットを置く。

 入力した音声を読み上げてくれるアプリ。

「喋れなくても指くらい動くでしょう?」

『あいつ』兄が人工音声に驚いて指が跳ねる。

 ゆっくりと。

 僕の顔を見る。

「けっこう似せるの苦労したんですよ。兄さんの声、特徴あるので」

『作った?』

「まあ、そんなとこです」

 どうでもいい内容。

 兄もそれがわかってる。

『あいつ、元気?』

「あいつ、というのは?」

 兄の眉が引き攣る。

『わかってるだろ』

「さあ、どなたのことでしょうか」

『とぼけるな』

「とぼけてませんよ。兄さんが気にかけるその幸せな女の名前、聞かせてくださいよ」

 兄の口先が痙攣する。

 言いたくないが、言わないと。

 欲しい情報が得られない。

 直接本人に訊けばいいのに。息災かどうか。

 兄にそんな度胸はない。

「ごめんなさい。意地悪が過ぎましたね」僕は椅子を立って窓の外を見ているふりをする。「兄さんも、姉さんすら知らない、あの女に関する内緒の話があります。小張オワリメイアが僕を殺したいほど憎んでいる理由と、サズカが兄さんをゴミ虫か何かだと思って軽蔑する理由は実は、表裏一体なんです。預言者ていう事務的な窓口が僕ら兄弟はおろか、信者やマチハ様にまで一定の距離を保つ理由も。僕の話を聞いたら全部一本につながります。全部兄さんにお伝えしますよ。今日はそのためにわざわざ一対一で会える場を作ったんですから」

 兄は感づいたかもしれない。

 想像がついた上で、僕に好きに喋らせようとしてくれている。

「疲れたり、聞きたくなくなったらいつでも言ってくださいね」改めて椅子に腰掛ける。「ちなみにこの話、知ってるのは僕以外だとマチハ様だけなんで」

 新興宗教団体、白竜胆会しろりんどうかい

 本部にある施設の中で、不用意に入ることを禁じられている建物の内の一つ。

 初代総裁が入れ込んでいた彫刻家・小張オワリエイスが造った神の像が安置された空間。

 水天宮みずあまみや

 小張メイアは、いつもそこにいた。

「あきないんですか?」

 小張メイアは、僕のことなんか見向きもせずに熱心に祈りを捧げていた。

 見向きもせずに、というより、集中していて意識の外だったんだろう。

 たぶん、気づいていない。

「姉さんが呼んでましたよ?」僕はよく嘘を吐いた。

 なんでもよかった。

 彼女の意識をただの一瞬でも逸らせられるのなら。

 その、わけのわからない金属の塊から。

「おいしいケーキをもらったそうです」

 彼女は板の間に正座をしてぴくりともせずに眼を瞑っている。

 もしや、眠ってる?

 触れようとした肩が拒絶の意で振り払われる。

「邪魔」彼女の眼が開いて僕を睨みつけた。「ケーキなんかあげるから出て行って」

「前にも言いましたけど、そんなことしたって意味ないんですよ? 後継者は」

 姉に決まっている。

 年功序列だ。ちょっと違うか。

 先に生まれたことの強み。年下の僕らには絶対に覆せない圧倒的な壁。

「アピールにしたって、こんな誰も見てないところで」

 彼女は天井に向かって顎をしゃくった。

 防犯カメラ。

 四六時中、神の像を見張っている。

「ですから、見られているのはあなたではなくて」

「見てなければ何もしてもいいわけ? 見てるところでしか努力しないのとかって卑怯だと思う」

「マチハ様になりたいんですか?」

「そのために生まれたの」

「騙されてるんですよ。こんな下らないことに付き合う必要なんか」

「下らないかどうかはわたしが決める。いつも突っかかってきて。気に入らないならそっちが出て行ってよ」

 誰だ。

 彼女を。

 洗脳したのは。

「マチハ様! 出てきてください。メイアのことで話があります」

「総裁を通してください」

 いつもこれだ。

「じゃあ、メイアに言ってあげてください。後を継ぐのは姉さんだと」

「それを決めるのは私ではないのです」

 いつもこれだ。

 いつもいつも。

「顔も出さない。姿も見せない。あなたは、一体何なんですか。僕らきょうだいに何をさせるつもりなんですか」

「マチハ様を困らせるな」いつも総裁が止めに入って。

 僕の虚しい問答は空に消える。

「都合のいいときだけ、父親ヅラしないでもらえますか?」

「お前の父親は私だよ」総裁もいつも同じことしか言わない。「お前たちのことは、だいじに思っているつもりだ」

「だいじに思ってるんなら、あのバカげた儀式?をさっさとやめさせてください。メイアが学校で何て言っていじめられてるか、知ってますか? 仏像ですよ?仏像。僕がやめさせなかったら、メイアはクラス中から仲間外れにされて」

「そうか。いつもメイアのことを守ってくれてありがとう」

 そうじゃない。

 褒められたくてやっているんじゃない。

 撫でようとした手を振り払う。

「一度も学校来ないくせに」参観日とか。

「都合が合わないんだ。合いさえすれば行くよ」

「子どもの参観日と、このクソ宗教の集まりと、どっちがだいじなのか、比べるまでもないでしょうに」

「そうだね。私にとっては同じくらいだいじだ。そうか、同じ比重なら、毎回優先されるのが一方では釣り合わないな。申し訳なかった。次は必ず出席するよ」

 僕は知っている。メイアが親宛ての手紙をこっそり捨てているのを。

 僕は知っている。総裁なんかが参観日に顔を出したらどうなるのか。

「なんで僕らには母親がいないんですか?」

「その話は前にもしたはずだよ。事情があって一緒には住んでいないが、決してお前たちを忘れたわけではないんだ」

「捨てていなくなったのと何が違うんですか?」

 総裁は、僕の感情には取り合わない。

 常に冷静に、それでいて本心しか言わない。

「お前たちが生まれたことが、私にとっては喜びでしかないよ」

 通じない。

 どいつもこいつも。

「私がマチハ様になれるわけないじゃない」姉は冷ややかに言った。「せいぜい手伝いが関の山よ」

「どういうことですか?」

「わからないの? あの子だけ、名字が違うの」

 小張オワリ

 朝頼トモヨリ

「それに私、べつに、命捧げるとかできないから」

 姉は本ばかり読んでいる。勉強も得意。

「アズマさんも、人のことばかり構っていないで」

 勉強しろと。

 勉強してそして。

「姉として恥ずかしいわ」

 うるさい黙れ。

 兄さんなんか。バカバカしくて寄りつかないじゃないか。

 まともなのは僕しかいない。

「消えて」メイアが水天宮の鍵を閉めるようになった。

 僕は鍵の在りかを知っていた。

 こっそり合い鍵を作った。

「入ってこないで」メイアは僕を視界に入れるのをやめた。

 その日総裁はいなかった。

 その日姉もいなかった。

 兄はいつも通りいない。

 マチハ様だけが見ている。

「僕が協力してあげましょうか」

 鍵とマスターキーは確かにポケットの中にある。

 これで。

 中から開けない限り、この扉は開かない。

「あなたがマチハ様になるのを」メイアの後ろに立った。

 メイアは無視して祈りを続ける。

 何に?

 何を?

 祈っている?

「僕が総裁になります。そうして僕があなたをマチハ様に推薦します」

「無理よ」メイアが眼を瞑ったまま言う。「あなたには絶対に無理」

「どうしてですか?」

「あなたには器が足りない」

「うつわ?」

「器も知らないの? 度量ってことよ。あなたにない物」

「なります」

「無理」

 メイアはとても小さかった。僕も小さかったけど、同じくらい小さかった。

 だから。

 力づくで床に押し付けるのは、純粋に不意打ちが効いた。

「いた」

「ちゃんと感じるんじゃないですか」

 痛み。

「どいて」

 揉み合っているうちに、勢いがついて。

 メイアの後頭部が神の像に。

 当たって。

「メイアのここ、見たことあります?」兄の意識をこちらに呼び戻すために言う。「痕が残ってますよ? いや、傷かな。血が出てたと思うので」

『どういう意味だ?』

「どういう意味、とは?」

 人間は本当に感情が極まると言葉が出なくなる。

 憤怒。

 憎悪。

 兄が五体満足に動けていたら、僕は殺されていたかもしれない。

「お前」人工音声じゃなくて、兄が喋った。「サズカが、いる、のは」

 兄の察しが良くて良かったやら悪かったやら。

「ええ、そうです。サズカは、メイアのですね。なのでサズカは知りません。知らないからこそ僕に懐いてくれてる。裏でメイアが吐き気を催すほどの憎しみを抱いているとも知らずに」

