第41話

浅原はそう言うと、証拠品の数々の準備を始めた。それら証拠品にはそれぞれ番号が振ってあり、「供述調書」、「正平が事件当日に着用していた血染めの国民服」、「坂内朝美が事件当日に着用していた血染めの衣服」、「坂内家新宅である坂内家の屋号『坂新』が彫り込まれた包丁」、「正平が認めていた日記」、「正平と朝美の手紙の数々」、「現場写真」、等であった。供述調書の資料はかなりの枚数に及んだ。事情聴取の時間は総計三百時間を超えるもので、十一人の供述調書が提出されていた。その十一人とはもちろん坂内正平、そして日下幸作、日下良太郎、大久保遼介、市川弥助、渡辺宗樹、飯尾秀太、磯崎巌、河田重治、槇村泰朝、松沢雄一の十一人の供述調書であった。日下幸作は正平の精神鑑定に関する供述を主にしており、日下良太郎は朝美が診療所に運ばれてから死亡、出産するまでの経緯をまとめていた。大久保遼介と市川弥助は正平の人柄について供述をし、渡辺宗樹、飯尾秀太、磯崎巌は諏訪様で起きた醜態を供述した。そして河田重治と槇村泰朝は正平が逮捕されるに至った状況の供述をしていた。そして松沢雄一はあの夜のでき事を供述している。その供述調書の中で結城忠孝が明らかに不利な点があると認めたのは、渡辺宗樹と、飯尾秀太の供述調書だった。彼らの供述調書には、彼らが諏訪様で暴力を受けたとき、「正平の着用していた国民服には血がべっとりとこびりついていた」というものであった。これに対し結城弁護士は、不同意の姿勢を取った。また日下幸作、あるいは日下良太郎の供述調書に関しても疑問点があり、証人尋問の必要性があると判断し、松沢雄一に関しても同じであった。それを除いた証拠品の数々は問題なく裁判官に事実認定された。



 そこで裁判は証人尋問に移行した。証人尋問に召喚されたのは五人で、日下幸作、日下良太郎、渡辺宗樹、飯尾秀太、松沢雄一の五人であった。その五人の中で初めに証人尋問を受けたのは日下良太郎だった。良太郎が入廷し証言台に立つと、宣誓が行われ、浅原道義検事が立ち上がった。

「お忙しい中、ここまで御足労いただき、誠に恐縮です」と浅原は恭(うやうや)しくも慇懃に言った。「さて、日下先生にいくつか質問をさせて頂きます。日下先生は被害者の坂内朝美と面識はありますか?」

「然り」と良太郎は答えた。「坂内くんはもう五年もの間、私の運営する日下診療所の看護婦を務めてもらっていた」

「日下先生は坂内朝美と共に仕事をされていたわけですが、坂内朝美の妊娠を知っていましたか?」

「否。私は共に働いていたのにも拘わらず、坂内くんの妊娠には気付かなかった」

「それは何故でしょうか?」

「中太りや、太っている女性に稀に見られることであるが、子宮内の胎児の姿勢によっては、外見的変化を見極めるのが困難なことがある。朝美くんの場合はその例だった」

「坂内朝美のことで伺いたいのですが、彼女は誰か他人に恨みを抱かれていましたか?」

「否。心当たりはない。坂内くんは勤務姿勢も真面目であったし、村人からの信頼も篤かった。ましてや殺されるほどの恨みを抱かれていたとは、到底思えない」

「そうでしょう」と浅原は言った。「坂内朝美は村人に恨まれるようなことは、何一つしていないのです。勤務態度は真面目で看護婦として、むしろ村人から慕われる存在ですらあったのです。以上です」



 裁判長が「被告代理人は、反対尋問はありませんか?」。促し、結城忠孝弁護士は「いくつか質問させていただきましょう」と言って立ち上がった。

「日下先生は坂内朝美の雇用主として五年間もの間、仕事を続けられていたそうですね。では尋ねます。日下先生は坂内朝美に対してどのような印象を持っておられましたか?」

「勤労、篤実、貞淑であると思っていた」

「結構。日下先生は五年間もの間、彼女と働きましたが、彼女について何か知っていることはございませんか?」

「質問の意図が分からない」

「では、質問を変えましょう。日下先生は、彼女から何か相談をされるようなことはありましたか?」

「否。私と坂内くんの交流はほとんどなかった。診療所内では挨拶と、必要最低限、職務上のやり取りを交わすだけで、坂内くんの私的生活に関して、私は何も知らない」

「それでは、坂内朝美の交友関係について何か知っていることはございませんか?」

「近所付き合いは、良くもないし、悪くもないと聞いている」

「あるいは?」

「それ以外の交友関係について具体的な名前は出てこない」

「その通りでしょう」と結城忠孝弁護士は言った。「私の調べでも、彼女については、親友と呼べるような存在もおらず、交友関係も狭く、まるで世間から隠れるように生活を送っていた。そして日下先生は坂内朝美と、仕事で必要最低限、つながっているという以外はほとんど接点がない。従って、彼女の交友関係についても、もしかすると私の方が詳しいくらいだ。以上」

 結城はそう言うと眼鏡をくいと上げた。



 次に召喚されたのは日下幸作だった。幸作は証言台に立った。彼はこのときちょうど正平と同じような暗褐色のスーツに袖を通していた。彼は入廷するとき、法廷に向かって慇懃に頭を下げて入廷した(軍人みたいな趣があった)。彼が軍医中尉として作戦任務に就いていたことを想起させた。巌老人は「あれは幸作か?」と疑問の声をあげた。傍聴席から彼の表情を窺うことはできなかったが、幸作は実に毅然としていた。静かな落ち着きがあった。

