己ト己、共ニ心亘ル
伏潮朱遺
第1章 快楽(けらく)のイヴ
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俺の初めての客が、キサを壊した。
俺を不要と突き返した客が、キサを連れて行って、キサの外と中を徹底的に壊した。
だから、俺がキサに抱いている感情はきっと、同情や憐憫というよりむしろ罪悪感に近い。
あのとき俺が返品されなければ。
あのときキサが無理矢理連れて行かれなければ。
後悔じゃない。
俺が、キサをあんな風にした。
キサの元の人格は、サダが先代を「檀那様」という椅子に縛り付けるために人質に取ったとき、ちょっとやりすぎたとかでいなくなってしまった。
云い方を憚らなければ、死んでしまった。
元の人格を俺は知らない。
先代は元の人格を取り戻そうとキサにひどいことをした。
その総仕上げが、俺を突き返した客に連れて行かせることだった。
キサを殺すことで、元の人格を生き返らせようとしたらしい。
結果は、キサの外側と内側に修復不可能な傷を作っただけだった。
先代はようやく諦めて、元の人格と身体を共有するキサを愛することにした。
遅かった。
キサはすでに壊れ切った木偶人形になっていた。
「別に僕に気を遣わなくていいんだよ」
客のところに出掛ける前に、キサに顔を見せにいくと、決まってキサはそう返した。
「ああ、それとも僕に会いに来てくれてるだけ? ありがとう」
何度か顔を見せに行ったら、そんな笑顔が追加になった。
勘違いしたのだ。
キサが喜んでくれていると思ってしまった。
カネを稼ぐしか能のない売り物の俺にそんな風に笑いかけてくれるのは、キサしかいなかったから。
「おかえり。お腹空いてる? 待っててね。いま準備するから」
勘違いした俺は、客のとこから戻っても、真っ先にキサに会いに行った。
キサは単に俺が空腹に耐えかねて食事の催促に行っているだけだと思っているようだった。
先代の屋敷で一番の稼ぎ頭だった俺を、丁重に扱えとでも云われていたのだろう。
キサは何を差し置いても、掃除の途中でも、何かをやりかけていても、一旦中断して、俺の食事を作ってくれた。
それがまた勘違いだった。
俺を、最優先に考えてくれているのだと思ってしまった。
そんなわけはない。
ちょっと考えればわかる。
考えられなかった。
そのとき俺の周囲にいた人間は、大きく分けて、俺を売り物として管理する側と、買う側の2種類。
キサはそのどっちでもなかった。
キサだけが、そのどちらでもなかった。
だからまたも勘違いした。
キサが、俺の特別だと思ってしまった。
客のところに行ってもキサのことばかり考えてしまう。
仕事に支障は出ていないが、自分の中で区切りをつけるべきだと思った。
先代が留守している隙を見計らって、キサに云った。
受け入れてくれると思った。
勘違いに勘違いを積み重ねた累乗で正常な判断ができていなかった。
キサは、困ったような顔をして、突き放すようなことを云った。
「順序が悪かったね」
意味がわからなかった。
「僕はね、君と檀那様の区別がついてないんだよ」
意味がわからない。
「顔がどうとか、遺伝子がどうとかっていうことじゃないよ。ここがね、壊れちゃってて、見分けがつかないんだ。いまだって、僕と話してるのがどっちなのか、はっきりしてない。ねえ、君は誰だっけ?」
闇の中に突き落とされたみたいだった。
俺が、キサを壊したせいで。
キサは、俺と先代の見分けがつかない?
そんなことあるのだろうか。
そんなことあって堪るか。
キサに縋りついて、俺の顔をよく見せた。
キサは悲しそうな顔をして首を振った。
「もう帰って来たの? おかえり。ご飯、できてるよ」
それは、どっちに云ったのだ?
「ああ、それともお風呂にする? お湯溜めてくるよ」
それは、どっちに云ってるのだ?
気が狂いそうだった。
自分でやっておいて。
自分で壊しておいて。
お前のせいで。
お前が。
キサを。
帰って来たくなくなった。
あんなに帰りたかったのに。
帰ったら必ずキサが出迎えてくれる。
キサが待っていてくれる。
俺がいるからキサが混乱しているのなら。
先代が顧客管理で使っているPCをこっそりいじくって、自分を匿ってくれそうな客を探した。
自由になりたくて逃げている。
先代にも、他の誰にもそう思わせなければいけない。
俺がいるとキサが幸せになれない。
俺がキサを不幸にしている。
離れなければ。
距離を取ってわかったことは、俺がいようがいまいが、キサの崩壊は止まらないということだけだった。
キサは俺以外にターゲットを変更していた。
誰でもいいのだ。
先代でなければ、その闇は埋められない。
闇に囚われて、呑まれて、消える。
キサは、他人をいじめることでぎりぎり自我を保っていた。
先代に心ごと依存して。
売り物の少年たちを闇に引きずり込む。
ほとんど地獄絵図だった。
「ああ、久しぶり。元気してた?」
キサの笑顔に背筋がぞっとした。
あのときと違う。
何かが違う。
決定的な何かが欠けた笑み。
「君がいなくて淋しかったんだよ。帰ってきてくれて嬉しいな」
おそらく本心だろう。
キサは、俺に復讐したいんだろうか。
俺のせいでこんなになったから。
俺がキサにできる唯一のことが、もし、それしかないんだとしたら。
「明日から新しい子が来るんだって。楽しみだなぁ」
俺は。
地獄に落ちるべきだ。
でも、キサは。
俺を地獄に連れて行ってはくれなかった。
先に逝った先代を追いかけて。
自分から。
冷たい水に沈んだ。
寒い雪の日だった。
白い雪と、キサの白い肌。
俺には見分けが付いただろうか。
土の中から掘り起こしたこの白い砂とも。
「ヨシツネさん?」
能登くんは、キサにそっくりだった。
キサだと思った。
いや、能登くんと初めて会ったときはまだキサは生きていた。
キサがなんでここに?
見た目と声音が同じだった。
喋り方と記憶だけが違った。
もし、喋り方と記憶を、キサと同じものにできたら。
その思考の蓋を開ける。
白い砂の壺の蓋も開ける。
墓石に刻んである名前を指でなぞる。
キサは、
ここにはいない。
「ああ、こんなところにいた。どうしたんです?」
キサは。
ここに。
いるんだから。
今日も能登くんの食事にキサを混ぜる。
「せっかく来てもらってるさかいに。メシは俺が作ったるわ」
壺が空っぽになった。
俺も。
空っぽになった。
己ト己、共ニ心亘ル
第1章
1
――彼が求めるのは肉体の接触から来る安心でも、ひょっとしてそこから生まれるかもしれない愛のようなものでもない。
カネだ。
彼はカネが欲しいからカネを出した相手にお返しをしているだけなのだ。誕生日にプレゼントをもらってありがとう、と言うのと変わらない。
(『経絡感覚コロナリセンサリ』より)
*
山の入り口でタクシーを降りる。図ったようなタイミングで車が出迎えた。
ケイちゃんが運転席から飛び出してきて、地面に額をこすりつけた。「妃潟が攫われたのは俺の不注意です」
「上で聞こか」
ケイちゃんは、俺が怒っていると思っているのだろうか。愛想を尽かされたとでも思っているのだろうか。
責を追及してほしいのだろうか。
罰を下してほしいのだろうか。
そのいずれにも興味がないと云ったら、悲しがるだろうか。
「早う、車出したって」
「わかりました」ケイちゃんは一瞬虚を突かれたような顔になったが、すぐにドアを開けた。
喋る気が起きなかったので眼を瞑っていた。
頭重感と虚脱感と喪失感と。
すごく、疲れた。
「着きました」ケイちゃんがドアを開けて立っている。
「ああ、おおきにな」
玄関までの飛び石が歪んで見える。
俺の眼がおかしいのだろう。
「ツネちゃん、おかえりー」上から声が降ってきた。
屋根の上に、白いものが見えた。
猫か?
「どっもー? おひさー?ってもツネちゃん憶えてねぇだろうしぃ?はじめまして、つーことにしとくわ」白い塊が眼の前で着地した。
白髪の長い髪。細身の男。
知らない顔だ。
「誰なん? サダの知り合い?」
「サダくん?」男はしゃがんだ姿勢のままべろりと赤い舌を出した。「あー、ツネちゃん知んないの? サダくん、連れ戻されちったよ」
ケイちゃんが走ってきた。
俺と白い男の間に立つ。「すみません。ご無事ですか?」
「突然飛び出してったと思ったらさぁ、なーるほどねぇ。ツネちゃん帰ってくんの、わかったわけね。すっげーの」
「ヨシツネさん、俺の後ろに」
「わーってると思ってたけどさ、君程度、命を盾にしたところでツネちゃん護れないよ」白い男がさも当然のように云う。「何遍わからせりゃあ、気が済むんだ? あ?」
「せやから、お前は誰なん? 不法侵入やさかいに」
俺がいない間に屋敷に押し入ってケイちゃんと一戦やり合ったのだろう。
ケイちゃんがまったく敵わなかったのはよくわかる。
スゲが霞む。相当の手練れだ。俺にだってわかる。
同時に理解する。
「お前が、キサを攫ったんやな?」
「さっすがツネちゃん。話が早いね」白い男がにやりと嗤って舌を出す。「俺の主人の命令でね。仕方なくー? これでも俺、反対したんだけど。命令だからさ、仕方ないんだよねぇ」
「キサは生きとるんやな?」
「ツネちゃんの願望? それともなんか確信あんの?」
「キサを生かしといたほうが、俺にゆうこと聞かせやすいのと違うん? 人質は生かしといてなんぼやろ?」
「ツネちゃんと知恵比べはしたくないねー」白い男がバネみたいに立ち上がって脇に逸れた。「ツネちゃんお疲れだろうし? 続きは中で、ってね」
白い男が俺を殺すためにここにいるとしたら、俺が門をくぐった瞬間にやっている。
俺の帰りを待っていたとするなら、俺に用があるのだろうか。
いや、たぶん、主人とやらの命令で、俺を監視するためにここに滞在する気だろう。
とするなら、主人というのは。
「ツネちゃん、お客に座布団もくんねぇの?」白い男が畳に寝転がる。
池の見える客間。
ケイちゃんは俺のすぐそばに片膝立ちした。
「客なら名乗ったらどうや?」
俺への殺意も殺気も感じない。ケイちゃんが一方的に殺気を放っているだけだ。
「あんれ? ゆってなかったっけね」白い男が仰向けになったまま口をあんぐり開ける。「番犬くんゆってくれてない?」
「番犬くんやのうて、ケイちゃんや」ケイちゃんの殺気を増やさないために訂正した。
「あぁ?番犬じゃん? なんか間違ってっかよ?」
「自己紹介したってよ」
「俺? ビャクロー」白い男が身軽に逆立ちする。白く長い髪が逆さに垂れ下がる。「自称五百歳の虎でーっす。ゲッスーの師匠で、いまは、後継者ツネちゃんの監視中ね」
「主人ゆうんは、俺の自称妹のことなん?」
「あぁ、チューザちゃん? お元気してたー?」
違うのか。
あの自称妹の他にもまだ、北京がらみのわけのわからない刺客がいるのか。
「主人ンことは聞かないどいてね。俺の寿命の記録更新がかかってからね」ビャクローとやらが宙を蹴って逆立ちをやめる。畳にしゃがんだ。「んで、本題だけど、主人がねぇ、番犬くん欲しがってんのよ。キサっちの生き映しくんがいまどーなってんのか、俺にはわかんねぇけど、番犬くんと引き換えに、戻ってくる可能性はなきにしもあらずーってねぇ。どーするよ?」
「俺と交換で妃潟が戻ってくんのか」ケイちゃんが俺を見ずに云った。
「主人の気が変わってねぇんなら、そーなるねぇ」
「ヨシツネさん」ケイちゃんが俺を見た。「行かせてください」
「ちょお落ち着いてな? 人質交換なん、いっちゃん信じられへんわ。証拠見せたってよ」
「証拠ねぇ?」ビャクローが腕を組んで首を横に倒した。「主人のことはゆうなって云われてっしなー」
「なんでケイちゃんを連れていきたいん?」
「わかんねーの? 主人の狙い」
「俺に怨みでもあらはるんかな?」
「ツネちゃん、知ってっかぁ? なんでツネちゃんが跡継ぎンなってるのか」
北京の血を引いているから。