 ああ、これで。

 兄は僕を。

「なんで」

 嫌いになっただろう。

「莫迦バカしいと思ったからですよ。クソみたいな下らない理由で大人に利用されるのなんか。まっぴらだと思いませんか?」

「総裁になったってのは」

「全部ぶっ壊すためですよ。いま積み木を積み上げているところです。最高のタイミングで崩すつもりですけどね」

 兄の口が「何も残らないだろ」という形を作って動いた。

 何かを残せというのだろうか。

 何もないがらんどうの瓦礫を積み上げたって、空っぽの空洞でしかないのに。

「僕からの話は以上ですが、兄さんはどうします? 恋人ヅラしてる先輩に恩を返しながら余生を過ごしますか? それとも、僕の積木崩しのパーツになってバラバラに砕け散るのか」

「どうでもいいよ。俺は、どうでも」兄さんがタブレットを床に置いて車椅子を自操する。「一個だけ。俺の入院費払ってくれてたんだってな。お礼言ってなかった。ありがと」

「兄さん、もっと早くに意識戻ってたんじゃないんですか? リハビリもちゃんと済んで、計画的に退院したんじゃないんですか」

「悪いが、タクシー呼んでくれ」

 兄は僕の顔を一回も見なかった。

 当然か。

 盛大に嫌われようと思って暴露したのに。思いの他歯切れが悪くて口の中が苦々しい。

 夜。

 本部に戻って先輩に連絡する。すぐに迎えに来た。

 先輩にとっては蜜月の延長だけど、兄にとっては。なんだろう。

「アズ兄、ちょっといい?」サズカに見つかった。

 敷地の外に出ようとしていたところだったってのに。

「急ぎの用じゃないから」

 姉に感づかれる前に帰りたいんだが。

堅田ケンダのことなんだけど」サズカが言う。

「近いうちに時間作るのでと」

「その時間作る前に私が襲われるんだけど」

「わかりました」むしゃくしゃしているのでちょうどいいか。

 堅田は自室にいた。

 適当に堅田を相手にしてシャワーを借りる。

 僕が総裁になったことを喜んでくれている数少ないうちの一人。

 いや、たった一人かもしれない。

 僕が留守の間のことは、彼に聞けば大抵わかる。

 欠片も興味はないけれど、総裁という立場上知っておいたほうがよさそうなことだけ記憶に留めた。

 部屋の外でサズカが待っていた。

「まだ何か?」要望は叶えたはずだが。

「メイアが」

「メイアが?何ですか」

「アズ兄を嫌いなの、なんで?」

 知りたいのか?

 言わせたいのか?

「聞かないほうがいいと思いますよ」

「教えて」

「絶対後悔しますって」

「いいから」

「あなたも僕のことを殺したくなりますよ?」

「知らないほうが嫌なの」

 誰の入れ知恵だ?

 預言者は、二人の行動を見張っているんじゃないのか?

 メイアが壊れないように。

 サズカが生きていけるように。

「お願い」

「ここだとちょっと」

「家行く?」

「いや、それはさずがに」

 サズカの部屋は気が引けたので、開いている会議室に入った。

 僕が一番出口に近い席を取ったのを見て、サズカは一番出口から遠い席に座った。

「預言者さん、います?」

「私に話して」サズカが言う。「私だけ知らないの。不公平」

 溜息しか出ない。

 単なる好奇心か。それとも。

「メイアですか」

「メイアも関係ないの。私が」

「メイアが水天宮に入れないように暴行しました。これでいいですか?」

 サズカは。

 ふうん、とだけ言って。

「小張メイアもあなたが本当に総裁になるとは思っていなかったようです」預言者に交代した。

「いるんじゃないですか。止めてくださいよ」

「小張メイアに尋ねるよりはいいかと」

「あなたが言えばいいでしょうに」

「小張メイアが聞いていると困るので」

「ですから、メイアが聞いていないように伝えることくらい」

「私は、小張メイアが望まないことはできません」

「へえ、それは知らなかった」

 意味のない沈黙。

「反省していますか?」預言者が他人事みたいに言う。

「してるってゆったら満足ですか?」

「小張メイアは、あなたの不幸を望んでいます」

「知ってますよ、そんなこと。もういいですか?」ドアノブに手をかける。

「アズ兄は」サズカに戻った。「メイアを解放しようとしたの?」

「そんないい人に見えます?僕」

「アズ兄が考えなしにやるなんて思えないんだけど」

「割と考えなしですよ。もういいですね?帰ります」

「バイバ」

 語尾が聞こえる前にドアを閉めた。

 夜。

 足が勝手に神社に向かっていた。石段の一番上の段に腰掛けて、たいらに電話をかけた。

 つながらない。

 すぐに折り返しがあるだろう。

 ああ、そうだった。

 巽恒のほうはどうなっただろうか。

「なんですか?」義弟は3コール以内に出た。「ツネならいませんよ」

「ちゃんとお別れできたか心配でさ」

「余計なお世話ですね」

「追いかけなかったのは偉いね」

「どこに行ったか、ご存じなんですか」

「知ってたとしても絶対に教えないの、わかってるくせに」

「そうですね。義兄さんの性格の悪さを忘れてました」

「あ、ごめん。キャッチ入ったから切るね」

「どうぞ」

 キャッチはたいらじゃなかった。

「お兄様をお捜しですかしら?」巽恒の妹だった。

 まさかの。

「そちらの首尾は如何かと思いまして」

「他人に心配されるほどのことは何もありませんわ。そんなことより、ご自身の心配したほうがよろしいのではなくて?」

 なんのことですか、と。問い返したはずだった。

 頭の中では。

 実際は。

 異様に石段が近くに見えて。

 いや、遠くだったり、それでいて至近距離だったり。

 凄まじい音がしたのはわかった。

 地震?

 違う。

 遅れて痛みがやって来る。

 緋袴に、草履が見える。

 視界が傾いている。

「最初からこうすればよかった」メイアの声が上から降ってきた。「はい。奇襲は成功しました。ありがとうございます。気を逸らしていただいて」

 メイアの話相手は、巽恒の妹だろうか。

 じゃあ僕がさっきまで話していたケータイは?

 手に、指に。力が入らない。

 とにかく痛む全身を制して顔を上げる。

 ああ、そうか。僕は。

 地面に転がっている。

「簡単に殺さないから」メイアの声は相変わらず上から降って来る。「痛くて苦しくて泣きそうなくらい地獄でとにかく早く終わってほしいけど実際は永遠に続くみたいな。わたしと同じかそれ以上の地獄を味わわせてあげるから」

 たぶん、右肢が潰された。

 自分だったらそうするからだ。

 遅れて痛みが来た。

 右肢に何か重たい鈍器が振り下ろされた。

 逃げないと。

 力入れた腕に、横から何かがぶち当たる。

 体勢が崩れる。

 痛ぶりたいのだから、一気に命を取りには来ないだろう。

 それが命取りとも言える致命的な落ち度になるというのに。

 ところで、なんで。

 僕は喋らないのだろう。

 口八丁で言いくるめて逃げ果せなければいけないのに。

 息を吸うと肺の中に異物感が拡がる。気がする。

「自分がどんな状況かもわかってないの?」メイアの声がすごく遠くで聞こえる。「命乞いしなさいよ。助けてあげないから。誰も来ない」

 自由落下した何かを、質量と加速度と重力で潰す音がした。

 文脈から言って僕のケータイだろう。

 どいつもこいつも。僕の所有物を僕の眼の前で壊すのが好きな奴らばっかりだ。

「あんまり痛がらないのなんで? 痛くないの? 痛覚イっちゃってるの? 夢かなんかだと思ってんの? 殺さない。殺したら私が悪くなるし。誰も助けに来てくれなくて、痛くてつらくて寂しく独りでこの世からいなくなって? 教えてくれたの。女の子を助けてくれる仕事をしてるんだって。復讐代行だって。でも代行されたら私の気が晴れないから、自分でやったほうがいいって。アドバイスもらったの」

 なるほど。

 僕に死ぬほど恨みを抱いているメイアが、巽恒妹に依頼して。

 僕を殺さずに苦しめる方法を実行中、と。

「とりあえず一回死んどいて?」

「いいんですか?」よかった、声が出た。「僕なんか殺して。あなたの損失の方が圧倒的に大きいですよ?」

「喋んないで。声なんか聞きたくない」

 メイアに殺されるのなら。

 それは仕方がないのだろう。

 一緒に地獄に堕ちてあげようとしたってのに。

 一緒に地獄に堕ちてくれる道連れを探している。

 たいらの声が聞こえた気がしたけど。

 きっと幻聴。










      3


―――「捜しました。捜したんです。でも」

 見つからなかった。いなかった。というよりは、

 わからなかった。自分の眼では、

 判断が付かなかった。彼が、


―――「ひどい宗教ですね」


(『エバルシユホフ』より)




