第45話
裁判は再び被告人尋問に戻った。正平は証言台を前にしていた。
浅原道義検事は昆布のような油っ気のない髪を掻き上げた。
「あなたが昭和二十年八月二十七日、二十二時五十分頃、四宮町を訪れている可能性は、先ほどの証言により、いささか信憑性に欠けるものの、濃厚になりました。それでもまだ四宮町、あるいは四宮公園を訪れたことを否認しますか?」
「逆に問いたい」と正平は呆れたように言った「あんたはあの証言に如何ほどの価値を認めているのか?」
裁判長から「法廷と証人を侮辱するような発言は取り消しなさい」。叱声を飛ばした。
正平はここまでの裁判の経過を視て、自分ではない、朝美を刺殺した犯人がいることを確信した。そして自分はこの裁判を戦い抜き、勝たなければならないことを確信した。真理とは自ずから明らかになると思っていたが、それは自分の力で、死に物狂いでもぎ取らなければいけないことを確信したのだった。
「では、切り口を変えましょう」浅原検事は言った。正平に対する嫌悪感はいよいよ募っていった。「物的証拠ナンバー3の刃渡り23センチの柳刃包丁にはあなたと坂内朝美の指紋しか検出されませんでした。あなたはこの包丁に関して、知らぬ、存ぜぬ、を通すつもりですか? この包丁に関して知っていることを答えてください」
「指紋なんて手袋でもすれば、簡単に消すことができるだろう」
「その通りです。しかしあなたの浴衣には大量の血痕が付着しています。先に提示された証拠物件のすべてがあなたの犯行を証明している。個々の証拠物件だけでは、なるほどあなたが犯人ではないことになるかもしれない。しかしその個々の証拠物件が整合性を持つように揃ったとき、あなたの犯行を雄弁に証明しているのです。見境もつかなくなる飲酒と、被害者への愛情が豊かだったと思わせるような日記、妻の不倫という動機、夥(おびただ)しい血痕が付着した浴衣、あなたの指紋が付着し、あなたの家の屋号が彫り込まれた包丁、坂内朝美の爪と爪の間に挟まっていた皮膚、あなたの右腕にあった、引っ掻かれたような傷痕、そしてあなたを四宮町で見かけたという証言、これらがすべて揃ったとき、誰がどう見てもあなたの犯行は疑いの余地を残していないのです。あなたの犯行を否定するのはあなたと、代理人である結城忠孝先生しかいません。『謎の男』がもしも本当に実在するのならば、それこそこの法廷に出廷してしかるべきではありませんか。弁護人はそれを見つけることができなかったではありませんか。それがいないのは当然なのです。何故ならば『謎の男』など存在してはいないのですから。いや、『謎の男』とはあなたなのです」
「朝美は、ああなって当然だった」
「当然だった?」浅原検事は聴き返した。「それは違います。この国は法治国家です。お分かりですか? 定められた法と秩序によって治められている国です。従ってあなたは他人の罪を批評する権利は有していても、裁きにかける権利は有していないのです。以上です」
正平の眼にゆっくりと立ち上がる結城忠孝弁護士の姿が映った。正平はこれまで降りかかる災いを圧倒的な暴力で振り払ってきた。しかしその暴力が及ばない世界に一歩、足を踏み入れると、自分にはほとんど何の力も備わっていないことを実感し、無力感に苛まれた。俺は馬鹿だ。正平は思った。しかし今、立ち上がる結城の表情は力強く、闘志みたいなものを感じ、正平は固唾を呑んだ。今、信用できるのは、黒縁の眼鏡の中に鋭く光る、結城忠孝の両の眼だけだった。
「被告人にいくつか質問させてもらいます」結城弁護士は始めた。「まずは先ほど皆様にご覧いただいたこの煙草に関して、あなたは何か知っていることはありませんか?」
「もう煙草なんて三年ほど吸っていない」
「それでは、この国内でのみ、配給されていた煙草をあの公園で吸っていた人物がいるということです。そう、あのひと気の全くない公園で。今はいささか黄色っぽく変色している煙草も、私が押収したときは、真っ白で、事件直前か、事件の少し前に吸われた煙草であると確認が取れています。それが誰なのか被告人の足跡を辿りながら見てみましょう。まずあなたが坂内朝美に暴力を加えたのは、何時頃でありましたか?」
「十時くらいだったと思う」
「それから坂内朝美は家を飛び出して『何処か』へ向かった。間違いないですね?」
「然り」
「あなたは坂内朝美を見失った。間違いないですね?」
「然り」
「ではその後、坂内朝美は何をしていたのか。松沢雄一氏の供述によりますと、二十二時時三十分頃に後に判明することになる『女性』つまり『坂内朝美』が訪れたことになっています。その五分から十分後に『謎の男』が訪れたとされています。あなたは四宮公園を訪れましたか?」
「俺は断じて四宮公園には行っていない」
「四宮公園の付近をうろちょろしていましたか?」
「否」
「あなたは坂内朝美を殺しましたか?」
「否」
「しかしあなたの供述調書には、『俺が朝美を殺した』というものがあります。あれはいったい何なのでしょう?」
「俺は朝美を二回殴って、殺したのかと思った。警察は初め、朝美が殺されたことを俺に告げ、犯行手口は最後まで明かさなかった。だから俺は、朝美が殴られたことによる脳溢血で死んだのかと思った」