「半分せーかい」ビャクローは俺の思考を読んだ。「でももういっこ、ツネちゃんが知んない事情ってのがあんの。知りてーか?」
ケイちゃんの殺気が強まる。
北京の血を引いている人間は、俺だけじゃない。
自称妹だって、別の屋敷で檀那様業をこなしている兄だって、養子に出された金髪碧眼の兄だって。
俺が知らないことが、まだありそうだ。
「知りたいゆうたら、ほいそれと報せてくらはるんかな?」
「俺けっこーおしゃべりだかンね。主人のこと以外は割とゲロっちまうわけね」ビャクローが身を乗り出してにやりと口を裂く。「知ってっと思うけど、うちンとこ、女系っしょ? ベイ様に会ったことある?」
「ベイ様?」
「北京ってゆったらわかっかぁ? いろんな呼び方あって紛らわしぃわなぁ。ベイ様、一度も名前なんかゆったことねぇのになぁ。周りで勝手に付けちまってさ。偉い人の名前はそー簡単に呼ぶもんじゃねぇぜ?」
「お前かてゆうたはるやん?」
「俺はいーの。後継者の爪と牙ンなって、命がけで護ンのが俺の存在意義だっし? あー、そうそう。後継者の条件の話だっけね。ツネちゃん、親父の顔知ってる?」
「サダやろ?」
「違う違う。遺伝子の話してンの」ビャクローが予想通りとばかりに嗤う。「ついこないだ、だっけかなぁ、1年は経っちまったかなぁ、とにかく死んじまったってわけ。死因知りてぇか? ツネちゃんの妹のチューザちゃんが喰っちまった。生きたままばりばりむしゃむしゃってやつ。さすがの俺もドン引きよー」
自称妹は確かにそう云っていたが。
「ほんまなん? 正気と違うやろ?」
「チューザちゃんもう、いっちまってっしねぇ。問題は、なんで食べたか、っつーほうよ。ツネちゃんならわかっかなー?」
ケイちゃんの表情に変化はなかった。
話の内容はもしかしたら聞いていないのかもしれない。ビャクローの動きに全神経を集中している。
「自分のものにしたかったのと違うん? 死んだ父ちゃんは北京のもんやさかいに。死んだら中身くり抜いて、マネキンにしはるんやろ?」
「さっすがツネちゃんだねぇ。んで?どう? ツネちゃんが跡継ぎな理由、わかっちった?」
「跡継ぎのうちの一人、とかやないんやな?」
「そうそ。ツネちゃんが死んだらまた別の跡継ぎがベイ様ンとこ行くだけってね」
てっきり檀那様業を継ぐこと、イコール、跡継ぎだと思っていたが、実情はもっと生々しかったわけか。
「そんなん勘弁してほしいわ」
「はぁ? あんだけ男と寝といてよ、まさかのまさか、女は初めてとかじゃねーよなぁ?」
「あんだけ男と寝とったさかいに、まさかのまさかやわ。嗤えるやろ?」
とすると、北京の決定と、自称妹の狙いがぶつかる。
ビャクローの主人とやらの目的も、いまいちぼやけたまま。
「なあ、サダはマネキンか」
「せーかい。会いてーか?」
「俺がマネキンんなったら会えるやろ」
そうか。道理で連絡が取れないわけだ。
いなくなるなら、いなくなると云ってからいなくなってほしかった。
これでは実感が伴わない。
サダならそのうちひょっこりと顔を出しそうな気配も予感もある。
「お前の主人は、俺を苦しめてどないしたいん?」
「だから、主人のことは云えねっての」ビャクローが云う。「番犬くんを犠牲にすりゃ、生き映しくんは戻ってくんの。なら答えは決まってンじゃねぇの?」
「行きます」ケイちゃんが間髪入れずに云った。「行かせてください。俺に挽回の機会を下さい」
「なあ、俺がビャクローの主人なら、ケイちゃんを連れてって、代わりにキサの死体を届けるえ?」
ケイちゃんが俺を見た。
「行かせられへん。俺に二人も喪わせんといて」
「でも」
「俺に罪滅ぼししたいんやったら、死ぬんやのうて、他の方法で償ってな? 無駄死にだけは赦さへんで」
ケイちゃんの顔が曇った。が、すぐに晴れて刺すような殺気が溢れ出た。
「なにナニ? 俺と戦ろうって?」ビャクローが大げさにかぶりを振る。「じょーだん。2秒で逝っちまうよ?」
「もうちょい平和な方法はあらへんの? お前の主人と直接交渉するとか」
話の途中で、ビャクローがバク転して縁側から外に出た。
ケイちゃんが追いかけたが、すでに姿はない。
「追跡は無謀やな」ケイちゃんの隣で庭を眺める。「主人とやらに報告に行っとったらええのやけど」
おそらく、また来る。
警戒しつつ、次の襲来に備える必要がある。
「あの、ヨシツネさん」ケイちゃんが板の間に正座する。「妃潟のことですけど」
「ケイちゃんは罰が欲しいん?」
「俺は、命令を守れませんでした。留守を預かったのに」
「せやから、罰が欲しいんか、てゆうとるやろ?」
ケイちゃんが顔を上げる。
叱られ待ちの顔だった。
「さっきもゆうたけど、挽回したいんなら、命以外でしたってな? キサは生きとる。生きたまま取りかえす方法を一緒に考えてほしいさかいに。な? そないな顔せんといてよ」
「俺を責めないんですか?」
「責めてほしいからゆうてはるんやろ? 違うん?」
ケイちゃんが黙った。
自称妹の朱咲とやらは、期限を定めて俺を家に帰した。
8月半ばの暑い盛り。
自分の誕生日だそうだ。
それまでに俺に身の振り方を考えろと云う。
キサが戻ってきても、それと入れ替えで俺が攫われても莫迦らしい。
キサは。
生きていると思う。
朝頼の推論は間違っていない。俺に云うことを聞かせたいなら、キサを生かしておくしかない。
キサが死んでいるのなら。
俺に生きている理由がないからだ。
自称妹も、北京も俺の生存を望んでいる。
とするならやはり、俺の生きる理由になってる人間を易々と始末しないだろう。
ケイちゃんがまだ何か云いたそうにしていたが、気づかないふりをして自室に戻った。
微かにキサのにおいがする。
居心地が悪くなって障子を開けた。
「あの、ヨシツネさん」ケイちゃんが廊下に立っていた。
「行かせへんで」
話が堂々巡りで進まない。そんな話をしたいわけじゃない。
「頭冷えるまで筋トレでもしとったらどうなん?」
頭が冷えてないのはどっちだ。
ケイちゃんは黙ったまま頭を下げて筋トレ部屋に入った。
やつあたりだ。
他人を気遣う心の余裕がない。
ケイちゃんは俺にもは勿体ない。自分のことしか考えていない自分勝手な俺には。
早く見限ってくれないものか。
2
――「おるんは勝手やけど、そないなことで俺は手に入らへんよ」
「じゃあどうすれば君が手に入るんだろう」
(「経絡感覚コロナリセンサリ」より)
**
いっそ怒鳴り散らしてくれたほうが楽だったのだが。
ヨシツネさんはそんなことはしない。
云われた通り、部屋で筋トレをする。
この部屋に入ると思い出す。
ここで、妃潟が攫われた。
窓を開ける。
おかしい。
鍵がかかっている。内側から。
いや、窓から連れ出された後、窓から入ってきた白い奴が内側から閉めたのだ。なにもおかしくない。
本当に?
何かが、ひっかかる。
なんとなく。
イヤフォンが引っかかっていた。
コードの先にケータイがあった。
着信。
俺が拾ったのを見てから掛けた。そんなタイミングだった。
「あんたが主人とやらか」画面の表示は非通知。「俺はヨシツネさんの望まないことはできない」
「できないんじゃなくて、したくない。言葉は正しく使え」起伏のない低い声だった。
ビャクローが嗤ったような気がして振り返ったが、誰もいない。
襖が閉まっていることを確認する。
「後ろめたいことか」
「見てるのか」カーテンを引いた。「どこにいる?」
「生き映しの声を聞きたいか」
「生きてるんならな。俺がそっち行く以外で取り戻す方法を考えてるところだ」
「群慧くん?」
妃潟じゃなくて、能登の声がした。
「能登か? 大丈夫なのか?」
「ヨシツネにざまあみろって云っといてよ」
能登じゃなくて、妃潟の声がした。
「絶対助けるから。頼むから」
ヨシツネさんをこれ以上悲しませないでくれ。
「殺す気はない」ビャクローの主人が云う。電話口の相手が代わった。
「俺がそっち行けば、だろ」
「なぜ生き映しを攫ったのかわかるか。番犬のお前が目的ならお前を攫えばいい」
「ケイちゃん? おる?」廊下からヨシツネさんの声がした。「さっきは云いすぎたな。謝ろ思うてな」
電話を切って座布団の下に隠した。
「悪いのは俺です。ヨシツネさんが謝ることじゃないです」襖を開けて頭を下げた。
顔を見せたくなかった。
ヨシツネさんがどうしてもお詫びに昼食を作りたいとのことだったので、一緒に買い物に行った。
「何食べたいん?」
全然食欲がなかったが、テキトーに思いついた料理を云った。
「あ、じゃあ」
ハンバーグ。
廊下に出ると肉を焼いているいい匂いが漂ってくる。
障子を締める。
ケータイを耳に当てた。
「なんで攫った?」極力小声で話しかけた。
「ヨシツネを殺しても私が繰り上げになるわけではない」
「殺させない」
「言葉尻に反応して吼えるな。私はヨシツネを重責から解放してやろうと思っている」
「どういう意味だ?」
重責?
解放?
「待て。お前が後を継げば、ヨシツネさんは」
戻れるのか。
戻る?
どこに?
ヨシツネさんの家は、居場所は。
この屋敷じゃないのか?
「ケイちゃん? ご飯出来たで?」
ヨシツネさんの声と同時に電話が切れた。
俺は本当に電話をしていたのだろうか。
「いま行きます」
返事をしてから恐る恐る通話記録を見る。
曇っていて見えない。
太陽は。
どす黒い雲に隠されている。
「なんや、まだ気にしてはるん?」ヨシツネさんが白米を口に入れてから云う。
ヨシツネさんは食欲も戻り、ちゃんと昼夕食べられるようになった。朝食はもともと食べない体質らしい。
俺の皿は半分くらい減っていた。
誰が食べたんだろう。
俺しかいないか。
「ヨシツネさんは」そこまで云いかけて言葉が喉に詰まる。
後継者にならなくていいと云われたらどうしますか。
「云いたいことあらはるんなら聴くえ?」ヨシツネさんが箸を置いた。
「あ、いえ」
後継者にならなくていい未来があるのか?
電話口の男の平坦な口調が反響する。
後継者の座を代わる?
代われるだけの権利がある人物。
そんなの、
そんなに沢山いない。
「すんません、その」
確かめなくてはいけない。
電話の相手が何者なのか。
ヨシツネさんの呼び止める声を振り切って屋敷の庭を突っ切る。池の脇を駆ける。
もし追ってきてくれたなら、足は止まるだろうか。
振り返らずに走る。
師匠が飛び越える塀をよじ登って、湿ってぬかるんだ土を蹴る。
雑草を掻き分けて、竹林に辿り着く。
黒い車が止まっていた。
後部座席のドアが開く。
降りて来た人物は、ヨシツネさんと同じ顔をしていた。ただ髪だけが黒く、深い闇色をしていた。
「あんたは」
「わかりきっていることを問うな」声は相変わらず平板だった。「迎えに来た。私と一緒に来い」
「ケイちゃん!!」
停止していた頭に電撃が落ちる。
振り返れない。
「行かんといて」
「最後に選ばないものを所有するな」ヨシツネさんと同じ顔が云う。「捨てられるものがどのような想いを抱くのか。お前は想像したことがあるか」
ヨシツネさんの視線が俺を通り抜ける。
ヨシツネさんと同じ顔の男は、喪服のような上下に、白い薄っぺらいコートを羽織っていた。
身長も幾分か高い。
ヨシツネさんがもう少し年を重ねたら、こうなるのかもしれない。
「お前は」
「誰かと問うのか。火を、いや、鏡を見るより明らかだろう」男が云う。「お前が呪った生き映しは、こちらで預かっている。然る処置をしたのち、帰るべきところに返す」
「生きてはるんやな?」ヨシツネさんが云う。
「殺す理由が私にはない」
俺はまだ振り返れない。
ヨシツネさんと同じ顔の男を見ながら、ヨシツネさんの表情を想像する。
捨てられるものの思い。
「早く乗れ」
「ケイちゃん!」ヨシツネさんの声が後頭部に突き刺さる。
振り返れない。
振り返ったら。
「ケイちゃん!!」
「居てほしいと願っているのは、お前ではない」男が首を振って車に乗る。
足を進める。
前に?