 ***


 比良生禳ヒラせいじょうの動画配信にちょっと見切れていた程度の露出で、僕でカネが稼げると思い込んだ事務所が声をかけてきた。アズマさんに許可をもらってからにしたかったが、というか連絡した時点で断るように言われるのは簡単に想像ついたが、事務所の接触のほうが早かった。

 とにかく社長と会ってほしいと強引に、本社の会議室に送迎付きで連れてこられた。

 なんて言って断ろうか。

 適当に話を聞いて帰ろう。

 熱心な勧誘に付き合っていたらけっこうな時間が経過していたらしい。

 夕刻を過ぎている。

 本社を出るときにすれ違った女子に見覚えがあって、帰りの車の中で検索した。

 なるほど。この会社の所属歌手なのか。

 送迎をしてくれたスタッフに、乗り気でないことを遠回しに伝えて別れた。

 ああ疲れた。

 アズマさんからの着信にたったいま気づいた。

 急いでかけ直す。

 かからない。

 お掛けになった電話番号は、というメッセージが流れた場合の緊急マニュアル。

 9割方の原因と思しき人物に電話をかける。

「なに?」すぐに出たがこれは。

「メイアさんですか?」

「何か用?」

「サズカさんですか?」

「メイアさんが貴方に会いたがっています」口調から言って預言者だろうか。「神社で待っています」

 電話が切れた。

 だいぶ夜も更けている。

 タクシーで参道に乗り付けて、石段を駆け上がる。

 一分一秒が惜しい。

 小張メイアなら、アズマさんを殺す充分な動機がある。

「本当に来た」賽銭箱に緋袴の女が腰掛けていた。「あんなクズのどこがいいの?」

「生きてるんですか」呼吸が整わない。整えようとしているから余計に息が上がる。

 こんな夢を何度も見たような気がする。

 駆けつけるとすでに手遅れで。

 冷たくなったアズマさんが横たわっている。

「僕に出来ることなら何でもします。ですから、アズマさんは」首を振って自分の想像を掻き消す。

「どうだろ。死んだかな、あのクソ野郎」小張メイアが遠くを見るような眼をする。「市長の娘フって私と付き合って」

「無理な理由が三つあります」

「あいつ死ぬけど」小張メイアの手に持っている鈍器に黒くこびりついているそれは。

 血では。

 ないだろうか。

「拒否権とか条件が出せるような状況にないんだってことわかってるの?」小張メイアはひどく苛ついている。

「貴女の目的がアズマさんを殺すことにしかなかったら、とっくにやっているはずです。悠長に僕の到着を待って僕に交換条件を突きつけるということは、貴女の目的は僕の方にある。違いますか」

「あのクソ野郎に洗脳されてるんでしょ? 可哀相に」

 外灯が点滅するのでそのたびに内心ビクッとする。おかげで思いの他冷静でいられそうだった。

 小張メイアが石畳に草履の底を付けた。

「付き合ってくれるんなら、あのクソ野郎をどこにやったか教えてあげる」

「貴女は僕に気があるんじゃない。僕がアズマさんの所有物だから、それを奪いたいだけです」

「そうだけど?」

 そんなあっさり。

「最終的に市長の娘と結婚していいから、あのクソ野郎を拒否って私のモノになって?」

「ですから、無理な理由が三つあると」

「婚約者。生理的に。クソ野郎」小張メイアが順に三本指を立てる。「どれも眼瞑れば問題なくない?」

「生きてるんですね?」アズマさんは。

「んー、返答次第?」

「僕が貴女のことを嫌いなのはご存じですか?」

「なにそれ」

「アズマさんが唯一気にかける肉親だからですよ」

 どすん、と鈍い音を立てて鈍器が転がる。

 憎しみのこもった鋭い眼光が突き刺さる。

「気にかけられても迷惑だし、ましてや肉親なんかじゃない」

「貴女はそうかもしれませんけど、サズカさんは妹でしょう?」

「違う」

「アズマさんが調べてないとお思いですか? 残念。きょうだいの中で唯一貴女だけ」

「うるさい!」

「総裁になったのだって、貴女をマチハ様の後任に推すためですよ」

「黙って!!」

 羨ましいほどにおめでたい。

 僕がどれほど焦がれても手に入らないそれを、不要なものだと床に叩きつけて踏みつける。

 どれほど贅沢で、どれほど我儘か。

「代わってほしいくらいですよ」

「アタマおかしいんじゃないの?」

「でしょうね」

 小張メイアが臆したのを見逃さなかった。

 着物越しに手首をつかむ。

「痛っ」

「アズマさんはどこにいますか」

「放して」

「教えてください」

 この距離で見詰めて言いなりにならない女はそうはいない。

「僕に貴女をこれ以上嫌いにさせないでください」

 もうこれ以上ないくらい大嫌いないのによく言う。

「朝頼アズマなら手水舎のところです」預言者の声がした。「まだ生きているかと」

 お礼を言いながら石段を駆け下りた。

 小張メイアが「なんで言っちゃうの」と金切り声で叫んでいるのを背に。

 手水舎はさっき通り過ぎたじゃないか。

 脚が。

 見えた。

「アズマさん!?」

 仰向けに転がっている。

「アズマさん! 大丈夫ですか?」駆け寄って抱き起こした。

 たいら?

 と微かに口が動いた気がした。

「アズマさん!!」

「アズ兄、だいじょー?」サズカだろう。「えっと、救急車とか要る?」

 急に明かりで照らされた。

 懐中電灯。

「アズマさん、どこか痛いところはありますか?」と聞きながら、支えた後頭部にべっとり付いた感触が。

 緊急事態だと告げていた。

 救急車を呼んだ。

 右脚が潰されていた。

 頭部の出血は大したことはなかったが、頭を強く打っているので、検査が必要とのことだった。

 意識は戻ったが眠っている。

 前総裁と堅田ケンダが面会に来た。

 時間を置いて姉が、病室には入らなかったが兄が。

 メイアとサズカと預言者は来なかった。

 KRE支部長は僕に安否確認の電話をしてきた。

 朝まで一睡もできなかった。

 眠った瞬間にアズマさんがどこかへ行ってしまったらと考えたら。

「たいら?」

 アズマさんの声がして。

 顔を上げる。

「たいら。明日退院するよ」

「あの、検査がまだ」

 閉め損ねた窓から月明かりが漏れる。

 アズマさんの表情がよく見えない。

「大丈夫だよ。頭も特に痛くないし」

「でも」

 サズカが言うには、石段を転げ落ちたと。

 これでは。

「兄さんのことを嵌めた罰かな。ざまあみろだ」

「脚だって、その」

「大方、サズカが止めたんだろ? むしろ右脚だけで済んで拍子抜けしてるくらい」

 僕にアズマさんを止める資格はそもそもない。

 口の中がざらざらする。

「どうして」

「命を粗末にしてるって? お前は僕が天国にでも行けると思ってるの?」

 そうゆうことを。

 ゆってるんじゃなくて。

「僕は、ただ」

 アズマさんがいなくなったら。

「僕が死んだら洗脳も解けんじゃない?」

「なんで」

 そんな突き放すような。

 自暴自棄になっている?

「どうしたんですか?」

「どうしたって? 何が?」

 だって。

 これじゃあ。

「死ぬつもりじゃないですよね?」

 アズマさんはそれに答えず寝たふりを始めた。

 僕はまた一睡もできなかった。

 時折不自然に動く後頭部を見つめていた。

 朝食はアズマさんが要らないと言ったので僕が代わりに食べた。パンと牛乳とプリン。

 午前中に頭部や脳の検査を済ませて、適当に画像説明を聞いて退院した。

 問題があろうとなかろうとどっちでもよかった。

 このあとアズマさんが何をしようとしているのか。そればっかり気になって。

 アズマさんの乗った車椅子を押す。

「ひどい顔」アズマさんが振り返って嗤う。「僕よりずっと入院したほうがよさそう」

 何を。

 するつもり?

