第47話
裁判長が「被告代理人は最終弁論をお願いします」。促した。
「はい」こちらも法廷に響き渡る、澄んだ声で弁護人の結城忠孝は立ち上がった。
「私はその当初、被告人が殺人を犯していることを前提に弁護資料を集めていました」と結城弁護士は始めた。「しかしその前提を覆さなければならないと思い、それまでの考えを改める必要性があると感じました。何故ならば私は被告人を信じたからです。断じて言います。被告人は殺人などできる人間ではありません。では誰が坂内朝美を殺したのかというと、それは『謎の男』に他ならず、恐らく坂内朝美から生まれた子どもの父親である可能性が極めて高いと思われます。坂内朝美はすでに不倫しているという事実が露呈しているわけですが、未だにその不倫の相手は定かならず、その『謎の男』は事件を静観し、その帰趨をほくそ笑んで見ている可能性を残しているのです。この可能性が払拭されていない現段階で被告人の罪を問うべきではありません。再び事件の微に入り細を穿ち、推論されて然るべきだと思います。私は真犯人がのうのうと生きていることを確信しています。そして真犯人は不倫の事実の隠蔽を目的に坂内朝美の殺人に及んでいるのです」
「その『謎の男』を見たという証言は一つしかありません」と結城弁護士は続けた。「それは松沢雄一氏です。彼は謎の男に対し、被告人よりも『小柄な印象を受けた』と証言しております。それでも検事は『謎の男』の正体に迫らず、その存在をなかったことにし、松沢雄一氏の証言でさえも、意に介してはおりません。確かに四宮公園の性格を考慮するに、あそこで起こった正確な事件を判断するのは難しい。松沢雄一氏の供述を証明する手段も今のところは見出せていません。しかしそれならば、新山喜助氏が四宮町で被告人を見たという供述もまた、証明のしようがないのです」
「現在も真犯人はこの日本の何処かに必ず存在しています!」結城弁護士は声を大にして言った。「少なくとも被告人は被害者を二度、殴っただけで、殺人は犯していません。これからそれを証明します」
「ことの発端は被告人の妻である、坂内朝美が不倫し、あろうことか妊娠をしていたところから始まります」結城弁護士は弁護資料に目を落として続けた。「被告人は供述通り、坂内朝美を二度殴り飛ばします。しかし、被告人はその後、坂内朝美を見失っているのです。被告人は断じて四宮町に姿を現せていません。被告人は坂内朝美を殴り飛ばした後、その姿を見失ったのです。そして被告人は諏訪町をしばらく坂内朝美の姿を求めて、探し回ります。この際に、誰か被告人の姿を見ていれば有力な証言者に成り得ますが、残念ながら、その真に勇気ある証言者はついに出ませんでした。では一体、いつ殺人が行われたのでしょう。それは被告人が諏訪町を徘徊している間に、『謎の男』によって殺人が行われていたのです」
結城弁護士は証拠品の中から煙草が入った小袋をつまみ出した。
「この煙草は私が押収したものの一部です。しかし四宮公園の状況を窺わせてくれる重要な証拠品です。松沢雄一氏は、『謎の男』とされる人物が公園で煙草を吸っていた可能性を示唆しています。私はこの煙草が事件の直前に吸われたものであると、真っ先に確認を取りました。そもそも、あの四宮公園を訪れる人物も限定され、ほとんど人手が入らないのです。そして被告人はもう三年間は煙草を口にしてはいません。この齟齬(そご)を埋め合わせるのに最も合理的なのは、四宮公園には、この煙草を吸っていた第三者、即ち『謎の男』がいたと解釈するのが妥当な結論なのです」
「これから先も私は捜査の手を緩めたりしません」と結城弁護士は断言した。「それによって被告人が断じて四宮町を訪れていないことが証明されることになるかもしれないからです。何故ならば、諏訪町で被告人が徘徊している姿を、誰かが必ず見ているのにちがいないからです。私たちは真に勇気ある証言者の登場を待たなければなりません。一人の人間の一生を賭けた証言者の登場が、この先あるかもしれません。私は民間の良識を信じています」
「物証の柳刃包丁には確かに被告人と坂内朝美の指紋が付着しておりました」と結城弁護士は続けた。「これには柄のところに坂内家の屋号である、『坂新』が彫り込まれていることからも証明される通り、坂内家で使われていた柳刃包丁であることに間違いありません。しかしこの柳刃包丁は被告人の指紋が付着しており、犯罪の証明になるかもしれませんが、私の見解はいささか異なっております。被告人は満州から帰還し、何らかの機会にこの柳刃包丁を手にしていました。そして『謎の男』はこの包丁を何らかの手段により手に入れることに成功していたのではないでしょうか。例えば、被告人が諏訪町を徘徊しているまさにその瞬間、坂内家が留守宅になったその瞬間を見計らい、『謎の男』は坂内宅に侵入し包丁を盗むことに成功したのではないでしょうか。被告人の帰還を何らかの手段によって知った『謎の男』は、被告人の家を見張っておりました。すると坂内朝美が飛び出してきて、続いて被告人が家から飛び出してきます。『謎の男』にしてみれば、犯行に用いる凶器は自分の素性がばれないものであれば、何を使用しても良かったのです。しかし坂内家の包丁を盗む機会が訪れたのは、『謎の男』にしてみれば、幸運以外の何物でもありませんでした。しかもその包丁には被告人の指紋すら付着していました。だから包丁は現場に遺棄されていたのです。即ち、包丁を残しておくことで、被告人に嫌疑がかかるように、狡猾に仕向けたのです」