後ろに?
「ケイちゃん! なぁ」
「ヨシツネさん」振り返らずに云う。「妃潟は、必ず生きて連れ帰ります」
名前を呼んでくれたと思う。
聞こえないふりをして、男の隣に座る。
ドアが勝手に閉まって、音もなく発進する。
運転席と後部座席の間に壁があるため、バックミラーが見えない。
振り返ったら。
車から飛び降りたくなるから。
下を見ていた。自分の手を。
「スゲに鍛えられた腕を、私の元で発揮してほしい」
右を向けない。
同じ顔だから。
「ああ、そうか。鏡がないと忘れるな」そう云って、男はおもむろにネクタイを緩めると、首に巻いていた包帯を取って、自分の眼を覆った。「この顔が思考の妨げになるだろう」
横目で見ていた。
「気にしなくていい。私もこの顔が」
気に入っていない。
男の名前は、
「ビャクローは、ゲングウと呼ぶが、ビャクローしか呼んでいない」
車はハイウェイを飛ばして、海の見えるインターで下りた。海沿いにしばらく走り、高層マンションのポーチに横付けした。
男――武天は、まるで眼が見えているかのように、実際に見えていたのだろう、真っ直ぐエレベータに乗った。到着してドアが開くと、正面に扉があった。武天は手探りもせずにドアノブをつかむ。
ただっ広く、白い空間に出た。
窓もなく、薄暗い照明が中央のベッドを示す。
妃潟、いや、能登が寝ていた。
「の」と、と云おうとしたのを遮られた。
「寝かせてやったほうがいい」武天はサイドテーブルにあったノートを手に取る。「専門家に診せた。元の人格に戻すには、洗脳した本人と距離を取るのが最善だそうだ」
「じゃあ、あんたは」
能登を元に戻すために。
武天が俺を見る。
「そんなに何もかも都合よくはない。ヨシツネには生きていてもらわないと困る」
「俺がいなくなったくらいじゃ」
ヨシツネさんは諦めない。
「だから、私が知り得る限り最強の牙を置いてきた」武天が云う。「だがそうすると、私が無防備になる。私を護ってほしい」
何から?護ればいいのだ。
何からの危険にさらされているのだ?
勢いよくドアが開いて、車椅子の女が武天の名を呼んだ。
クオ、と。
「遅かったな」武天には想定済みの客だったのだろう。
俺には、車椅子を押す人物に心当たりがあった。
「屋島」
屋島は返事をせずにベッドに駆け寄った。車椅子を放って。
「もう会えないかと思った」泣きそうな顔で能登の蒼白い顔に触れる。
「わたしは約束を守ったわよ」車椅子の女が不満そうに云う。「クオ、あの胡散臭いの、免許ないんでしょ? 大丈夫なの?」
「免許を取るための学校に行っている。取れなかった場合に言ってやれ」
「無責任ね」女が吐き捨てる。「そうゆうところが嫌いよ」
女は興味がなさそうに俺の方を見た。武天と能登以外に興味があるものがなかっただけだろうが。
「新しい盾? 頼りになるの?」
「そうなるよう願っている」武天が云う。「ビャクローの孫弟子らしい」
「ふうん」女はやっぱりどうでもよさそうだった。
武天が女を連れて(車椅子を押しながら)別室に消えた。
屋島は能登に縋りついている。
話しかけられる雰囲気も、話したいことも特になかった。
窓から風が入って来る。
その風でサイドテーブルのノートが揺れる。武天が手に取ってすぐに置いたものだ。
表紙に黒マジックで、診療録、とあった。能登の容態を診ている医者の記録だろうか。
見るなとも云われていないので中をめくった。
クセの強い走り書きなのと、ところどころに英語か専門用語みたいな文字が混ざってて解読が難しい。俺なんかの頭じゃ、どだい意味もわからない。
最初のページの日付と時間が、能登が攫われた当日だった。
昨日。
何度思い返しても、口の中が血の味で満ちる。
なんで。
なんで俺は。
「群慧くんは」屋島が云う。
屋島の声に慣れなくていちいち虚を突かれる。声というか、喋ること自体いままであり得なかった。
喋らなかった理由は、以前ヨシツネさんが云っていたのを聞いたことがある。
喋る必要がないから。
要は、喋る必要に迫られて、喋らないことをやめたのだ。
そうまでして、取り戻したかった。
理由は。
わからなくはない。
「さっきの、ヨシツネさんにそっくりな人に付くの?」
意味がわからなくて、屋島の顔を見た。
「違うの? じゃあ、なんか取引?」
「あんたは」
車椅子の女に付いたのか。そうゆう意味で聞き返したが。
「俺は、ノリウキを取り返すためなら何でもするよ」
屋島が云いたいことがわかったので黙っていた。
妃潟(能登)をヨシツネさんのところに連れ帰るなら、互いに敵同士だと、そうゆうことだ。
ヨシツネさんを前にしたら、そう云える。
でも、屋島を前にしたら。屋島に遠慮しているわけではなくて、判断が鈍る。
なんでだ?
何に迷ってる?
「ねえ、一旦帰るけど?」車椅子の女が戻ってきた。
「電動のを買わないのは、お付きが欲しいから?」屋島の眼は能登から離れない。
「皮肉ごっこしてるんじゃないのよ」女が溜息をつく。「いいわ。気が済んだら連絡ちょうだい。迎えを遣るから」
「ここに連れてきてくれたのは感謝してるよ」屋島が云う。「でもまだ契約に足りてないっていうんなら努力するよ」
「頑固すぎてお友だちが羨ましいわ」女が自分で車椅子の向きを変えた。「クオ、ご飯食べてなかったら教えてあげてね」
「一人で平気か」武天が云う。単なる皮肉なのか、心配しているのかは声音からはわからなかった。
「知らないの? これ、乗ってるだけで道を開けてくれるのよ」女が云う。「じゃあね」
本当に一人で帰ってしまった。
武天によると、このフロアと、一つ上のフロアを所有しているので自由に使っていいとのこと。
でも、俺がここにいる理由は。
「四六時中張り付いている必要はない」武天が云う。「暗殺の類はおそらくない。その必要がない。それより、やってほしいことがある」
武天に付いて、最上階に上がる。
プールだった。
「泳ぎに自信はあるか」
ここで首を振ったばっかりに、起きている間中、泳ぎの練習をすることになった。
3
――「天罰じゃない?」少女が微笑う。「わたしが依頼したの」
(『イヴクロテクス』より)
***
思いのほか早かった。
事件発生から1週間。
同級生Bが眼を覚ました。
主治医は記憶の整合性に難ありとの判断だったが、面会という名の事情聴取の許可はくれた。
「なんだ、お前一人か」先生が俺の後ろを見た。「てっきり大王の過保護引率かと思ったが」
「使い物にならないってことすか」ちょっとムッとしたので短絡的に反応してしまったが。「いえ、お疲れ様です」
「挨拶だけなら一人前だな」先生はちゃんとお見通しで肩を竦めた。
先生が所長を務める怪しい研究所の方ではなく、県警近くの救急病院。
同級生・少年B。
少女Aが自殺した(とみられる)同日、現場となった小学校から僅か200メートルの距離の河川に転落したが、救助が早かったことが功を奏したのか、奇跡的(?)に大した怪我も後遺症もなく。
「電話で云った通り、ここの」先生が自分のこめかみをつつく。「成長途上によろしいとは言えんからな。私も同席させてもらう」
「便利な機械があるでしょうに」天井のカメラを顎でしゃくった。
「私の城ならな。さすがにアレのデータをまるっと寄越せなんていう権限はない」先生が苦笑いする。「ところで保護者はどうなってる? まさか逃げ回っとるんじゃないだろうな」
少年Bは、いわゆるいいとこのお坊ちゃんで、豪邸と呼んで差し支えない大きな一軒家に、住み込みの家政婦が家事や育児を一手に担っており、坊ちゃんのための必要経費は毎月まとまった額が振り込まれている。
「学校から番号引っ張ってかけてみたんですけどね」俺は首を振る。「それに家政婦さんじゃ何とも」
「カネがなかったらただの虐待だな」先生が眉をひそめる。「勤務先は聞いていないのか」
「そっちは俺の担当じゃないんで」
出来ていないことの言い訳じゃない。
任せてもらえないことへの不平不満だ。
「大王に泣きついて、大舞台を割り当ててもらったわけか」先生が冗談まじりに云いながら足を止めた。
奥まった個室。
ドア前に立っていた制服に挨拶する。自分だって制服だけど。
おまけに同行しようとしたので異を唱えたが、向こうのほうが先輩なので意味なし。
刑事ドラマみたいに単独行動なんかできやしない。
「女性捜査員の到着が遅れているみたいだな」先生が何の気なしに云う。「仕方ない。私が代わろう。到着次第引き継ぐからここは」
反論するだろうなと思って見守っていたが、あっさり従って道を譲った。
なんで??
