月夜にドロップ

双葉ちの

月夜にドロップ

 

 改札をぬけた一瞬あと、正面から顔に吹きつけた風の匂いにはっとした。

 すごく昔にかいだことのあるような、何かを思い出すような。

 鼻腔の奥、喉との延長線上に意識を集中して、記憶のリボンを手繰る。からまってもつれあい、ありゃーほどかなくちゃとあわてているうちに、匂いは薄れて消えてしまった。あきらめきれずにもう一度集中。けれど、もう戻ってはこなかった。

 客待ちを断念したタクシーが目の前を通り過ぎた。排ガス臭も消え去ると、そこはいつもと変わらない、晴れの日でも少し湿った土の匂いがする、地方の新幹線駅前なのだった。

 だだっ広いロータリーにひとり。第一志望校の入試を終えてきた実感が、いま、地元の駅の匂いをかいで初めて湧いてきた。自覚はしていなかったけれど、結構緊張してたのかもしれない。

 下り坂にまっすぐ体を向け、街の全景を望む。箱庭のわが街・榛原町。背後からの夕日に炙られて、家並みはあめ色につややかだ。

 きゅる、とお腹が鳴いた。

 同じ音で靴底を鳴らし、坂のふもとの自宅めがけて駆け出した。


   *


「おかえりカナ、おつかれ。試験どうだった? 面白い問題出た?」

 午後六時。カナが帰宅したとき、台所では夕飯の仕度の最中だった。コンソメの香りが、ほわほわとリビングダイニングを満たしている。コートと鞄を自室に置いて下りてきたカナに、おたま片手の父・片山昭雄が声をかけた。

「面白かったかっていえば、まぁ面白かったけど。『大日本帝国憲法』の条文から出題とか。あとは、サラリーマン富田栄次郎さん四十二歳の家族構成が載ってて、この家庭は『班田収授法』にのっとると何反の土地がもらえるか答えよ」

「なんだそれ」

「ねー」

「出来は?」

「今までで一番自信ない。ダメかも」

「珍しいね、弱気なんて。この前まではなんて言ってたっけ? 得点順に合格発表掲示してほしいとか」

「うるさいなぁ」

 カナは台所の父親を一瞥した。今日は、バーバパパのかたちそのままの桃色エプロン。着ている本人もバーバパパめいた体型と佇まいだから、なんだかおかしい。二重パパ。二人羽織のようにも見える。

「ごはん、まだかかる?」

「煮込みにあと半時間ほどかな」

「ああ、お腹減ったー。試験ってほんとエネルギー使うね」

「それは脳がブドウ糖を」

「へーあーはいはい、知ってる知ってる」

 んんーっと深呼吸して、カナは周りに漂うコンソメの香りを胸に収めた。

 部活の試合や小学生までやっていたピアノの発表会、そんな日の夕飯は決まってロールキャベツだった。「ここ一番がんばった日」の匂いがこれなのだ。母さんが作ったのが一番好きだったけれど、昭雄もずいぶん腕を磨いた。腕力がある分、練りに練り上げられたひき肉とたまねぎが、細かな隙間にスープをたっぷり含んでふわふわホロリとほどけて溶ける。こういうときはお腹が減っていても間食せずに夕飯の完成を待つのが、昭雄に対する礼儀である。

 礼儀。ふと浮かんだ同級生の顔に、テレビを点けかけたカナは動きを止めた。三十分あれば、行って戻れる。

「ごはんの前にお腹、もうひと減らししてくる」

「テツくんところ? ならタッパー返してきてくれるかな」

 いいよ、といって受け取ったタッパーは、ずっしり重い。

「なに入ってるのこれ」

「パン種。二次発酵まで済ませて、あとは焼くだけの状態にして氷温冷蔵しといたやつ。温むと発酵進んじゃうので、寄り道しないように。ちなみに胡桃といちじく入りって言っといてください」

「了解、行ってきます」

 カナは制服の上に深い紅色のダッフルコートを羽織った。学校指定の紺色のステンカラーコートは、通学路でしか着られない。タッパーは、入れ口が巾着になっているかごバッグに入れてみた。お遣い先にはおばあちゃんが居ることだし、ぶどう酒があればこれって赤ずきんちゃんみたいなんだけど。その代わりに、今日受けてきたばかりの試験問題用紙を丸めてタッパーの脇に差し込む。