 裁判長が促すと浅原道義検事は立ち上がった。

「お忙しい中、ここまで足をお運びくださって誠にありがとうございます」と浅原は再び恭しく始めた。「さて、便宜上名前でお呼びさせてもらいますが、幸作先生には被告人の精神鑑定をお願いしました。間違いないですね?」

「然り」幸作は答えた。

「被告人は完全な平常者であり、責任能力を有すると、これで間違いないですね?」

「然り」

「被告人の身に仮にでも一時的に心神喪失状態があったとは考えられませんか?」

「心神喪失は少なくとも私が診断をした中では正平さんに見受けられませんでした。しかし俗に言われるように『頭が真っ白になる』という状態が、心神喪失であると定義すれば、あるいは、朝美さんの不義を知った時点で、一時的な心神喪失を起こした可能性は、ないとは言えません」

「しかし、被告人の供述によれば、覚えていない、記憶にない、といった重要な部分が抜け落ちています。これについて医者の見地から見てどうですか?」

「私の所見を申しますと、それは心神喪失と言うよりも、飲酒による記憶障害である可能性が高いと考えています。実際に正平さんがどれだけのお酒を飲んだのかは分かりかねますが、正平さんが河田巡査部長と槇村巡査によって、日下診療所に運び込まれたときは、ひどい泥酔状態で、麻酔を使用せずに私は正平さんの頭を十針縫いました」

「また、調書によれば、被告人は精神分裂症である可能性を示唆するものがありましたが、幸作先生はどう見ていますか?」

「正平さんが精神分裂症である可能性は限りなく0です」

「被告人が何らかの精神疾患を患っていた可能性は考えられませんか?」

「私は正平さんを完全な平常者であると供述し、それに署名しています。ただし私は精神科の専門医ではないことに留意していただきたい」

「そしてもう一つ、坂内朝美の検死を行ったとき、爪と爪の間に皮膚が挟まっていました。さらに被告人の身体にも、何かに引っ掻かれたような痕が残っていました。幸作先生は、あれは坂内朝美が殺される前に抵抗してできた傷だと断定しましたが、今もそのお考えに変わりはありませんか」

「確かに私は、検死の際に、傷は犯行直前に朝美さんが抵抗した証拠であると認めましたが、朝美さんに傷害を加えた人間が二人以上いるならば、その限りではありません。朝美さんが抵抗した証拠であることは疑いがありませんが、それが殺される直前にできたものだと断定することはできなくなりました」

「結構。被告人は心神喪失も精神分裂症も発症しておらず、完全にまともだったのです。従って、あの夜の行動も、極めて計算された、計画犯罪であったとすら言えます。従って被告人には責任能力が十分にあります。そして坂内朝美の爪と爪の間に皮膚が挟まっており、被告人の身体にも引っ掻かれたような痕が残っているのです。以上です」



 続いて裁判長に促され、結城忠孝弁護士がすっくと立ちあがった。彼は分厚い弁護資料を紐解いて、少し考えた。彼は眼鏡をくいと上げると、幸作の方を鋭い眼光で射抜いた。結城弁護士は資料を指でなぞって、それをとんとんと二回叩いた。

「私も便宜正、下のお名前でお呼びさせていただきますが、幸作先生と被告人は何年来の知己でありますか?」

「朝美さんが診療所に勤め始めてから、付き合いが始まりましたので、かれこれ五年ほどの知己があります」

「幸作先生から見て、被告人はどのような人間であると思いますか?」

「いわゆる大将気質で、それに見合った頼り甲斐があり、お酒が大好きで、心に疚(やま)しさがなく、また粗野で乱暴者ですが、嘘を吐くような人間ではないと信じています。正平さんは良くも悪しくも日本人であると言えます」

「と、言いますと?」

「私は正平さんと何度か語り合う機会を――もちろんお酒の席ですが、持ったことがあります。しかし正平さんは多くの日本人がそうであるように、不義を見逃せない性格なのです。不義に対する罰は、当然法治国家である日本においては、国家が法律に基づき、裁きをし、罰を与えなければなりません。しかし正平さんは虐げられた弱者のために立ち上がり、勧善懲悪を行います。思えば日本が大東亜戦争に突入したのも、虐げられたアジアの解放という目的のために立ち上がっているのです。独善的であると言えば、その通りでしょう。しかしそれによって救われた人民も必ずいるのです。正平さんにもそのような部分があるように思います」

「少し論点からずれているような気も致しますが、被告人は嘘を吐ける人間ではないと?」

「然り」

「先ほど認定を受けました、事件当夜、被告人が着用していた国民服には、相当量の血痕が見受けられますが、あれは坂内朝美の血ですか?」

「分かりかねます。しかし血痕はA型であることは分かっています」

「先ほどの検事の尋問によりますと、被告人が一時的な心神喪失に陥った可能性も否めないとのことでしたが、もしも仮に心神喪失状態が起こったのだとすれば、その時間はどれくらいのものでしょうか?」

「分かりかねます。しかし長くても五分程度だろうと思われます。先ほども申し上げました通り、私は精神科の専門医ではないことに留意していただききたい。それ以上の鑑定を求めるのならば、それなりの精神科の医師に鑑定をいただく他、ないように思います」

「先ほど、被告人は嘘を吐ける人間ではないと証言をいただきましたが、被告人の証言の信憑性というのはどれほどありますか」

「私の正平さんとの付き合いの経験の中で判断させていただければ、正平さんの言動は信頼に足るものだと私は信じています」

「では、被告人は完全な平常者であり、その証言も信頼できるものであると我々は受け止めてもよろしいでしょうか?」

「然り」

「以上です」

 結城忠孝はそう言うと、反対尋問を打ち切った。

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