 なのか。

「言ったら止めるだろ?」

 止めない。

 止められない。

 僕に、

 そんな権限はない。

「どうやってぶっ壊してやろうかな」アズマさんは鼻歌を歌うくらい機嫌がいい。

 白竜胆会の本部内は信者以外は立ち入り禁止だが。

「心配しなくていいよ」

 天窓にステンドグラスの嵌まったドーム状の建物。

 金天宮かなあまみや

 アズマさんはわざわざ一人ずつ電話をかけて、姉兄妹を呼びつけた。

 三人が三人とも、来たくなかったのに、といった表情を浮かべていた。

 早速部外者の僕が槍玉に挙がった。

「じゃあ逆に提案しますけど、姉さんたちも誰か一人ずつ立ち会わせていいですよ。証人てことで。どうです? 誰かいます? いないでしょう?」

 三人とも黙っていた。

 僕も何も言わなかった。

「私が立ち会います」天から声が降ってきた。

 白竜胆会の実質的頂点、マチハ様だ。

「立ち会うのは構いませんけど、いい加減、姿を見せたらどうです?」アズマさんが天井のスピーカーに向かって言う。「メイアのときと同じで、見て見ぬふりの傍観者ですか?」

 サズカの様子を伺ったか、特に反応はなく。

 むしろ反応しないように耐えているようにも見えた。

「何のことですの?アズマさん」ヒズイが言う。

「姉さんは知らなかったですっけ?」アズマさんが天井を見たまま言う。「メイアのために聞かなかったことにしてくださいよ」

「またわたくしだけ」

「姉さんのそれ、ただの被害妄想だって、気づいたほうがいいですよ」

「アズマさん」

「ヒズイ姉」サズカが言う。「メイアのこと考えてくれるんなら黙っといてくれる?」

「サズカさんまで」ヒズイが顔を歪ませる。「マズルさんはご存じなの?」

「さあ」マズルがはぐらかす。

「アズ兄そろそろ本題入ってよ。抑えとくの結構大変なんだけど」サズカが壁にもたれる。

「それはすみません。椅子持ってきましょうか」アズマさんがサズカに眼を遣る。

 サズカが要らないという意味で手をひらひらと振る。

「サズカも頑張ってくれてるので、じゃあ結論から」アズマさんが絶妙な間をとる。「白竜胆会の教祖はマチハ様を置いてどこへ行ってしまったのか」

 ドーム状の建物内では声が響く。

 アズマさんの声はよく通る。

「姉さんは、前総裁の前の総裁に会ったことはあります?」

「答えのわかっている質問をしないでちょうだい」ヒズイが神経質に反応する。

「そう、姉さんの記憶では前総裁が総裁をしていたのが最初と。総裁に聞いても教えてくれなかったので、昔からの信者に聞いて回りました。そうしたら面白いことがわかったんです。前総裁の前の総裁は、存在してないんですよ。その証拠に、古くからの信者に総裁と聞くと、前総裁のことしか返ってこない。つまり、総裁というポジションは、前総裁が初代ということになります。とすると、前総裁の前に総裁のようなポジションで白竜胆会を取り仕切っていたのは誰なのか」

「それこそマチハ様じゃないのか?」マズルが言う。

「マチハ様」アズマさんが天井のスピーカに話しかける。「僕はこれから種明かしをします。されたくなければ姿を見せてください」

「皆様に知られて困ることなど何もありません」マチハ様が言う。

「よく言いますよ。僕らに何も知らせなかったくせに」アズマさんが悪態をつく。「話を戻します。前総裁を総裁の役職に据えた人物は、KRE社長を実兄に寝取られたショックで自殺未遂した前総裁が全生活史健忘――いわゆる記憶喪失になったのを不憫に思った朝頼姓であり、前総裁を息子として迎えた。僕はこの人物こそ、白竜胆会教祖だと思っています」

「それがなんだよ」マズルが苛々したように口を挟む。「んなこと知ってるよ」

「兄さんが知っていることと、事実はちょっと異なっています。それをいまから説明します」アズマさんは兄の思考パターンなどお見通しとばかりに微笑む。「白竜胆会教祖の話をする前に、もう一人、重要人物がいます。教祖はとある彫刻家の作品に入れ込んでいた。皆さんご存じ、謎多き彫刻家・小張エイスです。エイスが芸名か本名かはどうでもいいので放置しますけど。エイスのアトリエは、神社の裏にあります。建物自体は残っていますし、作品も一部そこに保管されています。この中でエイスに直接会ったことがあるのは」

「お姿なら」ヒズイが言う。

「兄さんはどうです?」

「俺はここ、寄りつかなかったしな」マズルが肩を竦める。

「メイアに聞く?」サズカがしんどそうに言う。ほとんど床に座っている。

「僕がないのでないでしょう。ありがとうございます」アズマさんが言う。そして、天井のスピーカを見遣る。「エイスの娘があなたですね?」

「それが聞きたいのであれば、否定はしません」マチハ様の声がする。やや遅れて。

「ついでに、あなたの本名をお聞かせ願えます?」アズマさんが言う。

「皆様に知らせてどうするのですか?」マチハ様が言う。

「そうですね。マチハ様という名が世襲だってことがわかりやすくなります」アズマさんが言う。「あなたが仰らないのなら僕が言いますけど。小張オワリ有珠穂うすほさん?」

「アズ兄」サズカが溜息を吐く。

「最初に申し上げた通り、皆様に知られて困ることは何もないのです」マチハ様が言う。

「じゃあ全部自分で言ってくださいよ。なんで僕が代わりに言ってるんだか」アズマさんが苛立った声を出す。

「質問には答えます」

「またそうやって逃げる」アズマさんの言葉に憤りが滲む。「僕らの性格が歪んだの、明らかにあなたが原因ですからね。まあ、いいや。話が逸れましたが、教祖のことでしたね。結論から言うと、すでに死んでいます。問題はその死に方ですね」

「どなたからお聞きになったのですか?」マチハ様が口を挟む。

「どなたからもお聞きになってませんよ。全部僕の想像です。間違ってたら訂正して下さいね」アズマさんが言う。「教祖はエイスの作品にだいぶご執心だったという話はしましたね。本部にあるよくわからない美術作品はすべてエイスの手によるものです。余談ですが、エイスの作品はかなりの値がついています。エイスが失踪したのち、実の娘のあなたのところに回顧展の開催をと群がってきた連中が少なくない数いたはずです。エイスの売れなかった頃の作品はほんの少数世の中に出回ってますけど、ほとんどは実は本部にあるんですよ。以前使っていたアトリエ、ちゃんとセキュリティに気を遣って管理した方がいいですよ。もしくは資金繰りに困ったらそれなりのところに売却するとか」

 相槌も合いの手も催促もない。

 アズマさんが乗っている車椅子はタイヤが動かないようにロックをかけているので、僕がハンドルを握っている必要はない。グリップを握っている手が汗で滑る。

「教祖はですね、エイスの作品に入れ込むあまり、自分も作品になることを望みました。そこで思い出してほしいのが、ここにいる中では姉さん以外立ち入り禁止になってる祭壇――水天宮みずあまみやの神の像、神像です。あれって人が一人入ってちょうどくらいの高さだと思いませんか?」

 息を呑む三名。

 アズマさんが喉を鳴らして嗤う。

「ねえ、マチハ様? 教祖、あの中にいますよね? どうです?僕の推測。当たってます?」

 全員の視線が。

 天を仰ぐ。

「あなたが総裁になったのは、この事実を明るみにするためですか」マチハ様が重い口を開く。「そうです。教祖様――マチハ様は、今も神像の中におられます」

「明るみってなんです?」アズマさんはまだ嗤っている。「それを公開することで白竜胆会を終わらせようって? そんなつまらない終わらせ方はしませんよ。小張エイスがしたことは、殺人というよりは自殺幇助なので。それにエイスもどこか行っちゃって消息不明ですし。僕は、教祖が生き仏になってようが、エイスがどこぞで野垂れ死んでようがどうでもいいんです。僕が明るみにしたいのは、僕とメイアの父親が誰なのかってことなんですよ」

「アズ兄、ごめん。もう無理」とサズカが声を上げたのち、すっと力が抜けて。顔が上がる。「私とあんたが血がつながってるわけないじゃない。昨日ちゃんと殺しとくんだった」

「お目覚めじゃないですか」アズマさんが眼線だけ動かす。「今日の本題は実はこっちなんですよねえ。姉さんと兄さんはご存じかどうか知りませんが、お二人の片親は、教祖です。姉さんのもう方親は小張エイスで、兄さんのは、ちょっとわからないです。じゃあ、メイアと僕は? 母親はマチハ様です。今そこで聞いてる方の。とすると、父親は」

「知りたくないし、どうでもいいの」メイアがアズマさんの正面に立つ。「やっぱ昨日殺しとくんだった。脚って動くの? 折れてる? 二度と歩けないようにして」

 メイアが襲いかかってきたら庇おうと思ったが。

 その必要はなさそうだった。

「小張メイアを不用意に挑発するのをやめてください」預言者に代わった。「わたしもいつでも小張メイアを止められるわけではないのです」

「でも止めてくれたでしょう?サズカと協力して」

「私は知りたいから。メイアが何て言おうと」サズカに代わった。

「それ、好奇心じゃなくて、内に向かう破壊衝動ですよ」アズマさんが言う。「まあ、いいや。僕らの父親ですけど、もちろん前総裁じゃないですよ。彼がここに拾われたとき、僕はすでに生まれていましたので。せっかくなのでクイズにしましょうか。あ、姉さんと兄さんはついてきてくれてます?」

