第42話

 次に証人尋問を受けたのは飯尾秀太だった。秀太は正平が諏訪様で大醜態を巻き起こしたとき、最悪の暴行を受けた被害者であることは間違いなかった。巌老人は「何で俺が証言台に立たないんだ?」。隣りの者に怪訝な顔をして尋ねた。隣りに座っていた頭屋組の一人は「あのとき、漁協長は、夢の中にいただろう」。眉を八の字にした。

 秀太はほとんど擦り切れたくたくたのスーツを身にまとっていた。秀太の家が貧乏なことは村人ならば誰でも知っていたことであるが、それにしてもひどいスーツだった。裁判長でさえも、伏し目だった眼をちらと上げて、彼の恰好を窺っていたのだから相当なものだろう。

 あの夜のでき事は秀太にとってまさに悪夢にうなされた夜であった。いわれもなく日下家の大ばば様に公衆の面前で強かに打ち据えられた挙句、正平によって殺されかけたのである。秀太は金についても汚く粘着質であったが、人間関係も例に漏れず粘着質なところがあった。秀太はもちろん、ばば様にも少なからず恨みを抱いていた。ばば様の葬式がもしも行われるならば、秀太はスキップを踏んで出かけたに相違ない。しかし今のところばば様は呪われたようにぴんぴんしており、秀太を殺しかけた正平に関しては、被告人席で思わし気な顔をしていた。秀太は沸々と怒りが込み上げた。

 やはり初めに浅原道義検事が証人尋問のために席を立った。

「さて、飯尾さん。証人尋問を始めさせていただきます」と浅原検事は始めた。「あなたが諏訪様で被告人を見たのは何時頃だと記憶していますか?」

「神輿が諏訪神社の境内まで担がれていたので十一時を三十数分は回った頃です」

「飯尾さんは、何故、被告人に暴力を振るわれたと思いますか?」

「私がそこにいたからです」

「被告人は諏訪様にいたことを認めてはおりますが、記憶は曖昧でそこで暴力を振るった記憶がどうやらないようなのです。被告人は酔っていましたか?」

「否。もしも本当に記憶をなくすほど、酔っていたならば、あれほど激しい暴力なんて振るえるはずがないじゃないですか。あれは完全にまともだった証拠です」

「つまり被告人が嘘の供述をしている可能性があると?」

「然り」

「では、飯尾さん、あなたが暴力を受けたとき、被告人が着用していた国民服に血痕は付着していましたか?」

 秀太は考えた。多少、顔が青ざめていた。秀太の額には厭な汗がにじんだ。それは脂でじっとりとした汗だった。秀太もこの証言が持つ意味を理解している。秀太はスーツのポケットから手拭いを取り出し、厭な汗を拭き取った。するとごく自然に、「然り」という言葉が出ていた。

「間違いないですか?」浅原検事は念を押した。

「然り」

「それはどれくらいの量の血痕でしたか?」

「提示された証拠品の国民服を見れば、明らかでしょう」

 浅原検事は油っ気のない髪を掻き上げた。

「ここで、一旦、整理しておきます」と浅原検事は言った。「坂内朝美の傷害事件があったのは二十二時四十五分から、二十三時の間、被告人が諏訪様に訪れたのが、二十三時を三十数分回った頃でした。そして飯尾さんに暴力を加えたときには、被告人の国民服には血が証拠品である国民服と同様に付着していた。ではその血は誰のものなのかと言えば、決まっています。坂内朝美の血以外、考えられません。以上」



 裁判長に促される前に結城忠孝弁護士は席を立っていた。結城にとって、これが裁判の一つの山場だった。結城の考えによれば、正平が諏訪様で大醜態を起こした時点で着用していた国民服には、多少の血痕が認められる、あるいは血痕が付着していない状態でなければならなかった、少なくとも提示されている国民服と同じ量の血痕が付着していることはあってはならなかった。

