第40話

「検事は冒頭陳述を行ってください」裁判長が促した。

 浅原道義検事は再びくぐもった声で「はい」と答えた。

 浅原検事によって正平の略歴が説明された。生年月日、生い立ち、国民学校を卒業後、陸軍士官学校に入校しようとしたが、認められず、家業である漁師の仕事に就いた。それから朝美との出会いから結婚までの経緯を述べ、戦争の激化に伴い、徴兵から漏れて「非国民」の誹りを受け、満蒙開拓団の一員に加わったことまで陳述した。

「それでは事件に至るまでの経緯を説明します」と浅原検事は続けた。「まず初めに被告人坂内正平は事件のあった八月二十七日まで同村にはいなかったことを記憶願いたい。被告人の同村への帰還は誰もが知り得ない唐突なものだったのであります。それは無論、被告人の妻であり、被害者である坂内朝美にも同じことが言えます。被告人は昭和二十年八月十日まで満州の撫順にて炭鉱堀の仕事に就いておりました。八月九日未明、ソヴィエト軍が満州国に侵攻したのを知った被告人は、その翌日、つまり八月十日に大急ぎで満州を脱出し奉天省を経由して、朝鮮までの逃避行を行います。朝鮮で金(きむ)史(さ)河(は)所有の漁船を盗む行為に出ています。被告人は窃盗に関してはそれほどの罪の意識を感じてはおりません。そして被告人はその盗んだ船で、日本の長崎県、平戸村に帰還を果たしたのは同年八月十五日のことでありました。被告人はそれから長崎市に向かっております。長崎で被告人はその惨状をつぶさに見聞して参りました。その様子を被告人が我々に語った言葉を借りると、『人が人でなくなる。人に近いものになる』といったものでした。被告人は日本史上、最も人命が淡く儚い、土地を眼にしてきたのです。被告人は我々の取り調べに対し、『黄泉下りした気分だった』とその感想を述べています。その詳細は敢えて聴取しませんでしたが、恐らく聴いて心地の良いものではないでしょう。被告人は平戸に戻り、それから平戸の漁師、前崎一味(当五十一)の漁船に雇われ、前崎一味と共に漁を行いながら、同村に帰還を果たしたのが八月二十七日十三時三十分から十四時頃でした」

 巌老人が「あいつは関係ないことを何でぺらぺら喋ってんだ?」。隣りの者に小声で話しかけた。不幸にも巌老人の隣りに座っていた頭屋組の者は「関係ないから、重要なんだよ」。答えた。

 それから浅原検事は正平の足取りを明確に描き出す試みをした。まず自宅で風呂に入ったこと、日下家を訪れたこと、磯崎家を訪れたこと、自分の船を確認しに行ったこと、大久保家を訪ねたことなどであった。その際に浅原検事は「被告人は妻の不倫の事実を知らなかった」ことをくどいように説いた。そして魚松のせがれである松沢雄一と諏訪町で出会い、彼を家に連れて帰って、そこでささやかな論争があったことまで、細かく描き出した。「その時点で被告人は坂内朝美の不倫の事実をまったく、知らなかったのです」。やはり浅原は言った。

