第7話 引かれた線
「それでは、そろそろ本来話すべきことに目を向けるとしよう」
立ち上がったロッドが、ザラスに向かって静かに手を差し出して話すように促した。目と目を合わせて頷いてから、ザラスはディズにも視線を送った。
「言うまでもないことかもしれませんが、ディズ、君の今後の……とても重要なことについてです」
「……はい」
ついにこの時が来た。
覚悟していたし、今更迷いもなかった。しかし嬉しい訳でもなかった。待ち侘びては居た筈でも、心待ちにしていたことはなかった。
眼差しは真剣に、口をきゅっと結んだ彼の様子に、エルドが神妙な面持ちをして腕を組んで静かに息をついた。
「では……〈刻印〉を」
ザラスの言葉に返事をする代わり、ディズは左手を皆の前に差し出した。
彼の手の甲には、不思議な印章があった。それは鎖状の紋様が円を成しているというものだった。
「二十年前の今日、あの災厄の日。お前が生まれ持ったその印……我らが怨敵を縛り封じ込めうる力を秘めた印。今こそ立ち上がる時が来たのだ」
ロッドの仰々しい物言いに、一同がその印章に視線を集めていた。
「……今日を以てディズは自由を与えられる齢となりました。しかし、その印は相対する敵だけでなく、あなたの運命をも縛り付けるもの……どうか、あなたをその運命から解放させられない私たちの無力を許してください」
ロッドに続き、ザラスが大仰に言葉を連ねた。
「覚悟はできてますから……」
物心つく頃より前から、その手に刻まれていた〈刻印〉が何を意味するのかは、騎士団への入団を希望するよりも前から聞かされていた。ザラスの言葉通り、彼は自分の将来が運命づけられていることを、幼い内からゆっくりと理解し、その意味を反芻し続けてきた。
「これまでにも闇の軍勢は幾度となく我らを脅かしてきた……。民を、国土を、愛すべき全てのものを奪ってきた憎き闇を打ち祓い、その因縁に終止符を打てるのは……ディズ、お前を措いて他にない」
ひとつ、息をついてからロッドは改めてディズの目を見た。そしてこれまでの諳んじるような言い方とは違う言葉を投げかけた。
「すまぬなディズ。お前一人に背負わせる私を怨んでもよい……。……それに旅に出た後は自由に──」
「ロッド王。やめてください、そんなこと……僕は望んで行くんです。これは昔から決めてたことであって、決まっていたことではありません」
ロッドの言葉を遮ったディズの眼差しは静謐に、奥底に力強さを湛えたものだった。
「……そういえば、ずいぶん大きくなった。ディズ」
その言葉は寂しげでもあり、優しさに満ちたものでもあった。それは幼少の頃からのディズとの思い出による自然な気持ちだった。
「ディズ……出発の予定は決めていますか?」
少し声を抑えてザラスが言った。
「はい。二日後と考えて準備はしてます」
「そうですか。ではそれまでに時間ができたら、いつでもいいので私の私室に来てください。今後についてや話しておきたいことがあります」
「分かりました。必ず」
ひとしきり話し終えたところで、エルドがディズの肩を叩いた。
「堅苦しい話も終わったし、飯にしようぜ。緊張で腹減ったろ?」
「え? まぁそう……かな」
「よし。じゃ、さっそく行こうぜ! お前の誕生日と俺の復帰祝いにな!」
それを言い終える前に、エルドはすでに扉に向かってずんずんと突き進んでいた。その足取りは軽く、言葉からも分かる通りに楽し気だった。
「待っ……エル! すみませんザラス様、ロッド王。エル! 酒はまだ──」
慌てながらも、居残った二人に礼をしてディズがエルドを追いかけていった。扉が閉まりきるまでの間にも、まだ二人の明るい声が聞こえていた。
次の日、農民が昼の畑仕事を終えて休憩を取る頃。
ザラスは読書に耽っていた。その時読んでいたのは、二か月前に城を訪れた行商人から仕入れた一冊だった。
「ザラス様、いらっしゃいますか?」
小気味よいノックに続けて聞こえたのは、ディズの声だった。ザラスは『フラティオ・ピークに渦巻く不穏』と書かれた本をぱたりと閉じ、崩れていた襟を正した。
「どうぞ。開いていますよ」
「……突然すみません」