「アズマさんがそれでよろしいなら、わたくしは何も」ヒズイが苦々しい表情を浮かべる。

「つーか、そこまで知ってんなら俺の父親くらい調べとけよ」マズルがあきれたように言う。

「兄さん、興味ないかと思いまして」アズマさんが言う。「姉さん、結構ご存じなんですね。じゃあクイズはサズカに出しましょうか。僕らの父親は誰なのか」

「小張エイスだったらヤバいんじゃない?」サズカが自嘲気味に笑う。

「それはないですね」アズマさんが言う。「小張エイスは娘をとても大切にしていたので。他にいませんか?他に」

 突然ドアが開いて、長身の男が金天宮かなあまみやに入ってきた。

 総裁補佐の堅田ケンダ

「タイミングばっちりじゃないですか」アズマさんが満足そうに言う。「僕は誰も入ってこないように見張っていてほしいと頼んだはずですけど」

「今日は集会がないから必要はないと思ったんだが」堅田が言う。「なるほど、俺に聞かせるためか」

「なんであなたの身長、僕に遺伝しなかったんでしょうね」アズマさんが言う。

「え、ウソ。ちょっと、まさか」サズカがアズマさんと堅田の顔を見比べる。

 堅田とマチハ様の間の子が。

 アズマさんと。

「ちがう」メイアが首を振る。

「違いませんよ」アズマさんが言う。

「嫌。ぜったい、嫌」メイアが首を振り続ける。

「絶対嫌だそうですよ?」アズマさんが堅田に言う。

 堅田は何も言わない。

 マチハ様も何も言わない。

「でたらめ言わないでよ!」メイアが叫ぶ。「なんで。なんであんたなんかが」

「信じようが信じまいが事実は変わりませんよ」アズマさんが宥めるように言う。

「嫌! こんなの嫌。嫌なの。イヤ」メイアはとうとうしゃがみこんでしまった。

 近寄ろうとしたヒズイの手を振り払う。

「さて、僕がお伝えしようとしたことは以上ですけど、何かご質問のある方?」アズマさんが言う。

「見張りはもういいか」堅田が聞く。

「ええ、ご苦労さまでした」

 ヒズイがメイアを連れ出そうとしたが、意地でも動こうとしないので終いには諦められた。

 サズカと預言者が代わる代わる説得し、メイアが去り際にアズマさんに呪いの言葉を置いて行った。

 地獄に堕ちろ、と。

「僕らも行こうか」アズマさんが言う。

「あの」

「外で聞くよ」

 タクシーで移動した。アズマさんの家まで。

「あ、しまった。部屋片付けないと」アズマさんが床に転がるペットボトルをどかしながら言う。

「あの、さっきのお話ですが」

「ああ、全部嘘だよ」

「え」

 嘘?

「うん、堅田さんには口裏合わせをお願いしたけどね」

 なんで。

「なんでって? この脚のお礼?」アズマさんが笑いながら言う。「堅田にマチハ様を襲う必要性がないよ。僕が相手してるんだから」

 なんで。

「姉さんと兄さんは信じる半分疑い半分てとこだったな。さすがにちょっと突飛過ぎたかもね」

 なんで。

「僕に聞かせたんですか」

「聞きたかったろ? 僕のこと」

 それは。

「どうして騙すような」

「騙す? ああ、メイアをか。完璧騙されてくれたよね。いっそ堅田に襲われててくれたらもっと苦しめられたのに。そう思わない?」

「ちょっと、やりすぎかと」

「僕に意見するの?」

「そんなつもりは」

 車椅子が入れるだけのスペースはとりあえず作った。ゴミ袋がペットボトルでいっぱいになった。

「片付けてくれたお礼にさ、たいらにだけ、本当のことを教えるよ」

「そうやってまた僕も騙すおつもりですか」

「騙してるかどうかは、聞いてから判断したら?」アズマさんがPCを立ち上げる。「教祖が神像に入ってるってのは本当なんだけどさ。教祖を神像にしちゃったせいで、小張エイスの作風がおかしくなっちゃってね。そのおかしくなった作風を気に入った、新しいパトロンが現れたんだ。名を燕薊幽エン=ケイユウ。彼女の作風はアングラでは有名でね。人体コレクタ。そうも呼ばれてる。こいつの意味がわかる?」

 嫌な。

 汗が流れた。

「あの、それって」

「そう。お前の養父、桓武建設の社長がやってるあのヤバい人体アート。あれにすごく近い。違うのは、彼女は死体を加工して」

 寒気が。

 止まらない。

「大丈夫? もうお前、人体キャンバスやらなくていいから大丈夫だよ」アズマさんが背中を撫でてくれる。「落ち着いた? 続けるけど、その燕薊幽ね、彼女の正体を調べていったらとんでもないことがわかった。お前というか巽恒んとこのボス。そいつもさ、人体蒐集の趣味があるんだって?」

 アズマさんが嗤ったような間があった。

「これってどうとらえればいいと思う? たまたまの一致か、それとも裏で何かつながってたりするのか」

「そこまで突き止めていれば答えも見えているのでは?」

「お前、自分が言いたくないからってすぐ僕に委ねるのやめた方がいいよ」アズマさんが言う。「まあ、いいや。重要なのは、小張エイスがとある人体コレクタの女に気に入られたことによって生まれたのが、たぶん、僕なんだろうってことなんだよね。もし、人体コレクタの女が、お前や巽恒の母親と同一人物ってことにするとさ、面白いことにならない?」

 予感が。

 なかったわけじゃなかった。

 真っ白になった頭と。

 真っ黒になった心が。

 混濁して。

 アズマさんが僕の鼻の辺りで声を上げて嗤う。

 僕と巽恒が兄弟なら、その他にこの世に兄弟がいたって何もおかしくはない。

 おかしいことなんか、何も。

 ないのに。

 なんで。

 よりによって。

「やっぱお前、その顔最高にいいよ」

 あなたじゃなくたっていいのに。

 アズマさんはとても上機嫌だった。機嫌がよくなければ僕なんかをわざわざ家に呼んで相手をしてくれるわけがない。

「お前昼間どこ行ってたの?」

「電話に気づかなかったことを仰っていますか」

「ミヤギ・クラヴィアに呼ばれたろ?」

 ああ、そうか。

 ぜんぶ、つながった。

「アズマさんが、僕の連絡先を」

「今頃気づいた? で?あの強欲社長はお前をどうやって売りたいって? モデル? 歌? 演技?」

 床に散らばった服をかき集める。

 返答が遅れたのが気に触ったらしく、背中を蹴られた。無事なほうの左足で。

「お前どれか得意なのあったっけ?」

「僕を使った新しい稼ぎ方ということでしょうか」

「比良生禳の面白動画は本人がヒヨって消しちゃったけど、お前が映ってる部分だけ切り取って配信サイトにバラまいたら再生数がえらいことになってさ。お前ホント、外観みてくれだけは最高級だよな」

 手招きされたのでもう一回。

 アズマさんの右脚はしばらく機能しないので、僕が自分で動かないといけない。

「お前がよく聞いてる歌の歌手、あの会社の所属だろ? よかったな。お近づきになれるかもしれないよ?」

 本当にこの人は。

 他人が嫌がることを嬉々として。

「やっていいよ。芸能活動」

「それがアズマさんの望みなら」

 虚無で虚実で空っぽだ。

 この人と一緒にいる限り。

 僕は。

「ああ、撮影のときは言えよ? 痕が残ってないか、前日にチェックしてやるから」

 あいつは君を不幸にしかしないよ。

 讃良智崗ササラちおかが言っていたことがちらついた。

「それがなんだっていうのかしら?」巽恒の妹が言う。「朝頼アズマがあなたの兄であろうとなかろうと、あなたの想いに影響がありますかしら?」

 アズマさんがトイレに行っている間に電話がかかってきた。登録してある番号からゲングウだと思ったが、自分は双子の姉のほうだと名乗った。

「今日ご連絡差し上げたのは、お願いしたことがございまして」

「急いでいるのでメールか何かでいただけませんか」アズマさんが戻ってこないか心配で、内容が頭に入ってこない。「あなたの望みなら何でも叶えるよう努力しますから」

「まあ、嬉しい。ではそれを信じて文面で送りますわ」

 電話が切れたタイミングでアズマさんが戻ってきた。

「誰かと話してた?」

「いいえ」

 メールには、これから一週間。

 朝頼アズマの動きを封じてほしい、とあった。

 できるのか?僕に。

「巽恒が実家に呼び戻されたらしいよ」アズマさんが他人事のように言う。

 ああ、それで。

 何が。

 起こっていて何が起ころうとしているのか。

 僕にはよくわかった。

「なに? 芸名の案でも浮かんだ?」アズマさんが言う。「本名のままだとお前のとこの社長が嫌がりそうだろうし」

 アズマさんの意識をよそに集中させれば、巽恒の妹の望みを叶えられる。

「おい、聞いてる?」

「何でもいいですよ」

 巽恒はもう戻っては来ないだろう。

 KRE支部長はなぜ手放したのだろう。

 どうでもいいか。

「何でもします。アズマさんが望むことなら、僕はなんだってします」

 アズマさんは何を当たり前のことをと首を傾げた。

 一週間か。

 長い七日間になりそうだった。









     4


 ―――ははっははっははっはっはっはっはhっはっはhっはっはっはっはhhっは。

 誰が笑っているのか。嗤っているのは、

 誰なのか。

 誰ならこの状況を最も、

 嗤えるのだろうか。


 ―――いたのは、

 ただの女。僕の興味の外。


(『エバルシユホフ』より)