 玄関を出ると、外はぐんと冷え込んでいた。きっとテツの家まで、誰にも会わないだろう。フードをかぶってさらに赤ずきん度アップ。カナは、凍る寸前のゼリーのような空気を全力で掻き分けるように住宅街を駆けていく。民家の群れの向こうにこんもりとてっぺんをのぞかせる小さな森、その真ん中にある小さな小さな家に向かって。


   *


 いつも鍵がかかっていない広縁から直接テツの部屋に上がり込み、カナはまわりを見回した。テツの姿は見えないが、石油ストーブがついているから、ちょっと部屋を離れているだけだろう。テツ専用コタツ(天板が六十センチ四方しかなくて、他人は決して入れてもらえない)の上に、ノートパソコンと飲みかけのコーヒー、缶入りのドロップスと大量の丸めたティッシュペーパーが載っている。コタツに入ったときに手に届く範囲の床の上に、箱ティッシュが三つ。

 テツはとんでもなくひどい鼻炎持ちだ。だから外出するときは必ずマスクをかける。

 彼がまっすぐ通った鼻筋を持つかなりの美男子だということを知っているのは、学校のなかではカナだけかもしれない。テツは外ではものを食べないし、体育の授業はまず出ない。そもそも学校にこの三年間累計で二〇〇日出たか出ないかだ。卒業アルバムの集合写真にも、当然楕円形の窓枠に、生徒手帳と同じ顔写真で参加しているだろう。当の本人は、きっと一度も開くことのないアルバムなのだけど。

 日に焼けた畳の上をそろそろと歩いてコタツの側まで来ると、カナはノートパソコンの画面を覗き込んだ。

「バカが見る」……「バカが見る」……「バカが見る」……

 スクリーンセーバーは、カナ宛てとしか考えられないメッセージをエンドレスで表示していた。


「バカがいる」

 声のした方向に目をやると、頭にバスタオルを巻いたテツが立っていた。スウェットの上下に半纏。風呂上りの湯気が、細いシルバーフレームのめがねを、うっすら曇らせている。

「ああ、今日は城南の試験日か」

「そうだよ、例のブツを届けにきたの」

 カナはそう言ってかごバッグを差し出す。ごくろう、と言って受け取ったテツは、今日カナが受けてきた入試の問題用紙を取り出し、ざっと目を通すと、壁際の階段箪笥の上に置かれたスキャナーで取り込み始める。

 カナはテツに、受験したすべての高校の入試問題をあげるという約束をしているのだ。

 テツ自身は高校に進学するつもりはない。けれど、どの高校でも本当なら入ることが出来るというお墨付きはほしいのだという。

「自己満足だね」と、数ヶ月前にその約束を交わしたときにカナは素直に言った。

「まさにね」と、テツは言った。そう言われて二の句が告げられるほどカナの頭は応用が利かず、開き直りだと言い捨てるほど思いやりがなくもなかった。

 変わり者で人嫌いだけれど、人並みに不安な気持ちは持っていて、それをカナには隠さない。カナはテツを、出来のいい弟のように思う。

「カナはどう? どの高校に行く感じ?」

「受かれば今日の城南。環境とか設備もよかったし、付属校じゃないから大学受験もモチベーション保てるでしょ」

「学校でそれ言うなよ、友達へらすから」

 スキャニングを終えてコタツに戻ると、テツはノートパソコンのOCRアプリケーションを起動した。さっき取り込んだ画像は、モニタの中で手際よくテキスト化されていく。

「やっぱり、高校出たら地元は離れるんだ? 別居してるお母さんのとこ?」

 ふとマウスを操る手を止め、テツが言った。マグカップのコーヒーを啜り、すこし顔をしかめる。冷め切ったコーヒーの、舌を刺す酸味。

 カナはドロップスの缶をとり、ふたを開けて逆さに振りながら答える。

「うん、昭雄も賛成してくれてるし……」

 カラリと音を立てて、白く半透明の一粒が転がり出た。

「あ、ハズレだ……」

 カナは、子供だましのアクセサリーのようなそれをしばらく見つめてから、口に含む。宝石だったら何カラットになるだろう? ツンとした刺激の強弱が、ドロップの表面の模様を舌の上に再現する。甘くて、辛くて渋い。

