第46話
裁判長が「検事は論告求刑を行ってください」。促した。浅原道義検事は「はい」と法廷に良く澄み渡る声で返事をして立ち上がった。
「私はまず法に仕える下僕であることを宣しておきます」と浅原検事は始めた。「倫理の退廃は否めず、犯罪も狡猾な姦計が張り巡らされ、計画的に、より複雑化しています。本日、問われている犯罪はある夫婦に起こった悲劇的な犯罪です。妻の裏切り、即ち不倫によって、すべてから見放された夫による妻殺しの記録です。夫は妻の不倫を法に委ねることなく、自らの手で裁きをし、罰を与えました。しかし私たちは夫を正当な法に照らし合わせ、法に定められた罰を、この夫に科さなければなりません。その夫の名を、坂内正平と言い、また妻の名を坂内朝美と言います」
「被告人は日本に居場所がありませんでした」浅原検事は続けた。「世間から蔑まれ、非国民との罵りを受け、満州は撫順に満蒙開拓団の一員として赴いておりました。そこで被告人は、ほとんど禁欲的な生活を送っておりました。唯一の楽しみと言えば、仕事を終えた後に口にするウォッカと。そして本国で暮らす妻、坂内朝美に手紙を書き送り、その返事を待つことを楽しみとしていました。被告人はそんな仲睦まじい夫婦の様子を、この日記に書き記しています。この日記はほとんど身一つで日本に還ってきた被告人の数少ない荷物のうちの一つです」
浅原検事は証拠品のリストの中から正平の日記をつまみ出した。
「しかし、我々はここでこの日記を紐解くような無粋な真似はしません」浅原検事は言った。「何故ならば、これは我々が眼にする権利がないものだからです。ただこの日記の中には、被告人の愛情が詰まっていると、一言だけ言わせてもらいましょう」
浅原検事は日記を証拠品の中にそっと戻した。
「そして敗戦を機に日本に戻ってきた被告人に待っていたもの、それは妻の裏切りという事実でした」浅原検事は続けた。「この暴かれた真実こそ悲劇の始まりでした。人間はこのようなとき、事実を飲み込んで、理解するために、数十秒かかると言われておりますが、被告人の回転の速い頭脳はそれを瞬時に察します。そして被告人は右拳を坂内朝美の左頬目がけて振り抜きます。続けて坂内朝美の鼻面に鈍い一撃が叩き込まれたのです。坂内朝美はすぐに家を飛び出します。被告人も家を飛び出します。そのときの被告人の腕に握られていたもの、それこそまさに刃渡り23センチの柳刃包丁だったのです。坂内朝美は助けを求めることも、呼ぶことでさえ叶いませんでした。それは自分が妊娠していたからです。妊娠が剔抉(てっけつ)されるのを恐れた坂内朝美は誰にも救いを求めることができませんでした。そのような事情から坂内朝美はひと気のないところへと逃げてゆきました。ここで一つ留意してほしいのは、坂内朝美が妊娠して、その子が今にも産まれるかもしれない状況だった、ということです。まさか、公衆の面前で、大股を広げて子を産み落とすわけにはいかないでしょう。そして辿り着いた先が、ひと気のない四宮公園だったのです。そこで被告人は坂内朝美の後ろに忍び、その背を目がけて、包丁を一突きするのです。坂内朝美の返り血が被告人の着ていた国民服に飛び散りました」
「しかし」と浅原検事は不意に険しい顔をして言った。「被告人は包丁に関しても、四宮公園に関しても、知らぬ、存ぜぬ、を通しています。それは本当のことなのでしょうか? 私はこの点にこそ、被告人の明確な悪意があり、嘘が潜んでいると考えています。そこで重要なのが、勇気ある証言者である新山喜助氏は、四宮公園付近で被告人を視ることになるのです。弁護人は諏訪町から、新山喜助氏の家がある新宮町までの最短距離は、川原町を経由する道であると、論じました。しかし明らかにお役所仕事に慣れ切った、浅はかな論拠です。そもそも川原町は道の舗装率が非常に悪く、あの暗闇の中で川原町を歩くのは、酔っていない者でも、足元に注意しなければ、とても歩くことはできません。ましてや新山喜助氏は急性アルコール中毒によって、ついさっきまで倒れ、その昏睡から醒めたばかりでした。その新山喜助氏が、わざわざ危険性のある川原町を通って、帰るでしょうか? 新山喜助氏と新山美代子氏は、多少、遠回りになっても安全な道である四宮町を経由して帰ったのは、当然なのです。そしてそこで被告人の姿を目にしているのです。折しも夏祭りは絶頂期を迎え、人々は諏訪町か、本町通りに密集していました。そんな中で四宮町において、我々は幸運にも被告人を視たという証言をいただけたのです。では被告人は、その四宮町で何をやっていたのかと言えば、決まっているじゃないですか、坂内朝美を包丁で刺したのです。しかし、それでも被告人は、知らぬ、存ぜぬ、を通しています。被告人の供述によれば、被告人はそのとき、諏訪町で坂内朝美を探したことになっています。しかし諏訪町で被告人の姿を見たという証言者はついに誰も出現しませんでした。当然ではありませんか。何故ならば、そのとき被告人は、諏訪町になどいなかったのです。被告人は四宮町を訪れていたのですから」
