第2章 末期の林檎

     1


 ――死んだんだ。少なくともあの人は、

 そう思っている。それでいい。そのほうが、

 あの人の中に、

 残れる。強くつよく強烈に。

(『エリストマスク』より)



 *


 印を付けていたメッセージに返信する。

 すぐに返答がきた。

 オンでもいいから直接話そうと提案したが、向こうは顔出ししたくないとのこと。

 そんなこといったって。

 顔も素性も知ってますよ?

「ご自身の知名度をもうちょいっとよくご理解されたほうがいいスよ、総裁さアん」

「先に言っとくけど」音声だけの応答。「いま君のところで臨時バイトしてるそれを煮ようが焼こうが、僕への牽制にも脅迫にもならないってこと。勘違いしてるみたいだから」

 自分の恋人を“それ”ときたか。

 パートナを物扱いする系か。最低だな。

「ええ、はい、よくわかりました。元よりあなたに危害を加えるつもりはないんで。お願いがあるんスよね。確かなスジからの情報なんスけど、いま彼の所有権?はあなたにあると聞いたもので」

「ああ、なるほど」音声が嗤った。理解してくれたっぽい。「彼を、どうするんだろう」

 親切にも会場を貸してくれた。ちょっとした講堂。宗教団体の所有物だそうで。

 ステージに座る俺。

 後ろに助手が吊るされてる。もちろん首が絞まらないように工夫して吊ってる。

「入っていいよーん」到着の報せが入ったので声を出した。

 ゆっくりと扉が開いて、影がのぞいた。会場はわざと薄暗いけどPCモニタ周りだけ仄明るい。

「ああ、ちゃんと閉めてきてね。通行人に見られたいシュミがあるんならそれでもいいけど」

「共犯やって聞いたんやけど」お兄様が後ろ手に扉を閉めた。

「共犯とゆうか」バラしたのか。「取引とゆうか、なんとゆうか。まァ、お互いに得るところがあったので、そんな感じかな」

「後ろの御曹司は観客なん?」お兄様が長椅子の間の通路を進む。木の床を草履が滑る音が響く。「降ろしてくれへんかな。気が散るさかいに」

「え、あ、御曹司なの? マジかー。知らなかったなァ」

「白々しなぁ。さっさと能登くんの居場所聞こか?」

「いやいや、前払いが礼儀っしょ? 自傷行為をやめたってとこ、見せてよ」

 お兄様が羽織りを脱いで長椅子に放る。

「無賃でヤらせるん、前代未聞やで?センセ」

「払おうとしてるじゃない、とっておきの情報。ぶっちゃけカネより価値高いよー?」

「せやな。誤情報やったら命の保証はできひんさかいに、そんつもりで」

 リモコンで、助手を吊るしているロープを操作する。床に足が付いたのを確認して暗幕を降ろす。助手と俺の間を分断する形になる。

「帰っていいよー。おつかれー」

「え、あの」助手はここまでのやり取りをすべて聞いていた。「あ、はい。お疲れ様です」

 後ろ髪を引かれているような返答だったが、ほどなくしてステージ横に消えた。

「まさか生で配信してへんやろな?」お兄様がステージによじ登る。登ってからステージ脇の階段を見つけて舌打ちをしていた。

「まっさかー。アカウント停止どころの騒ぎじゃないじゃん」

「どっち?」

「どっちって。うーん、そうだなァ。是非あなたで筆下ろしさせてもらいたいなァと」

 お兄様が呼気だけで嗤う。

「なんか誤解してるっぽいけど、リウとは別にそうゆう関係性じゃないよ」

「せやのうて。お前、女殺らはったときに」

「女なんかノーカン。それに死んでたんで。なんのカウントにもならないね」

 お兄様が「クソ最悪やな」と呟いて帯を解いた。

 背中が痛いだの下手くそだの散々文句を言われたが、カメラ映りのアングルに意識の半分以上を割いていたので仕方のないことで。

 一生分の貯金をつぎ込んでも抱けない貴重さとゆう純粋な興味から出した条件だったが、そこまで気持ちよくなかった。

 やっぱり。

 リウのほうがいい。

「ほんなら、ヤることヤったさかいに」お兄様が着物を直しながら言う。「能登くんの居場所」

「はーい」

 お兄様のケータイが震えた音がした。

「送ったよー」

「ほんなら、さいならね」お兄様は何の躊躇いもなく迷いもなく出て行った。

 脱力。

 疲労感。

「満足してそうにないね」配信の向こう側はざまあみろと言わんばかりの雰囲気バリバリで。

 いつもの通り音声だけ。

「いやはや、俺には高級すぎましたね」

「お前本当に居場所教えたの?」

「さァ、ご想像にお任せしますよ。では、本日の配信はここまで。おつかれさまー」

 PCの電源を落として、配信機材と共に鞄に詰める。

 暗幕を上げて、ステージの床を軽く拭く。

 真っ暗闇。

 眼は慣れた。

 ステージ奥に移動させた教壇の内側をのぞく。

「そろそろ思い出してくんないとさァ」頭部を掴んでこちらを向かせる。

 硬めの髪質が指先と手の平に心地よい。

「なんで俺が川に飛び込んだのか、とかさァ」至近距離で見つめる。「もっかいちゃんと説明しないとダメ?」

 口に咥えさせていた器具を外して、滴る唾液を舌で受ける。

「ねェ、リウ?」

 何か言おうと開いた口を塞ぐ。

 苦しそうにもがく舌を吸う。

 ああなんて甘美な。

 この怯えきった眼さえなければ。

「な、んで」

「はこっちだよ。なんで、なんで俺のこと」思い出してくれないのか。

 思い出したくないのか。

 そんなはず。

 そんなはずはない。

「カラダに聞いてもいい?」

 リウの肩がびくんと震えた。

「怖いの?」

 リウは首を振る。

「怖いんでしょ? 俺、何するかわかんないし」

 リウの両手は後ろで結わえている。両足首の拘束を解いて、足を肩で抱える。

「や」めて、なんか言わないで。

 口の拘束器具を付け直す。

 ベルトを緩めようと思ったけど、足の抵抗が激しいので諦めてファスナだけ下ろす。

 声にならない声を脳天で浴びながら、肉を外気に曝す。

 しゃぶりついたらもっと声が高くなった。

 丁寧に優しくしようと思ったけど、駄目だ。こんな扇情的な姿を見せられたら。

 本当は声だって聞きたいけど、お兄様が植え付けた死人の人格に出て来られたら困る。

 念入りにしゃぶっていたら程よく硬さが増してきたので、急いで腰を落とした。

「ね? わかる?リウ。こうやって何度も何度も何度もヤったんだよ? 思い出して?」

 リウは気を失っていた。

 強く揺すって起こす。

「しっかり見て? ね? あのとき出せなかった熱いのを俺にちょうだい?」

 締めて動いて刺激を与えても、どんどん硬さがなくなって。

 抜けてしまった。

 あのときみたいに。

「気持ちいいって」

 ゆってよ。

 なんで。

 なんでなんでなんでなんで。

 リウはまた気を失っている。

 起こしても。

 駄目なら。

 せめて。

 熱だけでも。

 ――それ、世間では強姦て言うんだけどな。

 うるさい。

 ――よっぽど忘れたかったんだね。君のことなんて。

 うるさいうるさいうるさいうるさい。

 死人ごときが、俺のだいじなリウを語るな。

 駄目だ。

 だめだだめだだめだ。

 止まれ。

 とまれとまれとまれ。

 機材とリウをカートに載せて裏の駐車場へ。

 荷台に載せてハンドルを握る。

 さて。

 どこへ行こうか。

 電話だ。

 ご令嬢か、雇い主か、それとも。

 非通知。

「人違いだよ」

 リウの声がした。

 違う。リウは後ろの荷台にいるはず。

 切れた。

 また電話。

 非通知。

「こんばんは。警察です」

 切った。

 そんなはずない。

 なんで警察から電話がかかって来るんだ。

 あり得ない。

 あのときだってちゃんとやり過ごして。

 また電話。

 非通知。

「君、ほんとに能登教憂を攫ったの? 荷台で死んでるの誰?」

 切れた。

 なんだこれ。

 俺の頭の中から聞こえるのか?

 疲れてるんだ。

 早く帰ってリウを解放してあげないと。

 解放?

 車を降りて荷台を確認する。

 配信機材とPCと折り畳んだカート。

 あれ?

 ここに。

 いたはずの。

 リウが。

 冷たい。

 つめたいそれは。

「あれ?」

 だれ。

 これ。

 生きてないじゃないか。

 ノイズ。

 ちりちりと放電する。

 ぱちぱちと爆ぜる。

 雨が降っていた。

 ホースで水を撒く。

 雨水か水道水か、もうぐちゃぐちゃでわからない。

 挿れたら気持ちいい。

 汚れたから綺麗にしなきゃ。

 でた。

 証拠が残る。

 大丈夫。

 だいじょぶじゃない。

 生きてる?

 死んでる?