「いいえ、坂内朝美は包丁で突き刺されて殺されました。決して脳溢血ではありません。それでもあなたは坂内朝美を殺したのは自分だと考えていますか?」
「もしも俺が朝美を殴らなくて、穏便に話し合いの場を持っていれば、朝美は死なずに済んだかもしれない。俺の暴力が朝美殺しのトリガーになった。そして俺はトリガーを引いてしまった。だから朝美を殺したのは俺なんだ」
法廷は俄かにざわついた。
「異議あり」浅原検事が堪らず声を張り上げた。「弁護人は被告人を意図的に誘導しようとしています」
裁判長は「却下します」。言った。「事件の動機につながる重要な発言であることを認めます」。
さらに法廷はざわついた。裁判長は「静粛にしてください」。言った。
「では」と結城弁護士が正平に向かって言った。「先ほどの新山喜助氏の発言によりますと、あなたを四宮公園付近で視たという証言が出てきましたが、あなたはその時間帯、つまり二十三時頃、何をしていました?」
「家で酒を飲んでいた」
「その前は何をしていましたか?」
「諏訪町で朝美を探していた」
「そのときにあなたの記憶に残っている、村人の顔はありましたか? あるいはあなたに話しかけてくるような人はいましたか?」
「いない」
「もしも、その真に勇気ある証言者が現れてくれれば、たちまちあなたの無罪が証明されます。もう一度、良く思い出してみてください。あなたは特定の誰かを見て、そして覚えていませんか?」
「何も覚えていないんだ。満州から日本に帰り、日本人は貧相な恰好をしていた、鼻が低いという印象を受けたが、そんなことはどうだっていい」
「私が、村人から、足を使って調べたところ、村人は何かを『隠している』という印象を受けました。諏訪町は折しも夏祭りが開催され、人々が集中していました。それでも被告人の姿を見た人はいない、満州から帰っていたことを知らない、とまるで示し合わせたように全員が言います。私は違和感を覚えるのを禁じ得ません。何故ならば、被告人が満州から帰っていたのを知らないと答えた人々が、その翌日に、『坂内正平が殺しをした』と言うのです。おかしいとは思いませんか? 恐らく村人は裁判に首を突っ込みたくないために何かを『隠している』のです。そこには無関心があります。そして日本の司法制度が、まだ民衆に受け入れられていないという未熟な問題が浮き上がるのです」
「異議あり」浅原検事が言った。「今の発言は、弁護人の推察が多々見受けられます」
裁判長は「認めます」と言い、「被告代理人は推察を排除して、被告人尋問を続けてください」。厳粛に言った。
「では質問を続けます」結城弁護士は言った。「被告人に求めるのは、何処から何処までの記憶があるのか、何処から何処までの記憶がないのかを明確にして頂きたい」
「俺は朝美の不倫の事実を知った時点で、気も狂わんばかりになって、そこから記憶が曖昧になっている。それから諏訪町をぶらぶらし、家に戻り、酒をやった。その時はもう飲酒で記憶が吹っ飛んでいる。その後、諏訪神社に向かい、大醜態を巻き起こし、逮捕されるときも一騒動あったらしいが、その間の記憶は実に曖昧になっている」
裁判長が「もう一度、注意します。被告人は言葉遣いに気を付けなさい」再び叱責が飛んだ。「この法廷に適切な言葉遣いをしていただかないと、あなたに不利になる可能性があります」。
結城は苦笑し「それでは質問を続けます」。言った。「いずれにせよ、あなたはその後、諏訪神社に二十三時ニ十分頃、乱入し、狼藉を働いていることは、多くの人々が目撃している揺るぎようのない事実です。しかし何故、諏訪様であのような醜態を巻き起こしたのですか?」。
「この世界にある欺瞞を破壊するため」
「と言いますと?」
「俺は朝美に裏切られ、神からも裏切られた存在だった。神は朝美の不義を看過した。俺が信じたものはすべて欺瞞だった。だから俺はそんな欺瞞の元凶を叩き潰しに行った。村人が信仰しているものは、欺瞞だということを証明するためだ。だから俺は祭りを壊し、毀し、破壊しつくして、村人の目を醒まさせようとした。俺はそれまで信じていたんだ。朝美は俺の還りを今か今かと待ち続けていると思っていた。しかし朝美にとっては俺の帰還は即ち、その身の破滅を意味していた。俺をまるで嘲笑うように他の男の子どもを孕んでいた。こんなのってありか! 許せなかった。法も、法を作った社会も、退廃した道徳も、偽善の皮を被った秩序も、この日本を作った神々も、何もかもが信じられなかった。すべてが欺瞞なら、俺がそれをすべてぶち壊し、新しい秩序を創り上げる。だから俺の手で、この手で罰を下そうと思った! 朝美にも、神にも。神が嘘ならば、俺がそれに取って代わる、俺が正しい法と世界を作るんだ!」
正平の肩は震えていた。裁判長が「被告人は落ち着いてください」。とても柔らかな声で言った。傍聴席から正平の顔を窺うことはできなかった。巌老人は「あの野郎、本当にバカだよ」。涙を迸らせながら言った。
「以上」結城弁護士は穏やかに被告人尋問を打ち切って、弁護人席に戻った。
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