「飯尾さん」と結城は語りかけるように言った。「あなたがあの夜、いわれのない暴力を振るわれ、大怪我したことを、被告人に成り代わって、私から陳謝いたします。もしかすると被告人に恨みを抱いているかもしれませんが、ここは裁判の場であり、あなたは宣誓の上にこの証言台を前にしていることを忘れないでいただきたい」

「異議あり」と浅原が言った。「弁護人は脅しのようなことを言っております」

 裁判長が「認めます。弁護人は速やかに反対尋問を行ってください」。言った。

「では飯尾さん」と結城は始めた。「あなたは被告人に恨みを抱いたことはありますか?」

「ありません」

「飯尾さん、あなたの血液型は何型ですか?」

「A型です」

「それでは、次に私が問いたいのは、被告人の着用していた国民服に付着している血のシミの大部分はあなたのものである可能性が高いと私は考えています。これについてどう思われますか?」

「確かに私はあの夜、正平さんにひどく殴られ、口が切れたり、歯が折れたり、鼻を骨折したりする散々たる重傷を負わされました。従って相当量の出血があったことは間違いありません」

「諏訪様は明るかったですか?」

「諏訪様には協賛者の名前が記された提灯がいくつも並んでおり、それが闇夜を浮かび上がらせておりました」

「被告人の国民服は何色でしたか?」

「カーキ色です」

「血は何色でしたか?」

「赤です」

「おかしいですね。国民服に付着した血は赤ではないんです」

 すると結城弁護士は一着の正平が着ていたものと同じ国民服を用意し、自分の親指を思い切り噛み切って、その血を国民服の上に垂らした。するとその血は決して赤ではなく、むしろほとんど黒い色合いに変化した。結城弁護士は念のために、その一点に、さらに血を垂らし続けたが、一向に赤くなることはなく、むしろその黒さを増していった。

「こちらを証拠品の一覧に加えていただきたい」

 結城が言うと裁判長は認めた。飯尾秀太の顔は真っ青になった。

「提灯が灯っていたとはいえ、あの暗闇で、この血を見極めるのは難しいのではありませんか?」結城弁護士は言った。「本当に赤い血が、その国民服に付着していましたか?」

「確かにその血は私のものも混じっているかもしれません。あるいは磯崎巌さんのものであるかもしれません」

「磯崎巌さんの出血は日下診療所で傷を手当てした際、まったくそれは認められないとの報告があがっております。なので、現在、証拠品として認定された国民服に付着している、あの血痕は、もしも坂内朝美のものでないとすれば、飯尾さん、あなたのものであるか、河田重治巡査部長、あるいは被告人本人の血である可能性が極めて高いのです」

「私は確かにひどい出血でした。顔の形が今も歪んでいます」

「しかし確かに血のシミがなかったとは一概に言えません。何故ならば、被告人は坂内朝美を二度も殴り飛ばしているからです。しかし、それが『べっとり』であり『赤かった』という証言は信憑性に欠けるものであると先ほど、私が証明しました」

「しかし私は正平さんにひょいと持ち上げられて、地面に叩き付けられたのです。正平さんはまだ強い力を有していました」秀太は声を励まし、ほとんど発作的に言った。「そして、その国民服には血痕が付着していたのです!」

「あなたは殴られる前に、浴衣に血痕が付着していたと断言されていますが、それを証明する論拠はありますか?」

「……すみません、ありません」

「では被告人はあなたや磯崎巌さんに暴力を加えたことを、ほとんど覚えていないと供述しています。しかし先程の検事による尋問では、あなたは被告人が完全にまともだったと証言しました。その根拠をお聞かせ願いたい」

