第44話

 いよいよ裁判は被告人尋問に移る。被告人、坂内正平は証言台を前にしていた。正平の巨躯が裁判長と向き合う。正平に臆するようなところはなく、実に泰然としていた。

 磯崎巌老人が「あいつは大丈夫だろうか?」。ぼやいた。

 さっそく浅原道義検事が動いた。浅原検事は証人台の傍へ寄った。

「あなたは妻の坂内朝美を殺したいほど、激しく憎んでいた。間違いないですね?」

「然り」

「あなたは妻の坂内朝美を二度殴った。間違いないですね?」

「然り」

「あなたは妻の坂内朝美に包丁を突き刺した。間違いないですね?」

「否」

「それではあなたが昭和二十年八月二十七日、二十二時から二十二時十五分くらいの間に坂内朝美を殴り飛ばしてから、あなたは坂内朝美に何をしましたか?」

「何もしていない」正平は答えた。「俺はその後、あいつを見失った」

 裁判長から「被告人は言葉遣いに注意しなさい」。叱声が飛んだ。「この法廷に見合った言葉遣いをしなさい」と。

 正平は苦笑した。そして浅原検事に続けろと合図した。

「あなたは坂内朝美を見失った後、何をしましたか?」浅原検事が尋ねた。

「諏訪町を探した」

「あなたは、その後、四宮公園に行っている。間違いないですか?」

「否」

「では、あなたは諏訪町を探した後、何をしましたか?」

「家に帰り、深酒をした」

「あなたはその夜、記憶を飛ばすほど飲酒されていますが、何処から、何処までの記憶がありませんか?」

「朝美を殴ってから、翌日、警察内で目が醒めるまで」

「裁判長、信じられるでしょうか? 激しい殺意すら抱いていた者が、一旦、街に飛び出して、すんなり諦めて帰っている。そして記憶に曖昧さを残している。とても信じられるものではありません」

 結城忠孝弁護士が、「証拠品か、証人の提示を求めます」。厳しく言った。

「証拠品か、証人ですか?」浅原検事は思わし気に言った。「仕方がないですね。いるんですよ、この件に関して証人が」

 裁判長が「被告代理人は、新たな証人を認めますか?」。尋ねた。

 結城弁護士は「はい」と答えざるを得なかった。



 証人が入廷した。誰もがあっと息を呑んだ。その人物こそ、新山喜助村長だった。

 巌老人は「あの野郎、何を血迷ったことを!」。叫んだ。

 弁護人の結城忠孝も「異議あり」。咄嗟に声を張り上げ、「私の記憶ですと、事件当夜、新山喜助氏は急性アルコール中毒で倒れていたと記憶しています。それがこの場で証言に立つなどあり得ません」。言った。

 新山喜助は「正確には、私と、妻の美代子の証言なんです」。答えた。

 新山美代子。喜助と長年連れ添った妻だった。あの夜、新山喜助が急性アルコール中毒でぶっ倒れると、彼らの家のある新宮町と、諏訪町にある二の社を往復して、喜助の看病に当たっていた。その後、喜助は息を吹き返した。それがちょうど、あの夜の二十二時から、二十二時三十分頃のでき事だった。まだアルコールが抜け切らない中、喜助と美代子はふらふらと帰路に就いた。そのときのでき事だったという。

 巌老人が「おい、本当か?」。隣りの者に尋ねた。隣りの頭屋組の者は「本当だよ、漁協長、あの夜、村長と美代子さんは一緒に家に帰っている」。言った。

 正平に代わって新山喜助が証言台に立っていた。浅原道義検事が動いた。

「ここまで御足労いただき、ありがとうございました」浅原検事は言った「私はあなたのような勇気ある証言者の出現を待ち望んでいました」

「いや、私は以前にも裁判に関わったことがありまして。民事訴訟だったんですがね、猫の額ほどの土地の所有権を巡って、争ったんですが、まぁ、裁判に関わるとまずロクなことがありませんね。私もその心労によって、二、三日は悪夢にうなされた次第でして。ですから私も本来、このような裁判に首を突っ込みたくはなかったんですが、私と妻が目にしたことは真実として、それが公共の福祉の役に立てるのならば、私は恐れることなく証言をしましょう。この裁判における私の証言の重要性を、隠蔽して、何が一つの村の代表でありましょうか! 真実は真実として、そして私の良識に誓い、ここで証言をさせていただく所存であります」喜助は自分の雄弁に酔った。