「私の評判を知らんのか?」先生がドアを閉めてから呟く。視線はすでに衝立の向こう。「失礼する。今日は診察ついでに話を聞かせてもらいたい。簡潔に云えば、取り調べだ。警察を連れて来た」
「あ、はい」
返事が返ってきたことに驚いた。
俺だったら絶対に返事なんかしない。
「調子はどうだ?」
先生越しに少年Bを見つける。
白いベッドに上体を起こして座っていた。腰から下は薄い掛け布団で見えなかったが、頭と腕に白い包帯が巻かれており、彼の怪我の程度がうかがい知れる。身体の表面への傷は大したことなかったのだ。
先生の専門は、身体の内側への傷。脳とか心とかそのあたり。
俺の保護者ヅラしてるあの人のお墨付きの専門医なんだとか。
「あんまりよくねむれなくて。きのうもなんども目がさめちゃって」少年Bが俺に視線を移す。「あの、あなたが?」
「急に来てビックリしたと思うけど、捜査に協力してほしいんだ」俺は自動で手帳を見せた。「答えたくないこともあると思うけど、何でもいいから、思い出した時点で教えてほしい」
「先生に話したことも、もう一度ってことですか?」少年Bが先生に言う。
「私はお前を治療するためにここにいる」先生が言う。丸椅子に腰掛けながら。「打って変わって、こいつは事件の真相を突き止めるためにいる。真相なんてものがあれば、だがな」
「え、あの」少年Bが眉を寄せた。「ぼくがだれかにつき落とされたかもしれない、て思ってるってことですか」
「そうなの?」あまりに話がスムーズで思わず笑みがこぼれてしまった。
いけないいけない。
仕事モードに戻らないと。
「わからないです」少年Bの視線が手元に落ちる。
「思い出せないのか、思い出しているけど相手がなぜ君を突き落としたのかわからないのか、どっちかな?」
「わからないんです」少年Bが項垂れる。「思い出してるんですけど、その」
「君は自分から川に落ちたの?」
少年Bが首を振る。表情が険しくなってくる。
「じゃあ、川に落ちる前はどこで何をしてたか憶えてる?」
「あの、先生」少年Bが先生に助けを求める。
「お前が思っていることを言えばいい」先生が間髪入れずに答える。「お前の親が来ないせいで、忙しい中こうやって立ち会ってやってるんだ。私はお前の主治医だからな。お前の未来の精神面によろしくないような展開になれば止めてやらないでもないが」
なるほど。主治医のドクタストップがかからない以上、少年Bは何かしら発言をしなければならない。
相変わらず、相手方の動きを封じるのがお得意だ。
万に一つも敵に回さないように注意しよう。
「君以外は知ってるから伝えるけど」言いながら、全神経を少年Bの反応に集中させた。「君のクラスメイトが、君が川に落ちた時間とほぼ同時刻に、学校のベランダから転落した」
「え」少年Bが身を乗り出す。興味というよりは度を超えた驚愕に近い。「あの、だれですか? だれが」
俺はその子の名前を言った。
少女Aだ。
「うそ」少年Bの表情が剥離する。「なんで」
「君は、なんでその子がベランダから落ちたのか、知っている?」
「しらないです」少年Bが首を振る。
「その子と君は仲が良いって聞いたんだ。何か知ってることがあればと思ってね」
「ぼくのことを聞きに来たんじゃないんですか」
「優先順位の問題なんだ」極力フラットな感情を心がけた。「今一番知りたいのは、君がその子について何か重要なことを知ってるんじゃないかなと、個人的な言い方をすれば、当たりを付けてる」
「うたがわれてるってことですか」少年Bが言う。
「うん、そうだね。警察は、君を、疑っている」
少年Bは先生を横目で確認すると、何の弁護も期待できないことを悟ったのか、唇を噛み締めた。
ここまでは。
予想通り。
さて、この先は。
「ぼくのことを聞き回ったんなら」少年Bが重い口を開く。「○○ちゃんがぼくのことをたよりにしてくれてたのはしってると思います」
「らしいね」
「ケーサツの人が聞きたいのは」少年Bが絶妙な間をとる。「ぼくが○○ちゃんにそうゆうことをゆったかどうか、じゃないんですか」
そうゆうこと。
自殺幇助。
「例え言ったとして、何の証拠もないよ」
「だから、ぼくにゆわせようとしてる」
「言ったの?」
少年Bが黙る。
やはり。
「○○ちゃんからは、家のことでこまってるってゆわれてて」少年Bが沈黙に耐えかねて口を開く。「それで」
「飛び降りれば楽になるって? 冗談じゃない」
「ちがう!」
「違わないよ。何も、違わない」
「なんでぼくの話を聞いてくれないんですか?」
「聞いてるよ。聞いたうえで、その可能性が高いと」
「かってに決めつけないでください。それにぼくは、川に落ちて」
「だから、その川に落ちた云々が、カムフラージュだったって言ってるんだよ」
カムフラージュにしてはやりすぎだが。
ガキは加減がわからない。自戒も込めて。
「死んでもよかったから?」
少年Bは何も言わない。
「それとも」
項垂れた少年Bの視線が一瞬上がって。
下がる。
「君は、責任を感じて、命を持って償おうとしたの?」
「その辺にしてやれ」先生が俺の肩に手を置いた。「お前の役割を忘れるな。お前にこいつを裁く権利はない」
少年Bは項垂れたまま、じっと黙っている。
ここへ来て黙秘は最悪だ。
親が金持ちなら弁護士くらいすぐになんとかする。
「邪魔したな。ほら行くぞ」先生が丸椅子を片付ける。「日を改めさせる。それまでは私の診察だけだ」
「また来るね」
「ぼくは」少年Bが息だけの声で叫ぶ。「ころしてない」
俺は足を止めて振り返る。
先生もドアノブから手を離す。
「やってません」少年Bが必死そうな顔で訴えていた。「しんじてください」
笑いだしそうになるのをこらえる。
笑っちゃ駄目だ。
まだ。
「警察の仕事はね」真面目な表情を作ってからベッドに近づく。「生憎と、信じることじゃないんだ。君がまんまと引っ掛かってくれて助かった」
「え」少年Bの表情が凍りつく。「引っかかって?て」
「川に落ちた君とほぼ同時刻に学校のベランダから転落した○○ちゃんの生死を知ってるのは、つい数日まで生死の境を彷徨っていた?君以外の全員だ。わかる? 君は、君が知っているはずのないことを知ってたんだ」
「え、だって、飛びおりたって」
「そう。俺は転落した、としか言ってないよ。それにね、君は第一報を受け取ったときの反応を間違えた。曲りなりも仲が良かったクラスメイトがベランダから落ちたら、フツーは、大丈夫ですか?て聞くんだよ。飛び降りた友だちが無事に生きてるかどうか、それが何より知りたいことだと思うけどね。違うかな」
少年Bの顔面から、表情の一切が削ぎ落ちた。
いや、もともとこの顔が正常だったのかもしれない。
少年Bが俺を真っ直ぐに見た。
とても、10歳にも満たない少年の顔立ちではなかった。
「どうだろう。何か話してくれる気になったかな」ゾッとする背筋を感じないように肘を抑えた。
「日をあらためると聞きましたが」機械的な音だった。少年Bの口から発せられた言葉だとわかるのに時間がかかった。のを少年Bは見逃さなかった。「おとなはうそつきですね」
まずい。この流れは予想してなかった。
「すまない。私が止めておきながら」先生が助け船を出してくれた。「今日はこれで終わりにしよう。その代わり、日を改めて、お前は話すべきことをぜんぶ話すと約束しろ」
「先生が立ち会ってくれるなら」少年Bは布団を被ってベッドに横になった。「さようなら」
「ああ、一つ聞き忘れた」先生が言う。「お前、男と女、どっちが好きだ?」
「意味がわからないですけど」少年Bは布団の中から言う。
「意味がわからんことを聞いた覚えはないんだがな。まあ、いい。出て行くとしよう」
ドアを開けると制服が敬礼をした。俺に、じゃない。先生に。
先生は適当にあしらって廊下を逆戻りする。
「お前、取り調べ下手くそすぎるぞ」制服が見えなくなってから、先生が吹き出した。「自分のことを推理小説の探偵か何かと勘違いしてないか。犯人はそんなに都合よく自白しないぞ?」
「途中までうまくいってたじゃないですか」
「大王が真っ先に私を頼るくらいだぞ? それ相応の難関だと思ってくれていい。お前の敗因は、相手を見くびったことだ。あいつはお前によく似てる」
「どういう意味ですか?」悪口だろう。「先生だって、知ってることがあるなら俺にも」
「大王に聞いてみろ。私の報告義務はお前にはない」
そんなの。
絶対に教えてくれない。
「まあ、なんにせよ」先生がエレベータのボタンを押す。「奴は、少女Aが死んだのを見てから川に落ちたのが確定したな。この順序がわかっただけでもなかなかの手管だぞ?」
「全然褒められている気がしないんですけど」
先生は駐車場に愛車を迎えに行くらしい。俺は本部まで徒歩で帰るつもりだったので、便乗する気満々でついていった。
遠くからでもすぐにわかる。
赤いスポーツカー。
「若いもんは歩け。と言いたいところだが」先生はドアロックを解除する途中で手を止める。「最後に私が奴に投げた質問。あれの意図を正解できたら、送ってやるのも吝かじゃない」
「先生こそ俺のこと見くびってません?」
簡単だ。
なんだかんだ言って先生はちゃんと俺にヒントをくれる。
雨が降りそうだった。
「虐待の可能性がないとするなら、少年Cとの関係でしょう?」
先生は鼻で嗤ってロックを解除してくれた。
少女Aは、死後、レイプされた形跡がある。
少年Bは、繰り返し、肛門を酷使した形跡がある。
関係者はもう一人いる。
少年C。
自殺(?)した少女A、川に落ちた少年Bと、これまた同級生。少年Bとは、とても仲が良かった、いわゆる親友だそうだ。
事件発生後、一度も学校に来ていない。自室に閉じこもっているという。少年Bの不在の両親の真逆。家族ぐるみで寄ってたかって束になって壁になって。警察はおろか、学校関係者までシャットアウトする。
少年Cは自分の意志で自室から出てこないのではなく、両親が我が子可愛さに護っている可能性。
「お前はどっちだと思う?」先生がいたずらっぽく言う。
「お見通しのくせに」
アポなしで、しかもいかがわしい心の専門家を同行させて、突破できる壁なら苦労しないが。
案の定、玄関先から一歩も入れなかったが、先生のよく通る声が天の岩戸を内側から開けた。
少年Cが顔を見せた。
母親が急いで我が子を部屋の奥に隠そうとしたが、時すでに遅し。
「いい報せだ」先生が少年Cの心を一発で捉える魔法の呪文を放った。「■■■君とやらが眼を覚ましたぞ」
少年Cの眼から、大粒の涙がこぼれた。
少年Cが落ち着いたのを見計らって、家に上がることができた。ほとんどどさくさだが。
先生はやっぱりすごい。
認めざるを得ない。いや、認めていなかったわけじゃないが。
「あの、■■■くんに会ったんですか?」少年Cがたどたどしく話す。
母親は少年Cの横にぴったりくっついているが、特に何も言わない。
とすると、彼は母親に何も語ってないってことか。
いけるかもしれない。
「ついさっきね」俺は自動で手帳を見せる。「無事だよ。怪我も大したことない。話もできたし」
「じゃあ、次はおれが話す番ですね」少年Cは決意したように顔を上げる。「○○ちゃんは、■■■くんに殺されたんだと思います、たぶん」
しぶしぶリビングに通された。二人掛けのソファに俺と先生が座って、俺の右隣に少年C。その間に母親が、折り畳み式の椅子をわざわざ持ってきて陣取った。
もちろんお茶も菓子も出ない。母親の眼力が結構怖い。
「たぶん、てのは?」俺は少年Cだけを見ながら言った。
「実際に殺したところを見たわけじゃない、てとこか」先生が少年Cの答えを先読みする。
少年Cが肯いた。
少年Cの母親が、言いたくないことは言わなくていいと優しげに言葉を掛けるが、少年Cはゆっくりと首を振った。
「■■■くんが、○○ちゃんを引きずっているところを見て、ビックリして」
逃げた。
ということは、少年Bは、親友に犯行?現場を目撃されたことを苦にして、川に飛び込んだ?
「■■■君は、君が見てたことに気づいたの?」
「それで、■■■くんが追いかけてきて、橋の途中で」
ピンポーン。
来客のようだ。
少年Cの母親が、彼の両肩に優しく触れて、躊躇いもなく廊下に出て行った。
いいのか?
「食料品だと思います」少年Cが苦笑いする。「いつもこの時間に届くので」
しばし沈黙。
少年Cの母親がひときわ高い声で応対しているのが聞こえる。
「えっと、橋の途中で?」話を戻そう。
「雨が降ってたんです」少年Cの視線が手元に落ちる。「大きな声で呼ばれて、足を止めました。振り返ったら、らんかん?に、こう、立ってて」少年Cが手を広げる。「まさか、て思った瞬間」少年Cが眼を瞑って天井を仰いだ。
後ろ向きに落ちた、と。
「足を滑らせたってこと?」
「雨降ってるってのに欄干に立つんだ。落ちるつもりじゃなきゃ何のつもりだ」先生が腕を組む。「お前は、なんで■■■君とやらが飛び降りたのかわかるか?」
「おれに、見られた、から?」少年Cは、一語一語確認するように先生をちらちらと見た。
「君にだけは見られたくなかった、てことかな?」
犯行の露呈よりも、親友に見られた方がショックか?
でもそんなことくらいで、橋から後ろ向きにダイブするだろうか。
「お前が見たのは、お友だちが死んだ女子を引きずっていた姿だけか?」先生が言う。「女子はすでに死んでいたか? お友だちは、女子を引きずって、何をしていた?」
「その、えっと、くらかったので」少年Cは眉を寄せて首を振る。
「暗かった?」ああ、そうか。死亡推定時刻は。
「あ、その」少年Cは、母親が出て行ったドアを一瞥してから口に手を当てる。「これ、お母さんにゆわないでほしいんですけど」
「言わないよ。何?」
「その日、じゅくの日で、その、サボっちゃって」
親友が同級生の女の子を引きずっていたことより、
自分が塾をサボったことのほうが、親には知られたくないのか。
なんだか。
ちぐはぐだ。
「お前は塾をサボって夜中に学校に行ったのか?」先生が指摘する。
「よばれたんです。その、おもしろいことをするからって」少年Cが横目でドアを気にしている。「あの、もういいですか。これでぜんぶ、です」
「わかった。急に来て悪かったな」先生がソファから腰を浮かせる。
「え、行くんですか?」先生が粘ってくれると思ったから食い下がらなかったのに。
廊下に出ると、母親が顔を見せた。迎えたときより明らかに笑顔だった。
帰れ。
そうゆうことだ。
「帰る前に一つ」先生が靴を履きながら言う。「■■■君とやらにも聞いたんだが、お前。男と女、どっちが好きだ?」
「え」少年Cは一瞬虚を突かれたような顔になって。
眼を逸らした。
「どう、ゆう」
「意味がわからんか? ならいい」
先生の後に続いて屋外に出る。コインパーキングまで無言だった。
「入れ知恵か、共犯か」先生がエンジンをかけながら言う。「どうにも、はっきりせんな」
少年Cは、少年Bを庇いたいのか、その逆なのか。
少年Bのシナリオ通りに、少年Cが台詞を喋っただけなのか。
「奴らの証言は横に置いといて、現場を見に行ったほうがいいかもしれんな」先生が呟く。
「行ってくれるんですか?」
「それはお前らの仕事だろう。若造は本部に捨ててく」
「えー」
母親がいなくなったあと、明らかに少年Cの言葉の歯切れが悪くなった。
逆ならわからなくないが。
いや、母親が貼りついていたときに言っていたことが本当で。
母親がいなくなった後に言っていたことが、台詞だったとしたら。
母親の前では嘘が吐けなかった?
