第43話
秀太がつまみ出された後、証言台に立ったのは、渡辺宗樹だった。彼は国民服を着用していた。彼は裁判所の厳粛な空気に呑まれることはなかったし、実に堂々としていた。彼は実にはっきりとした底響くような声で、宣誓を行った。巌老人は「宗樹なら、あの昆布野郎をぎゃふんと言わせられる」とぼやいた。
裁判長が「検事は証人尋問を行ってください」。促し、再び浅原道義検事は立ち上がった。浅原は「飯尾秀太さんにした証人尋問と重複になる場合があるかもしれませんが、ここは重要なことなので、許可して頂きたい」と言った。裁判長は認めた。
「渡辺さん」と浅原は宗樹に向き合った。「あなたと被告人は面識がありますか?」
「然り」
「どれほどの面識ですか?」
「正平さんは昔、俺たち若い漁師たちを引き連れて、飲みに連れて行ってくれた」
「それは何回ほどですか?」
「両手足の指では数えられないほど」
「被告人が殺人的に喧嘩に強いことは知っていましたか?」
「然り」宗樹は言った「俺はそんな正平さんに憧れをさえ抱いていた」
「被告人は人を殺せる人間だと思いますか?」
「否。正平さんはほとんど極道と違わないが、外道ではない」
「渡辺さんは、坂内朝美とは何か面識のようなものはありますか」
「然り。正平さんの家に何度かお邪魔になったが、そのときに紹介され、何度か会っている。言葉を交えたこともある」
「渡辺さんの眼から見て、被告人と坂内朝美はどのような関係でしたか?」
「正平さんは朝美さんを慕っていたし、朝美さんも同様だった。さっきから質問の意図が読めないのだが」
「失礼、私は関係があるような、ないようなことも質問してしまう性分でして。どうかご容赦願いたい。それでは渡辺さん、あなたは被告人の衣服に血が付着していた、と供述されておりますが、それはあそこに提示されている証拠品の国民服で間違いないですか?」
「正確ではない」
「どのように正確ではないでしょうか?」
「俺はあの夜、正平さんを蹴り飛ばしてから、正平さんの右の拳を必死に押さえつけた。そのとき右拳には血がべっとりと付着していた。同様に国民服の袖口のところにも血がべっとり付着していた。俺は俺が見たことしか供述していない。俺はそれ以外のところに血が付着していたとは、供述していない」
「しかしあなたは被告人を最も間近で見た一人だ。袖口以外のところにも血痕を見た記憶はありませんか? よく思い出してみてください」
「可能性はある」
「そうでしょう。今提示されてある国民服を見れば、明らかです。あれだけの血痕が付着しているのです。これは少なくとも一人、ないし二人以上の血痕でなければ、説明のしようがありません。以上です」
「被告代理人は反対尋問がありますか?」裁判長が尋ねた。
結城忠孝弁護士は立ち上がり、「一つだけ確認させて頂きたいことがあります」。言った。結城弁護士はその場で眼鏡をくいと上げた。
「渡辺さん、あなたが目にした袖口の血痕というのは、乾いていましたか、それとも生乾きでしたか、それとも生々しいものでしたか?」
「生々しいものであった」
「以上」
結城はそれだけ尋ねると、腰を下ろした。
巌老人が「何だ、あの眼鏡野郎、正平を弁護する気はあるのか?」。鈍く言った。
続いて入廷したのは松沢雄一であった。彼は事件の唯一の目撃者である。あの夜、即ち昭和二十年八月二十七日の夜、雄一は傷害の現場である四宮公園にいた。しかし彼は事件のあった翌日(八月二十八日)に現場検証を行ったが、彼はほとんど何も知らないという事実が分かっただけであった。彼の略歴は国民学校を卒業後、高等科へ進み、中学校に進学し、卒業している。それ以上の進学は認められず、村の鮮魚商「魚松」を継ぐことを決心した。その矢先に、敗戦という大きな事件が待っていた。
まず初めに立ち上がったのは浅原道義検事だった。
「雄一くん」と浅原検事は優しく語りかけるように始めた。「君は当事件で唯一、傷害現場に居合わせた一人だ。それを自覚して話してくれるね?」
「はい」雄一は答えた。
「君が四宮公園にいたのは、何時から、何時までの間ですか?」
「十九時四十五分から、二十二時五十分くらいの間です」
「では、質問をさせていただきます。君は坂内朝美の傷害現場にいた、間違いないですか?」
「然り」
「坂内朝美が四宮公園にきたのは何時頃でしたか?」
「二十二時三十分です」