     ****


 ノリウキが眼を開けないまま、一週間が経った。

 見舞いに行くのも世話をするのも全然苦にならないけど、一つだけ、我慢ならないことがある。

 平勢井穣生ひらせいジョウ

 ノリウキの幼馴染だか何だか知らないけど、後から出てきて最重要関係者みたいな顔をしないでほしい。

 それにノリウキを騙して連れ去ったうえに、眼の前で飛び降りを許すだなんて。

 こんな奴と一緒にいたら次は無事では済まない。

 今度こそ、ノリウキは俺が守るんだ。

「機嫌が悪そうね」セイルーにもからかわれるし。

「悪そうじゃなくて悪いんだよ」

「そんなに気に入らないなら殺しちゃえばいいのよ」

 壁伝いにぐるりと取り囲む、巨大水槽内の生き物がぼちゃんと音を立てて跳ねた。

 床に水の塊が飛び散る。

「あの子は気が小さいのよ」セイルーが掃除用具入れを指差す。「ちょっとした殺意に反応するの。ほら、拭いて」

「俺がやるの?」

「他に誰がいるの?」

 いいように使われている気がする。

「いいように使ってあげてるのよ」セイルーが得意そうに言う。「チューザの思い通りになんかさせない」

 チューザというのは、ヨシツネさんの妹。

 セイルーは、ヨシツネさんの妹の従姉なので、ヨシツネさんの従姉か従妹ってことになる。

 血のことはいまはどうでもいい。

 いつになったらノリウキと話せるんだろう。

 ノリウキのお父さんもお母さんも心配してる。ノリウキの兄貴はしばらく仕事を休んで付きっきり。

 ノリウキが眼を覚ましたとき、それがノリウキじゃなかった場合。

 ヨシツネさんが蘇らせたとかゆうキサガタって人だったら。

 でもノリウキだったら自殺を選んじゃうのか。だからキサガタって人がノリウキの代わりをするってゆったんだっけ。

 いろんなことがありすぎて。

 疲れちゃったな。

「嘘? チューザが?」セイルーが電話しながら叫んでいる。「わかった。行くわ」

「どうしたの?」

「チューザが」

 後継者を殺した。

「後継者って」

 まさか。

「ムダくんの息子のことじゃないわ。ああ、いいえ、そいつもムダくんの息子には違いないか」

「ムダくん?」

「こっちの話よ。もう死んでるから」セイルーが深く息を吐いた。「それより、行かないと。付いてきなさい」

 辺鄙な山間にある古い洋館。

 通称、家具屋敷というらしい。

 なんで家具屋敷というのか、聞こうと思ったけどその必要はなくなった。

 家具がすべて、ニンゲンでできている。そうゆう趣味の悪い屋敷だった。

 エントランスホールの大階段を上がった先の部屋。

 甘ったるいような、それでいて渋みがある妙なにおいが漂う。セイルーが平気な顔をしているので、慣れていると感じないのだろうか。他人の家のにおいみたいに。

 テーブルも椅子も本棚も照明も、全部、ニンゲン。

 気持ちが悪いなんてもんじゃない。

 出来るだけ周囲に焦点を合わせないように。

「座ったら?」セイルーは相変わらずなんてことないみたいな顔で。「わたしのお付きをしたいならいいけど」

 だって座るったって。

 それは椅子じゃないし。

 そんな問答をしているうちに、ヨシツネさんの妹と、ヨシツネさんと、クオロと、白い髪の男がやってきた。ヨシツネさんは俺を見つけて複雑な表情を浮かべた。

「ノリウキならまだ意識戻ってないよ」

「そか」ヨシツネさんの表情が更に曇る。

「私語は屋敷を出てからになさいな」セイルーが俺に肘鉄をくれる。「チューザ、何人殺せば気が済むの?」

「わたくしは朱咲スザキでしてよ?」ヨシツネさんの妹が言う。「あなたこそ、私語は慎んではいかが?」

「本題でしょ? あんたの吊るし上げだってわかってるんだから」

 不意に強烈な、眩暈がする。

 においだ。

 柔らかそうな長い髪の女が立っていた。その傍らに気の強そうな女。

「座りなさい」気の強そうな女が声を張り上げる。

「ウチがゆうてへんことを言わんといてな?」髪の長い女が言う。眠くなりそうなくらいゆっくりした口調だった。「廊下に見たことない空気があったさかいに。ちょお、見てきてくれへん?」

「最初から席を外せと仰れば従いますけど?」気の強そうな女はそう言い残してドアの向こうに消えた。

「気ィの強いんが長所やさかいに。堪忍な?」長い髪の女が言う。ゆっくりと椅子に腰掛けた。

 ぎいと鳴ったその音は。

 椅子が軋んだ音じゃなくて、椅子になってるニンゲンの奇声。

「よお来てくれはったなぁ。ウチのかあいらし子、全員いはる? 出席取ろか?」

「おば様、ご機嫌麗しゅうございます」セイルーがわざわざ立ってお辞儀した。

「はじめまして」肘鉄が飛んでくる前に俺も真似した。「えっと、僕は」

 て、ちょっと待って。いま。

「外出用の脚よ」セイルーが小声で呟いて、義足をぶらんと動かす。

 脚があるんなら。

「俺要らなくない?」

「失礼します。紅茶をお持ちしました」気の強そうな女が荒々しくドアを開けて、ティーカップを4つテーブルに置いてから出て行った。

 おば様とやら。セイルー。ヨシツネさん。ヨシツネさんの妹。

 これで4つ。

「なに?飲みたいならあげるけど?」セイルーが俺の前にカップをずらした。

 別に欲しくてカップを見てたわけじゃない。

 数が少ない。ここにいるのは、ああそうか。

 頭数としてカウントされていないということか。

 クオロ。白い髪の男。それと俺。

 そういえば、白い髪の男がいない。

「毒は入ってないと思うけど、美味しくもないわよ」セイルーがどうでもよさそうに言って身を乗り出す。「そんなことよりおば様、お母様からも申し遣わされていますのよ。チューザが好き勝手していますことに対して」

「せやからね」おば様とやらが言う。「ウチがゆうてへんことを言わんといてな? 久しぶりやさかいに。熱が入ってはるんもわかるんやけど」

「出過ぎた真似をしました。ごめんなさい」セイルーが頭を下げる。

「ルーは素直なとこが長所やなぁ」おば様とやらが紅茶を一口すする。

 ヨシツネさんは、紅茶のにおいを嗅いで顔をしかめた。

「ねえ、チューザ? あんたからおば様にお詫びすることがあるでしょう?」セイルーが鋭い眼で睨みつける。

 ヨシツネさんの妹は、全然動じていない。

 正面のセイルーに一瞥くれてから口を開く。

「ですから、わたくしはチューザではなくてよ。もう、何千回お伝えしたらわかっていただけるのかしら」

 壁かけの古びた時計の針が動く。

 針は文字盤の裏側にいるニンゲンが動かしている。

「何千回でも何万回でもわからないわ」セイルーの声が上擦る。「あんたがおば様とムダ君の子どもを殺して、ゲングウに産ませたムダ君の子を匿ってるの、知ってるんだから」

「知っているからどうするというの? わたくしの子も殺すのかしら?」

 おば様とやらが手を叩く。ぱん、という音が壁に反響する。

「ほんまに、スーとルーは仲良しやなぁ」

「何事かございましたか?」ドアが開いて気の強そうな女が部屋中をぐるりと見渡す。

「呼んでへんねんけどなあ」おば様とやらがうんざりしたように首を傾ける。「ああ、せやった。羊羹。紫芋のな。食べたいさかいに。買うてきてくれへん?」

「かしこまりました。では、一旦失礼します」気の強そうな女が深々とお辞儀をして退室する。

「悪気はあらへんのやろけど、親族会議にアレは要らんわ」おば様とやらの声音が低くなった。「スーザ、ウチを殺しにきたんやろ?」

「ええ。でも死んでいただけないのでしょう?」

 セイルーが何か言いたげにするが呑み込んだ。

 ヨシツネさんは誰とも眼を合わさずに宙空を見ている。

「ウチだけ殺しても意味あらへんさかいにな」おば様とやらが吐き捨てるように言う。

「ええ。ですから、全員殺すことにしましたの」ヨシツネさんの妹の口の端が釣り上がる。「お母様はとっくに殺しましたから、次は、ベイ=ジンと呼ばれる外向けのお顔。あなたが死ねば、お母様のもう片割れが出てきますから。そうしたらあとは、お兄様と一緒に実家に帰るだけですわ」