なんで??
先生の有難い助言通り、現場の一つ、少年Bが転落した橋に来た。
欄干の高さは、130センチほど。
彼らの身長程度。
これに、
よじ登った?
わざわざ?
本当に死ぬつもりだったら、もっと確実な方法がいくらでもある。
車道に飛び出すとか、凶器を突き立てるとか。
水面まで5メートルほど。
水深もプール程度。
クラスメイトの女の子を引きずっているところを見られて。
急いで追いかけて。
大声で振り返らせて。
よじ登って。
後ろ向きにダイブ。
なんか、
芝居染みていないか?
証言は横に置いて。先生の助言通りに。
事実と現場を見る。
学校のベランダから転落した少女A。
橋から川に転落した少年B。
事件発生翌日から学校を休んで自室に閉じこもっていた少年C。
電話が鳴った。
こうゆう時に連絡してくるお節介な保護者はこの世でたった一人。
「昼ならこれからですけど?」
「早く帰ってこないと、これを」俺が気まぐれで作った弁当だ。「部下が見ている前で自慢しながら食べることになる」
「あのですね」ケータイを反対の手に持ち替える。「露呈して困るのは、俺じゃなくてあなたのほうです」
意味のない沈黙。
「いまどこだ?」
「最初にそれを聞きたかったんでしょうに」わざとらしく溜息をつく。「現場ですよ、橋の方。小学校はこれからです」
校舎は眼と鼻の先。
ちょうど、正午のチャイムが鳴った。
「一人か?」
「わかってることを聞かないで下さい」
さすが、取り調べが拷問になることで有名な。
「善意の報せがあった」
先生しかいない。
「君からの報告がまだな気がするが」
「今日中には」
再び意味のない沈黙。
「気に入らないのはわかるが、一人で行動しないでくれと」
「親友に見られたくらいで飛び降りるでしょうか」欄干にもたれて空を仰ぐ。
どんどん暗黒が拡がる。
しまった。傘を先生の車に置いてきた。
「眼の前で冬の海に飛び込んだ人間を知っているんだが」
しまった。
自爆。
「あれだけはやめてくれ」
「わかってます」
大切と思われている相手に迷惑をかけたい?
ちがう。
「学校への聞き込みは君の担当じゃない」
「わかってます」
演技性とメッセージ。
なんだ。
なにか。
掴めそうな。
「そこに資料ってあります?」
「帰ってからにしてもらいたいが」
「Aちゃんは発見されたとき」無視して続けた。「泥だらけでしたか?」
おかしい。
ついこの間まで保育園か幼稚園に通っていたガキがたった一人で。
女児とはいえ、遺体を引きずれるだろうか。
もしこれが。
二人で協力して引きずったとしたなら。
「気づいたことがあるなら直接聞こう。15分以内に戻らないと」
迎えを寄越す、ではなく、迎えに行く、と。
さすがにそれは。
「はい」
「待っている」電話が切れた。
欄干を蹴ったところで。
降り始めた雨が已むわけでもなく。
いっそ少年Bの真似をして欄干に立ってやろうかとも思ったが。
足を滑らせた場合のデメリットがでかすぎることに気づいて。
間違いなくあの人のクビが飛ぶ。
少年Bは飛び降りたほうがメリットがでかかったんだろうか。
結局事件は。
4
――結果的に三人の共犯になってしまった。
のではなくて、最初から。
三人は共犯で。
(『イヴクロテクス』より)
****
「どうなったんですか?」助手がお茶を淹れながら聞く。
独特のいい匂いがする。
ローズヒップ。
「それを今日の配信でやるから」
「わかりました。楽しみにしておきますね」
時間になった。
はじまりはじまり。
「今日は、前回にも言ってたけど、僕が小学校のときに実際にあった事件について話します。僕には仲の良い親友がいたんですが、彼が」
気になっている女子がいた。いや、気にしていたかどうかはどうでもよかった。
彼女は、僕に相談してきた。
どうしたら、お母さんが家に帰ってくるか。
彼女は、母親に世話を放棄されていた。
今で言うネグレクトだ。
「さて、僕はその女子に何と言ったでしょうか? 皆さんなら簡単でしょう」
コメントに眼を遣る。
当てに来てるの半分。大喜利半分。
「うーん、ピタリ賞はいなさそうですね。いいですか? 答え言いますよ?」
死ねば帰ってくる、と。
自殺か、そうじゃないか、選べ。
「とても医者になろうとしてる奴の台詞とは思えないですよね。我ながらひどいことを言ったものですよ」
女子は、僕を人殺しにするわけにはいかない、迷惑はかけられない、と云って。
自殺を選んだ。
自宅で死ぬと母親が疑われるので、場所は自宅以外。
塾?
公園?
どこか他には。
学校しかない。
学校が一番いい。
「なんで学校なんか選んだんでしょうね? 一番ヤバい場所じゃないですか。今の僕なら絶対選びませんね」
今ならどこを選ぶか。コメントが多いので答えておく。
「そうですね。やっぱり自宅ですかね。自宅が一番安全です。邪魔も入りませんし」
いや、それは殺す場合の方か。
まあいいか。誰も気づいてなさそうだし。
「今でこそ不審者対策してますけど、当時の学校って、門は開けっぱなしだし、出入り口は開いてるし、来客もノーチェックだし、それはそれはオープンな場所だったんですよ。下校の時間過ぎたって、校庭で遊んでたらそのままだし」
僕らは一旦家に帰って、夜になってから再登校した。
南門はいつでも開いていた。
教室のベランダを見上げられる。
校舎は3階建て。
3階から飛び降りても死ねるかどうかわからない。
「さて、ここでクイズです。僕はどうやって致死率を上げたでしょうか?」
コメントを眺める。
さっきよりは話に入ってきてくれている印象。
さすがにそろそろ気づいただろう。
これが。
ノンフィクションだってことに。
「答えは、落ちる場所を工夫した、でした。当たってた方、ちらほらいましたね」
とにかく、女子はうまいこと死ぬことができた。
雨が降ってきた。
いや、回想の話。
死んでるってのに、雨ざらしになるのがどうにも可哀相になって。
引きずって、引きずって、引きずって、引きずって。
どうしたっけ。
あれ?
「んー、そうそう、気づいたらベッドの上にいて。いやいや、夢オチじゃないんですよ。女子はちゃんと死んでたんで。ケーサツの事情聴取?みたいなのも受けたし。あのとき僕を誘導訊問した、一人称“俺”の女性警官、めっちゃヨかったなぁ。また会いたいなぁ。もっかい誰か殺したら会えるかなァ。あ、いや、殺してないんだけど」
コメントで笑われる。
別にウケを狙ったんじゃないけど。
「最後どうなったのか、ていう質問が多いですが、当時7歳ですんでね。どうにもなりはしないですよ。親が付けた有能な弁護士がどうとでもしてくれちゃったんですよ。“俺”女性警官に会いたかったのにねェ。あの人まだ地元にいるか調べよっかなァ」
話がズレていると指摘。
その“俺”女性警官について詳しく、てのと半々。
「事件暴露して、俺も配信もまとめて終わりってのじゃつまんないわけです。俺もリスク承知でやってるし。俺の狙いはですね、親友君です。彼をですね、捜してるんですよ。事件後に転校しちゃってそれっきり生き別れ。え、名前? さすがにさすがに。俺が顔出ししてるから赦してもらいたいですね。要は、向こうから見つけてもらいたいわけです。はい、俺の顔に見覚えある、小学校のときの親友君はここに連絡を!」
親友君の個人情報を求める声が多いが無視。
「じゃあ、まあ、せっかく見てくれてる方々にだけ、顛末をさらっと。親友君も見ちゃったんですよ。なにせ女子の飛び降りショウ、ったら可哀相だけど、面白いものは共有したかったわけで。夜にも関わらずですね、呼んだらあの真面目な親友君が、まさかの塾サボって来ちゃって。あー、いや、でもどうだったかな、親友君来たときには死んでたかな? ちょっと記憶曖昧ですね」
止めようと思って来たのでは?という鋭い考察が光る。
敢えて拾わない。
「でも親友君、俺がやったって、その“俺”女性警官にゲロっちゃったんですよ。だから親が弁護士なんか付けてくれやがってですね。親友君が?俺を?売った? いやいや、それするメリットないですし。一緒に引きずったなら同罪ですし。あれ? ああ、そっか。重くて引きずれなかったから、一緒に引きずったんだったかな? 引きずったあたりの記憶飛んじゃってまして。思い出したら、そんじゃま次回」
事件の全貌が全然わからないっていう否定的な意見。
親友君見てくれていたら是非連絡をという協力的な応援。
それと。
俺にしか見えないコメント(有料)でまったく別の話題を振ってくるシンパとアンチ。
内一つに目印を付ける。
「記憶飛んでるって、嘘なんじゃないですか?」配信が終わってから助手が声を掛ける。
「やっぱ?」
「謝罪会見を期待されてたんじゃないですか? 視聴者はよく燃えるものがお好きでしょうから」
「あー、マズった?」
「ええ」助手が苦笑いしてお茶を淹れ直す。「作り話の反応を計測して、手応えがあればなんたら賞にでも応募しようと思われているかもしれませんね。もしくは首謀者の手記辺りを出版にこぎつけるとか」
落ち着くいい匂い。
カモミール。
「そんなことしないよ。ガチに百パ、リウに会いたいだけなんだから」
「では、その親友君の転居先をすでにあなたが掴んでいるというのは内緒ですか?」
「リウに見つけてもらいたいわけ。君ならわかるでしょ?」
「さあ」助手は非の打ちどころのない完璧な微笑みを残して、キッチンに消えた。
あの笑顔だけで相当稼げると思うが、所有欲の強い彼氏のせいでバイトも禁止されてるんだとか。
彼氏が執り仕切るいわゆる“副業”が芳しくないせいで、最近距離を取られて淋しそうにしていたので、小遣い稼ぎに配信の助手をしてくれたら手当は応相談、と持ちかけたらば、短期間ならという条件で、溜息が出るほどの美人を手元におけることになった。
配信にちらちら見切れるので、新しモノ好きの視聴者も気になっていることと思うが、助手の個人情報は明かさないという条件でこちらもやってるわけで。
カップを洗う後ろ姿が見える。
白磁みたいな首筋が支配欲をそそる。
「助手の君にだけホントのことを教えようか」助手が振り返らないのを見届けてから続けた。「君の言うとおり、忘れてなんかないよ。引きずったあたりの記憶が吹っ飛んでたのは本当だけど、事実として憶えてるだけで、何て言うかな、実感がないんだ。解離っていうか、なんだっけ、離人? とにかく、あっけなかったね。あんなに簡単に人が死んじゃうなんて」
助手はほとんど聞き流していた。ことはわかっていた。
俺みたいな奴の話をまともに取り合わないほうがいいことを、経験としてわかっているようだった。
配信は毎回アーカイブを残している。
助手君を紹介してくれたご令嬢(俺が勝手にそう呼んでる)から連絡が入った。アーカイブを見たのだろう。
「随分と派手に宣伝されますのね」ご令嬢はあきれた様子だった。
重要な話があるからと、会員制のホテルに呼び出された。23時を回っている。明日は午後から講義だったからよかったものの。抗議は受け付けてもらえないし仕方なし。行き帰りのタクシー代もらえるし。
「目立つのがお好きなのかしら」ご令嬢が挨拶代わりに嫌味をくれる。
もう慣れたけど、ご令嬢の都合(詳細は不明)でいつも部屋が致命的に暗い。お付きがドアを開けたり閉めたりしてくれなかったら、訪問のたびにドアの数だけおでこにコブを量産してしまう。
丸いテーブルの中央に古風なランプ。悪の秘密結社の極秘会議だってこんなに陰鬱じゃない。向かいの玉座めいた仰々しい椅子にご令嬢がちょこんと座っている。小さな顔を覆う大きなサングラスは相変わらず。顔を隠したいというより眼が見えてないんじゃないかと予想してるけど、いまだ明確な解答をもらえていない。眼玉がないっていう可能性だってないわけじゃない。
お付きが紅茶を淹れてくれた。
茶葉が高級すぎて銘柄がわからない。
「突然お呼びしましたのは」ご令嬢が紅茶を一口含んでから言う。「わたくしの兄を診ていただきたく、お願いしたい所存ですのよ」
「質問があるんですよ」
「ええ、どうぞ」
「俺まだ医者でもなんでもないんで」
「練習台、ということですのよ」
「はあ、そうすか」
断るとか断らないとかはない。
決定事項の発表会にすぎない。
「ちなみに、お兄さんはどんな病気でしょか」
「それを探るのがあなたのお役目でしてよ」
「言い方変えます。お兄さんは、どんなことで困っていて、医者にかかろうと思ってるわけで?」
「亡くなった意中の方にそっくりな外観の人間の中身を抉り出して入れ替える、いわば反魂の外法の反動ですわ」
「へェそりゃ面白いや。で?本当のところは?」
ご令嬢はにっこりと微笑む。この笑顔の口の感じがどことなく助手に似てる気がするけど、美人なんかみんな同じ顔に見えるってゆうあるある現象だろうと。
「追ってお兄様の育ての親から連絡が入りますわ」
「お兄様の育ての親ってことは、つまりご令嬢の」
「赤の他人ですわね」間髪入れずなお答えだった。「忠告ですけれど、わたくしがお兄様と感動の出会いを果たすまでわたくしのことはお兄様に伝えないでいただきたいの」
「誰の紹介か黙ってろってことでしょ? わーってますって。顔だけ見て帰ってきますよ」
翌日知らないアドレスから、日時と場所の指定があった。まさかの明日とか急すぎるけど、ご令嬢の関係者ならこんなもんだろうと。
医者になるための勉強がどんどん疎かになってる気がしないでもない。医者になった後の練習ばっかしたって、免許がなかったら元も子もないわけで。その辺をきちんとわかってくれているのか定かではないが、医者になった後の就職先は面倒を見てくれそうだから、如何なく顔は売っておきたい方向で。
住所を伏せておきたいのっぴきならない意図を感じた。出発の駅で受け取ったチケットで新幹線。到着の駅で迎えに来ていた車に乗る。無個性な黒スーツの男が運転する。
沈黙に耐えかねて可もなく不可もない話題提供をしても完全無言。無視というより、客と口をきくなと命令されているのだろう。
純日本家屋の門の前で降ろされる。勝手に入るなとも待っていろとも言われていないので。
「すいませーん」と声を上げた。呼び鈴が見当たらなかった。
「お待ちしていました」と優しげに応対してくれた男の顔を見て。
十年前に欠けたピースを取り戻す。
なんで。
いや、
まさか。
いや、
神よ!