「松沢雄一が坂内宅を出たのは十九時三十分頃でした」と浅原は続けた。「被告人は妻であり被害者である坂内朝美と自宅の中で二人きりになりました。坂内朝美は焦っていたでしょう。不倫の隠蔽こそ急務であり、坂内朝美は被告人の性格を知り過ぎるほど、知り抜いています。即ち被告人に不倫の事実が露見すれば、たちまち殺されてしまうだろうと認識していました。その日の夜、即ち同年八月二十七日、被告人は坂内朝美と久し振りに楽しい食卓を囲み、昔からいつもやっていたという晩酌を楽しみました。そこでも被告人は三合以上の酒を飲んでいます。そして二十二時から、二十二時十五分頃に、被告人の欲情に火が灯りました。被告人は満州で禁欲的な生活を営んでおりました。平均的な日本の家庭環境ならば、その夜に、そうすることが必然とも言えるでしょう。被告人は坂内朝美と性行為に及ぼうとしました。しかし、そこに待っていたのは、妻の裏切り、即ち、坂内朝美が妊娠し、出産を目前に控えていることを知ることになるのです。その瞬間、被告人は坂内朝美に恐ろしい殺意を抱きました。被告人は坂内朝美をこのとき、二度、殴打しています。被告人の供述によりますと、まず初めに、坂内朝美の頬と唇を割る打撃を与え、次に鼻面目かけて、鼻骨が陥没するほどの打撃を加えました。坂内朝美は極度の恐怖から、掴まれた腕を払い除け、自宅を飛び出しました。折しも村では夏祭りが開催されており、御鎮守の諏訪神社を戴く、諏訪町には人が溢れていました。坂内朝美はその人混みに紛れるように姿を消しました。もちろん被告人も家を飛び出しました。その被告人の手には刃渡り23cmの柳刃包丁が握られていました。そして被告人は諏訪町の人混みの中で殺人をするほど愚かではありません。もしかすると諏訪町を訪れている人々から殺人の妨害を受けるかもしれません。未遂では被告人の心は満たされません。確実に『裁き』を与えるのが被告人の意志なのです。諏訪町はそんなに大きな町内とは言えません。従って被告人が坂内朝美を一時的に見失ったとしても、その姿を発見することは簡単なことでした。そして被告人は坂内朝美を追い詰め――私はむしろ坂内朝美の方がひと気のない場所に逃げたのだと考えていますが、ともかく同所四宮公園へと誘き出すことに成功しました。四宮公園にひと気はありませんでした。そこはかつて盆踊りの会場となったり、参拝客が訪れたりして、賑やかな町内だったといいます。しかし現在の四宮町にひと気はなく、閑散とし、また視界も悪く、街灯の一つもありません。そこで被告人は坂内朝美の背後から忍び寄り、その手にした柳刃包丁を菱形筋から広背筋の間に突き立てたのです。しばらく被告人は坂内朝美が死亡したかどうかを確認しましたが、やがて息のないことを認めて、四宮公園を去りました」

 浅原はここまでを一気に語り終えると、一息ついた。すると弁護人の結城忠孝が「異議あり」と言葉を挟んだ。結城弁護士は「被告人は柳刃包丁など手にしていませんでしたし、四宮公園へ赴いた事実もありません。被告人は坂内朝美が自宅を飛び出た後、坂内朝美の姿を見失っているのです」。言った。