「調書によれば、その後、ここでは『謎の男』とでもしましょう――が四宮公園を訪れたことになっていますが、その『謎の男』が公園にやってきたのは何時頃でしたか?」
「二十二時四十分頃です」
「その『謎の男』は誰でしたか?」
「分かりません」
「君は17、8メートル後方のお堂の影に隠れて、様子を窺っていた。間違いないね?」
「然り」
「従って、君はほとんど何も見ていない、あるいは見えなかった。よろしいですか?」
「然り」
「以上です」
なかなか上手い誘導の仕方だ、と弁護人の結城忠孝は思った。このまま彼は何も見ていない、見えていなかったとして、裁判を戦い抜くつもりだ。だが俺がそれをさせない。
弁護人の結城忠孝は立ち上がった。
「雄一くん」と結城弁護士は話しかけた。「君が見たとされる、そう――『謎の男』は、被告人でしたか?」
「分かりません。顔も見えなかったし、声も聴き取れませんでした。しかし正平さんよりも小柄であったような印象を受けました」
「それは何と比べてですか?」
「僕は七時半まで――十九時三十分まで正平さんと朝美さんと一緒にいたのです」
いいぞ、思っていたよりも聡明だ。結城弁護士は思った。
「雄一くん、君は二度、転寝(うたたね)していますが、何時から、何時までの間ですか?」
「一度目は公園にきてから、すぐに十九時四十五分くらいから、二十二時くらいだと思います。二度目は『女性』が公園にきてから、十分ほどです。つまり二十二時三十分から、二十二時四十分くらいの間です」
「そして、『謎の男』がやってきた。間違いないですね?」結城弁護士は言った。「それから『女性』の悲鳴が聞こえて、君は完全に目が醒めた。間違いないですね?」
「然り」
「そのときの『謎の男』の行動を君の口から語ってください」
「その後、『謎の男』は倒れた『女性』をしばらく調べておりました。それから一、二分後に姿を消しました。僕はすぐに倒れた『女性』のもとへ走りました。そのとき『女性』が坂内朝美さんであると知りました。僕が声をかけると、朝美さんは息を吹き返したようでした。あるいは初めから、息絶えてはいなかったのかもしれません。僕は包丁を抜こうかとも思いましたが、それは絶対にやってはいけない行動です、そうですよね? 僕は警察に行くべきか、診療所に行くべきか、迷いましたが、診療所に行くことを決めました。それからは皆さんがご存知の通りです」
結城弁護士は「ありがとうございます」。言った。「さて、ここに一つの物的証拠があります」。彼はポケットに入れられていた小袋を取り出し、皆に見せた。「これは、ご覧のとおり煙草です」。なるほど小袋の中には煙草の吸い殻が入っていた。「これは事件前に『謎の男』が吸っていた煙草の可能性が非常に高い。鑑定では、事件の当日、あるいは事件の一日前に吸われた煙草であることが分かっています」。結城弁護士は言った。「さて雄一くん」と結城弁護士は続けた。「君は『謎の男』がこの煙草を吸っているのを眼にしましたか?」。尋ねた。
「分かりません」
「良く思い出してほしい」と結城弁護士は迫った。「その暗闇が深ければ、深いほど、その灯りは目立ったはずなんだ。君はその灯りを眼にし、その口から吐き出される朦々(もうもう)とした煙を視ているかもしれないんだ」
「言われてみれば、男の口元に何か赤い光らしきものを視たかもしれません」
「もしかすると、君が坂内朝美に近寄ったとき、まだ煙草の残り香があったかもしれない」
「そうだ、そうです。煙草の臭いがしたかもしれません」
浅原道義検事が「異議あり」。叫んだ。「弁護人は証人を誘導しようとしています」。言ったが、裁判長は「却下します」と言った。「証人は供述を続けてください」。
雄一は「赤い光を視たかもしれません。臭いの方はもっと鮮明に覚えています。確かに煙草の、少なくとも何かが燃えたような臭いがあった気がします」。言った。
結城は「裁判長」と言った。「この煙草を新たな証拠品として申請します」。それは裁判長によって認められた。
「雄一くん」と結城は言った。「君の証言は、この裁判を左右させるかもしれない。私からの反対尋問は以上です」
巌老人が「煙草が何なんだよ? 何処にも落ちている普通の煙草じゃねぇか」。訝しげに言った。頭屋組の一人が「弁護士先生には深い思慮があるんだろう」。言った。
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