「被告人のその後の足取りを見ましょう」浅原検事は言った。「被告人は坂内朝美を刺した後、四宮公園を後にします。その後、松沢雄一によって坂内朝美は診療所に運ばれているとも知らずに。しかし被告人の怒りは収まりませんでした。被告人はその収まらない怒りのために諏訪神社に赴き、『欺瞞を叩き潰し』に行くのです。被告人はそこで、実に二十一人に上る人々を害しました。初めに磯崎巌氏、次に神輿を守ろうとした男衆十八名、それから最もひどい傷を負わされた、飯尾秀太氏、被告人の狼藉を止めに入った、渡辺宗樹氏に次々と狼藉を働いています。信じられるでしょうか? 人を殺した人間が、さらに賑わう諏訪町に取って返し、次々に善良な人々を無差別に害する。しかし私はこの点にこそ、被告人が坂内朝美を『殺した』証拠であると断じます。被告人はあらゆる意味ですでに破滅『していた』のです。被告人は妻の坂内朝美を殺したからこそ、無差別傷害事件を起こしているのです。量刑の最高刑が、死刑である以上、もはや一人殺そうが、二十一人殺そうが、それは同じ死刑を科せられることを意味します。お分かりでしょうか。もはや被告人に恐れるものは何もなかった。あの諏訪神社で暴行を働いた被告人は、極めて危険な存在になっていたのです。良心の呵責もなければ、信じるべきものもない、法も罪も彼を拘束することはできなかった。この危険極まりない男を早期逮捕できたのは、まことに幸運だったとしか言いようがありません。まず傷害現場に松沢雄一氏がいたという幸運があり、坂内朝美にまだ息があったという幸運が続きました。その結果として、坂内朝美への傷害は早期に警察当局の知るところとなり、被告人を事件の発生から四、五時間という、実に迅速に逮捕することができたのです」
「被告人は断じて坂内朝美を殺害しています」浅原検事は強い口調で言った。「決定的な証拠は被告人が着ていた国民服にこそあります。被告人と諏訪神社で揉み合い、殺されかけた飯尾秀太氏は、被告人の国民服に夥しい血痕が付着していたと証言しているのです。もしもその夥しい血痕が坂内朝美の血痕ではないのならば、いったい誰の血痕だと言うのですか? なるほど昭和二十年八月二十七日の夜、日下幸作医師は実に精細な記録を認めております。その記録によれば、出血するほどの大きな怪我で日下診療所に赴いた人々は五人です。一人は坂内朝美であり、一人は飯尾秀太氏であり、一人は渡辺宗樹氏であり、一人は河田重治巡査部長、そして最後に坂内正平、そう被告人です。あるいは軽症で済んだ磯崎巌氏を含めるならば六人となります。村には日下診療所の他に二つの診療所があります。それらは内科であり、外科ではありません。念には念を入れて、私はその二つの診療所にも事情聴取して、あの夏祭りが行われた夜に、出血するほどの怪我で診療所を訪れた人々がいないか、診療録を閲覧させてもらいました。しかしそのような人物はいませんでした。それでは『二番目』に害された、飯尾秀太氏が視たという血痕は、その五人の中で一番『初め』に害された坂内朝美の血痕であるとしか考えられないのです。そしてもう一つの動かぬ証拠となり得るのは、坂内朝美の爪と爪の間に挟まっていた皮膚片です。これと同じ傷痕が、被告人の右腕に残っているのです。これこそ坂内朝美が殺される過程で抵抗した証であり、被告人の犯行を証明しているのです」
「最後に一つ申させてください」浅原検事は柔らかな口調で言った。「本来の夫婦の在り方というのは、お互い手に手を取り合って、人生の苦楽を共に歩むのが健全な夫婦の在り方でしょう。夫婦というのは厳しい人生の中で、唯一心を潤し合い、憩いの場となってお互いの未熟な部分や子どもっぽい甘え、我儘を許し合える存在でなくてはなりません。それなのに坂内家ではあるまじき決裂が起こり、ついに被告人は妻を殺害するという事件にまで発展しました。確かにそこには情状酌量の余地はあるかもしれませんが、ここは厳しい裁きを求めます。何故ならばいくら妻が不倫をしていたからと言って、ここで甘い判決が出たのならば、日本の家族制度は一体、どうなるのでしょう? 日本の家族制度は世界に誇るべきものです。欧米の上流社会では我が子どもを家庭教師や家政婦に一任し、その教育や養育にはほとんど関与することがないと聞いています。しかし日本は違います。家族は寄り添い、同じ釜のご飯を食べ、同じ家の屋根の下で眠る。日本人は貧しいとされていますが、その心は何処のどんな国よりも豊かなのです。私はあるいは赤の他人を殺害するよりも、罪の軽重に関わらず家族を害することの方がずっと不幸だと考えています。私たちは夫婦相和し、この国難の時代を乗り切らねばなりません。日本は自らの国のことを連邦国でも合衆国でもなく、『国家』と呼びます。その国を形成しているのは、それぞれの家であり、家庭なのです。そして家庭は家族を囲む温かな和でなければなりません。その家庭内で起こった今回の事件に対しましては、厳しい刑罰を望みます。第二第三の坂内夫妻を生み出さないためにも、情状酌量の余地は残してはいけません。被告人には断じて責任能力があります。被告人は死刑を望んでいるかもしれませんが、喜んで死刑になるというのならば話は別です。ここは敢えて、被告人を極刑に処すことは避け、被告人には刑法百九十九条の範疇たる、無期懲役刑に処することを求刑します」
浅原検事は恭しく礼をすると、油っ気のない髪を掻き上げた。やることはすべてやった。大きな顔には自信が溢れていた。
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