「薄荷?」

 作業をしながら、テツはカナを見た。

 カナは少し舌を出し、すーはー息をしている。

「俺にくれれば食うのに。一番好きなの、知ってるだろ」

「でもドロップって、一種のおみくじだから」

 責任もって、食べないと。

「カナらしいな、そういうとこは。ジンクスとかに弱い」

「うるさいな」

 大きなお世話だ。

「コーヒー、淹れてきてやろうか」

「……ありがとう」

 頭に巻いたバスタオルをはずして、くしゃくしゃと髪の毛を拭き、テツは立ち上がる。

 座っているときは、猫背のせいかちいさく丸まった印象だが、立つとすらっと背筋が伸びて、小さいころ、カナよりも背の小さかったテツではもうないことを意識させられる。中学の三年間で、テツの身長は三十センチ伸びたのだ。まだひょろっとしてバランスはよくないけど、もう少し筋肉をつけたら、女子からの評価も変わるかも。

 自分の分のコーヒーも淹れなおすのだろう、マグカップを片手に台所に向かうテツの背中、その背中の真ん中くらいまで伸びた髪の毛を見ながら、カナはつぶやく。

「自分だって、願かけ、続けてるくせに」

 しばらくしたら、テツは持ってきてくれるだろう。ミルクたっぷりのコーヒー。ドロップをなめているカナに配慮して、砂糖はごく少なめに。

 コーヒーを飲んだら、長居しないで帰ろう。昭雄がおいしいロールキャベツと待っている。

 ふぅ、と吐き出した息は、舌にはしびれる刺激を残して、涼しく香った。


 3


「カナ! おーいカナ! ねえ聞いてる? 今年もやっぱり起こったんだよ、中学三年生だけに起こる怪奇現象が」

 教室に入ったとたん、窓際でおしゃべりに興じていたうわさ好きの一団のなかからミキコが駆け出してきて、今朝のヘッドラインニュースを伝えてくれる。

 公立高校の入試が終わった三年の教室は、ここ数週間なかったような緩んだ空気に満ちていて、カナは少し長めに息をついた。朝のホームルームまでにはまだ少し時間があるから、カナは速報に付き合うことにした。

「あのね、隣のクラスの男子の話なんだけど、昨日駅前通りで、近所に住んでるおじいさんに後ろから声をかけられたのに、振り返ったら誰もいなかったんだって」

「うん、それで?」

「それで、家に帰ったらそのおじいさんと家族がお茶飲んでたって……」

「それ、単に見間違いじゃないのかな?」

「えー、カナ夢ないー。っていうか、隣のクラスの男子って二階堂くんだよ? あの堅物の風紀委員長だよ? 彼がそんな勘違いを他人に言う? 相当確信があるんだよ」

「そうかなぁ……」

 ノリの悪いカナにミキコは不満げだ。

「それだけじゃないんだよ、他にもあるんだから。坂下の四辻のタバコ屋にさ、枯れた梅の大木があるじゃない。もう二年は花を咲かせてない、あれ。あれにね、真っ白い花が満開咲いてたって目撃談」

「それも振り向いたら消えてたとか?」

「わかってるねぇビンゴ! きれいだなって思って、携帯で撮っておこうと思ったらしいのね、で、後ろを向いたら、もとの枯れ木に戻ってたって話」

「それもなんか、目の錯覚なんじゃないの」

「んもー、ほんとカナは……。でもさ、なんか嬉しくない? 伝統的にうちの中学で囁かれる、受験生だけに起きる季節はずれの怪奇現象。うちの代にもキタって感じでさ」

「特に成績のいい子たちが変なモノ見るから、受験のストレスが元の幻覚っていうか、集団ヒステリーみたいなことになってるじゃん」

「わかんないよ~、カナだって、実際に体験しちゃったら~~」

 両手を胸の前に垂らして迫ってくるミキコに、カナは苦笑いする。

 ミキコは先月、いち早く志望校への切符を手にしている。栄養学科のある高等専門学校。家業の飲食店を継ぐ準備を始めているのだ。クラスの女子のムードメーカーで、いつもにぎやかにしているけれど、けっこう将来の見通しは手堅く立てていたりして、カナは内心尊敬している。

 ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴って、ヘッドラインニュースも終了した。

 今日の分の教科書とノートを机にしまって、カナは右斜め前、廊下側の一番前の席を一瞥した。

 田淵哲たぶちあきら――テツは、当然今日も欠席だ。

 昨日も行ったけれど、今日の放課後も、テツに会いに行かなくてはいけない。嫌がられたりはしない。むしろテツは嬉しがって変ないやみを言うのだろうが、あまり連日たずねることはカナが遠慮しているのだ。

 カナは、鞄の底に入っている透かしの入った白い封筒に思いをはせる。

 今朝登校したとき、自分の靴箱に見つけたものだ。

 靴箱にラブレターって、いまどきどうなの? てかありえなくない?