 ああ、駄目だ。

 これじゃあ。

 こんな女のことでリウがいっぱいになってしまう。

 捨てなきゃ。

 誰にも見つからないように。

 行かなきゃ。

 誰もいないところへ。











     2


 ――「ああ、すまんね。頭おかしうなっとるみたいやわ。今日、何日かわかる?」

 (『多詰みは足る』より)



 **


 急いでタクシーをつかまえる。ハイウェイ代も長距離料金も構わなかった。

 早く。

 はやく会いたい。

「ツネちゃんちょいっと落ち着いて」ビャクローが視界に飛び出してくる。

 やっとつかまえたタクシーを断ってしまった。

 テールランプが遠ざかる。

「なにしはるん?」

「なにって。ツネちゃん、生き映し君に会ってどうしたいのさ」

「攫っといて何ゆうたはるの? そもそもお前んとこの黒いのが」

「もうぶっちゃけちゃうけどさ、主人は、生き映し君をツネちゃんの洗脳から解放するために悪を買って出たんだよ。主人とツネちゃん、生き映し君にとってどっちが悪だと思う?」

「はぁ? いまそないなこと」

 ビャクローの眼が、真っ直ぐこちらを射抜く。

 思わず逸らした。

「いい加減、眼ェ覚しなよ。悪足掻きしてるって、ツネちゃんだって気ィついてるでしょうに」

「せやけど」

 キサが生き返ったのだ。

 キサは。

「あれはキサっちじゃないよ」

「わーっとるわ、そないなこと。せやけど」

「死人は生き返んないよ?」

 なんで。

 なんでそんなこと。

「お前が」

「誰も言わないからね。誰もツネちゃんを責めないし、誰もツネちゃんを咎めない。なんでだと思う? みんなツネちゃんのことがだいじだからなんだけど。そこらへん、もうちょっと自覚してもいんでない?」

 夜風のせいか頭が冷えてきた。

「随分俺に意見しはるんやね」

「サダくんいなくなっちゃったしねー。ぶっちゃけもう俺くらいしか、ツネちゃん護れないんだもんよ」

 外灯が点滅する。

 白が膨張する。

「なんで俺が主人放っぽいてツネちゃんのとこにいると思う?」

「そんなん北京の」

「ベイ様の命令ってのもあるけど、じゃあなんでベイ様はツネちゃんを護れってゆったと思う?」

「せやから俺が」

 後継者だから。

 ビャクローだってそう言ってたじゃないか。

「違うん?」

「他の後継者にはなくて、ツネちゃんだけにあるもんがあるのよ。何だと思う?」

 前も後ろも闇。

 どっちから来たんだろう。

 どっちに帰ればいいんだろう。

「大丈夫? 疲れちった?」ビャクローが顔をのぞき込む。

「お前の目的はなんや?」

「ゆったじゃん。後継者の爪と牙んなって」

「せやのうて。もっと大きなもんが」

「ないよ。ない」ビャクローは大げさに首を振って手を挙げた。

 タクシーが止まる。

「じゃあ帰ろっか。ツネちゃんが帰りたいとこに」

 支部に着いてタクシーを降りる。ビャクローは「んじゃ、ごゆっくりー」と言い残してどこかに消えた。

 2階に直接入れるドアの前でケータイを鳴らす。

 数コールで切られて、階下に移動のタイムラグ。鍵が開いた。

「ただいま」

 ひどい顔だった。

「ひどい顔やな」自分で言っていておかしいと思った。

「帰ってこないかと思った」

「ゆうたやん。泊めてほしい、て。まだ泊まってへんし」

 いま何時だろう。

 何時でもいいか。

「トモヨリは?」

「高笑いして帰った」

「あのボンいっぺん死ぬか地獄に落ちたほうがええのと違う?」

「同感だ」

 適当にシャワーを浴びて、ベッドに入った。

 照明を落とす。

「寝はった?」

「眼てるうちにお前がいなくなったら困るから寝れない」

「なんやのそれ」思わず笑った。

「前科があるだろ。忘れたとは」

「忘れたわ。そないな昔のこと」

 沈黙。

 シーツが擦れる音。

「いつまでいられる?」

「さぁなあ。考えてへんわ」

「いなくなってもいいが、いなくなる前にいなくなるって言ってから」

「憶えてたらな」眼を瞑る。「おやすみ」

「おやすみ」

 たぶん、寝てない。

 寝たら最後、俺がいなくなると思っている。

 いなくなるって。

 どこに?

 行くところもないのに。

 客がいなかったら、何もできない。

 カネも稼げないし、いる価値も。

 なんにも。

 ないんじゃないか。

 何も。

 元より何も。

 身体の芯が冷えてる。

 ここはあの屋敷じゃない。

 況してや客の家でもない。

 じゃあ、ここは。

「どうした?」上から声が降って来る。

 社長さんが上体を起こしている。

「寒いのか?」

「なんでも」

「震えてるのわからないのか?」

 肩に手が触れる。

「何があった? あの比良生禳とかいう」

「客やん。あんなんただの」

 カネを。

 もらってないじゃないか。

 カネを。

 もらわなければ。

「能登の居場所は? 聞けたんじゃないのか」

「聞いたよ。聞いたさかい。せやけど」

「明日行くんだろ?」

 行って。

 どうするんだ。

「おまは」

 能登教憂が死んでも。

 妃潟が生き返っても。

「ええんか? 俺が」

 ここにいなくても。

 どこにいたとしても。

「大丈夫か? 能登は無事だったんだろ? 取り返せばいいじゃないか」

 取り返す?

 いいのかそれで。

「ツネ?」

「能登くん、死んでへんよね?」

「何を言ってるんだ?」

 死んだのか?

 いや、死んでない。死んでないはず。

 だって、

 殺してないんだから。

 死ぬはずが。

「お前はキサガタとやらを選んだんだろ? 能登はそれで犠牲に」

「そんなん、俺が能登くん殺したみたいやんか!」

「そうだろ? 今更何を言って」

 違う。

「本当にどうしたんだ? やっぱり何かあったんだろ? もう隠すな」

 隠してない。

「お前が何をしてようが、何をしようとしようが、俺は否定しないし」

 誰も責めないし、誰も咎めないし、

 誰も、

 止めない。

 だれも、もとめない。

「あかん」

 崩れる。

 がらがらと。

 元々何もなかった空洞に。

 瓦礫の残骸が流れ込む。

「どうした? ツネ?」

 両肩を掴まれる。

 痛い。

 いたい。

 今更虫がいい。

 どのツラを提げて取り戻そうと。

 取り戻す?

 もなにも。

 最初から。

 お前のものじゃない。

「おい? ツネ。おい!!」

 声が遠い。

 膜がかかっている。

 ぬめぬめとした。

 白くて。

 濁った。

「ツネ!!」

 白い。

 白いそれは。

「やっぱツネちゃんちょいとヤバいかもしんないわ」

「どういうことだ? なんだ、やばいってのは。命のことじゃないだろうな」

「命っていうより、うーん、そだねえ」

「勿体ぶるな。大丈夫なのかそうでないのか」

 何の話?

 遠くで聞こえる。

「休ませたのが裏目に出ちゃってっかも。仕事詰まってたほうがいろいろ考えなくてよかったからねえ」

「“仕事”させればいいのか」

「そっち方面で無理させると身体的に限界だしねえ、かといって別の仕事ってゆっても」

「じゃあ俺のところで働かせれば」

「具体的に何すんの?」

 勝手に。

 話を進めるな。

「起きて大丈夫なのか?」

「ツネちゃん、自分の状態わかってっかい?」

 視界が白かったのは、ビャクローのせいだった。

 白い手に顔を挟まれている。

「わーっとるわ」

「わかってないよ。わかってないからこうなったんだって。どする? もっかいキサっちのお葬式する?」

 骨もないのに。

 信仰もないのに。

「ツネちゃんさ、キサっちが死んだの、自分のせいだって思ってない?」

 だったら。

「だったらなんや?」

「おお怖。図星ってとこ? それとツネちゃん、キサっちの葬式、中座したっしょ? そーだった。サダくんに聞いて忘れてたわ。キサっちにちゃんとお別れゆってないからだよ」

 別れなんか。

「お別れ会しようよ」

 嫌だ。

「嫌って顔してんね。そうやって抵抗してるからいつまでも吹っ切れないんだよ」

「やかましな」

 今更なんでお別れ会なんかしなきゃなんないのか。

「えっと、なんだっけ。しゃちょーサン?」

「岐蘇だ。まだ社長じゃないから、そう呼ばれると困る」

 何を勝手に話を進めているのか。

「俺はせえへんよ。そんなん」布団にもぐる。

「ツネちゃん」布団越しに揺すられる。「やるよ。お別れ会。決-めた。やっちゃうよ」

 抵抗するのも疲れた。

 気づいたら、眠っていたらしい。

 枕元のケータイで日付と時間を確認する。

 ああ、次の日の昼だ。

 社長さんからメールが入っていた。

 午前は大学で、午後から仕事。

 じゃあそろそろ帰ってくるか。

「おっはよー、ツネちゃん。よく眠れた?」ビャクローがベランダから声をかける。「みたいねー。良かったよかった。お腹空いてない? なんか買ってこよか?」

「カネ持ってはるん?」

「ないよ。払うのはツネちゃん。俺はおつかい」

「ええわ。朝は食わへんさかいに」

 着替え、と思ったが、持ってきていない。文字通り身一つで来てしまった。

 何しに来たのか。

 逃げて来たのだ。

 能登くんもケイちゃんも取られて。

 ひとりぼっちになった俺を、無条件で受け入れてくれるのはここしかなかった。

 と、言い訳を並べたところで。

 否定されたくなかったのだろう。

 拒絶されたくなかったのだろう。

 ここなら、全肯定と受容が両手を広げて待っている。

 ずるいのはわかっている。

 客だって同じだ。絶対に俺に文句を付けたりしない。

 先代だって、サダだって、俺の根本を揺らがすだけの権力はなかった。

 そうか。

 甘やかされていたのだ。

「ツネちゃん、お買い物行く?」ビャクローが部屋に入った。ベランダに通じる窓を閉めながら言う。

「俺のカネやん。何買わはるん?」

「ツネちゃんそのカッコだと浮くんじゃない? 俺が気ィ回しすぎ?」

 確かに。屋敷と客宅の往復ならいざ知らず。しかも屋敷のあるあの地域は、和装でもまったく浮かないという極めて特異な場所であり。

 学ランはさすがに年齢的に際どい領域だろう。そうゆうオプションならいざ知らず。

 困った。

 他の服を選んだこともなければ着たこともない。

「なになに? 俺選んだげよっか?」ビャクローがおもむろに逆立ちする。白く長い毛が床に拡がる。

「なんでおまが」

「しんみりすんのヤだから言わなかったけどさ、サダくんの遺言でねー。ツネちゃんよろしくって頼まれちって。結構そうゆうとこ律儀なビャクローちゃんなのでした」

「なぁ、ホンマに死んだん?」

「うん。そだよー」

 そんなちょっと出掛けたみたいなテンションで言われたって。

「ゆったじゃん。もう俺くらいしかツネちゃん護れないんだって」

 浮かんだ名前を掻き消す。

「番犬くん?」ビャクローが思考を読んだ。

「ケイちゃんや。名前憶えたって」

「俺間違ってないよー。だって主人のツネちゃんに絶対服従じゃん。そんなのただの犬畜生っしょ?、と」ビャクローが逆立ちをやめて、床に着地する。「あー、逆らわない条件で置いてたんだっけね? ツネちゃんは人語喋れる便利な犬飼いたかっただけだよ」