そう言いながら入ってきたディズの頭髪には、いくらかの乱れが認められた。そんな彼の様子に心当たりがあったこともあり、ザラスはちらりと壁際の棚へと目をやった。
「いえ。いつでもいいから来いと言いましたから。とりあえず座ってください。楽にして構いません」
指を走らせると、その動きに合わせるように椅子がディズの元へと滑り出していった。
当のディズは驚くこともなく、普段通りに椅子にかけた。
「……ありがとうございます。実は頭が痛くて……」
「フフ。ええ、そうでしょうね。見るからに昨日はかなり付き合わされたようですし──」
ディズは極力平静を装っているつもりであった。が、表情はいくらか苦しそうに、そして上体が時折、芯を失くしたように僅かにふらつき揺れている様を見れば、彼の杯にエルドが酒を注ぎ続ける様子が容易に想像できた。
再びザラスが指をつと滑らせると、棚から一つの小瓶が宙を舞った。
「これは?」
「薬草を調合した……まぁ魔法の薬ですよ。酔い覚ましに効くはずです」
手元に落ちてきた小瓶はとても小さく、ボトルの蓋程度しかなかった。そして、ザラスに勧められるままにその中身を飲み干したところ、ディズはすぐにそれを後悔した。
「うっ! マズ……うえっ。にがっ!」
物乞いでも手を出さないような雑草を口いっぱいに詰め込まれたみたいだった。何度も咳き込み、えづく彼の様子に、ザラスがまるで他人事といった笑みを浮かべていた。
「なんなんですかこれ! 殺す気ですか!」
「良薬ほど苦いと言いますから。じきに気分もよくなると思いますよ」
「……今のところはここ数年で最悪です」
吐き出しはしなかったものの、眉間に深い皺を作って虚空を睨むのに精いっぱいだった。
「ふ、こういった訓戒がないと若気の至りというものは際限がありませんからね。さて、それでは本題に移りましょうか。ディズ」
賢者はそれまで通りの口調で、少し表情を引き締めた。糸を引っ張ったように空気が張り詰めたのがディズにも分かった。賢者という言葉の割には若々しい見た目ではあるが、年月を経て積み重ねたであろう見識の広さをはじめ、彼にはどこか只者ではない気配や振る舞いというものがあった。
「明日、いよいよ君は旅に出ます。まずはその目的や意図の振り返りとしましょう」
ザラスが指を指揮棒を振るかのように動かした。
「二十年前のあの日から刻まれた、その印。印に込められた力を使って闇を封じ込めるために」
棚の上にあった地図がひとりでに転がり、棚を壁に見立てて広がった。地図には彼らの現在地であるアーティア城を含む、近隣諸国や市街がおおまかに描かれていた。
「そこでまずは我々の敵について復習をしておきましょうか。知識は剣と同じで、時々手入れをしないと錆びついてしまいますからね」
「闇の魔族は、僕らと同じこの世界に古くから存在している種族、ですよね。知らない人は居ないでしょうけど」
その通り、とザラスが肯定した。
「では、それらを率いる存在については? 覚えていますか?」
「……〈悪魔の指〉。実在するかは分かりませんけど」
「不吉を呼び込むとして忌避されている言葉でもありますが、君の言う通り存在が確認されたというのはもう何百年も前の話。もはや風に吹かれた砂の城同然の扱いです」
広げられた地図の近くの燭台の火が揺らめいた。ザラスが地図の前に立っていた。彼は地図のある部分を指で指し示した。その箇所は、まるでインクをこぼしたように黒く塗り潰されていた。
「北から南へと伸びるこの大山脈、民話などでは『天聳る逆鱗』と言われるこの山々を隔てたその先。そこに広がる暗黒。瘴気の渦巻くこの未開の地こそが闇の発生源と言われています。率直に言って正気の沙汰ではありませんが、あなたはここに向かわなければならない」
ディズの顔が翳った。当然、こんな荒唐無稽な話を改めてされると憂鬱極まりない気分にもなるというものではあるが、それでも彼は既に覚悟を決めたはずだった。真に彼の不安を煽っているのは、その無理難題さを現実として突き付けられたことではなかった。
「その……現実的に、具体的に僕は何をするんですか? この〈刻印〉がある程度の闇を封じ込められるのは分かってます。でも、だからって世界の半分以上の闇をどうにかするのは無理ですよ。櫂で荒波を掻き分けろと言ってるようなもんです」