 と、ミキコだったら言うだろう。

 でもありえないのは内容じゃなくて、差出人だった。


   *


 すかしの入った、白い便箋と封筒。

 女子が喜んで買うようなファンシーなものではなく、事務用箋というような素っ気のないものでもなく、そう、いうなれば「本気っぽい」感じの手紙だった。

 ゲルインキの実直そうな文字で、こう書かれている。


 片山加奈かたやまかな 様

 突然、こんな手紙を出して、きっとあなたは驚いていると思います。

 驚かせてしまうことに、申し訳なく思います。

 あなたと話がしたいと思っています。できれば、あなたの都合のいい時間と場所で会いたいのですが、事情があってそういうわけには行きません。

 どうか、左記の時間と場所に、来ていただけませんか。

 五分でいいので、どうか。


 指定の時刻は、今週金曜日の夕方五時半。

 場所は、新幹線駅のロータリー。

 そして、差出人の署名で手紙は締めくくられていた。


窪内隼斗くぼうちはやと


 その名前には心当たりがあった。

 でも、もう二度と会えない人間として、カナのなかに刷り込まれている名前だった。


  *


「ありえない人間からのラブレターか」

「ラブレターとは限らないよね、話がしたいって言ってるだけだから。果たし状かも……どっちにしろ怪奇現象ってことになるのかな。例の、中三の冬にだけ起こる」

「さあねぇ、ただの嫌がらせじゃないのか。カナ、恨み買うようなこと学校でしてる?」

「してない!……と、思うけど」

 テツに渡された熱いカフェオレを一口啜って、カナはちょっと思案顔になる。

「いたずらならちょっと悪質だよね。でも、そうだとしたら犯人……って言っていいのかな、けっこうすぐに特定できそうにも思う」

「十年くらい前からこの町にいて、ハヤトを知ってる人間ってことだもんな」

「そうなんだよね……」

 カナの家族が、榛原ニュータウンの最初期に分譲された街区に越してきたのが十年ほど前。

 職場が遠く仕事も忙しい両親のかわりに、幼稚園が終わった午後の数時間を一緒にすごしたのが、地元で生まれた同い年のテツとその祖母、そして近所に住む一つ年下のハヤト――窪内隼斗くんだった。

 春は山菜や野草を摘み、夏は虫捕り、秋は焚き火で芋を焼き、冬は雪遊び。新幹線の新駅開業に合わせて急いで作られた街の周囲は昔ながらの里山で、ぜいたくな子供の遊び場だった。おかげでカナは、幼少の頃淋しい思いはほとんどしなかった。

 幼馴染三人で同じ小学校に上がり、仲良く大きくなっていく予定だったのだけれど。

 今ハヤトはとても遠い場所にいて、カナに手紙など送れるわけがないのだ。

「で、行くの? 金曜日」

 テツはいつもブラックコーヒーだ。

「無視してもいいんだけど、やっぱり気にはなるから……」

 最後まで言わずに、カナはテツの表情を伺う。

「仕方ないな、俺も行こう」

「いいの? 本当に?」

「ああ、本当にハヤトが来るかもしれないだろ?」

「いやそれは……でも、ありがと。帰る前におばあちゃんの肩もみしていこうかな」

「うん、よろしく。茶の間でテレビ観てると思う。ばあちゃん喜ぶよ」

 テツの部屋を出る間際、カナはドロップスのおみくじを引いてみた。

 レモンはあたりだ。

 なんでだろう、幸先がいい。


  *


 金曜日。指定された時刻の三十分前に、榛原駅前のカフェでテツと待ち合わせた。

「山の鳥」。カナの知らない間に新しくできた店だ。

 外で会うことはめったにないから緊張していたのだが、時間ぴったりに現れたテツの姿を見て、カナは気が抜けてしまった。

「むちゃくちゃイケてない」

「は?」

「私服。いつも部屋着だと思ってたけど、外に出るときも同じような格好なんだ……もっと気を遣いなよ、もったいない」

「もったいない。何が?」

「別に……」

 カナは言葉を濁すと、店内に視線を巡らせる。店主が鳥好きなのだろう。いたるところに鳥のモチーフがちりばめてある。オウムのモビール、ミミズクの彫金細工、野鳥のタペストリー。