「あんなぁ、前から思うとったんやけど、なんじょうそないにケイちゃんにつっかかるん?」

「あー見て見てツネちゃん、クモ。ちーっちゃいやつ」ビャクローが床を指さす。

「話逸らすなや」

 社長さんが帰って来ているかどうかを確かめに、うっかり事務所に下りたばっかりに事務員に見つかってしまい、あれよあれよという流れで、仕事終わりに一緒に服を買いに行くことになってしまった。

 というか、欠員の支部の事務員は、“彼女”になったのか。

 知らなかった。知らないほうがよかった。

 急激に頭が痛い。

「なによぉ。アパレル関係なんか私のお友だちいーーーっぱいいるんだから」

「ほおそらええわ。安うなるん?」

「そうやってすーぐおカネの話するんだから。私が買ってあげるってゆってるのよ」

「貸しになるやん」

「貸しを作りたいのよ!」

 駄目だ。本調子ならまだしも、エネルギィの塊みたいなヒデりんをかわすのは。

 骨が折れるどころか修復不可能な複雑骨折になる。

 観念するしかない、か。

「何かあったの?」ヒデりんが聞く。

 なんも、と言おうとしたが。

「むしろ何もなくてここに戻ってこないでしょ」ワントーン下げた声で諭された。

 曇りのない真っ直ぐな視線を避ける。

「ええやんか。俺のことは」

「ちょっと不躾だったかしら? ごめんなさいね。でも、私で何か力になれることがあったら言ってちょうだいね。勝負服を見繕うとか、ネイルのお手入れするとか」

 そのあと帰ってきた社長さんに、仕事終わりの買い物を残業としてごり押し申請していたのは見なかったことにしよう。ちゃっかりしているというか、抜け目がないというか。

 ああ、ここに。

 彼らがいたのなら。

 後ろを振り返って、誰も立っていないことに今更、そこはかとない淋しさを覚える。

 欲しいんじゃない。失ったことに耐えがたいだけだ。

 どうしようもなく欲張りで、どうしようもない意地っ張り。

 あのときには戻れない。

 ああ、そもそも俺が壊したんだった。

「なあ、俺も付いて行ったら残業代浮くだろうか」社長さんが真面目な顔で言う。

「お題目が経費んなるだけやろ? 諦めたったほうがええで」

 社長さんが言わんとしていることはわかる。

 俺の着せ替えショウが見たいのだ。わかりやすいというか欲望丸出しというか。

「そうゆうのは夜やりなさいよね」ヒデりんも見抜いている。

「そうか」社長さんがこれ名案とばかりに肯く。

「そうか違うわ。やらへんよ、俺は」

「そうか」社長さんががっくりと肩を落とす。

「残業代弾んでくれたら試着ムービー撮ってくるわよ?」

「いいのか?」

「あかんわ」








     3



 ――何日経ったのだろう。何週間でも何ヶ月でも同じ。何年だって変わらない。

 ぼくは罰を受けている。

(『多詰みは足る』より)


 ***


 息継ぎのために顔を上げる。飛び込み台に立っている姿が眼に入った。

 まさか。

 と思ったときにはもう遅い。

 落ちた。飛び込みのフォームとはほど遠い姿勢で。

 急いで救助する。

 ぐったりした身体を抱き起こす。

 名前を呼んでも眼を開けない。水を飲んだのか。

 見様見真似で心臓マッサージをする。

 気道を確保して、口から息を吹き込む。

 誰かが可哀相にと言う。

 誰もがもう間に合わないと言う。

 うるさい黙れ。

 見てるだけで何もしなかった奴らに何も言う資格はない。

 見てるだけで何もしなかった。それは。

 俺のことじゃないのか。

 じゃあそこで■■■■さんを助けようとしているのは、

 誰なのだ?

「大丈夫か」

 いま一番聞きたい声じゃなかったが、注意を向けた。

 武天タケソラだった。

 むしろ武天しかいなかった。

「無我夢中というより、茫然自失といった様子だったから」

 心配になって声をかけた、と。

 心配ないことを示すために泳ぎの練習を再開した。

「逃避の言い訳にするな。それと」武天がプールサイドを歩いて付いてくる。「生き映しがいなくなった」

 ビックリして水を飲みそうになった。

「先に言え」

 急いで着替えて能登の寝ていたはずの部屋に行く。

 強い風が顔にぶち当たった。窓が開いている。

 ベッドはもぬけの殻。

 白いかけ布団が床に落ちていた。

「眼が覚めて自主的にいなくなった可能性もある」武天が静かに言う。

「自主的にって」

 どこへ?

「もしそうならまだ近くに」いるのでは?

 武天が手招きする。奥の窓のそばに立って。

 嫌だ。

 そんな。

 それだけは。

「自分の眼で見るといい」

 そこで我に返った。

 ここは?

 プールサイドのリクライニングベンチ。

 時間は?

「起きたか」武天が横に立っていた。

 これは、

 現実なのだろうか。

「うなされていたが」

「能登は?」

「生き映しなら寝ているだろう? 寝ぼけているのか」

「本当に?」

「自分の眼で見るといい」

 心配になって屋島に電話をかける。着替えて部屋まで行くよりずっと早い。

「なに?」屋島はすぐに出た。

「能登は無事か」

「何言ってるの? 泳ぎすぎて頭おかしくなった?」

 良かった。

 さっきまでのはぜんぶ夢だ。悪夢だ。

「悪い。なんでもない」

「ふーん。別にいいよ。じゃあね」

 電話が切れた。

「お前は」武天が言う。「ヨシツネと寝たことがあるか」

 耳に水が入っているふりをして頭を傾けた。

「どうなんだ」武天が食い下がる。

「質問の意味がわからない」

「私と寝ることができるか」

「それは命令か?」

「命令と言ったら?」武天が上着を脱いで柵にかける。

「ここでか?」プールサイド。「人が来る」

「来たことがあるか?」

 そういえば。

 誰にも出会わない。

「私が買った」

 なるほど。

 泳げども泳げども誰も来ないわけだ。

 マンションの住人用プールではなく、武天専用プールだったわけか。

 武天が俺の膝に座ろうとする。

「ちょっと待て。濡れるぞ」

「構わない。そうか、こちらのほうが」武天が両眼に巻いている包帯を外して床に捨てる。「やりやすいだろう」

 この際、至近距離で見比べてやようと思ったが。

 すぐに見えなくなった。

 プールの天井ばっか見てた。

 泳いでいるときより水の音が響く。

「なんでこんなことをする?」

「セイルーが」

 車椅子の女か。

「お前を」

 角度を変えたら黒い髪が跳ねた。

「犬として飼いたいと」

「断ってくれ」

「私が死んだあとのことだ」

 武天が死んだあとは。

 ヨシツネさんのところに戻るんじゃないのか。

 俺は。

「あんたが死ぬまであんたを護らないといけないのか」

 武天が肩で息をする。

 呼吸が整うまで待った。

「集中してほしい」武天が息だけの声で言う。

「ここで止めたらつらいか?」

「同じ顔でも無理そうだな」武天が腰を浮かせて体勢を直す。「無意味なことをした。忘れてほしい」

 ふらつく足取りで行ってしまった。

 時間を置いてシャワーを浴びた。追いかけたみたいに思われたくなかった。

 屋島の隣で能登を見守っていたって仕方がない。

 武天に言われた通りに、ひたすら泳ぎの練習をするしかやることがない。

 そもそもなぜ泳ぎの練習をしなければいけないのかがわからない。

 武天に言われたとはいえ、いつまでに○○メートルを○○分を切れとかの目標が明確にあるわけでもなければ、どの程度上手くなったかどうかの進捗状況チェックが入るわけでもない。

 要するに、サボったところで武天から文句を言われるわけでもない。

 何のために、を考えると堂々巡りになるので早々に捨てた。

 しかし、何のためかわからなければやる気も目減りする。

 この終わりなき消毒水との戦いがすべてヨシツネさんのためならば、もっとやる気になるのだが。

 武天に聞いても明確な返答がない。

 私が死んだら?

 死ぬ予定があるのか?

 情が移ったわけではないが、勝手に死なれるのは困る。

 俺の所有権を勝手にやり取りされるのだってご免だ。

 ヨシツネさんはいまごろ。

 どうしているだろう。

 ビャクローがいるからひとりではないだろうが。

 公開と懺悔は、能登を、いや妃潟を連れ戻してからいくらでもすればいい。

 そうすると屋島が邪魔になってくる。

 ヨシツネさんのために屋島を殺せるだろうか。

 俺が屋島を殺して、取り戻した能登をヨシツネさんが殺す。

 そうやって二人で地獄に堕ちる。

 それでいいのか。

 それで本当にヨシツネさんは幸せになれるのか。

 水中から顔を出す。

 どうすればヨシツネさんは以前のように笑ってくれるだろう。

 天井を見ながら水に浮く。

 軽い。

 身体が軽い。

 頭は鉛のように重いのに。

 鈍い音がする。

 ベンチに置いたケータイが鳴っている。

 非通知。

 出たほうがいい。頭の奥で警報が鳴る。

 この感覚は、久しぶり。

「はじめまして」女の声だった。「いいことをお教えしようと思いましてご連絡差し上げましたわ」

「誰だ」

「あら、私が誰かなんて、どうでもいいこと」

「いたずらなら切る」電源ボタンに指を置いたが。

「マンションを出入りしている自称お医者の正体を知りたくありませんかしら」

 やめて耳に当て直した。

「そうそう。素直にお聞きになればよろしいの」

 見てるのか?

 そう思ってきょろきょろした姿も見通されているのか、くすりと笑われた。

「能登教憂のトラウマについてはご存じ?」

「詳しくは知らない」

 ヨシツネさんは調べていたようだったが。

「それが何だ」

 と口では言いながら、頭ではその先が見えていた。

 感覚が、

 冴えてくる。

「あなたがいま思っていることが真実ですわ。彼はいまとても危うい状態にありますの。より正確にお伝えしますと、善悪の判断を超えたとんでもない暴挙に訴えることが予想されますわ。近々、近日中に」

「能登に何か」

 するのか。起こるのか。起こすのか。

「ええ、命があればいいのですけれど」

 全身の寒気は急にプールから上がったこととは関係ない。

 悪夢は、現実か。

 電話は切れていた。

 再度屋島にかける。

「さっきから何の用?」

「医者を信用しないほうがいい」

「今日は来てないけど」

「医者の正体を知ってるか」

「ねえ、さっきから何の話?」屋島の声にイラつきが滲む。「用があるなら直接くればいいじゃん。同じ建物内にいるんだし」

「もし医者が来ても能登と二人っきりにするな」

群慧グンケイくんはあの人が嫌いなの?」

「好き嫌いの話をしてない。あの医者は能登を」

 殺そうとしてる?