「すみません。……分かりません。しかし正平さんはあの事件を起こした日、まだ恐ろしいほどの膂力(りょりょく)を残していたのは確かなのです――」

「分かりません?」結城は訝しげに、秀太の言葉尻を制して言った。「被告人に持ち上げられその狂気を眼にし、国民服に血痕が付着していたことまで断言しているのに、被告人がまともか、そうではなかったのかが、分からないのですか? なるほど被告人がその際に強い力を有していたことは、あなた自身が証明しています。しかし、被告人がそのとき、まともか、そうではなかったかが、ここでは問題にされるべきなのです。それによって被告人の記憶の整合性が問われるからです。それが分からないとなると? では、あなたは先程の証言を翻すのですか? つまり『まともであった』という証言を」

 秀太の顔は気の毒なほど真っ青になった。

「私は間違っておりません」秀太は言った。「私は宣誓の上にこの場に立っているのです」

「その通りです飯尾さん」すかさず結城忠孝弁護士は言った。「あなたは宣誓の上に、この場に立っています。ですから、あなたは裁判官と我々を納得させる論拠を持ち合わせていなければならないのです。それを示せないならば、その証言の価値もいささか割り引かれることになるのです。どうです?」

「それは……とんでもありません!」と秀太は不意に声を張り上げた。頭に一気に血が上り、自分がとんでもないことを口走ってしまいそうで、我ながらぞっとした。「だって、そうでしょう? 酔っ払って記憶もなくなるほどなら、あれだけの暴力を加えられるはずがないじゃないですか。正平さんは酔ってなどいなかった、私は翻してなどいない、いいですか、これは確信です。化学反応です。アルコールです。だから僕はその件の証明になるだろうって言ったのです。翻してなどいない! 私は翻してなどいない! 私の……、僕のこの顔を見てください。僕のこの右角度にひん曲がった鼻を! 僕の顔の中心線は、ああ! これは正平さんに殴られてひん曲がったんですよ。この右角度にひん曲がった鼻が正平さんの暴力を雄弁に証明しているじゃないですか。これが酔っ払いに殴られた鼻だと思いますか! 私の顔をまるでお多福のようにバラバラにバラしたのは、あそこに座っている正平さんなんだ。いいですか、まだ僕は結婚前だって言うのに、俺の顔はもうお多福だ! おかめだ! この鼻で、俺は証明してるじゃないですか。百万の言葉よりも、この鼻があいつ、正平がまだ酔っていなくて、正常だったと、俺の鼻を見てください。僕はもう限界だ。早く帰らせてください。とてもじゃないけど、こんな鼻で、世間を、ちくしょう! それもこれもみんなあそこに座っている、あいつが原因なんだ。私は証言を翻してなどいない! 俺は嘘つきでも、恥知らずでもない。むしろ辱めを受けたこのおかめを、何でここまで俺の口から言わせるんです? 一欠片でも優しさがあるなら、察してくださいよ。いいですか、あの時、あいつは完全に我を見失っていたんですよ」

「見失っていた?」結城が再びすかさず口を開いた。「つまりそのときの被告人はまともではなかった、とこれでよろしいですね?」

「なんですか、この雰囲気は!」秀太は叫んだ。「奴は我を見失って、朝美を殺し、その憎しみから我々に暴力を加えたのに決まっている。あいつが殺したんだ。俺も殺されかけたんだ。ちくしょう。あいつは恥知らずもいいところだ! 朝美に不倫された挙句、殺し、生まれてきた子どもにも責任を持てないでいる、僕は笑っちゃいますよ、俺は! はっは、はっは!」

 秀太はついに壊れた。彼は高らかに笑い続けた。

「証人は落ち着いて下さい」裁判長から叱責された。

「以上です」結城は落ち着いて言って、弁護人席に戻った。

 秀太は、「何なんだ、このペテン師め、俺は嘘なんか吐いていない。俺は被害者なんだ、訴えてやるぞ、くそったれ」。凄まじい悪態を付いた。警備員が秀太をつまみ出そうとした。秀太は「離せ、クソ野郎、俺の無実を証明するんだ。俺は恥知らずじゃない!」。足掻いた。そのとき秀太のスーツが見事に破れた。秀太は「ああ、俺の一張羅が!」。叫んだ。

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