 一瞬。

 瞬きした間に。

 おば様とやらの真後ろに。

 白い。

「ロー」おば様とやらが微動だにせずに言う。「なんのつもりやろか」

 白い髪の男が、おば様とやらの白い首筋に。

 鋭い刃物を当てている。

「あんたはウチのもんと違うん?」

「俺から言うことはなんもないよ」白い髪の男が言う。目線はヨシツネさんの妹に。「朱咲ちゃんよ。いつでもやれっけど?」

「お兄様。お召物を汚したくなければ、あちらのほうまで下がってくださいな?」

「なあ、朱咲」ヨシツネさんがやっとそれだけ言う。

「スーザ」おば様とやらも言う。溜息も聞こえた。

「さあさ、お兄様。眼に毒ですわ。お立ちになって」ヨシツネさんの妹が無理矢理ヨシツネさんを壁際に追いやる。「ビャクロー」

「あいよ」という返事が早いか。

 黒が。

 飛び散って。

 遅れて。

 生きていたモノが。

 床に。

 音が。

 しなくなった。

 咄嗟に聴力を遮断したけど。

 視覚をどうにかするのを忘れてて。

 黒の残像が焼きついて消えない。

「ねえ、ちょっと大丈夫?」セイルーが俺の顔の前で手をひらひらさせる。「見えてる?」

 さっきの部屋とは違う。

 クラクラと眩暈のにおいはするけど。

 さっきとは違う時計が壁にかかっていた。

「見てよこれ」セイルーがスカートの裾をつまんで持ち上げる。「べったりよ。もう、台無し」

「着替えるなら出てるけど」

「それだけ気が遣えるなら大丈夫そうね。ええ、そうしてちょうだい。て言いたいところだけど」

「手伝えって?」

「着替えがないのよ」

「俺もないけど?」

 セイルーが真っ黒てことは。

 俺も真っ黒だった。鏡なんか見なくてもわかる。

 ひどいにおい。

「ここ、おば様の別荘なの」

「探せって?」

「衣裳部屋があるはずなの」

「買ってきた方が早くない? それか帰るとか」

「帰るにしても裸じゃ帰れないわ」

「だから、帰ったら着替えれば?」

「おば様の血なんか付けて帰ったらどうなるかわかってるの?」

「どうなるのさ」

「わたしは餌になんかなりたくないの。お願い。早く」

 ねえ、なんで。

「服探してきて」

「一人っきりになって大丈夫?」

「問題ないわ」

 なんで。

「目撃者まで消したら、誰がお母様に報告するのよ」

「利用価値があるわけ? わかった」

 役に立つかわからないけど、内側から鍵をかけてもらった。

 さて。

 この広い家具屋敷のどこに着替えがあるのかってことだけど。

「顔くらい洗うたったら?」ヨシツネさんの声が降ってきた。上階の手すりに頬杖をついている。「部屋にタオルあったやろ?」

 無視するにしても眼が合っちゃったし。

「どのツラで話しとるんかゆうてな」ヨシツネさんが自嘲する。「俺は謝らへんさかいにな」

「別に謝ってほしいわけじゃないし」

「そか」

 意味ない会話。

「着替えどこにあるか知ってる?」

「着替え?」ヨシツネさんが俺を見てああ、と声を上げる。「確かにそのほうがよさそやな」

「知らない?」

「ここ来るん二回目なん。聞いてみよか?」ヨシツネさんが自分の後ろを指さす。「ああ、あかん。取り込み中やったわ」

「取り込み中? なにそれ」

「さあな。なんやろ」ヨシツネさんが他人事のように肩を竦める。

「別に一人で探すし」

「もうノト君に会わへんさかいに」

 だから。

「それがなに? 謝らないんじゃないの?」

 もうとっくにイライラは通り越してる。

 腹立たしいし、憎らしいし、煮え繰り返りそう。

 誰が。

「ノリウキが眼覚まさなかったら」

 殺してやりたい。

 平勢井穣生なんかどうだっていい。

 そうだ、そもそも誰のせいでこんなことになったのか。

「ノト君はお前のもんと違うやろ?」

「ヨシツネさんのものでもないじゃん。俺はノリウキの親友だけど」

 睨んでいた視線をヨシツネさんはゆらりとかわす。

 ノリウキを殺したのは。

 ノリウキをあんな眼に遭わせたのは。

「まだ眼ェ覚ましてへんのやね」

「誰かさんが殺したせいでね」

「俺は」

「殺してないって? いい加減認めなよ」

 ヨシツネさんが立ち去ろうとするので呼び止める。

 しぶしぶ足が止まった。背中を向けたまま。

「グンケイ君は? もしかして、ノリウキと同じ眼に」

「門番や門番。外にいてるさかいに」

「仲間外しってこと?」

「俺に権限なんあらへんよ」

「妹?」

「もうええか。着替え探さはるんやろ?」

「ホントに知らない? 嘘吐いてるんじゃなくて?」

「まあ、俺の信用はあらへんやろね」

 今度は呼び止まらなかった。嘘吐いてても本当のこと言っててもどっちにしろ。

 着替えの場所はわからない。

 適当に探すにしても。

 屋敷の家具が気持ち悪すぎる。

 ヨシツネさんが頬杖ついてた手すりだって、眼の前に見える大きな階段だって。

 いま大きな音で鳴った時計だって。

 ぜんぶ。

 ニンゲンなんだから。

 早く帰りたいけど、着替えがないとセイルーは動いてくれなさそうだし。

 あ、そうか。いいこと思いついた。

 グンケイ君が門番で外にいるんなら。

 そうと決まれば。

 なにか。

 変な感触のモノを踏んだ。

 なんだろうと。

 視線を下ろしたら。

 黒い絨毯の中央に、何かが転がっている。

 ちがう。

 絨毯はもっと明るい赤だ。周囲と色が違ってて。

 そこに。

 転がっているモノは。

 外に通じる扉の前に、ニンゲンが落ちていた。

 家具?

 嗅ぐ?

 までもない。

 家具じゃなくてさっきまで生きて動いていた。

 それは。

「ビャクローだ」扉が開いて、グンケイ君が顔を出した。「俺じゃない」

「別に疑ってないよ」

「ならいい」と言うと、扉は無遠慮に閉まった。

 さっきまでおば様とやらと一緒にいた気の強そうな女。

 死んでる。

 殺された。

 なんで?

 芋羊羹にかこつけて洋館を追い出されただけなのに。

 なんで?