「いらっしゃい。哲くん、今日は彼女連れだね」

 注文を取りに来た眼鏡の中年男性が、カナを見て微笑んだ。

「違いますよオーナー、友達です。オリジナルブレンド」

 テツは素っ気なく返すけれど、男性との間に気のおけない空気が感じ取れた。

「このお店、よく来るの?」

「自分で淹れたコーヒーよりも美味いんだ。読書が捗るし、週に二度くらいかな」

「へぇ、学校行かずにカフェ通いとは良いご身分」

「おそれいります」

 いやみを躱されてムッとするカナの前にカフェオレが置かれた。一口飲んで、テツの通う理由を理解し、ほっと息をつく。

「ハヤト……の手紙をよこした人、来るのかな」

「会いたくない?」

「……呼び出される理由が分からないから、気味が悪い」

「心配ない、俺がいるし」

 運ばれてきたコーヒーに口を付け、いつになく頼もしいことを言うテツをいぶかしく思いながら、カナは再び店内に目を向けた。カウンター近くの壁に掲げられたブラックボードに目をとめる。

「新幹線の時刻表が書いてあるね」

「気づいたか。あの時刻表、ちょっと変だと思わないか?」

 テツがニヤリと口角を上げた。

「変? とくに変わったとこはないと思うけど……」

 いや、ちょっと待って。たしかに違和感がある。

「到着時刻しか書いてない……?」

「そう。榛原駅では新幹線の通過待ちがあるから、列車によっては停車時間が長い。それなのに、出発時刻だけなら分かるけど、到着時刻しか載せてない時刻表っておかしいと思わないか」

「……出迎える人のための時刻表ってことかな?」

「いいねぇ、半分正解。もうすぐ十七時二十五分着のはるひ35号が入線する。そろそろ行こうか」


 店を出ると目の前が駅のロータリーだ。沈む間際の日に照らされて、カナたちの影が長く伸びる。しばらく待っていると、改札口から数人の客が吐き出され、ひとりふたりと「山の鳥」に入っていった。こんな辺鄙な駅にあるのに、けっこう繁盛しているようだ。

 最後に出てきた長身の人物が、二人のほうに歩いてくる。

「テツ……カナちゃん」

「よう、ハヤト」

「……ハヤト、くん?」

 ハヤトだ。

 長らく会っていなかったけれど、はにかみながら頭をかく仕種はハヤトだった。

 八年前に、用水路に落ちたカナを助けて自分が溺れてしまい、それ以来都内の病院でずっと眠ったままでいるはずのハヤトが、健康そうな様子でそこにいた。


  *


「久しぶり……カナちゃん、元気?」

「元気……です。ハヤトくんは……」

「俺はずっと元気。こっち……じゃなくてあっちか。あっちの榛原で、この年まで病気一つせず暮らしてきた」

「えっ……と。どういう、こと……?」

 