て感じか。
ご令嬢はぜんぶご存じ?
ぶっちゃけお兄様は栄養が足りていないようだったので、それっぽい助言をそれっぽくでっち上げて適当に済ませたし、顔なんか見るどころじゃなかった。
ずっと、
ずっとずっと、
ずっとずっとずっと捜していた。
親友に再会できたことが感極まりすぎて。
「リウ?」門まで送ってくれたのでこっそり声をかけたが。
「忘れ物でも?」初対面ですよみたいな笑顔で首を傾げられた。
食い下がって不審がられてもご令嬢のご意向に反しそうだし。
亡くなった意中の相手にそっくりな外観の人間の中身を抉り出して入れ替える、いわば反魂の外法。
お兄様が使った外法の材料が、リウだったという。
ことだ。
リウを取り戻さなければいけない。
俺のことを憶えていないだなんて。
リウはすでに実家にはいない。リウの通っている大学を突き止めないと。
学部は?
アパートは?
俺が焦って自暴自棄になっているのがよほど見るに堪えなかったのか、ご令嬢がヒントをくれた。
「あなたと逆ですわ」
逆?
「しっかりなさって? 自分のことを忘れられていたくらいで。忘れられたのならまた思い出させればよいだけのこと。違いますかしら?」
「励ましてくださってるんで?」
忘れているというよりは、記憶を書き換えられたんだと思うけど。
とうとう住所が送られてきた。
「さっさと取り戻してくださいな」
ご令嬢にお礼を言って、リウの住んでいるマンションまで急いだ。
俺と逆。
俺はリウを追いかけて、リウの転校先の県の大学を選んだ。
リウは、俺のことなんか忘れて、俺を置いていった県に戻った。
オートロック。
部屋番号はわかってるのに。
番号を。
押すだけでいいのに。
また。
またあの顔で。
知らないと言われるのがつらすぎて。
「どうされたんですか?」
リウの声がして振り返る。
最高のタイミングを掴んだ。
神も天も俺を見放していない。
「能登、のりうき君だよね?」
ここの住人を装ったってどうせ嘘がバレる。
「俺のこと、憶えてない?」
「えっと」リウが困った顔をする。「大学の?」
待て。
リウだ。
これは、リウだ。
この間お兄様の家で会った“彼”とは違う。
戻った?
リウに戻ったのか?
「リウ」
「あの、立ち話も何なので。よかったら」
なんで。
ノーガードでわけのわからない他人を部屋に招き入れるのか。
「最近記憶がぷっつり途切れることが多くて」リウが苦笑いする。「ご迷惑をかけてる人が多いみたいなんです」
ぷっつり途切れている間に、その故人の人格が身体を動かしているのだろう。
部屋はそこそこ散らかっていた。台所は使った形跡がない。学生が借りるマンションにしては広い。2DK。親か兄のカネだ。
リウのにおいがする。
デスクにあった読みかけの本のタイトルを横目でインプットする。
「用件はレポート写させて、とか?」リウが座布団を用意しながら言う。「俺の見た目のせいかそこそこそうゆうお願いが多いんだけど、最近記憶がぷっつりてのと土日はちょっと用事があって出掛けちゃってるから、あんまりカバーできてないんだよね。むしろこっちがお願いしたいくらいで」
「あー、えっと」まずい展開になってきた。「俺は、同じ大学じゃなくて」
「え、そうなんだ」リウがちょっとがっかりしてる。「じゃあ」
何しに来たのか。
何しに来たんだ俺。
「リウ、本当に俺のこと憶えてない?」
「えっと」リウが俺の顔をまじまじと見る。「ごめん」
「小学校のとき、同じクラスだった」
「小学校?」
俺は学校の名前と地域を言う。
「うーん」リウが眉をひそめる。「そうなんだ。ごめん、全然思い出せないや」
お兄様の禁術のせいで消えたわけじゃなくて、当時とっくに消していた、てのが有力か。
「あのさ、リウ、俺と」
「へえ、随分モテるんだね、“彼”」リウがメガネを外した。
リウじゃない。メガネを外したら見えないはず。リウはそのくらい近眼。
“彼”は、
お兄様の屋敷にいた。
「なんで?て顔してるね。僕だって好きで出てきたわけじゃない。君、彼が封印してる記憶を掘り起こそうとしてない? それは困るんだ。彼が壊れちゃうから」
あのときも思ったけど、表情が全然違う。
リウはそんな顔しないし、そんな喋り方もしない。
「彼が壊れちゃうと、僕もどうなるかわからない。それは、僕としては避けたい。せっかく生き返ったんだから、やりたいことはやっておきたい」
「名前は?」
「聞く前に自分から名乗ってよ。僕も君とはほとんど初対面なんだから」
「比良生禳(ヒラ・せいじょう)」
「正常?」彼は莫迦にしたように嗤う。「ひどい名前だね。親の顔が見たい」
「俺は名乗ったんすけど」
「キサガタ。これでいい?」
喉の奥がカラカラに干上がる。
時計の秒針が耳に障る。
「君、彼のことが好きなの?」
「だったらどうなんすか」
「彼の童貞は君がもらったの?」キサガタが嗤う。「なんでそんなことわかるのって顔だけど、僕は彼の記憶を全部見ちゃったからね。君との思い出はぜーんぶ、厳重に封された壺の中にあったよ。よっぽど忘れたかったんだね、君のことなんて」
俺の神経を逆撫でようとしているのが痛いほどわかる。
そうか。
彼は、
こちら側だ。
「仲間なんて思われたら心外だなぁ」彼が俺の考えを読んだ。「僕は君と違って、この手で、自分の手でやってるから。君は自分の手を汚さないで追い込むのが好み? どっちがえげつないのかって、比べるまでもないと思うけど」
「リウに戻ってほしいんすけど」
「嫌だよ。戻った瞬間押し倒すでしょ? それ、世間では強姦て言うんだけどな」
「じゃあ俺が帰ったら、その身体、リウに返してくれますか」
「君が帰ったあとのことなんか知らないよ。ねえ、なんで女子を屍姦したあと、彼の眼の前で川に飛び込んだの?」
「予想ついてるくせに」
「そうだね。予想は付かなくもない」彼が鼻で嗤う。「でもその程度のことで飛び降りないでよ。下手したら君、死んでたかもしれないよ。ああ、死んだら死んだで都合いいのか。死んでも死ななくても、眼の前で飛び降りることがだいじだったみたいだしね」
なんだこの気持ちが悪い。
不快極まりない。胸糞悪い。
「見抜かれるのは初めて?」
「お兄様には悪いスけど、あんた、相当性格悪いスね」
背筋の悪寒を感じないようにする。
感覚遮断。
不快不快不快。
「あんたを消したら」
「記憶ごと消えるよ。それでもいいの? 君との関係はリセットだ。ああ、むしろリセットされたほうがもう一回やり直せるから都合よくなっちゃうか。じゃあ、記憶は置いてくよ。蓋だけ開けて。彼が苦しむ顔が見れないのは残念だけど」
何も話さないほうがいい。揚げ足どころが墓穴になりかねない。
こんなに危機感を覚えた相手は、
あのときの“俺”女性警官以来。
いや、あのときは眩すぎる光が相手だった。
今回のこれは、
闇よりも尚深い。
どんな地獄を見てきたらこんな真っ黒に染まるんだ。
「帰ります」
「それがいいよ。出直すのもなしで」彼はリウのメガネを弄びながら呟く。「君は、彼にあんまりいい影響をもたらなさそうだから」
マンションを後にしてすぐにご令嬢に連絡した。
肩と首の違和感が、何度タオルで拭ってもこびりついて落ちない。
「わたくしも直接お話ししたことは御座いませんけれど、先代を心中に駆り立てたくらいの猛毒ですから。でも、お兄様はどのような方法でその方を黄泉の国から連れ戻したのか。末恐ろしいことですわね」
本気で言っているのか。
本気でそんなことが出来るとでも?