 攫おうとしてる?

「とにかく、能登が危険だ。絶対に眼を離すな」

「だから、さっきから何を言ってるのかわかんないんだけど。なんでお医者さんがノリウキを狙ってるのさ」

「あの医者は、いや、医者じゃない。あいつは医者のフリをして能登の様子を見に来てるだけで」

「なにそれ」屋島が鼻で笑った。

 本気にしていない。

「なんで医者のフリなんかしてんの? メリットないじゃん。何言ってるの? やっぱちょっとおかしくなってない? 泳ぎすぎておかしくなっちゃった?」

 埒が明かない。

「いまからそっち行く」

「だから最初からそうすればいいんだと思うよ?」屋島が溜息をついて電話を切った。

 適当に着替えて、能登の寝ている部屋に急ぐ。髪が濡れたままだがすぐ乾くだろう。

 ぞくり、と。

 寒気が背中を這い上がる。

 夜。

 風が顔に当たる。窓が開いている。

 夢がちらつく。

 違う。これは。

「こんばんは」ベッドに座っている影が喋った。「ああ、いきなり暴力行為ってのはやめてね。一応眠ってる人もいるんだし、静かにね」

 能登じゃない。能登じゃないなら。

「妃潟、か」

 後ろ手にドアを閉めた。

 照明を手探りで付けようとしたが。

「明るくしたら、彼が起きちゃうよ?」

 彼ってのは。

 どっちのことを言っている?

「屋島をどうした」

「僕に夢中で気づかなかった? ぐっすり眠ってるよ」

 妃潟の膝に、屋島の頭らしき影がのっている。

「生きてるよな?」

「なんで殺す必要があるのかわからないな。それにさっき電話で話したでしょ?」

 そうだった。つい五分くらい前に電話で。

 でもあれは本当に、屋島だったか。電話口の声に騙されてないか?

「なんだったっけ、彼。医大生の。能登教憂の昔の男。何でもいいか。能登教憂の記憶と違う名前名乗ってるってのは黙っておいた方がいいのかな」

「あいつがなんだ」

「彼さ、医者に向いてるよ。なんてゆうか、天職?だと思うよ。なにせ、死にかかってた彼をこの世に呼びもどしたんだから」

「じゃあ能登に」

「戻ってもいいけど、その瞬間、そこの窓から飛び降りるよ。何階だと思ってるの?」

 あれは夢だった。夢のはず。

「お友だちが寝たのを見届けてから窓開けて何するかと思いきや飛び降りようとするんだもん。急いで僕が出てこなかったらいまごろどうなってたか。だから感謝こそすれ、そんな眼で睨まれる筋合いはないと思うんだけどな」

 真実なのか。

 詭弁なのか。

「そこで君に頼みがある」

「内容による」

「勘違いしないほうがいいよ。これは取引きというか、人質とってるんだよね、こっちは。わかんない? 僕が意識を手放した瞬間、能登教憂は死のうとするんだよ?」

「わかった。なんだ」

 大人しく従ったほうがよさそうだった。

「そうそう。素直なところが間違いなく君の長所なんだから。僕のお願いは簡単、僕はこれから能登教憂のフリして生きていくから、それを黙っててほしいんだ。ね? 簡単でしょ?」

 正気か?

「そんなことしたって」

「すぐバレるって? どうかな。彼が目覚めたことによって、僕は彼の記憶をぜんぶ覗けるようになった。要はシナリオが作れるようになった。完璧なやつを。参考資料が手元にあっていくらでもカンニングできる状態でね。そうやって喋って思考してる僕と彼、一体何が違うっていうんだろう」

「屋島には通用しない」

「どうかな。やってみないとわからないよ?」

「そうじゃない。屋島は耳がいい」

「嘘吐いてるかわかるって? あのさ、話聞いてた? 僕は嘘を吐こうとしてるんじゃないんだ。能登教憂だったら何て言うのかを、能登教憂の取説を参考にしながら喋るだけなんだから。単なる推測や憶測の域を超えてるの、わかんない?」

「それでも屋島は誤魔化せない」

「持ち上げるね。彼が能登教憂の何を知ってるって? 能登教憂のトラウマも知らずに。君も知らない能登教憂の元の姿、教えてあげようか?」

「いい」反射的に首を振った。

「そう。ヨシツネのこと以外は結構どうでもよさそうだもんね、君。まあいいや。今夜はこれでお開きにしよう。くれぐれも内密にね。てゆっても話す相手いないか」

「あんたが眠ったら能登が出てくるんじゃないのか」

「以前だったらね、僕と彼はシーソーみたいな関係だったから。どっちかが起きてるとどっちかが眠ってる。その逆も然り。でもいまは、そうだなあ、うまい例えが浮かばないけど、生命維持を唯一絶対の正義とするなら、何を犠牲にしても命を立とうとしてる彼の行動は悪と捉えられる。つまり、どんな歪んだ形だとしても生き延びようとしてる僕の方に軍配が上がるってわけ。ストッパーみたいな?」

「あんたが表に出てる限り、能登は死ねないってことか」

「そうだね。その点は安心してくれていい。ただ、僕が、僕の意志で死のうとしない限りは」

「しないと約束できるか」

「いまのところはね。まだヨシツネをからかって遊んでないし。やりたいこと終わるまでは大丈夫なんじゃない?」

 そうだった。

 妃潟が好き勝手やるとゆうことは。

 ヨシツネさんに迷惑がかかるとゆうことに他ならない。

「どうして」

 どいつもこいつもよってたかって。

 ヨシツネさんを苦しめる?

 なんとかしないと。

 俺が。

 俺しかいないんだから。

「どうしてもこうしてもないよ。これが最適解なんだから」

 妃潟の声じゃなかった。

 能登でもないとするなら。

「起きてたのか」

「むしろ寝てたと思うのがどうかしてるけど」屋島がベッド脇に立つ。「俺は賛成。ノリウキが帰って来るからなんにも問題ない」

「そいつは能登じゃない」

「言ってたこと何も聞いてないね。それか理解できてない?」屋島が言う。「ノリウキのフリしたノリウキのそっくりさんじゃないんだよ? ノリウキの記憶を持ってて、ノリウキと同じ思考をする人間は、ノリウキ以外にはいない」

 駄目だ。説得とかそうゆうのの段階にない。

 部外者でしかない俺が口を挟める状況にもない。

「わかった。他ならぬ屋島サンがそうゆうなら」

「おやすみ」

「失礼しました」

「ああ、明日起きて最初に会った瞬間から能登教憂になってるから。そのつもりで対応してね」妃潟が俺の後頭部に声を投げつける。

 生返事をして自室に戻った。

 時間差でノックが聞こえた。

「どうぞ?」筋トレを中断して顔を上げる。

「なんか納得してなかったみたいだったから」屋島だった。「言いたいこととか思ってることとかあると思うけど、何の意味も効果もないから。堂々としてればいい。何も後ろめたいことなんかない」

「本気で言ってるんなら、俺は黙ってるだけだ」

「ヨシツネさんに報告する?」

「生憎と連絡手段がない」嘘を吐いた。

「じゃあいいけど」

 沈黙。

「用はそれだけか」

「ノリウキのトラウマって何?」

「俺の口から言わせるのか」

「聞く相手を間違えた。おやすみ」

 ドアが閉まるのを見送って、筋トレを再開する。

 俺が黙っていても、最悪のタイミングで妃潟が真相をバラすだろう。むしろその逆で、最悪のタイミングを逃さないために、俺に黙っていろと言ったのだ。

 せめてヨシツネさんに降りかかる災厄を少しでも軽減できたら。

 どうする。

 どうすれば。

 考えろ。時間はまだある。

 気づいたら朝になっていた。全然寝た気がしない。

 寝てないんだから、そりゃそうか。

 日課のプールに向かう。

 ここにいれば妃潟もとい能登に会わなくて済む。

 いいのか。それで。

 いまはそれしか。

 ないんだろうか、本当に?

「群慧くん!」屋島が血相変えてプールサイドを走ってきた。「ノリウキが」

 いなくなった。

 状況を聞き流しながら心のどこかで安堵している自分が空恐ろしかった。

 ああ、これで。

 俺もヨシツネさんも。

 妃潟にも能登にも苦しめられなくて済むのだと。

「どうしよう、群慧くん。俺」

「窓の外は見たか」

「え」屋島の顔の血の気が引いた。

 悪夢は正夢に。

「いや、なんでもない。行くぞ」

 どこに行くアテもないのに。

 捜すフリだけしてやろうか。








     4


――「どうして最初の被害者が出た段階でわたくしどもに報せていただけなかったのでしょう」

「無関係だと思ったんだ」

(『エリストマスク』より)


 ****


 ナビによると4時間。

 少なくとも4時間は、密室の中で奴と同じ空気を吸っていなければならない。

 ハンドルを握っているのが奴なので、道連れにするという最悪の選択肢だけは頭によぎらせないようにしなければ。

 いまのところ機嫌がいいらしく、時折思いついたようにこちらに話しかけたり、下手くそな鼻歌を歌ってみたり、目立った害はない。雑音しか聞こえないラジオに耳を澄ませて、ありもしない渋滞情報を拾うのさえしなければ。

 深夜と明け方の狭間。

 どこかPAかSAに止めさせてその隙に逃げる。ことを考えもしたが、絶対に逃げられない気がしてならない。そんなことより奴の機嫌を損ねて、現地に着く前に死体にされたら本末転倒だ。

「俺、全然知らなかったよ。まさかリウが帰って来てるなんて」奴が言う。「俺、リウを追いかけてそっち行っちゃったから完璧すれ違いじゃん。おとなしく地元にいればよかったなァって」

「う、うん」

「気分悪い? 飲み物でも買おうか?」

「ううん、大丈夫。それより夜中の運転大丈夫? 疲れたなら無理しないで」

「知ってると思うけど、俺、夜型だから。朝までぶっ飛ばせそう。つうか、心配してくれてありがとねー。リウは優しいねェ」

 寝たふりをしてもいいが、その隙に身体の方に傷を付けられても困る。

 瞼は懸命に眠気を訴えるが、脳が絶対眠るなと言っている。

「寝てていいよー」奴が暢気に言う。「着いたら起こすし」

 どこに向かっているのか。

 それはさっき聞いた。だろうか本当に?