 混乱する。知らずに涙が出てくる。

 カナの頭にぽん、と手を置いてテツが言う。

「ごめんな、あの手紙をお前の下駄箱に入れたのは俺だ」

「書いたのは僕。テツに頼んだんだ。どうしてもカナちゃんに会いたくて」

「あのカフェ……『山の鳥』で、俺はこのハヤトと偶然会ったんだ、あっち側のハヤトと」

 あっちとかこっちとか、いったいなんなんだ。訳が分からない。

「訳が分からないって顔してるな」

「無理もないよね。僕たちもだいぶん驚いたし、確信するまでにけっこう時間がかかった」

 目が線になる困り笑顔もハヤトだった。

「あまり時間がないから説明はテツに任せるけれど、カナちゃん。お礼を言わせてほしいんだ。成長したきみたちに会えて、とてもうれしい」

 テツは、向かい合う二人を黙って見つめている。

「こっちのふたりの幸せを、僕に一生願わせてほしい。たぶんもう会えないけれど、ずっと感謝してるから――」

 カナの手を取り話すハヤトの姿が、徐々に薄くなっていく。

「そうだ、これ。二人好きだったでしょう」

 みるみる透けていく手から、見慣れた缶が握らされた。カナの手に渡るとそれは不透明度を取り戻す。見た目以上にずっしりと感じる、ドロップスの缶。

「ありがとう――ずっと元気で」

 カナとテツの顔を交互に見やり、最後に、握る手に力を込めて、困り笑顔ごとハヤトはかき消えた。


  *


 さっき来たばかりの客が、いつの間にか消えている。誰も居なかったはずの席で、気づくと老夫婦がくつろいでいる。

 店主は気にするそぶりもなく、カップを片付けたり、突然現れた客にコーヒーのおかわりを勧めたりしている。

「山の鳥」――おかしな店だとテツは思った。その日は老人会の温泉旅行に出かけた祖母を迎えに駅へ行き、時間を潰すためにたまたま入ったが、興味を引かれたので時々通うようにしてみた。駅までの上り坂は億劫だったが。

 新幹線の到着に合わせて来店する客がいる。少し遅れて、待ち合わせの相手が来る。大げさに握手をしたり抱き合ったりした後、談笑しているうちに、後から来た客はいつの間にか姿を消しているのだ。

 時折、突然現れたかと思えば、こちらを見てぎょっとしている客もいる。彼は一見さんだろう。向こうにとっては、テツが虚空からいきなり現れたように見えるようだった。


  *


「城南高校は、新幹線だと隣駅――鷺森駅が最寄りだろう」

「うん。通うとしたらふもとの国道から出るバスだけど」

「受験には、何人かは新幹線を使うよな」

「うん、時間が正確だから……それ、何か関係あるの?」

「鷺森から榛原まで、下りの新幹線にひと区間だけ乗った客は、あっち側に降りる。短くて数分、長くて数十分間」

「あっち側……」

「そこは理屈抜きで。考えても俺にも分からない。ただ、中学三年生が受験期に遭遇する怪奇現象の説明はつけられる。幻を見るのは、城南を受けた生徒だけのはずだ」


 特別な用事がない限り、だれも乗らないような新幹線のひと区間。それに乗ることが、あっちの榛原町にいくトリガーになる。「山の鳥」は、こっちとあっちの両方に同じ店舗を構える「あわいの店」なのだ。

 向こう側に行く方法をたまたま見つけた客が集う店で、テツはハヤトと再会した。時間を合わせて何度か話し、今日カナを呼び出すことにしたのだ。

 概ね同じだが、いろいろなことが少しずつ違うという「あっち」では、八年前に用水路に落ちたのはハヤトで、それを助けようと水に入ったカナとテツは溺れて死んだのだという。


「あっちのハヤト、親が海外に転勤するらしい。だから発つ前に一度カナに会いたかったんだと」

「そうだったんだ……そっか。あっちには、私もテツもいないんだね」

「うん。ハヤトはずっと自分を責めてきただろうな。俺たちなんか、目じゃないくらい」


 月があかるくなって、ふもとのニュータウンに向かう二人に薄い影を落とす。

 遠くの都市の病院で眠り続ける、こっちのハヤトを思う。

 大人たちに守られて、カナは事故のことを忘れはしないものの、健やかに育った。

 テツは、ハヤトの時間が止まった事故の責任を感じて、学校に通わなくなった。髪を切らない願掛けもその頃からだ。


「ドロップたべようか、もらったやつ」

「ああ」

 缶の蓋を開けて、手のひらに向けて傾ける。

 転がり出たのは黄色い一粒だ。

「レモンは当たりだったな」

「うん。当たり」


 次の一粒も、その次も。ずっとレモンのドロップだ。


「おかしいねこれ、ミックスの缶なのに」

 涙を拭いながら、笑いながら、カナが言う。

「すごくいいことが起こるんじゃないか、これから」

 片頬を膨らませたテツは、おもしろそうに言う。

 カナは三粒いっぺんに、当たりを頬張った。

 月夜が甘酸っぱい。


 こっちのハヤトの家族から思いがけない朗報が届いたのは、翌月のことだった。


(了)

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