「ご令嬢?」
「何ですの?」
「なんか、変なもの喰ってません?」
ご令嬢が笑った音がした。
それからしばらくして。
お兄様にそっくりな男が、近いうちにリウを攫うので治療しろ、と無理難題を吹っ掛けて来た。
「いや、何度も言ってるんですけどね、俺はまだ」
「出来ないなら他を当たる」
それは。
困る。
「どうする?」
やるしかない。
とりあえず。
「お兄様とは距離を取った方がいいですね」と適当な治療計画をでっち上げて。
海の見える高層マンション。
白いベッドにリウが寝ていた。
まさかマジで攫っちゃうとは。
「これに」お兄様と瓜二つの男がノートを手渡した。「進捗を書くといい」
「カルテってことですか」
お兄様によく似た男は、眼が見えないようだった。
包帯をぐるりと巻いて両眼を覆っている。
杖も何もなしですたすたと歩くし、ドアにも壁にもぶつからない。
ご令嬢と一緒で、なまじ眼球よりよく見える何か別の臓器をお持ちのようで。
お兄様が席を外したあと、リウの頬に触った。
冷たい。
心配になって胸に耳を当てる。
聞こえる。
二度と眼を覚まさなかったら。
眼が覚めてリウだけいなくなっていたら。
厭な想像に首を振る。
そうしないために、俺がいるわけで。
ご令嬢の従姉とやらにも会った。ご令嬢からの紹介じゃなくて、お兄様に酷似した方。
なんでこんなご令嬢の親族一同に挨拶回りをしなければならなくなっているのだろうか。
「若過ぎない?」ご令嬢の従姉は俺を訝しげに見上げた。
従姉さんは、膝から下がない。
車椅子に乗っている。
「まだ勉強中なもので」正直に言っておく。
「飛び級とかじゃなくて、まさか免許まだなの? 信じられないわ」
俺自身に攻撃が来るのかと思ったが、従姉さんは、学生の身分の俺をいいように使おうとしているご令嬢やお兄様そっくりの彼に対して非を追及するつもりのようだ。
従妹さんは、ご令嬢とは敵対関係にあるんだとか。
それは割とどうでもよくて。
気になったのは、
この一族は身体のどこかを故意に欠損している。
じゃあ、
お兄様は。
どこを。
強いて言うなら、
正気の沙汰じゃない。
まともな神経なら、友人を殺して自分の好きだった故人を憑依させるなんてこと。
思いつかない。思いついたとしても実行に移したり。
「殺さないからちょっと我慢してね」助手の白磁のような白い首を絞める。「ホント殺さないから。殺すのなんか全然興味ないし、ご令嬢や君の独占欲の強い彼氏に呪い殺されても本意じゃないし」
助手が持っていたカップが床に落ちる。
割れて。
破片が。
足の裏に刺さってるけど痛みは不思議となかった。
ケトルが蒸気を噴く。
力を込めるのに疲れて。
手を離す。
助手が勢いよく咳き込む。
「ごめんごめん。ちょっとやってみたかっただけだから、もう、たぶん、しない」
「破片を、踏んでいます」助手の声はひどく掠れていた。「片付けます、ので」
床に血が。
絵の具みたいだった。
絵の具が飛んだのを気づかずに、その上を歩き回った、みたいな。
濁った黒。
「何を?」
イイコト。
「思いついちゃった」
リウは、
誰にも渡さない。
「配信の準備してくれる?」
5
――どうすれば彼に気づかれずにあの男子を殺せるのかを必死で考えている。ずきずき痛む頭で完全犯罪について思考している。
(『経絡感覚コロナリセンサリ』より)
*****
昼休憩に事務員が堂々と動画を見ていたので、こっそりとのぞいた。というか後ろを通るときに眼に入った。
「結構なイケメンでしょ?」
「そうゆうのが趣味なのか」
「好みではないわね」事務員はばっさりと切り捨てた。「絶対に付き合いたくないタイプよ。大切な友人が入れ込んでいたら全力でストップ掛けるわ」
年齢は俺とさほど離れてはいなさそうだった。学生か。自分のプライヴェイトな情報を、恥ずかしげもなく垂れ流している。よほど暇なのだろう。
「いいところは顔だけね。他は最悪よ。でも見てる分にはいいのよね。害がなければ」
「言いますね」
高評価なのかそうじゃないのか微妙なラインだ。
事務員は「動物園と一緒よ」と言ってカップスープを啜った。
午後の業務もつつがなく終わり、事務員はいつも通り定時で帰る。いつもと同じ平日。
新年度になってもやることは変わらない。
大学も3年目。必修科目が減って幾分か楽にはなった。
PCをシャットダウンして、戸締りをしようとしたまさにそのとき。
入り口横付けでタクシーが止まった。嫌な予感がしたが、降りて来た人物は予想だにしない。
「ツネ!?」思わず外に出た。
和装はもうすっかり見慣れたが、何の変哲もない事務所でこの姿はだいぶ違和感。
「仕事終わらはった?」ツネが言う。「宿代、カラダで払うさかい。泊めてくれへん?」
意味が。
わからない。
「あかんの?」
「いや、ちょっと待て。どうした? 急に」思考が追いつかない。
「ああ、そか。トモヨリの眼と耳があらはったな。どないしょう」
「ツネちゃん見られてるほうがコーフンすっでしょうに」視界に白い頭が飛び込んできた。
「やかましな」
頭のてっぺんから足の先まで真っ白なその塊は、機敏に飛び跳ねると建物の陰に消えた。
なんだ?
「ああ、気にせんでええよ」ツネがどうでもよさそうに言う。「ケイちゃんの代わりの護衛やさかいに」
そういえば。
「群慧は?」
「あんだけ眼の上のなんたら扱いしてはったのに」ツネが鼻で笑う。「なんや、さすが勝ったもんは余裕あらはるな」
「そうじゃない。何があった? 何かあったんだろ?」
そうじゃなければ。
ここに。
帰ってこない。
「ツネちゃん、カメラと盗聴器、ぜんぶぶっ壊しちったけど?」白い塊が上から落ちてきた。
まさか。
「ちょっと待て。いま」
眼の錯覚じゃなければ、3階のベランダから落ちてきたように見えたんだが。
「おおきにな。ほんなら」
「ちょっと待て。カメラと盗聴器を」
ぶっ壊したってことは。
「あー」ツネも気づいた。
「あいつに通知が行く」
天を仰いでも壊した事実は変わらないわけで。
遠隔でデバガメされるのとあんまり変わらないんじゃないんだろうか。どちらにせよほどなく義兄が駆けつける。
最高なことと最悪なことが同時にやってきてしまった。
「来らはる前にヤっとこか?」ツネが冗談まじりに言う。
「頭が痛い」
店の戸締りをして3階に上がる。ベランダの窓が開いていたので鍵を閉める。
白い塊はいつの間にかいなくなっていた。
ツネは居心地が悪そうにビーズクッション(巨大)にもたれかかる。
「聞いていいか」斜め向かいの椅子に腰掛けた。
「なんも」
「嘘吐く必要あるか」
「言いたない」
「いまは?」
「でやろ」
この期に及んでまだ。
「信用されてないのか」
「俺かてようわからへん。何が起こってはるんか」
場面転換を期待して席を立った。お湯を沸かして茶を淹れる。
「ほら」カップを手渡す。
「おおきにな。ほうじ茶好きやさかいに」
「知ってて淹れた」
「ほお、そらええわ」ツネがちょっと笑った。
キスするなら今のタイミングだったが。
そこまでの勇気はまだない。
「ケイちゃんはな」ツネがカップを両手で握りしめながら話し出す。「攫われた能登くんを連れ戻すために、勝手に行ってもうたん。止めたんやけど」
「攫われたのか?」能登が。「誰に?」
「わからへん」ツネが首を振る。「俺と同じ顔した、ようわからん奴」
ツネと同じ顔の。
「また兄貴か弟なのか?」
「せやから」
わからない、と。
「ツネちゃん、ご主人のことは言わないどいてくんない?」白い塊が窓から入ってきた。
その窓はつい今しがた鍵を閉めたはずなんだが。
「ああ、俺ビャクローね。主人に言われて、番犬くんの代わりにツネちゃんの護衛しちゃってんだよね」
色を抜いているのかと思ったが、白髪だ。白く長い髪。冷静そうな見た目の割に、落ち着きのない喋り方をする。アンバランスな。
「わからんことが多すぎやわ」ツネがカップをテーブルに置いて、ベッドに仰向けになる。「あかん。お手上げ。なんもできひん」
「やることがないから来たのか」
「やることのうたら来たらあかんの?」
白いのは。
よし、いない。
「宿代、払うんだろ?」
「ええよ。払うたる」
頼むから今だけは義兄に来てほしくなかった。
来なかった。
心配になって、終わったあとでケータイをチェックしたが、本当に何も一切の連絡もなし。
もしや白いのが通知を飛ばす装置までお釈迦にしてくれたのかと思ったが、そう何もかも都合よくは運ばない。
晩飯を済ませて(ツネが宿代のオプションサービスで作ってくれた)(買い出しは俺が行った)、ゆっくりしていたらケータイが鳴った。遅い。遅すぎて逆に拍子抜け。
「実敦君、ちょっと開けてくれる?」
ほら来た。いつもの。
「義兄さん?」
気のせいだと思うが、義兄の声に余裕が残っていない。
1階の店の奥から上階に上がれるが、直接2階に上がれるようビルの裏に非常階段が付いている。義兄はそのドアの前に立っていた。
光の加減だとは思いたいが、顔がやけに蒼い。
「どうしたんですか?」何も気づかないテイでいよう。
「ちょっとこれ見てくれる?」義兄は勝手に俺のデスクに陣取った。そしてちらりとツネを見遣る。「なるほど。巽恒さんの仕事用のケータイにかからないわけがわかりました」
おかしい。
絶対におかしい。まず何を差し置いてもそれに対する嫌味をねちねち刷り込まれると構えていたのに。或いは、店や俺の家に仕掛けた千里眼と地獄耳をすべて破壊された苦情とか。
義兄が鞄からタブレットを取り出す。
スタートボタンをタップすると、動画が始まった。
「こんばんは。はじめましての方はどーもどーも。ドクター・ヒーラーこと、
「長いな」義兄が舌打ちして動画を早送りした。
「――ですね、そんな感謝の気持ちを込めまして」動画再開。「試聴者参加型のちょっとしたゲームをやってみようかと思ってましてー。ははは、そんな難しくはない、はずですが。ああ、勿論見てるだけの方もまったくオーケー。じゃあ始めますね。実は今、僕はいつもと違う場所からお送りしています。背景とか声の響き方とか、いつもと違ったんで、お気づきの方はいらっしゃったかと思いますよ。で、僕が今どこにいるか。それをですね、当ててもらいたいわけです。ね?簡単でしょ?」
このわけのわからない自己満足系動画よりも、義兄がなぜ蒼褪めているのが気になって集中できない。内容が全然頭に入ってこない。
「注意点としては、僕がどこにいるかわかってもですね、突撃凸は控えて頂きたいかなァと。そんだけです。僕に会いたいのは重々わかるんですが、さすがにキャパフリーのオフ会やるには、ちょーっと僕の度胸が足りてないんで、そこらへんご勘弁を。正解がわかった方はですね、いつもの宛先に、ここらへんに、出てるはずなんですが、これこれ、ここに、ずばり!ここ住所でも、フリーマップのスクショでも送ってくらさい。正解者には――」
「ここ」義兄が動画を一時停止した。「たいらが映ってるんだけどわかる?」
画面を拡大してくれた。
メインででかでかと映っている若者の顔面の後ろに、見切れている人物。絶妙なカメラの角度で首から上が映っていないが、義兄が言うのならそれは間違いなく、桓武建設の御曹司なのだろう。
「えっと、それで」それが何か問題が。
「なんで首から上が映ってないかわかる?」
「えっと?」全然わからない。
「首から上を、映せへん状況にあるんかな」ツネが言う。「なんじょうあの御曹司がこんな動画に出てはるんかはよう知らんけど、これ、足付いてへんな」
は?