 なんでみんなそんな簡単に殺すんだろう。

 俺がおかしいのかな。

 そんなわけない。

 俺以外がみんなおかしいだけ。

「着替えをご所望ですかしら」

 ヨシツネさんの妹の声がして振り返る。

 視線を合わせようと思った視界に、何かが飛び込んで来て顔に命中する。

 タオルだった。

 しかもご丁寧に湿らせてある。

「まずはお顔をきれいにしたほうがよろしくてよ。セイルーなど全裸でもなんら問題はないですけれど、お兄様のお友だちに窮屈な思いをさせてはわたくしの信用に関わりますもの」

「そもそも誰のせいでこんなことになってるのかってところを気にしてもらいたいけど」

「あら、わたくしのせいだと仰りたいの?」

 責任の所在を明らかにしたって意味ない。

 この女は、そうゆうのを飛び越えた領域に鎮座している。

「あなたは、お兄様を傷つけたいのかしら? それとも傷ついているお兄様を見て嗤いたいのかしら?」

「何が言いたいの?」

「セイルーに付いていたらいずれ獣と掛け合わされるのが落ちですのよ。そんな取り返しのつかないことになる前に、どうかしら? わたくしに付いては」

「誘ってるの?」

「ええ、セイルーと心中するつもりもないのでしょう?」

 それは。

 そうだけど。

「わたくしが、お兄様のお仲間だと思っていますの?」

「仲間じゃないの?」

「逆ですわ」妹は妖しく微笑む。「お兄様が、わたくしのお仲間なのです。お兄様側に意志などありませんの。わたくしに従うという、盲目的なご意志以外は」

「ヨシツネさんの弱みを握っていいなりにしてるだけじゃないの?」

「ええ、そうですわ」妹はちょっと面食らったようだった。「よくおわかりですのね。ですから、お兄様のお友だちであるあなたも、わたくしの手の中に入れておきたいの」

「そうやってヨシツネさんを苦しめたいの?」

「ずっと独り占めしてきたおもちゃをお兄様に奪われて挙句返ってきたら修復不可能なくらい壊れていて。さぞ怨みつらみも積もっておいででしょう? ですが、セイルーに付いていることだけは看過できませんのよ」

「そっちに付いたほうがこっちのメリットも、そっちのメリットもデカいってこと?」

「あなたはもっと賢いはずですわ」

 別に賢くなくたって馬鹿だってどっちだっていいんだけど。

 とにかくものすごく嫌な予感がして。

 ニンゲンが敷いてある絨毯を蹴って。

「ねえ、いる?」鍵はかかったまま。「大丈夫?」

「来ないほうがいいわ」セイルーの声がした。

「大丈夫なの?」

 絶対大丈夫じゃない。

 大丈夫じゃないから。

「大丈夫。大丈夫だから」セイルーの声は落ち着いている。「チューザに逆らわないほうがいいわ。あの子、もう」

「よけーなことくっちゃべらんほうがいいね」白い男の声がした。ドア越しでもよく通る。「長生きしたくないの?チンロンちゃんよ」

「その名前で呼ばないでってゆってるでしょ」

 どうしよう。

 ドアを蹴破って入ったとしても、死体が一つ増えるだけだ。

「聞こえてるんでしょ? 聞こえてるんならさっさと」

「なんで殺すの?」口が勝手に聞いてた。「おば様って人も、そのお付きの人だって。ヨシツネさんの妹に言われてるの?」

「部外者が生き延びる方法は一個しかないよ」白い男の声。「なんにも知らないフリして黙っていなくなること。そうじゃないと、マジにいなくなっちゃうよ?この世から」

 俺はもう。

 部外者じゃない。

「セイルーを殺す理由を教えて。教えてくれたら」

「あ?」

 一瞬音が消えて。

 どかんと。

 ドアに穴が開いた。

「素人がでっけぇツラつっこんでくれてんじゃねえよ」穴から白い男の眼が睨んだ。「てめぇの命がなんで永らえてんのか、もっかいよく考えてみろや。あ? 俺が優しくしてるうちによ」

 なんで一方的にキレられてるんだろう。

 全然わかんないんだけど。

「俺を殺すと都合が悪いはずだけど」

「ツネちゃんに嫌われっからね」白い男がドアの穴から離れる。「わかってんならさくっといなくなってくれや。生き映し君の容態とか芳しくねんだろ?」

「ビャクロー」妹がすぐ後ろにいた。

「チューザ。殺したらどうなるかわかってるの?」セイルーが言う。ドアの穴からじゃ姿は見えない。

「ビャクローが言っている通り、お友だちには手を出しませんわ。実際、出していないでしょう? むしろ守ってさえいますのに」

「ならいいわ。さっさとやりなさいよ」

「セイルー!!」穴をのぞこうとした眼を。

 冷たい手で塞がれる。

 音は、

 いつだって遅い。

「わたくしの後ろで、お兄様が地獄に堕ちるところを見届けるとよろしいですのよ」

 視界が開けた。

 ドアをこじ開ける力は俺にはない。

 確かに、

 それもいいのかもしれない。

 けど。

「どうなさいましたの?」ヨシツネさんの妹が言う。

「帰ってもいい?」

 ヨシツネさんの妹は、大きな眼をさらに大きく見開いて。

 俺をノリウキのいる病院に送ってくれた。着替えもくれた。

 実際に送ったのはヨシツネさんの妹じゃないけど。

「じゃあ、ここで」グンケイ君が眼線だけの会釈をする。

「もう会わないと思うけど」

 皮肉じゃなくて事実を言ったつもりだった。

「ヨシツネさんによろしく」

 グンケイ君は肯きもせずに車を発進させた。

 さようなら。

 ノリウキの病室は、この病院で一番高い部屋。地上からの距離じゃなくて一日当たりの個室代の話。

 ノリウキの兄貴もここで寝泊まりしてる。いまちょうど席を外してるみたいだけど。

 平勢井穣生は出禁になってるけど、俺はフリーパス。

 空気が淀んでいる気がして窓を開ける。

 夏が近づいているにおいがした。

 ふと振り返ったら。

 ノリウキの兄貴がベッドに縋りついているのが見えた。

 まさか。

 いや。

 でも。

 そんな。

 兄貴が泣いてる。

 ノリウキが。

 身体を起こして。

 あれ?

 ノリウキの口が動いているのに。

 声が。

 音が。

 なんにも聞こえない。

 ノリウキの兄貴の涙は悲しいときの涙じゃないのに。

 ノリウキが不思議そうな顔で俺を見てる。

 呼んでる。

 読んでる。

 のになんで。

 あんなにうるさかった雑音だって聞こえてこない。

 なにも。

 おとが。

「罰が当たったのよ」

 セイルーが教えてくれた。

 ああ、なんだ。

 やっとわかった。

 気づかなきゃよかった。

 俺の送ってた文字式メッセージのカラクリ。

 ダーは双子だから言わなくたってわかる。

 ノリウキは親友だから言わなくたってわかる。

 ヨシツネさんは。

 ただとてつもなく察しがよかったから。

 だって、ノリウキの声が聞こえなくたって。

 俺は親友だから。

 何を言おうとしてるのかくらいわかる。

 たったそれだけのこと。

 だったのに俺は奇跡だと勘違いしてはしゃいで。

 莫迦みたいに愚か。

 なんにも聞こえないから俺が喋ってるのかもわかんない。

 だから。

 心配して俺に声をかけてくれてるノリウキが。

 俺の知ってるノリウキなのか。

 俺の知ってるノリウキのフリしたニセモノなのか。

 見分けがつかない。

 どっちなのか。

 どっちでもいいか。






     5


 ―――「それで終わり。なんもかもおしまーい」


 ―――「いま帰るから」

「待ちきれませんわ」

「待っててよ」


(『エバルシユホフ』より)





 ―――ツネが。

 逃げたのは。

「お前のせいやない」

「僕のせいだよ」


(『香嗅厄祕ファニチェア』より)




 *****


 テレビでもネットでも桓武建設の御曹司がアイドルよろしく出ずっぱりなのは、悪夢以外のナニモノでもないだろう。

 そのお陰か、義兄がめっきり顔を見せなくなった。アイドルプロデュースに忙しいのは大いに結構なことで。

 能登は意識が戻って大学にも復帰できたらしい。

 その反動か、屋島はまた喋らなくなったようで。自慢の耳が聞こえなくなったとかいう噂もあるが。

 こちらの近況といえば。

 事務員の奥陸さんが寿退社してしまったので。あ、いや、本当に寿退社なのかは置いておいて。

 支部はまた支部長一人。

 静かなのはいいことだが。

 大学と両立させるのはちょっと面倒、いや、かなり面倒なので。

 新しい事務員を募集したら。

 まさかの7人も応募があったので、一人ずつ面接がてら試用期間。

 あとでわかったのだが、この7人は全員知り合いで。あ、いや俺が知り合いなんじゃなくて、7人が知り合い同士なので、7人組だったわけだが。

 支部の規模的に7人全員を雇うわけにいかないが、そこそこ能力が高いので、本社の方とも相談して、数人だけ支部所属にして、残りを本社の方で引き取ってもらうことにした。

 さて。

 誰にするか。

 ぶっちゃけ、あいつ以外なら誰でもいいんだが。

 あみだくじでも作るか。

 駄目か。

 そんなことをしているうちに、3年経ってしまった。





 ******


 ―――ツネが逃げた。

 たったそれだけのことで。たったそれだけのこと。捕まえたところで摑まえた気になっているだけで。連れ戻したってまた逃げる。それがわかっていてどうしていたちごっこをおっぱじめようと。

 追いかけるから逃げる。なるほど、慧眼だ。


(『香嗅厄祕ファニチェア』より)

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己ト己、共ニ心亘ル 伏潮朱遺 @fushiwo41

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