第49話 第十章 君が代

 新潟の厳しい冬を越え、村には再び春が巡ってきていた。うら暖かな日溜まりの中で桜がちょうど見頃を迎えていた。

 諏訪様の御社は静かに村の埠頭を眺めている。諏訪様の杜も恥じらうように桜化粧し、新潟の厳しい冬の終焉を告げ、春の訪れを祝福しているみたいだった。疎らな参拝客は桜を愛でながら厳しい冬を乗り越えられたことに感謝を捧げる。

そんな穏やかな日常は、悠久の時の流れに逆らって、まるで止まっているようでもあり、何処か永遠を感じさせてくれる。

日本には四季があるのだ。それが巡りに巡り、永遠のサイクルの一環として、この国を形作り、彩っている。

よし乃はこの頃、目立って体力が衰えていた。よし乃の暮らす家は特に何の変化も見受けられなかった。村人が持ってくる野菜があり、仏壇があり、天皇陛下の肖像がかけられていた。

 その日は、茶子が佐渡へ里帰りするために日下家を空けると言う。茶子は先の戦争中は一度も実家に帰っていなかった。敗戦を機に良太郎が茶子に一度、里帰りを勧めたのだった。茶子の実家の花村酒造では戦役で亡くなった一族がいなかった。

「七海」と名付けられた朝美の子どもは日下家ですくすくと成長している。丸い顔にぐりぐりと大きな瞳にはいつも光が差し込んでいた。家族が一人増えただけでも家庭の色合いはころりと変わる。日下家も例外なく七海を中心とした生活に様変わりしていた。あの良太郎でさえも、七海を抱き、顔が綻ぶ。べろべろばぁとやる。幸作はそんな良太郎の表情を見たことがなかった。

 良太郎は茶子を気遣い、里帰りを提案したが、茶子は初め、「お気持ちは嬉しいのですが……」。里帰りを拒んだ。七海の面倒があるからだ。

幸作が「みっちゃんの面倒なら私が見ますよ」。言った。

 幸作が言っても茶子は乗り気にならない。幸作は医師として村人の命を預かる立場だから茶子の私用で幸作の手を煩わせてはならないと考えた。

 茶子の日常は七海の世話と、主婦業に費やされていた。まだ七海は幼く、昼夜の別を問わず泣いた。もちろん茶子は七海から目を離せなかった。そして仕事で遅くなる幸作の帰宅を待ち、風呂や食事の世話をしている。幸作が日下診療所を継いでいた。良太郎の負担はだいぶ軽くなり、彼はこれまで趣味らしきものを何一つとして持たなかったが、最近は読書を趣味とするようになった。それもガチガチの論文や哲学書の類ではなく、小説を読むことを楽しみとした。茶子は誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝た。もちろん七海がぐずねれば深夜だろうが早朝だろうが、抱きかかえてあやした。



「さて、どうしたものか……」

 とある日、良太郎は月末の健康診断を受けに来ていたよし乃にぽろりと漏らした。

「どうなされたのです?」よし乃は尋ねた。

 良太郎は茶子の里帰りのことをよし乃に話した。

すると茶子が留守の間、よし乃が七海の面倒を見ると言う。

 ここ数ヶ月来、よし乃は急激に体力の衰えが目立ってきた。そのよし乃に七海の面倒を見てもらうのは、さすがの良太郎も気がひけた。

「何を遠慮しているのです?」よし乃は言った。「同じ家族ではありませんか」

「いや」と良太郎は口ごもった。

 しかしよし乃はすぐにやる気になり、あられもない乳を襦袢の中に押し込むと、そのまま日下宅へと向かった。

 日下宅では茶子の母親仲間の京子がちょうど、家を訪れていた。離乳食の作り方を茶子は彼女から習っていた。京子はつい最近、日下診療所で元気な第二子を出産したばかりの子育て経験のある母親仲間だった。

 よし乃は縁側に回ると、そこから居間の中を覗き込んだ。

「あら、よし乃お婆ちゃん」と京子が言った。

 七海はぐずねており、京子がそれをあやしていた。

 よし乃は縁側にちょこんと腰かけた。

 そして七海を京子から預かると、それをたちまちあやした。

茶子は「今、お茶をお持ちしますわね」。そう言うと台所へ立った。

「構わなくてもよろしいですよ、茶子さん」よし乃は腕を振った。「茶子さん、一度、実家にお帰りなさいな」

 でも、と茶子は七海を見つめた。

「婆がみっちゃんの面倒を見ますから」よし乃は笑った。「先の軍(いくさ)が終わってから一度も実家に帰っていないのでしょう? 皆に元気なお顔を見せてあげなさいな」

「でも、お婆ちゃん、お体の方は大丈夫なんですの?」

「何も問題はありゃしません、ほれ、婆はこの通り、元気です」よし乃は胸を張った。

 ということで、茶子はようやく里帰りをすることを決めたのであった。

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