義兄が「そうです」と小さく肯いて動画を再開させる。
「――なんと、今度こそ僕とのオフ会にご招待! あ、先着一名様限定なんで、そこんとこ、すみませんねェ。ちゃんとタイムスタンプ見ますんで。急いだ方がいいですが、ずるとかカンニングとか不正とか、況してや協力とか、そうゆうの出来ないって思っといてくれたほうがいいですね。んじゃ、はい! たった今からスタート! 締め切りはそうですねェ、勿論正解者が出たらその時点で終わりですけど、次の動画が上がったら、まァそうゆうことだと、察して下さいねー! それでは」
義兄が動画を切った。蒼白い顔は変わらず。
「こらあかん」ツネが沈黙を破る。「不特定多数に送ったはるように見えて、たった一人にしか向けてへん、ふざけた動画やな」
やっとわかった。
あの義兄が蒼褪めていた理由が。
「時間制限があるんですね?」御曹司の命的な意味で。
動画が終わった後、吊られた御曹司の足を床に付けてくれていればいいが、まったくもって当てにできない。
なにせ人を後ろに吊るしたまま、平然と意味不明なクイズ番組なんか配信するような輩だ。人間の血は流れていないと見ていいだろう。
「おま、こいつに怨み買うようなことしはったん?」ツネが言う。
「怨みの線は心当たりがありすぎるので横に置きます」義兄が深く息を吐く。「てっきりご実家へお帰りになったと思っていたんですが、実敦君のところにいたんですか?」
義兄は俺には上から命令口調なのに、ツネ相手は敬語で腰が低い。これも意味がわからない。
「俺のことはええやんか」ツネが苦笑いする。「それより、御曹司やろ? こいつ何モンなん? どっかで見たような気ィもするけど」
「いま僕ら界隈でちょっと有名な動画配信者ですよ」義兄がタブレットの画面を切り替える。さっきの若者のポートレイト的な画像。「比良生禳。もちろん本名じゃない。僕は別ルートで知ってますけど、本筋と関係ないので省きます。彼はこの手の動画配信者と一線を画す特徴がありまして。フツーこうゆう動画って、有名になりたいだとか、注目されたいだとか、そうゆう承認欲求の下発信されるのが常ですが、彼は違う。彼の目的は、昔別れてそれっきりの幼馴染を捜すことでした。彼がこれまで公開した動画は、全部で3本。たった3本です。前回の、つまり2回目の動画をお見せします。特に、ヨシツネさんはご覧になったほうがいいでしょうから」
義兄は動画を再生させると、タブレットをツネに預けて、自分はデスクで自分のPCに向かい合った。首にかけていたPC用のメガネをかけて、キーをカタカタ叩く。
「義兄さんは」見なくていいのか。もう見たのか。
「終わったら教えてくれる?」振り向きもしない。
動画は。
比良生禳とやらが小学生のときに起こした事件について面白おかしく語っている。被害者遺族が見たら気が狂うか然るべきところに訴えて極刑を求めたくなるような、倫理観ゼロの外道番組。途中から気分が悪くなってまともに内容を取っていなかったが、この配信の目的を端的にまとめると。
事件後に転校した親友を捜している、と。
そういえば、最初に見た動画の方で、親友が見つかったと報告していたが。
「トモヨリ、こいつと個人的にコンタクト取れへんか」ツネが静かに言う。意図的に感情を抑えているような表情と声音だった。
「だから、いまそれをやってるんです!」義兄が声を荒げた。「いえ、すみません。明らかに僕を名指しで挑発していたもので」
つまり?
「どういうことだ?」俺にだけわかってない。「親友ってのは」
「能登くんやさかいに。こいつが、能登くんを殺そうとした自称親友なん」
「は? なんでそんな奴が」
「向こうが僕らを認識したのは間違いない」義兄がキーを叩きながら言う。「認識したうえで、たいらを人質にとって、あなたを誘き出そうとしてる」
ツネを?
義兄じゃなくて?
「俺を誘き出してどないしたいん?」ツネが言う。
「それは」義兄が初めて嗤った。「ご自分の胸にお聞きになっては?」
「おま、敵なんか味方なんかはっきりしィ」
「敵でも味方でもないですよ。人の所有物を勝手にどうこうしようとしてるのが気に入らないだけです」義兄の指が止まった。「ああ、やっと応じてくれそうです。隣にあなたがいると言ったのが良かったんでしょうか」義兄がスピーカをツネの前に置く。「マイクは内蔵されていますので、画面に向かってお話し下さい」
「おまは?」
「ちょっといま冷静に交渉できそうにないので、お任せします」義兄が不敵に笑う。蒼白い顔も多少血色が戻ったように感じる。
タブレットに。
さっきの若者が映った。顔面のアップ。
「あー、聞こえたはる?」ツネが訝しげに話しかける。
俺はカメラに映らないように横からのぞいた。
「ああ、どーもどーも。あンれ? そーさいサンは?」義兄のことだろう。
「俺に話があるのと違うん?」
「まァそうはそうなんだけどね?」若者が頭を掻く。「人質の意味わかってんのかなァってねェ」
ツネが顔を上げるが、義兄は痙攣的に首を振る。
「手ェ、離されへんらしいわ。会話は聞いたはるえ?」
「ねェ、そーさいサあン、いいのー?」若者が声を張り上げる。「あなたのだいじな?だいじじゃないのかな? まァいいや。美人サン、えっと、なんだったか、びょーなんとかサン。めっちゃ苦しそうですよ?」
義兄は眉間にしわを寄せるが頑なに声を発そうとしない。
口の代わりにキーを叩いている。手元を一切見ずに。
「文字ヅラでゆったってねェ、感情は伝わってきませんよ? ほらほら」若者がちょっと顔を横に倒す。「足の裏くすぐってみましょうかァ?」
やはり義兄は個人的にこの若者の怨みを買ったに違いない。自業自得極まりないが。
「あなたが矢面に立たないとですねェ、美人サンの綺麗な首筋が、ぽっきりと、折れ曲がっちゃうわけです。それでいいならそれまでですけどォ?」
「俺に用があらはるのと違うん?」見かねたツネが口を挟む。「能登くんのこととか」
「あー、そっちもあったねェ」若者の眼がぎょろりとこちらを見る。「今日配信したばっかの動画見てくれた? ク・イ・ズ。あれに正解したら、リウ――つまり、能登教憂の居場所、教えてあげなくもないかなァっつって」
「おまが」
「ザァんねん。俺じゃないんだな。俺じゃないのよ、それだけは信じて? ね?」若者が肩を竦める。「つっても無理そうだし? 別に俺がやっちゃったっていいわけなんだけど。俺じゃないってゆう一番の証拠があんの。ほら、もし俺がリウを攫っちゃったらさ、ライバルの君にこんな有益な情報、教えるとかゆうと思う? 俺もそれなりにリスク侵してるっての、わかってほしーんだけど」
「ほんまの情報を俺に教えるとは限らへんやん。せやろ?」
「なんでそこでご情報流さなきゃいけないわけよ。はー、俺、信用されてナイ? 悲しいなァ。リウのち××でズボズボやった穴兄弟、は違うか、なんだ? 竿兄弟?なんだそりゃ。やべー。意味わかんねェって」若者がゲラゲラ下品に笑って自分の膝を叩く。
ツネの。
なんたら袋がぷっつんする音が聞こえた。
「リウを攫った、君にそっくりな雇い主サマ? そうそう、俺、雇われちゃってんのよ。リウを元に戻すために、ね。これの意味わかる? わかるよねェ?」
「能登くんが思い出したとこで、お前の思い通りにはならへんで?」
「どうかなァ? むしろ俺との熱い日々を思い出して、真っ蒼になってくれるのが今から楽しみで愉しみで」
「クイズの正解、出はったん?」
「出るわけないっしょ? 何のヒントもあげてないんだし」
「端っから俺と、そこできっつう睨んだはるトモヨリに向けた宣戦布告ゆうこと?」
「ハイご明察」若者がにやりと嗤う。「じゃあね、お兄様。極端な自傷行為はホドホドにねェ」
唐突に通信が切れた。
時間差で義兄が床に空気を投げつけた。
ツネは。
「ツネ?」
「そか。あのボン、どっかで見たことある思うとったけど」
「知り合いだったのか?」
ツネは「せやのうて」と言ったきり黙った。
居心地の悪い空気が立ちこめる。
義兄が叩きつけた空気のせいで俺の部屋の空気が淀んだ気がしてならない。
「どうして義兄さんは、ご自分でやり取りをされないんです?」嫌味言ったれ。
「言ったろ。個人的にちょっといろいろあるんだよ。それに、あの手のタイプは合わない。虫唾が走る」
義兄にそこまで言われたら人間として終わっている。
逆に興味が出た。
比良生禳。
ん?
そういえば、俺もどこかで。
「あ」
思い出した。
昼休憩に事務員が堂々と見ていた動画。
いいところは顔だけ。他は最悪。動物園。
なるほど。
さすが、男の評価が的確すぎる。
「トモヨリ、とっとと謝って御曹司解放してもらったほうがええのと違うん?」
「僕の態度如何でたいらが助かるならそうしてます」義兄がメガネを外す。「だいたい、何がどうなってたいらが奴のところにいるのかが、僕にはまったく見当がつかない。接点なんかないはずなのに」
「要はお前が泣こうが喚こうが、ターゲットにならはったさかいに、遅いゆうこと?」
「クイズって言ってたでしょう? あれの場所、実はわかってるんですよ」
「は? そんなら」
「奴がなんて言ってたか、憶えてます?」義兄がタブレットを顎でしゃくる。「直接来るな、地図で示せ、って。あれ、僕ら以外には来るなって、そうゆう意味なんですよ。僕、というより、僕が絶対に行かないのわかってるんで、ヨシツネさんを誘き出したいんです」
それはさっきも義兄が指摘していた。
ツネを誘き出してどうするか。
「ああ、わーった。ええよ。行ったるわ。場所ゆうてくれへん?」
「は? なんでお前が行く必要が」
ツネには狙いがわかったらしい。
俺には全然わからないし、わかりたくもないし、義兄のゴタゴタに巻き込まないでほしい。
「だって罠だろ? なんでわざわざ」
「客ゆうことやろ? 引き換えに能登くんの居場所がわかるんなら安いもんやわ」
「そんなの」
「おまが嫌がったはるんは、俺がお前のもんやと思うたはるからなん? それとも俺の身の危険を心配したはるお節介なん? どっちや」
「どっちだったら行くのをやめるんだ」
「やめへんよ」
「ツネ!」
俺が言ったくらいで止まるなら苦労はないが。
無理だ。
「トモヨリ」ツネがケータイを見せる。「地図」をここに送れと。
「はい」
「ほんなら」
「今からか?」もう22時を回っている。
「気ィの変わらんうちに行ってくるわ」ツネは振り返りもしなかった。
ドアが閉まってしばらくして、義兄が床に仰向けに倒れた。
「義兄さん?」当たり所の悪そうな音が響いたので一応心配の意を表明した。
「アッハハハハハハハハハハハハ」
「義兄さん??」本当に当たり所が悪かったのか。
まさか。
またか。
「最ッ高。なんであの人、自分から罠に嵌まりに行くんだよ。実敦君ももうちょっと必死に止めてくんなきゃ。愁嘆場を期待したってのに」
やっぱりか。
「何しに来たんですか」
「カメラと盗聴器、全部弁償してくれるんだよね?」
またこれか。
最悪だ。
「何か言いなよ」義兄が俺を見上げる。ご満悦の表情で。
「義兄さん、息してると碌なことしないんでちょっと息止めててくれませんか」
「たいらの首吊りショウくらいでまんまと引っ掛かってくれちゃうんだもんね」義兄が細い眼を見開いて嗤う。「別にたいらなんかどうなろうと僕には何の、あ、いや、いなくなると桓武建設の社長とのコネが切れるか。それは困るかな」
あんたは。
いっつもいっつも。
「人の命をなんだと」
「実敦君には言ってなかったっけ? 兄さん――朝頼家の長男を病院送りにしたの、僕なんだよね」
仰向けになっている義兄の首にのしかかった。
義兄の首にかかっていたメガネが床にぶつかる。
「苦しいんだけど? それとメガネ、割れてないよね?」
「ツネに何かあったら、あんたを赦さない」
「赦さないからどうするんだよ」
殴ったって殺したってどうせ義兄は地獄に落ちる。
「あ、興奮してきた」義兄が股間を誇示してくる。「比良が巽恒を抱いてるの見ながら、僕も実敦くんのナカでイこうかな」
「遠慮したいんですが」
「拒否権あると思ってるんだ。へえ、愛する巽恒がどうなっても構わないって?」
電話が鳴った。
俺のじゃない。
「取ってよ」義兄が手を伸ばす。
義兄のケータイを、義兄のズボンのポケットから出して。
義兄の耳に当てる。
「ホンマにここでええの?」ツネからだった。電話口の声が漏れる。
「そうでした。あなたにも解説が必要ですよね。そこ、僕がお貸ししたんですよ。いいところでしょう?」
ツネの呼気に憤りが滲む。
「残念でした。僕らは共犯ですよ。どうです? お楽しみいただけました?」
「あ?帰ったらぶっ殺したるさかいにな」
「はいはい。お待ちしていますよ。では、ごゆっくりー?」義兄が電話を切ってケータイを転がす。「タブレットこっちに置いてくれる? 僕らにだけ生配信してくれるみたいだから」
言う通りにした。ツネが無事かどうか確かめたい。
画面が暗い。
「こっちも暗くしようか」
言う通りにした。ツネがよく見えない。
「自分で慣らして挿れてね」
風が通る。
窓が少し開いている。白い残像が見えた気がした。
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