第48話
法廷はどよめいた。熱気の渦が余韻を引いていた。
「裁判長!」と検事の浅原道義は叫んだ。「弁護人の最終弁論は推測の域を出ていません。それに法律を軽視している。自らの頭で正義を考えるなど、あってはなりません。ここは法治国家です。人間は過ちを犯します。だからこそ国家が正義を定め、それに罰を科さなければなりません。推測で罪が軽減されるようなことがあるならば、これからの裁判は誰もが推測的弁論を展開し、日本の司法制度は失墜するでしょう。将来の禍根を断つためにも、証拠主義を徹底し、つまりここに提出された様々な証拠品と証言者の言葉に重きを置き、推察を完全に廃し、被告人の罪は明らかなされなければなりません!」
浅原検事はかなり興奮し、顔を真っ赤にして憤った。
「被告人は最後に言いたいことはありませんか?」裁判長が促した。
正平は立ち上がり証言台を前にした。
「私は無実です」正平はここで初めて言葉を改めた。「朝美は私にとってかけ替えのない大切な女性でした。朝美の笑った顔が、今になってありありと思い出されます。私は朝美を愛していました。朝美から笑顔を奪ったのは、この私です。それが罪だと言うのならば、私はどんな刑に服することも厭いません。しかし、もしも私に更生する機会を与えて頂けるのならば、私は生涯を通じこの罪を償うつもりでいます。多くを望みません。私はこれから私が為すことのために余生を費やし、私が為すべきことをやり遂げようと思っております。私は一生涯をかけてでも、朝美を弔い、それが私に遺された、最後の愛情表現の機会であると思っています。そして私の天命が尽きたときにこそ、私は天国に行けるなどと思ってはおりませんが、恐らく極楽で暮らす、朝美に対して誠意を込めて、謝罪の言葉を申し述べたい所存でおります。私は野蛮なことが大好きです。粗野です。乱暴です。しかし私は自分のために、その暴力を行使したことは一度もありません。私は私の信ずるべき正義のために力を振るい、戦い、そして勝利しました。ときにそれが化け物と呼ばれるような強敵とも闘い、私は自分の身を顧みずに一矢報いることもありました。敗北するようなことがあっても、私の心が折れることはありませんでした。私には信念があったからです。信念はありますか? 決して失ってはならない信念はありますか? 私にはそれがありました。私は虐げられた者の道標でした。私は自分の行いが全て正しかったなどと傲慢に考えることはありません。しかし、いつしか大きな苦難の果てに、その虐げられた者に大きな栄光のときが訪れるのであれば、私はどんな犠牲も厭わず闘い続けるでしょう。私はアジアの極東の小さな国で産まれましたが、その小さな国には多くの良識が残されており、そんな良識ある人々が、やがて世界を変える力となるのです。私の戦いは、これからも続きます。まずは私が喪ってしまった唯一無二の女性であった朝美のことを弔い、その魂の冥福を祈り、その菩提を供養しましょう。朝美、命を救ってやれずに申し訳なかった。朝美の苦悩に気付いてやれずに申し訳なかった。私のこれからの人生は、苦難に満ちたものだと推測されます。一生涯を懸けて、朝美への贖いをするつもりであります。それは長く、苦しいものとなるでしょう。けれども私は私の愛した家族のために、生き抜くことを誓います。私は朝美を……愛しておりました」
この瞬間、野蛮な「坂内正平」という男は、死んだ。そこには罪と真摯に向き合う男の姿があった。正平は肩で震え泣いていた。
先程とは打って変わって傍聴席はしんと静まり返った。
この様子を見て裁判官、三名は協議のため一時退廷した。
正平は無罪が確定するかもしれない。傍聴人は思った。
やはりそれに不服を感じていた者がいた。柿崎家の長老である。柿崎家の長老は、癲癇の発作で一時は危篤状態になり、生死の狭間を彷徨うことになったが、現在は一命を取り留め、この裁判にも傍聴しにやって来ていた。長老は顔を真っ赤にさせていた。まさかここまで朝美の不義(即ち不倫)があられもなく論ぜられるとは思ってもみなかった(長老は一貫して朝美の不倫を否認してきたのだった)。彼は正平の有罪を今か今かと待ち侘びていたが、この空気はいったいどういうことじゃ? 坂内正平無罪に傾きつつあるではないか! いよいよ柿崎家の長老は、血の管がメキメキと頭に走り、心の中で正平を呪い倒した。やがてそれは声になり、長老の脳裏に過る、ありとあらゆる罵詈雑言が法廷内に明らかとなったのである。それはつんざくような叫びであった。「――漁師風情の次男坊め、切り捨て御免にして、曝し首にしてやる!」。長老はともかく興奮し、この言葉を最後に神経質に震え出した。これには傍聴席に居合わせたすべての人々がぎくりとさせられたほどである。厳格だと思われていた、長老の脳裏にこのような悪夢的な文言が去来していようとは誰しも考えも及ばなかった。長老はついに口から泡を吐いて、再び癲癇の発作により意識を失ったのである。
長老は警備員によってつまみ出されようとしたが、すぐに孫の嫁が癲癇の薬を長老の口に流し込み、長老の針金のように強張った身体から力がすっと抜けた。
哀れな長老が目を覚まさせたのは、その十分後のことであった。周囲の人々に取り囲まれ、彼は涙の滲む目を半開きにした。
「お爺様、大丈夫でございますか?」孫の嫁が言った。
しかし長老は自らの身に何が起こったのか理解できなかった。自分がつい先ほど恐ろしいほどの呪いの言葉を叫んだのも、夢か現か区別できなかったのである。長老はこんなところで失神騒ぎを起こすのは、武家の誉れを傷付けたと、激しく恥じた。もしもこの場に短刀があったら割腹していたのかも分からない。
耳を澄ますと、蝶ネクタイの憎き一団が、『謎の男』に関して、こそこそと話しているのが耳に入ってきた。その話に長老はぎくりとさせられ、完全に意識を取り戻した。
長老は蝶ネクタイの一団を一人ずつ指さし、「おのれ、恥知らずめ!」。再び咆哮した。しかし孫の嫁が「お爺様、もう止めましょう」と泣き出さんばかりに哀願した。長老は涙をこぼし、「世も末じゃ」と一言つぶやいた。
傍聴席では蝶ネクタイの一団が裁判の帰趨を占っていた。どちらかと言えば、正平に同情的な声が多々聴かれた。坂内家からは正平の兄の盛寛と、彼らの肝玉母さんが訪れていた。盛寛は裁判が始まったとき、肩身を狭くしたが、正平無罪に傾きつつあると知ると、急激に勢いを取り戻した。そして彼らの肝玉母さんは神妙な顔つきで判決が出るのを待っていた。
そしてついに裁判官三名が再び入廷してきた。傍聴席は打って変わったようにしんと静まり返った。裁判官の三名は厳かな様子で机に目を落としていた。傍聴席は静かで、熱かった。
裁判長は用意された判決書に目を落とした。それから正面を見据えた。
「主文。坂内正平を………………」
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