第51話

夕方の五時頃になって幸作はよし乃の家を訪れた。この日は往診がなかったため、比較的、早い時間に仕事を終えていたのだ。幸作は七海を引き取るために、よし乃の家を訪れたのであるが、それはよし乃の見舞いも兼ねていた。幸作は茶の間に上がり、正座してよし乃を待った。

やがてよし乃が七海を抱いて、茶の間に現れた。

茶子が不在の間は、幸作もなるべく往診を入れないようにしていた。茶子が家を空けた数日間は幸作と良太郎が二人であの家で過ごしていた。まるで過去に戻ったみたいだった。良太郎は時折り、台所に立ち、飯を用意した。幼い頃、口にしていた飯だった。あの頃は何も考えずに食べていたのだけれども、今になると、それはまずかった。

「よし乃婆、体の具合はいかがですか?」幸作は尋ねた。

「いいよ、気持ちいいよ」

 よし乃は滔々と言った。着物を着て、ちゃんちゃんこを二枚羽織っていた。

「最近は温かくなったり、寒くなったりが続いていますからね、体調にはくれぐれも気をつけてくださいね」

 もう桜も花盛りを過ぎていたが、それでも寒い日はある。

 幸作はよし乃の腕を取り、ブドウ糖を注射した。

「若先生もすっかり先生になりましたな」

「ええ、私もこの村の医師としてようやく認めてもらえたみたいです」

「若先生、静かにのう、静かに」とよし乃は人差し指をピンと立てると、唇にそれを押し付けた。「みっちゃんはさっき、婆がやっと寝かしつけたところですから」

 この子が生活する日本に幸作は思いを馳せる。戦争のない時代、人々が天寿を全うできる時代、飢えのない時代、そんな日本ならば素敵だ。そんな未来を七海に託して、そして七海も大人になり、そんな未来を子どもに託してほしいと考えた。幸作の世代はその礎石を作るのが役割だ。世代ごとに、その世代が担う役割はそれぞれあるが、どうかそれを間違わないでほしい。大丈夫だ。日本なら。久遠の古から、未来永劫に渡って、脈々と続くものがあるのだから。

「ぐずねていたんですよ」とよし乃は言った。「きっと茶子さんが恋しいんでしょう。こんなに小さいのに」

 よし乃は七海のバラ色に膨らんだ頬を指でくすぐった。

「ほれ、可愛いでしょう。みっちゃんが婆の最後の子どもです」

 よし乃が何かを悟り始めていることに幸作は戸惑っていた。衰えたよし乃の姿は幸作の目に痛々しい。

「よし乃婆、ご苦労様でした」幸作は言った。「明日は茶子さんが帰ってきますから」

 七海は口をもぐもぐさせて眠っている。

 よし乃は手拭いでそっと七海のよだれを拭った。

よし乃は「ほれ、笑っていますよ」。言い、「夢でも見ているんでしょう」。言った。続けて、「婆も長い夢を見さしていただきました」とよし乃は静かな吐息を漏らした。

 幸作は何も答えられないまま、よし乃と七海を見つめていた。

 ゆっくりと七海の頭や頬や唇を撫でるよし乃の姿は愛おしい。よし乃は七海の耳に口を近付けた。


 君が代は 千代に八千代に

さざれ石の巌となりて苔のむすまで


 よし乃はゆっくりと囁くような声で唄った。そしてゆっくりとその瞳を閉じた。七海の寝息がささやかに聞こえ、差し込んだ西日の中に鮮明で安らかな寝顔をはっきりと浮かばせた。

 折しも窓の外では、染井よし野の花弁がひらり、ひらりと舞って、舞って、そして散った。



                                     〈了〉

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祭祀 宮澤浩志 @Mephistopheles

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