 ナビで。

 何時間?

 駄目だ。思考回路も記憶すらもあやふやだ。

「ねえ、そんなに急いで行かなきゃいけないのかな」自分でも何を言っているのかわからなかった。「俺に記憶がないの、そんなにまずいこと?」

「まずいってゆうか」奴がうーんと唸る。「記憶トンじゃうくらいヤバかったってことでしょ。それ自体は嬉しいんだけど、やっぱあのことはさ、俺にとってもリウにとってもだいじなことじゃん? あれのお陰で、いや、あんなことなかったほうがよかったのか? あれ?」

 危ない。

 ハンドルを補助してなんとかことなきを得たが、前にも後ろにも車がいなかったからこそ助かったようなもので。

「あはは。ありがとねェ」

 いま余計なことを考えさせないほうがいいということがよくわかった。

 いっそ寝たふりをするか。

 しかし、ふりができるかわからない。

 ほら。

 瞼が。

 落ちてきた。

 懐かしい夢を見た気がするが、起きた瞬間忘れてしまった。

 起きた瞬間見えたのは、奴の恍惚とした顔。

 やはりそう来たか。

「ああ、起きた?」声が上ずっている。「ごめん、寝顔見てたら我慢できなくなっちゃって」

「着いたの?」下半身の感覚を遮断して聞いた。

「もうちょい。外、明るいでしょ?」

 外が明るいのに車の中で。

「やっちゃ駄目だと思うよ?」

「ケーサツ来るって? だいじょぶだいじょぶ。だって、ここ」

 奴の家の敷地内だという。

 そうか、相当の金持ちだった。

 奴が絶頂に達するまで耐えた。

「リウがダしてないよ」

「俺はいいよ。それより」のしかかってくる重みを退けながら、ドアを開けた。「お腹空いたな」

 こんな早朝に開いているのは、コンビニかファーストフードくらいだろう。逆流してくる酸い体液の味がマシになるなら何でもよかった。

 奴が能登教憂に思い出してほしいと思っている記憶は、すでに全部掘り起こしてある。

 なぜ忘れたふりをしているのかといえば、能登教憂が忘れていたからに尽きる。

 奴に感づかれると一番まずいのが、もはや能登教憂を表に出すことはないということ。

 能登教憂を表に出せば、脇目も振らず死を選ぶ。

 裏を返せば、能登教憂を護るためにやっているのだが、奴がそれを信じるとは到底思えない。だいじな親友が不当な目に遭っていると思い込みかねない。

 テイクアウトして車に戻る。極力人の眼に触れないように行動する必要がある。

「やっぱ最初は小学校かな?」奴がストローを銜えながら言う。

「小学校って勝手に入れないと思うよ?」

「入らなきゃ大丈夫っしょ。周りうろうろしてみたりとか」

「不審者で通報されるだけだよ。やめとこうよ」

「うーん、じゃあ」奴がナビをいじる。「ここは?」

 橋。

 奴が、能登教憂の眼の前で転落した川だ。

「俺はいいけど。大丈夫?」

「何が?」

「変なこと思い出さない?」

「飛び降りたときのこと? うーん、どうだろ? とりあえず行ってみよーよ」

 近くのパーキングに車を駐めて、橋まで歩く。

「雨降ってくればいいのにね」奴がポツリと言う。

 欄干が低い。

 違う。

 あのときより大きくなっているだけだ。

 あのとき?

 あのときっていつだ?

「リウ?」奴が顔をのぞきこんでいる。「顔色悪いけど」

「ちょっと眩暈して」顔を離すために欄干にもたれかかる。「そっちこそ大丈夫?」

「俺はへーき。リウが思い出してくれるなら、もっかい飛び降りよっか?」

「冗談でもやめて」

「ごめん」

 そもそも奴が飛び降りた理由(想像)は、とても常識では受け入れがたい狂人のそれで。

「ケガは大丈夫だったの?」話題を逸らそう。

「うん。てゆうか、あれ? リウ、あのあと俺に会ってないっけ?」

「ごめん、そのへんも記憶あいまいで」

 大きな石の上に、くちばしの長い白い鳥が止まっている。この濁った川に魚はいるのだろうか。

「そっかぁ。俺が思ってるほど軽いアレでもないのかァ」

 このまま記憶が戻らないふりをすれば、記憶が戻るまで連れ回されるのか。

 じゃあ適度なところで思い出したことにして。

 いや、思い出したらどうするつもりだろうか。

「ねえ、思い出したらどうするの?」恐る恐る聞いてみる。

「え、どうするってそりゃ」奴が言い淀む。「どーすんだろ? そこまで考えてなかった」

「何かやろうとしてることがあったとか?」

「うーん」

「俺が思い出せばそれでよかった?」

「そうかも」奴がポンと手を叩く。「それだ。リウが思い出してくれたら、あーよかった、てなる」

「じゃあ思い出すかもしれないから、話してみてよ」

「えー、それじゃ洗脳になっちゃわない?」

「洗脳? なんで?」えらく物々しく出たが。

「威圧的な取り調べと同じだよ。お前がやったって言われ続けたら、その苦痛から逃れるために、やってもないのにやったってゆっちゃうやつ。それにはしたくないんだよねェ。それとさァ」奴がこちらを見る。「いい加減、リウのフリするのやめてほしーんすけど? えっと、キサガタさん?でしたっけェ」

 欄干に止まったカラスが啼いた。

 すれ違ったベビーカーの赤ん坊だったかもしれない。

「こーみょーにリウのフリしてたぽいすけど、赤の他人ならいざ知らず、親友の俺には通用しない」

 息を吸って吐く。

 それだけの時間が経過した。

「メガネ置いてきたのが敗因かな?」

「いんや。あなたは一度俺の前に出てる。そっちじゃないすかね敗因」

「能登教憂のまま話したほうがいい?」

「どっちでもー」

「昨日寝る前に、大見栄切っちゃってるからね。能登教憂になるって。だからこのままいかせてもらうよ」能登教憂の喋り方と、思考を改めてダウンロードする。「思い出したせいで死にたくなってるんだ、穣生じょう

「場所変えよっか」

 穣生の実家に移動する。

 早朝にも関わらず、相変わらずと両親の姿はなかった。

 お手伝いさんが丁寧に挨拶をしてくれたが、穣生は適当にあしらって三階の自室に案内してくれた。

 天井が高い。

 広すぎて逆に居心地が悪い。

「座って」

 お手伝いさんが時間差でお茶とお菓子を持ってきてくれたけど、穣生は廊下に置いといてと言って追い払った。

「昔からお節介で困るよ」穣生が苦笑いする。

 ちょっと離れて座った。

「自分のせいで、て思ってる?」穣生が言う。

「なんであの子、名前が全然思い出せないんだけど、あの子が死ななきゃいけなかったのかわかんないんだよ」

「死にたがってた」

「知ってる。でも、死ななくてもいい方法を一緒に考えてあげるのが」

「あの子、飛び降りるときなんてゆったか、リウ、憶えてない? ありがとう、て。笑ってたよ」

「でも、やっぱり」

「だから一緒に共犯になってくれたんじゃん? 違う?」

 能登教憂の記憶によるなら。

 真実はそこにない。

「もし違ってたら訂正してほしいんだけど」前置きをして続ける。「俺があの子に気があったって、勘違いして」

「それは割とどーでも」

「じゃあ」

「せっかく死ぬってゆってるんだから、死ぬとこ見たいってゆったよ」穣生があっけらかんと口にする。「リウは止めにきたよね? でもうまくいかなかった。俺としてはそのことを悔いてるのがすっごく、心の底から嫌だった。だから死体にあんなことまでしたってのにさァ。挙句の果てにリウは怖くなって逃げちゃうし。ケーサツには俺がゆったとおり、ぜんぶ俺がやったってゆったんでしょ? 実際リウは何もしてないじゃん。堂々としてればよかったのに」

 というのが。

 平勢井ひらせい穣生が能登教憂のために用意したカバーシナリオ。

 これなら能登教憂の心は壊れずに済む。

 実際、壊れずに済んでいた。それどころかこの出来事ごと封印してしまった。

 封印してしまった理由は。

 親友に罪の一切をかぶせてしまった罪悪感から。

 親友ひとりに罪をかぶせてのうのうと生きていけるほど、能登教憂の神経は図太くできていなかった。

 というのも。

「嘘だよ」ぜんぶ。「ウソだよね」

「やっぱちゃんと思い出してくれてるじゃん」穣生が言う。

 でも。

 なんで。

 開けても開けてもこの壺は。

 底が見えないのか。

「リウに背負わせるつもりはないよ」ぜんぶ。「俺が持ってくから」

「それじゃあ、穣生が」

「俺はへーき。いままでだってへーきだったじゃん。でもどーしてもリウが納得できないってゆうんなら」穣生がこちらに近づいてくる。伸ばした両手を俺の首で交差する。「俺のこともヤっちゃっていーよ。そんで、動かなくなったらぐちゃぐちゃになるまで貫いて、ぽいってその辺に捨てちゃって」

 ホシイナラ。

「俺のこと使って?」

 耳に呼気がかかる。

 ぞわぞわと。

 背中をかけあがるそれは。

 あの夜、塾をサボって同級生の女子が死ぬのを見に行ったあのときと。

 同じ?

 違う?

 どう違う?