「さて」と結城弁護士は弁護資料に目を落とし、続けた。「被告人が事件当日に着用していた国民服には、夥しい血のシミが付着していました。それはそこに提示されている証拠品を見れば、明らかなことですが、この血はいつ付着したもので、いったい誰のものなのでしょう? それは他ならぬ飯尾秀太氏と河田重治巡査部長の血痕なのです。被告人は事件当日、二十一人の人間に対して暴力に及んでいます。特に飯尾秀太氏には鼻が折れたり、歯が折れたり、相当なひどい傷を与えています。その時の出血は恐らく夥しいものだったでしょう。河田重治巡査部長も、頭を四針縫うほどの手ひどい傷を負わされました。この血痕が誰のものであるのかを探るのは事件の全体像を見渡す、極めて重要な証拠になるにちがいありません」
「ところが」と結城弁護士は険しい顔で言った。「飯尾秀太氏は自分が殴られる前に国民服に血のシミが付着していたと証言しました。しかしそれは真実なのでしょうか? 飯尾秀太氏は被告人に対して少なからず怨恨を抱いていたことは明らかです。その恨みから先の証言に及びましたが、その証言は私の尋問によって、実に信憑性を欠き、公平性に欠けるものでした。そこには何がありましたか? そう私怨です」
「この物的証拠は後に有力な物証になりますので、是非とも大切に保管して頂きたい」と結城弁護士は言った。「現在、欧米の先端科学では、事件捜査にも科学的な力を用いて捜査が行われています。これを科学捜査と呼んでいます。日本でも血液検査は行われていますが、残念なことに坂内朝美氏も、飯尾秀太氏も河田重治巡査部長も三人ともA型で、この血痕から、それが誰のものであるのか証明することはできませんでした。もしも全員が違った血液型を持っているのならば、被告人の国民服に付着したシミが誰のものであるのか、それが判明していたのかもしれません。しかし皆さんはDNAというものをご存知でしょうか? 一九四四(昭和十九)年にアメリカのオズワルド・アベリー氏が著した『DNAが遺伝物質であることの実験的証明』という論文の中で、DNAが遺伝物質であることが証明されました。デオキシリボ核酸と呼ばれる、この構成物質は個々人の細胞内にそれぞれ違った形で存在し、遺伝情報を担っています。人間の細胞内にはこのDNAが必ず存在し、無論、体液や皮膚からも検出されます。この捜査を用いれば、被告人の国民服に付着していたシミが誰のものであるか、少なくとも推定することができるのです。さらにこれを用いれば、坂内朝美が今際の際に産み落とした、声なき証言者である子どもも誰の子どもなのかが明らかにされるのです。そしてその父親こそ、『謎の男』の正体であり、この事件を引き起こした張本人にちがいないのです」
「先程も述べた通り、『謎の男』はこの日本の何処かで必ず存在しています」結城弁護士は断言した。「その定かならぬ人物は事件を傍観し、被告人に罪をなすりつけようとしている、史上稀な狡猾な凶悪犯です。我々はその人物を特定し、再び裁判に委ねなければなりません。この可能性を見過ごし、今、被告人の罪が確定するならば、必ずや冤罪の禍根を残すことになります。日本は今、生まれ変わったのです。今こそ我々は、我々日本人が育んできた道徳の集積体である法律を高らかに掲げ、冤罪と闘わなければならないのです。そして日本人の道徳は世界最高水準です。互いを思いやる慈悲で社会は構成され、人々は法律で禁じられているから、それを悪とするのではなく、自らの良心で善悪を考え、それを律し、人々の欲望を禁ずる法ではなくて、人々がより幸福を追求できるための法を整備しなければなりません。我々日本人は罪を憎んで、人を憎みません。日本の先人たちはそう考えていたのです。それは前時代的な言葉なのでしょうか? 確かに戦争によって、日本人の正義と道徳は失墜してしまいました。しかしもう一度、この言葉に息吹を吹き込み、人は憎むことの不幸よりも許すことのできる幸福に心を満たしましょう。新生日本はそうあるべきです。もう一度個々人の持つ命の尊さに目を向け、それを慈しむ気持ち、即ち慈悲こそが日本人の心の原点であることを見つめ直すことが肝心なのです。その礎としてこの法廷は日本国民が授かった最大の良識の府でなければならないのです。今、我々は一つの冤罪により、一人の人間の一生を左右する裁判に臨んでいます。これからは科学と医学の力が、犯罪捜査に劇的な進展をもたらせることが予期できます。それによって、被告人は無罪となり、その代わりに『謎の男』がこの法廷に立つ日が、必ずや訪れるでしょう。文明がすべてを明らかにする日もそう遠くありません。被告人は乱暴です。粗野です。決して不義を認めません。正義であることが、彼の義務でした。多くの人々が、彼を恐れました。しかしそれはそんなに悪いことなのでしょうか? 私は被告人を調べるに当たって、こんな話を耳にしました。『彼は正義の執行人でした。彼は幼いときから弱い者を守る人間でした。ときに大きな相手にも戦いを挑み、あるいは勝利しました。しかし彼はその正義のために居場所を失った』と。そんな人間が殺人を犯せるでしょうか? いや、私は断じて被告人は殺人を犯せる人間ではないと確信しています。もしもここで被告人の罪が確定するならば、それはまさに冤罪です。以上のことを踏まえ、まだ多くの点で謎の残っている現段階で被告人の罪を問うべきではありません。被告人は決して殺人など犯してはおりません。坂内正平氏は無罪であります」
結城弁護士は恐ろしいほど冷静に言葉を結んだ。
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