第50話

 茶子が不在の数日間、七海はよし乃の家に預けられることになった。もっとも七海は朝からよし乃の家に預けられ、幸作が仕事を終える時間に、七海を迎えに行き、夜は日下家で面倒を見ることになったのだ。

 茶子が佐渡へ行くと、よし乃の家は俄かに賑やかになった。茶子の母親仲間が交代でよし乃の家を訪れるようになったからだ。よし乃は体調こそ優れなかったものの、七海の面倒を見るのに気追い込んだ。母親仲間もよし乃の負担を少しでも軽くさせるためにせっせとよし乃の家に足を運んだ。

 よし乃は七海を抱きながら縁側に座り、相変わらず、家に訪れて遊ぶ、子どもたちを眺めていた。子どもたちも七海を可愛がった。

 その日も母親仲間の京子が七海に離乳食を食べさせるために、よし乃の家を訪れていた。よし乃は居間に腰かけ、茶を喫していた。七海は眠って、口を動かしていた。よし乃は京子にお茶と漬物を差し出した。癖のある漬物であったが、よし乃の家の糠(ぬか)味噌(みそ)で漬けられたものだった。

「婆はもうすぐ三途の川を渡って、向こう側の世界に行ってしまうでしょう」とよし乃は言った。

「そんな縁起でもない」京子はぎくりと驚いた。「よし乃お婆ちゃんは百までは元気でいますよ。それでなくては困りますわ。お婆ちゃんのいない、この村なんて想像もできませんわ」

「人の命を、人がどうこうできるものではありません。薬はたくさんありますが、それでも人は死ぬときには死ぬのです」

「そうかしら?」

 医学の進歩は目覚ましいと京子は考える。つい最近、産み落とした我が第二子も、いささか産期が早かったが、今は元気に成長している。

「良い時代になりましたな」よし乃はうっとりと言った。

 戦争はこの村に爪痕を残していない。今次の改革の波は怒涛のように日本中を席巻している。しかしよし乃の身辺は時が止まったように穏やかだ。漬物があり、仏壇があり、天皇陛下の肖像があった。昭和二十一年一月一日の勅令を以て昭和天皇は神ではなくなっていた。天皇と国民の紐帯は相互信頼に因るものだと位置づけられた。天皇陛下は敗戦後、戦災によって傷ついた国民に、なるべく会いに行き励ました。

「そうだ、お婆ちゃん」と京子は言った。「漢方薬の知識をわたくしに教えて頂けないかしら?」

「ええよ」

「わたくしがお婆ちゃんの代わりになるのは、おこがましいですけれど、わたしも村の人のために少しは役に立ちたいと思うんです」

「嬉しいよう」

 よし乃は頷くと、惜し気もなく箪笥の中から何冊かの本を取り出した。それは日下診療所の前身である、日下療養所が監修した漢方薬の処方箋だった。

「婆にはもう必要のないものですから」

「お婆ちゃん、弱気にならないで」

 うとうとしながらよし乃が頷いた。

 京子はしんみりしながらよし乃から受け取った処方箋を見つめた。

ほとんど使い古してぼろぼろになった処方箋は、それだけでもう歴史を感じさせてくれる。いわゆる和紙は丈夫なものだが、京子は、この処方箋の写本から始めることにした。少し読んでみる。漢方薬は「気血水」、「陰陽、虚実」、「五臓」という独特の処方尺度を持っている。診断もそれによって行われる――。漢方薬の影は西洋合理主義的医学の影に隠れて、日に日に薄くなっていた。それでもよし乃が煎じる薬こそ、万病の薬だと信じて疑わない村人も大勢いた。

よし乃は自分の過去を人に語ることはなかった。よし乃は永遠に夢の中で生きている。浜崎能村もよし乃の夢の中で永遠に生き、現在でも彼らは愛を紡ぎ、物語を生み出しているのだった。京子はもちろんそんなことは知らない。ただよし乃は昔からそこにいた。そしているべき存在であり、いなければならない存在だった。それは京子が子どもの頃から、そして現在も。

思えば、よし乃は日本の一番、汚い時代を見つめ、そして生きてきたのだと思った。幕末の争乱期に生を受け、明治維新を経て、今次の戦争の終焉を見つめてきた。そこには栄光もあったし、大きな挫折もあった。

しかしその歴史の中には多くの日本人の、あまりに生々しい笑顔があり、義憤があり、涙があった。

よし乃の一生は戦争の歴史でもあった。

微かに聞こえるよし乃の吐息に、京子は、はっと溜息を呑んだ。衰え行く西日はよし乃の家の中に静かに長い影を落としている。

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