 こわしてこわしてこわしたかったなにもかもを。

 両親も兄も何の問題もなかった。まともすぎて逆に息苦しかった。

 刺激が欲しかったのか。人と違うことをしてみたかったのか。興味本位だったのか。

 どろどろと。

 底のない壺から溢れてくるそれは。

 真っ黒で。

 落ちなくて。

 叩きつけて注ぎこんで滅茶苦茶にできるなら誰でもよかった。

 逆だ。

 叩きつけて注ぎこんで滅茶苦茶にできる誰かを探していた。

 いた。

 それが、

 平勢井穣生だった。

 平勢井穣生がこうなったのはすべて、

 能登教憂が叩きつけて注ぎこんで滅茶苦茶にした真っ黒いそれのせい。

 風邪を他人に感染せば治るのと同じ。

 毒が侵蝕しただけ。

 ぱちんと爆ぜる。

 電撃か轟音か。

 藤都巽恒が地獄から黄泉返らせた(と思い込んだ)妃潟閑祝の化けの皮を被って。

 その実、蘇ったのは。

 能登教憂から残らず平勢井穣生に伝染した(はずの)真っ黒い暗澹のそれ。

 これ以上壊せなくなった使い古しのガラクタは、まっさらな新品に取り換えるに限る。

 人間の外観は二種類ある。

 今度は使ったことのない型にしようと思うのは必然至極。

 選り取り見取り。しかし慎重に選び出す。

 悲鳴は静かな方がいい。助けを呼べない方がいい。

 不当な目に遭っている方がいい。

 地獄の中で溺れている方がいい。

 見つけたらあとは。

 引きずり落とすだけ。

 死への希求は、新たに作られたものではなく、そもそもあったものを増幅させた。

 競技大会か演奏技術の発表会が如く、それは執り行われた。

 たった三階では、即死は見込めない。

 痛みに耐えながらまだそれは生きていた。

 ぶち、と。

 映像が途絶える。

 砂嵐と耳障りな警告音。

 コノ さき ヲ さいせい シマスカ?

 みマスカ?

 きキマスカ?

 ああ、やっと。

 壺の。

 底が。

「だ、めだよ」絞めている首が喋る。「それ、いじょう、は」

 死にたがっているのなら。

 死なせてあげればいいだけのこと。

「だ、めだ」

 うつ伏せを仰向けにひっくり返す。

 布を剥ぎ取って。

 雨で。

 手が滑る。

 力を込める。

「そん、なこと、したら」

 手の痕が残る。

 手を離す。

 むせる気力も残っていない。

 口と鼻からでろりと何かが垂れ流れてくる。

 雨がぜんぶ洗い流す。

 ホースを突っ込んで。

 証拠を消す。

 足を引きずって。

 呼吸も心臓も止まった。

 壊れかけのガラクタが、壊れたガラクタを犯す。

 何を、

 しているのかよくわからなかった。

 真似?

 同調?

「だいじょうぶ。おれが、やったことにするから」

 なにを、

 ゆってる?

「リウは、なんにもしんぱいしなくていいから」

 そのときのガラクタの表情があまりに幸せそうで。

 意味がわからなくなって。

 逃げた。

「だいじょーぶ。だいじょうぶだから」ガラクタが追ってくる。

 雨のせいで何度も足が滑った。

「リウ!」

 耳を貫通した音で思わず振り返る。

 ガラクタが、

 橋の欄干に立っていた。

「見てて!!」そう言ってガラクタは、にっこり笑って、その表情のまま。

 逆さに。

 川に落ちた。

 雨のせいで音が聞こえない。

 通りかかった人が救急車を呼んでいる。

 濁流。

 なんで?

 なんでそんなことする?

 わからない。

 ぜんぜんわからない。

「あのとき川に落ちたのって」蒼白い顔に気づいて手を離す。

 穣生がむせる。

 涙と涎で顔面がひどいことになっていた。

「あれやんなかったらリウ、頭ん中、あの女子でいっぱいじゃん。それはヤだったんだよねェ」

 それだけの、

 ために?

「落ちたの?」

「うん」穣生が笑う。「死んじゃってもよかったんだけど、悪運強くって、生きてたけどねェ」

 歪んでいる。

 歪ませている。

「リウは気にしなくっていいよー。また会えたのが奇跡みたいに嬉しいよ」

 歪な。

 歪み。

 壊れていたのは。

 壊したのは。

「今度こそ、殺してくれる?」リウが俺の両手を自分の首に添える。

 駄目だと言っている。

 殺せと言っている。

 どっちが、

 正しい?

 力を込めろ。

 手を離せ。

 同じくらいの強さで両極の命令が鳴り響く。

 どっちに従う?

 ちがう。

 どっちも従わないと。

 どうなる?

「ずっと羨ましかったんだァ。あいつだけ。なんで。俺の方が先にリウに見つけてもらったのに。なんであいつはリウに■してもらって、俺は。俺は■してくれないの? そんなの、ずるいよ」

 音声ファイルの一部が壊れていて、特定の語だけ音飛びしている。

 認識を、意味を、放棄したい意志が自動で検閲する。

 ■してなんかない。

 勝手に■んだんだ。

 ■ってない。

 じゃあこの両手に、両の指に残る、生々しい感覚は。

 一体全体なんなんだ?

 罪悪感で痩せ細って不眠に陥った和装の似合う色素の薄い彼の白い首を絞めたのは。

 男遊びで帰ってこない母親を家に連れ戻すための唯一の方法と信じさせて飛び降りて死にかけた女子に最後の一押しで細い首に手をかけたのは。

 前だ。

 それよりもっともっとずっと前。

 穣生を■そうとした事実を反転させて、自分が■されそうになった偽の記憶を壺に封じた。

 貫いて。

 だって穣生がこんなにもおかしくなったのは。

 首に。

 穣生が俺を■そうとしたことなんか一度だってない。

 指を。

 やっていない。

 やった。

 していない。

 した。

「いいよ」

 よくない。

「やって」

 やらない。

 やれない。

 雑音が多くてよく聞こえない。

「■さないならせめて、こっち。欲しいなァ。ねェ、ちょーだい?」

 妃潟なんて男は、最初から生き返ってなんかない。

 能登教憂もいなくなっていないし、ましてや死んでなんかない。

 狂気に堕ちてもいないし、徹頭徹尾正気のまま。

 金切り声と重低音が脳髄を揺らす。

 ■したかったのか。

 壊したかったのか。

 犯したかったのか。

 ぜんぶ。

 ちがう。

 おなじ。

「リウ、きもちいよ」

 こうすると。

「もっと気持ちがいいよ」

 ほ

 ん

 と

 だ

 どこかの誰かが言う。

「リウが困ってるの、知ってるから」

 どこかの誰かが言う。

「そうだなぁ。リウを助けるには」

 どこかの誰かが言う。

「決めたよ。俺」

 どこかの誰かが。

 言ってた気がする。

「リウの力になるために、医者になるよ」

 だ

 め

 だ

「リウ?」

 やっちゃいけない。

 殺してはいけない。

「どうしたの?」

 生きてる。

 まだ。

 間に合う。

「穣生、ごめん」

 ベランダに出る。

 風が。

 ちょうど、

 三階。

 あのときと、

 同じ。

「リウ!?」

 悲しんでるのか怒ってるのか。

「ごめんね」

 メガネがなくて。

 見えないや。

 さよなら。

















     5


 ――「ヨシツネさまがいなくなったら淋しいな」

「んで、俺のこと好きとかゆうたらぶっ殺すえ?」

(『多詰みは足る』より)



 *****


 キサと呼んで返事をしてくれるなら、

 このごっこ遊びを続けてくれるのなら、

 悪魔だって何だってよかった。

 能登君がキサじゃないことはわかっていた。

 キサは、俺と先代の見分けがつかない。

 見分けがつかないので、俺に対して怨みを抱いていない。俺をいじめたりしないし、俺に嫌がらせもしない。

 況してや、俺をいじめることに至高の悦びを感じたりなんか絶対にない。

 キサは決まっていつも悲しそうな顔で、俺を見ていた。

 見ていただけ、それだけ。

 椅子に力なく座っている男の首をつかんで持ち上げる。

「お前がやりよったんやろ?」

 男――比良生禳ひらセイジョウは何も言わない。

「お前が」

「やめろ。こんなところで」社長さんが止めに入っているのを。

 遠くで傍観者みたいに眺めている自分と。

 比良生禳を床に力任せに叩きつけている自分とが分離する。

 能登君が意識不明の重体で救急搬送されたという、最悪な情報を受け取ってすぐ新幹線で向かった。社長さんは仕事を放り出してついてきた。一人でも向かうつもりだったので、どっちでもよかった。

 俺への嫌がらせのためのガセであることを願ったが、情報の出所が朝頼なので、ガセ情報で踊り狂う俺を見物するより、最悪の情報そのものを突きつけて俺を苦しめたほうが、奴らのやり方に適っている。

 自称妹が仕組んだことなのか、俺と同じ顔の黒いのが謀ったことなのか。はたまた二人の共謀なのか。どれでもいいし、もう何でもよかった。

 この透明な壁の向こうに、能登君はいる。

 限りなく死に近いところでかろうじてこの世に留まっている。

「お前が能登君攫って殺そうとしよったんはわーっとる。金輪際そのツラ出しよったら」

「なんもわかってないのどっちだよ」比良生禳が身体を起こしながら呟く。

「あ?なんやて?」

「部外者は黙ってろってゆったんすよ。リウのことなんにも知らないで」

「もうやめろ。能登が見てる」社長さんが息を吐く。「ツネも。こいつと取っ組み合いするために来たんじゃないだろうが」

 わかっている。わかっているが。

「奢ってやるから外出るぞ」社長さんが言う。「お前も。ほら、えっと」

平勢井ひらせいす。気ィ遣わせちゃってすんません」

 比良生禳は配信用の偽名か。

 本当にまったくもってどうでもいい。

 病院から徒歩圏内の喫茶店に入る。とっくに昼過ぎているのでモーニングは終わっていた。

 社長さんと平勢井はアイスコーヒー。俺は果肉がごろごろしている柑橘ジュースにした。

「何があった?」社長さんが気を回して口火を切ってくれる。「俺が邪魔なら席を外してもいいが、乱闘騒ぎになっても困るからこいつを飲み終わるまでは居させてもらう」

「へえ、空になったら?」平勢井が肩を竦める。

「こいつを引きずって帰るだけだな。言いたいことがあるなら早めに言っておけよ」

 社長さんのお陰で頭が冷えてきた。単に氷を噛み砕いたからだけかもしれないが。

「リウは」

「そのお話、俺も一緒させてもらっていい?」見知らぬ女性がテーブル脇に立っていた。「平勢井穣生ひらせいジョウくんだね。お久しぶり。俺のこと、憶えてるかな?」

 話しかけられたはずの平勢井が完全に虚を突かれた顔になっている。

「あンれ? 憶えてくれてない?」女性はポケットをごそごそしてから大げさに肩を落とした。「あちゃあ、そっか。手帳とか持ってなかったな。これじゃフツーに身元不明の不審者じゃん」

 黒髪を首の後ろで結わえて、縁なしのメガネ。薄いベージュの上下スーツ。見た目だけなら公務員かOLに見えなくもないが、如何せん、言動が伴っていない。こちらを油断させるテクニックだったら大したものだが。

「おねーさん、なんやの?」話が進まないので間に入った。

「げ。やっぱ、おねーさんに見えちゃってるかぁ。まぁいっか。ここ座っていい? 俺も注文するね。ボタンこれか」店員を呼びつけてホットサンドとクリームソーダを頼んでいた。「ごめんごめん、お昼食べ損ねちゃっててさ。心配しないで。自分の分は払うし」

「なんだって?」社長さんが俺を見る。

「知らん知らん」

「あ」平勢井があんぐりと口を開けて、指そうとした人差し指を自主的に折った。「あのときの」

「アタリ。でももうケーサツじゃないんだなぁ。クビじゃないよ? 部署移動ってやつでね。名刺もなんもないから俺が嘘言ってるかもしれないって、疑いながら話したほうがいいかもね。通称対策課で課長やってます。胡子栗えびすりです。胡子栗さんて呼んでね」

 通称対策課?