「では、勇気ある証言者の新山さん」と浅原検事が言った。「あなたが見たことを教えてください。あなたは昭和二十年八月二十七日二十二時から、二十三時までの間に四宮公園の前を通りましたか?」

「然り」

「それは何時くらいですか? 正確にお答えください」

「二十二時五十分頃だったと思われます」

「そのときに、被告人の姿を視ましたか?」

「然り」

「被告人は、そのとき手に柳刃包丁を持っていましたか?」

「否」

「それは、そうでしょう。恐らく新山喜助氏と美代子氏が視たのは、坂内朝美に包丁を刺した後の被告人だったのでしょうから。以上です」



 この意外な証言者を前に結城はしばらく考えた。資料をパラパラとめくった。

 裁判長は「被告代理人は、新たな証言者に対する反対尋問はありませんか?」。言った。

結城弁護士は正平の耳元で、「あなたは断じて四宮町には行っていない。間違いないですよね?」。険しい顔をして尋ねた。正平は「断じて行っていない」と答えた。結城弁護士は「ならば突破口も見付けられるでしょう」。言って、立ち上がった。

「新山さん」と結城弁護士は言った。「あなたは被告人と何か知己はありますか」

「一、二度は見たことがあります」

「ずいぶんと希薄な知己ですね。あなたが昭和二十年八月二十七日の夜、視たというのは、本当に被告人でしたか?」

「坂内正平は村の人ならば誰でも知っている、有名な荒くれ者です。見間違えることは、まずないと思います。それにこの件に関しては私の妻も目撃しているわけでして」

「被告人は四宮公園から出入りしていましたか?」

「否。四宮公園からほんの8、9メートル先で見かけました」

「しかし、つまり、あなたは、それを被告人であると認識したわけですね?」

「然り」

「そのときに、何か印象のようなものや、感じたことなどありませんか?」

「特にないですね」

「おかしいですね。あなたは、急性アルコール中毒で倒れていらっしゃられた。従って、その有名な荒くれ者が満州から村に帰還しているとは、知らなかった。そこに何の印象や疑問も抱かずにすんなり受け入れられたわけですね? 本当にあなたは坂内正平を視たんですか? この証言は極めて重大です。下手を打つと、偽証罪に問われる恐れもあるほど重要な証言ですから、良く思い出して頂きたい」

 新山喜助は「偽証罪……」とつぶやいて、ぎくりとした。

「私は酔っていたもので……」喜助は言葉を濁した。

「酔っていた? それではあなたは先の発言を翻すのですか? あなたは酔っていて、その証言の信憑性は心もとないということになりますよ。この証言は重要なものです。あなたも先ほど雄弁を振るっていたではないですか」

 喜助は沈黙した。その沈黙の後、結城弁護士は「あなたが視たのは本当に被告人でしたか?」。尋ねた。

浅原検事が「異議あり」。助け船を出した。「先ほどの質問と重複しています」。

「認めます」と裁判長が言った。「質問を変更してください」

 すると結城は一枚の地図を広げた。それは村の地図だった。

 結城弁護士は「ここは新山喜助氏が倒れていた、諏訪町のお堂の辺りです」と言い、マーカーで赤丸印を付けた。「そしてこちらが、新山喜助氏の家がある新宮町です」。結城弁護士は再びマーカーで印をつけた。「そしてここが傷害事件のあった四宮町、四宮公園です」。言って、やはりマーカーで印をつけた。新宮町は確かに、四宮町経由で諏訪町に行くことができます。しかし諏訪町から新宮町に帰る、最短の道筋はこうです」。すると結城は諏訪町と新宮町を赤いマーカーで線を引いて、結んだ。それは四宮町を経由しないで、川原町という町内を経由するルートだった。

「このように見れば明らかなように、新宮町から諏訪町に行くのに、最短の道はこの赤線で書いた道です」結城はペンで指し示しながら言った。「この道を使えば、四つ宮町を経由する道よりも五分から六分ほど時間が短縮されるのです。ご存じの通り、新山氏は急性アルコール中毒で倒れていました。その喜助氏が、帰り途にわざわざ時間のかかる四宮町経由を選んだのでしょうか? その点に関しては、新山喜助氏はどう思われますか?」

「私は酔っていたもので。あのう、心が張り裂けそうです。私は高血圧でして。もう失神してもよろしいでしょうか?」

 喜助は誰ともなく尋ねたが、裁判長も結城弁護士も険しい顔をして、喜助の質問にはもちろん答えなかった。

 この喜助の行動は後に、村の中で激しい批判を受けた。勇気ある証言者であったはずの喜助は、こうして失神寸前で、退廷することになった。

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