「ええ、もちろん。無策に立ち向かって成し遂げられることではありません。だからこそ、正しい知識と情報を用いて、万全に備えた上で臨むべきでしょう」
ザラスはそう言いつつ、自分の机の上にあった筆を手に取ると手近な紙片に何かを書き始めた。
「あなたが為すべきこと、それは〈悪魔の指〉を探し、それらを封じ込めることです。闇の魔族を従え、闇の根源的存在とも言われるその者たちさえ抑えれば、後は……まあ、大雑把に言いますがなんとかなるでしょう」
「そもそも実在するかどうか、どこにいるかすら分からないのに……」
「実在はすると思いますよ。異なる時代に異なる人々、それぞれが酷似した内容を表した伝記を残しています。ハーベンス、ムスペン、アリアゴール。その他著名な冒険譚に、〈悪魔の指〉を思わせる存在が出てきますから」
ザラスが列挙した人物名について、ディズは悉く聞き覚えがなかった。彼の言う『著名な』作品に興味を抱いたことがなかったことが主な要因だった。とはいえ、もしそれらを読んでいたとしても、ディズが次に述べる言葉は恐らく変わらなかった。
「……お言葉ですが……創作ではないですか? 最初の誰かの作品を題材にした内容とかだったりするのでは?」
「そう思うのも当然ですね。私が人と話すよりも部屋に篭って本を読み、怪しい言葉を呟くのが好きな類の人間だからではなく、人の想像力の為す芸術が無限の可能性を秘めているからでしょうか」
彼はあえて冗長に語ったようだったが、機嫌を損ねて少し、もしくはかなり拗ねてしまったであろうことは議論する必要すらないほど分かりきっていた。
「失礼……補足します。私もはじめは絵空事だと思った上で読んでいました。実際、脚色もいくつかありました。例えば、ドラゴンを倒したとか。しかし、それでもこれらに登場する指たちの特徴は一様に描かれているのです」
正直に言って、ディズはまだ納得できていなかった。とはいえ、このまま受け入れない態度を示していては話は前に進みそうになかった。なんとか神妙な顔を取り繕って、なるほどと頷いてみせた。
「裏をかくつもりで考えてみてください。あなたの左手には奇妙な〈刻印〉があり、それは実際に闇を封じ込めたこともあるのです。ある意味では、あなたの存在こそが彼らの存在を反証するものかもしれません」
つまり、君のような非常識な存在がある以上、別の、あるいはもっと非常識な存在もあるはずだろうと。
合点はいかないにしても、理解はなんとかできた。しかし疑問が尽きてはいなかった。賢者と呼ばれているほどの彼がそんな不確かな情報を元に、憶測ばかりで話を推し進めていくのは、不思議でしかなかった。研究者としての側面も持ち合わせているのであれば、理屈に沿った論理を重視するはずではないか、と。
だがディズはこの点を追求はしなかった。……今は。
「…分かりました。それなら〈悪魔の指〉はどこに?」
「残念ながら分かりません。というのも、彼らの作品によればですが、指たちは人間の王のように城を構え玉座に腰を下ろして、どこかに留まっている訳ではないようですから」
「……ということは、まずは探すところからなんですね……」
「文字通り、楽な仕事などではないということです。しかし、そう悲観することはありません。彼らが現実にこの世界に存在したなら、何らかの痕跡は残ると考えられますから。それを追えば、いずれは……」
ディズは天上を見上げた。重くなってきた頭を一度振り上げ、憑りつかれたように沈鬱な思考を放棄したかったからだった。思っていたより、自分がこれから踏み出そうとしていた道のりというのは、遠大で果てしなく、霧を追うようなものだったことを痛感した。
「ディズ、何も一日や二日でやれとは言っていません。私たち人間が前に進むには、どうやってもまずは足を一歩ずつ踏み出すしかないのですから」
賢者の有難い励ましの言葉は、とにかく今はただただ無味でしかなかった。
救世主という名無し(仮) @mitsuyuvi
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