 なんだそれ。

「はい自己紹介。平勢井くんは知ってるから、そっちのカンサイ弁の君から」

 逆らうと面倒くさそうな雰囲気がぐいぐいと感じられたので仕方なく名乗った。社長さんも続いた。

藤都ふじみやくんと、岐蘇きそくんね」胡子栗さんとやらが俺の顔をじっと見た。「ところで君、なんかどっかで」

「俺を捕まえに来たんすか」平勢井が言う。

「なんで?」胡子栗さんが首を傾げる。「俺もうケーサツじゃないから逮捕とかできないよ?」

「じゃあなんで」

「能登教憂くんは自分で?」

「止めたんスけど、間に合わなくて」

「そう。じゃあ、追跡サポートが出来てなかった俺の責任だね。平勢井くんのせいじゃないよ」

 沈黙。

 胡子栗さんの注文した料理が運ばれてきた。

「お腹空いてるし食べながらでいい?」大きな口でホットサンドを一口。「やっぱここの美味しいわ。このふわっふわのパンが最高なんだよね。えっとなんだっけ。そうだったそうだった。平勢井くんも能登くんも生きてる。だいじなのはこれからどうするか。じゃないな。どうしたいか。まだまだ若いのに、そんな世界が終わったみたいな顔しない。聞いたよ?君、医学部入ったんだって? しかもあの超難関の羅城らじょうに、ストレートで? そんな有望な青年をこんなところで失わせるわけにいかないってね」

「よく知ってますね」平勢井が眉をひそめながら言う。個人情報が垂れ流しなのがお気に召さない様子で。

「言ったでしょ? 追跡サポートしてるって。それに君、あんなに目立つ方法で顔出し配信なんかやっちゃ駄目だよ。誰が見てるかわかんないんだから」

 なるほど。比良生禳の身から出た錆じゃないか。

「で。ここからが提案なんだけど」胡子栗さんがおてふきで口元を拭ってから言う。バスケットは空っぽになっていた。「能登くんが飛び降りたところを見てた君には、ケーサツがいろいろ聞きたいことがあるんだって。でも俺に全部打ち明けてくれるなら、その鬱陶しいケーサツにはこっちから報告しておいてあげる。さあて、君はどっちとデートしたい?」

「あのときもそうだったすけど」平勢井が息を漏らす。「胡子栗さん、やり方が汚いすね」

「そう? あのときよりは成長してるはずだから、あんまり甘く見ないほうがいいかもよー?」

 あっという間の出来事だった。

 胡子栗さんは最初から平勢井だけが目当てだったらしく、おそらく病院から付けていたのだろう。

 4引く2は。

「病院戻るか?」社長さんが言う。伝票を確認しながら。「あの人何だったんだ?」

「元ケーサツなら俺のことどっかで見てはったんかもな」

「範囲広すぎないか」

「足代払うてくれはったらどこへでもな。ほな、いこか」

 社長さんが複雑な表情をしたが無視して外に出た。

 いますべきは俺の仕事のことじゃない。

 能登君は相変わらず透明な壁の向こう側で。予断を許さない状況は引き続いているようだった。

「活きのいい女装男が重要参考人を攫ったろ?」女性の医師が話しかけてきた。

 思わず社長さんの陰に隠れた。

「なんだ。女性恐怖か?」

「すみません」社長さんが代わりに口を開いてくれた。「胡子栗さんとやらのお知り合いですか?」

「まあそんなところだ。あいつが名乗ったなら私も名乗っておくか。瀬勿関せなせきという。精神科医だ。能登教憂が眼を覚ましたら、私の担当になる。まったくどいつもこいつも。もう少し命ってものをだいじにしてもらいたいもんだな。一つしかないことを忘れていやしないか」

「自殺なんですか?」社長さんが聞いた。

「未遂だ。勝手に殺すな」瀬勿関先生が壁の向こうを顎でしゃくる。「お前らは能登教憂の友人か?」

「俺は違いますけど、こいつは、まあ」社長さんが適当に濁した。

「もうすぐ親が駆けつける。親より先にどうやって嗅ぎつけたかは知らんが、トンズラするならいまだぞ」

「ご忠告どうもありがとうございます。行くぞ」社長さんに腕を引っ張られて病院の廊下を抜ける。

 確かに能登君の親と遭遇したらそれこそどうしたらいいかわからない。後ろめたいことがないかといえば嘘になる。

 外観は見なかったのでよく憶えていないが、あの精神科医は悪人ではないのかもしれない。

 空がやたらと青い。

「どうする? 帰るか?」社長さんが言う。

「寄りたいところがあるねんけど」

 元々の人格の出身はこっちらしいが、そっちの人格のことはよく知らないので調べていない。

 キサと初めて会ったのは。

 あの冬の、雨の日の夕方。

「なんも言わんとついてきてくれる?」

「ああ」社長さんが面食らったようで反応が遅れた。「別に構わんが」

 新幹線で移動。

 バスだと路線がややこしいのでタクシーをつかまえる。桜もほとんど散ったので渋滞もそこそこ。毎年桜と紅葉の時季は地上の交通機関が麻痺するので終わってくれていて助かった。

 店は跡形もなくなって、駐車場になっていた。よくあることだ。

 タクシー内から確認できたので、再び移動。

 アパートも消えて、ホテルになっていた。これもよくあることだ。

 マンション。と思ってやめる。あの建物は低反発の持ち物だった。

 結局ターミナル駅まで戻ってきてしまった。

「行きたいところがあったんじゃないのか?」タクシーを降りてから社長さんが訊く。

「全滅やわ。お前と会うよりずっと前のことやさかいに。今更何ものうても驚かへんよ」

 ふと、眼に入った。百貨店の催し。

 イタリアフェア。

 平日にもかかわらずかなりのごった返しだったが、目当てのものは見つけた。

「社長さんこれ買うてよ」

「甘くないか?」社長さんは俺の味覚が甘党と真逆だと思っている。

 抹茶もブルーベリーもレアチーズもチョコミントもないけど。

 シェイク状になっていなければどれでもおんなじ。

「ねえねえ、俺の分は?」突如ビャクローが飛び出してきた。

「付いてきてたんかい」

「ツネちゃん護るためならどこへでもってねー。おデイトの邪魔はしないからお気になさらず」語尾をフェイドアウトしながらまたもどこぞへ消えた。ジェラートを持ち逃げしながら。

「今度こそ帰ろか。疲れたわ」

 新幹線に乗ったら眠気がやってきた。

「気が済んだなら良かったな」と、社長さんの声が遠くで聞こえた。

 キサに所縁の場所を尋ねたはずがすべて空振りに終わったフラストレーションのせいか、

 キサの夢を見た。

 けど、

 起きた瞬間全部忘れた。

「着くぞ」社長さんの声がすぐ耳許で聞こえた。

「ああ、おおきにな」

 夕方を回っている。社長さんは仕事に戻るらしい。時間差でヒデりんの甲高い声が聞こえた。

 眠い。

 このまま寝たらさっきの夢の続きが見れるだろうか。

 ビャクローが床に転がっているのが見えた。

「おま、新幹線の上に乗ってたとかゆわへんよね?」

「さすがのビャクローちゃんでも無理ムリだねえ。ツネちゃん、ちゃんとお別れできるじゃん」

「ついでやついで。能登君が生きてはって」良かったと言おうとする語尾を遮られて。

「ツネちゃん、生き映し君にしばらく会わないほうがいいね」ビャクローが正面に座っていた。「俺が言ってる意味わかる? それと、もう一人、だいじな人にもお別れ言ってくんだよ」

 返事をせずに立ち上がる。

「チューザちゃんのとこ行くんでしょ?」

 ベランダの窓を閉める。ビャクローが出入りするといろんな出入り口が開けっぱなしで困る。

「チューザちゃんのとこ行ったら、ここには帰ってこられないよ?」

「ばりばり喰われるんか?」言ってておかしいと思ったが、笑えない冗談だと自分でもわかっていた。

 果ては人体模型か、カニバリズムの餌食。

 まともな老後が保証されないことだけは確かだ。

 夕飯の買い物をして、2階の台所に立った。

 そう言えば社長さんの好物を知らない。最後くらいリクエストを叶えてやるべきだったか。

 最後。と思って首を振る。

 前髪が眼にかかって邪魔だっただけ。

「作ったのか」社長さんが様子を見に来た。匂いに釣られたのだろう。「戸締りしたら行く」

「ちょうど盛り付けるとこやわ。ゆっくりでええよ。あ、ヒデりんは」

「とっくに定時で帰ったが」

「そか。ならええわ」

 二人。と思って首を振る。

「ツネちゃん俺の分は?」絶妙なタイミングでビャクローが手元をのぞき込む。「おおー、オムライス。ツネちゃん器用だね。これどうやって巻くの?くるくるー」

「教えたとこでお前やらへんやん」

「そだけどー」ビャクローは皿をかっぱらってどこぞへ消えた。

 社長さんが階段を上がってきた。席に着かずに立ち尽くしている。視線はテーブルの上。

「食べへんの?」

「ああ、そうだな」

 お互いそこそこ空腹だったせいもあって、早々に食事は終了。片付けは二人でやったので手際よく済んだ。

 さて。

「先風呂行ってええか」

「俺は寝る前でいい」社長さんはデスクに分厚いテキストを広げてPCを立ち上げた。「明日の予習がある」

「そか」

 今日の次は明日で、明日の次が明後日。

 時計だってカレンダーだって、勝手に進んでいく。

 バスタブに湯を張りながら、水面を眺める。

「ツネ。いいか」社長さんがドアをノックしている。「シャンプーの補充は棚にあるから」

「わーっとるわ」

 そんなこと、わざわざ言わなくても。

 社長さんの家の使い勝手なんか、社長さんよりよく知ってるってのに。

「ツネ」社長さんがまたドアをノックする。

「今度はなんや?」

「入浴剤切らしてた」

「先にゆうてよ」

「買ってくるか?」

「いまから?」

「ないとお前困るだろ?」

「せやけど」いまから行かせるのはさすがに気が咎めるが、自分はすでに服を脱いでるし。

「行ってくる。レモンかゆずでいいだろ?」

「あ」おおきにも別にも言う前に、ドアがバタンと開いて閉まった音がした。

 なんか。

 感づかれてないか?