「それは、次の証拠調べで明らかになることです」と浅原は冷静に言った。「冒頭陳述を続けますが、よろしいでしょうか?」

裁判長は許可した。

「では続けます」浅原検事は油っ気のない髪を掻き上げた。「被告人は坂内朝美の死亡を確認し、暗闇の中に沈む四宮公園を去りました。しかしその場には目撃者がいました。それは松沢雄一氏(当十六)です。松沢雄一氏は家族との不和から家出をして、四宮公園の社のところに偶然居合わせました。松沢雄一氏の供述によりますと、初めに『女性』が四宮公園を訪れ、その後に『男性』が四宮公園にきたことになっています。そして悲鳴が聞こえ、松沢雄一氏はその様子を窺っておりました。『男性』が去り、松沢雄一氏が倒れた『女性』のもとに駆け寄ると、その『女性』こそ、坂内朝美でした。松沢雄一氏が坂内朝美の安否を確かめると、坂内朝美は息を吹き返しました。それから松沢雄一氏は坂内朝美を背負うと、すぐに田中町九百三番地二にある、日下診療所へ坂内朝美氏を担ぎ込みました。日下診療所に松沢雄一氏が坂内朝美を運び込んだとき、坂内朝美の息はまだありました。しかし日下幸作医師の手当ての甲斐もなく、出血性ショックにより、二十三時十七分に日下幸作医師によってその死亡を確認されました。しかしここで日下幸作医師は坂内朝美のある身体的特徴に気付くことになります。それは即ち、坂内朝美の妊娠を知ることとなったのです。日下幸作医師は、帝王切開でその赤ん坊を坂内朝美の身体から取り出し、現在は『七海』と名付けられ、日下家と養子縁組してその子はすくすくと育っています。では坂内朝美に包丁を突き刺した後の、『男性』即ち、被告人坂内正平のその後の足跡を見ましょう。被告人はまず諏訪様の境内に赴きました。そこで暴行を働いているのです。被害者は実に二十一人にも及びました。彼らはそれぞれ打撲や打ち身を患うことになりましたが、提訴はしませんでした。中でも飯尾秀太氏(当二十七)に振るった暴力は凄まじく、飯尾秀太氏は顔面が変形されるほどの怪我を負わされているのです。その暴行を働いた後、被告人は自宅に帰り、再び酒を飲み始めました。このときに被告人はどれだけの酒量を飲み、何を行ったのか、記憶は定かではありません。しかし少なくとも一升五合から二升は飲酒をしたことはほぼ間違いがありません。彼が飲酒している間も、捜査の手は止まりませんでした。まず同村交番に坂内朝美殺害事件の一報をもたらせたのは、日下診療所に坂内朝美を担ぎ込んだ、松沢雄一氏でした。それを受けて河田重治巡査部長は、槇村泰朝巡査を日下診療所に派遣させ、事件の事実存否を確認させました。そして殺人事件が事実だと判明すると、河田重治巡査部長は速やかに捜査令状を取り、槇村泰朝巡査と、民間人である市川弥助氏(当三十三)と、渡辺宗樹氏(当二十七)を引き連れて、被告人の家に行きます。その家の中は相当荒れ果て、破壊の痕跡が所々に見受けられました。そこは河田重治巡査部長の言葉を借りれば、『異常極まりない風景』だったと言います。実際に証拠写真で確認できる通り、その家の中の凄まじい破壊の痕跡には誰もが驚くことにちがいありません。被告人は居間に息を潜めておりました。河田重治巡査部長がそれを発見した瞬間に、河田重治巡査部長は被告人によって一升瓶で頭を殴打され、四針縫う怪我を与えられております。続けて勝手口から潜入した槇村泰朝巡査と渡辺宗氏樹も、居間に急行しますが、そこで渡辺宗樹氏も暴行を受けました。しかし槇村泰朝巡査と市川弥助氏によって被告人は取り押さえられ、逮捕されるに至った次第であります。被告人は逮捕される際に、槇村泰朝巡査に頭を強打され、十針縫う怪我を受けましたが、記憶等に異常は認められないとのことです。逮捕後の状況としましては、被告人は『坂内朝美を殺した』と供述する一方、『柳刃包丁、四宮公園等は記憶にない』との、発言をし、容疑を否認するような、一貫性のない言動が多々見受けられました。そのため精神鑑定の必要性が認められ。日下幸作医師による精神鑑定が行われる運びとなりました。その精神鑑定の結果は、『坂内正平は完全なる平常者であり、その責任能力を充分に認められる』という診断が下っております。また被告人は諏訪様を訪れたことも記憶に曖昧で、逮捕されたときのことは、全く覚えていないという有り様です。被告人から謝罪などの言葉は、これまでに一切なく、反省を口にすることもありませんでした。ただ悪戯に捜査を混乱させ、『坂内朝美を殺した』と供述し、他方で『殺していない、覚えがない』等の供述をしている他、柳刃包丁についての記憶はなく、四宮公園に行った記憶もないといった有様です。しかしこれから提示する証拠品の一覧を認定して頂ければ、被告人が四宮町を訪れ、坂内朝美を害したことが明らかにされると思いますので、証拠品の一覧を裁判官に提出します」

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