 髪と身体を洗う。待ちきれなくなったら上がってしまおう。

 湯に浸かってぼんやりしていたら、どたんばたんと階段を駆け上がる音がして。

「遅くなった」社長さんが脱衣場のドアを開けた。シルエットが見える。「ここ置いとく」

「ああ、ちょい待ちぃ」

「なんだ」

「走って汗かかはったやろ? 入らへん?」

 沈黙。

「狭いだろ?」社長さんが言う。

「そう思わはるんやったら大きいの作ったらええのに」

「シャワー派なんだ」

「俺はでっかいの好きやさかいに」

「そうだったな。お前んとこ、でかいのがあったな」

 沈黙。

 ぽたんと、雫が落ちる。

「入ってええよ」

「そういう意味に取るぞ?」

「そうゆう意味でもどないでも」

 ビャクローの気配がなくなっていたので気を使ってベランダか屋根の上にでもいるのだろう。

「あ、トモヨリの」眼と耳があったか。

「見たきゃ見ればいい」

「えらく強気やね」

 浴室の照明が薄暗くなった。社長さんが調節した。

「レポート書かなあかんのやろ?」

「忘れた」

「単位取れへんでも知らへんよ?」

 入浴剤を買いに行くのにかこつけて、社長さんが買って来たものが、隠しもせずにベッドに置いてあった。

 あからさますぎて逆に笑えてきた。

 こっちは気が散って入浴剤使いそびれたってのに。

「何考えてる?」社長さんが至近距離で睨む。

「なんも」

「嘘吐くな。なんか隠してるだろ?」

 隠してはいない。言っていないだけで。

「お前が秘密主義なのは知ってる。でも俺は」

「社長さんにゆうてもどうにもならへんのや」

 右手で左手首、左手で右手首をつかまれて、頭の上で押さえつけられる。

「何のつもりやろか」

「また勝手にいなくなろうとしてただろ?」

「それがなんやろ?」

 社長さんが吐いた溜息が、鼻先にかかる。

「わかってる。二度と会えないところに行くんだろ?」

「行ったらなんやの?」

「頼むから、急にいなくなるのだけはやめてくれ。止めないし、止められないのはわかってる。だからせめて、いなくなるときはいなくなるってゆってから」

「明日出てくさかいに。もう二度と帰って来れへん。これでええ?」

 社長さんがきつく眼を瞑る。

 手首を拘束する力が強まる。

「そのために俺のとこに寄ったのか?」

「そのため、がどこにかかるかわからへんけど、気ィついたら社長さんの店の前におったな」

「別れを言いに来たのか」

「言うつもりはあらへんかったんやけど」

 ビャクローが。

 もっともらしいことを言うから。

「社長さんは俺の客と違うさかいに」

「客じゃないから別れは言わないのか」

「客には言わへんよ。俺のレンタル要綱知ったはる? どないに払うても半日。半日経たはったら返却やわ」

 そうか。

 別れを。

 したことがないのか。

 やり方がわからない。

 もう会えないと泣けばいいのか。

 また会いたいと笑えばいいのか。

「死ぬから会えないのか?」

「わからへん」首を振る。

「じゃあ、生きてたら、生きてたらでいいから、もし、行くところがなかったら、ここに、俺のところに」

 その先を耳で聞きたくなくて、口を塞いで音を飲み込む。

 そんなに必死に言わなくたって。

 帰るところなんかそんなにない。

 追いかけられないほど足腰立たなくなるほどヤってやったら起きてこないだろう。

 夜のほうが動きやすい。

 音を立てないように着替える。

 たぶん、社長さんは。

 寝たふりをしている。

 ことを気づかないふりをしているのを。

 こちらもわかっている。

 力尽くも泣き落としもしないところが。

 社長さんのいいところだ。

 外は風もなく月もなく。

 上から白い塊が降ってくる。

「ツネちゃんにしては頑張ったんでない?」ビャクローが裾に付いた砂を払いながら言う。

「もっと動きやすい服にしはったらええのに」

 丈が長くて、袖も開いていて、ひらひらする布を羽織っているかのようなシルエット。飛んだり跳ねたりすることの多いビャクローにはデメリットしかない気がするが。

「えー、この百年で一番似合ってるって、ひょーばんなんだけどなあ」

「どないでもええわ。自称妹んとこ連れてってもらおか」

 タイミングよくやってきた車(おおかたビャクローが呼んだのだろう)で向かったのは、とある会員制ホテル。内装に既視感があるのは、同じ系列の別のホテルに行ったことがあるからかもしれない。

 闇。

 家具と壁の配置を知っていて助かった。

 ぼや、とオレンジ色の明かりが浮かぶ。

「お待ちしていましたわ、お兄様」自称妹の口元が見えた。「そちらの椅子にお座りになって?」

 丸テーブルに、空席が二つ。

「そこのドアに張り付いたはる、黒い奴はええの?」

 ケイちゃんを連れ去った同じ顔も室内にいた。

 その脇に、ケイちゃんも所在なく控えている。

 眼を。

 合わさないように、正面の闇を睨んだ。

「イニシャルがGの害虫でしたら」自称妹が自分の顔を自分の腕で支えた。頬杖ともいう。「放っておいたらよろしいのよ。罠に引っ掛かって死ぬ運命なのですから」

「名前を知らへんのやけど?」立ったままの黒い奴に向かって言った。

「私の発言許可がない」黒い奴は、顔の前で手を振った。

「せっかく来ていただいたお兄様にお伝えしたいことがございますの。お座りになって?」

「あいつはええの?」

「わたくしは、お兄様に、お座りになってと、お声をおかけしているのです」自称妹の語調が険しくなった。

 おとなしく従ったほうがよさそうだった。

 ビャクローが大袈裟に肩を竦める。

「立ち去れと言われないだけマシと思っていただきたいものですわ」

 どっちに言ったのだ?

 ビャクロー?

 黒い方?

「さて、お兄様。お約束の期日にはだいぶお早いように思えるのですけれど?」

「早う来たら早う終わるのと違うん? やることやってとっとと終わらせてくれへんかな」

「まあ。わたくしのやろうとしていることは、“やることリスト”ではありませんのよ?」自称妹がくすりと笑った。「取りかかりに早いことに越したことはありませんけれど。お覚悟の問題ですの。お兄様に、お母様をぶち殺す覚悟がおありなのかどうか」

「は? 何しろ、ゆうて?」

「耳が詰まっておいででしたら、わたくしの膝枕で耳掃除をして差し上げますわ? 単なる聴力の問題でしたらお医者を紹介するほかありませんけれど」

「どっちも要らへんわ。なんじょう俺が」

「お兄様はこのまま人体模型になってもよろしいの?」

「人体模型にならへん未来があらはるゆうんならな」

「ありますのよ。わたくしが創って差し上げますわ。お兄様がお兄様として生を終えられる未来を」

「嘘くさ」

「そう思われるのも無理はありませんわ。わたくしのことを信用できないのでしょう? ではその証拠を見せますわね。お兄様のだいじな、不動産会社の」

「あいつに、なんかしよったら、ほんまにお前、ぶっ殺したるさかいにな」

「何もしていませんでしょう? それが動かぬ証拠ですわ」自称妹がテーブルの上で手を組む。

「まだ、何もしてへんだけやろ? まだ」

「まだどころか、未来永劫何もさせないとお約束しますわ。お兄様に言うことを聞かせたかったのなら、あの方を人質に取るのが一番早いし確実ですのに、わたくしはそれをしなかった。させなかった。そこを信じて頂きたいものですわ」

「ほんまなん?」ビャクローに尋ねる。

「チューザちゃんよ」ビャクローが下を向いたまま言う。

朱咲すざき。もしくはスーザとお呼びになってと、あれほど」自称妹が大きく溜息を吐く。

「じゃあスザキちゃんよ。ツネちゃんに殺しは無理じゃないかいね?」

「ではあなたが殺して下さるの? あなたに命令を下している、大本の存在に。できないでしょう? できないからわたくしは」

「それでもツネちゃんには無理だよ。ずいぶんと酷な話じゃないかいね?と思うわけだよ、最年長のビャクローくんは」

「わたくしが代われるものならそうしていますわ」自称妹が言う。「お兄様? お兄様以外にこの暗殺作戦が不可能なのだと、懇切丁寧に説明して差し上げますわ? 今宵は、朝までお付き合いいただける?」

 イエス以外の選択肢が封じられている。

 相手をいいなりにすることに長けている。

 厭な。

 女だ。

「いまわたくしのことを厭な女だと思われたでしょう?」自称妹の口元が上がる。「お兄様の欠点は、お顔に出やすいところですわ。作戦決行までに直していただかないと、お話になりませんわね」

 ああ、本当に。

 厭な女だ。

「聞こえていますわよ?」

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