第39話

 昭和二十一年二月二十八日は正平の公判が行われた日である。上越に裁判所はなく、中越地区最大の都市、長岡で裁判が行われることになっていた。長岡は太平洋戦争開戦当時の連合艦隊司令長官、山本五十六(やまもといそろく)の出身地であった。そのため原爆の投下候補地にも名が挙がっていた。敗戦間際の八月一日未明、空爆を受けた。まず長岡の街に落とされたのは数々の照明弾だった。真昼のように明るくなり、米軍は豆を蒔くように焼夷弾を降らせた。被害は甚大なものであったが、復興の階(きざはし)が見え始めていた。二月二十八日は春の到来を予感させるような、暖かい日であった。太陽光は雪に反射し、その照り返しだけでも、眩しいくらいだった。

 傍聴席を訪れたのは、朝美の親族(学校がある子どもを残し、一族総出で訪れていた)、正平の親族(こちらは兄の盛寛と、肝玉母さんだけが訪れた)であった。他にも村の新聞社の姿があった。そこに磯崎巌老人の姿があった。巌老人は裁判所に足を運んだ経験もなく、そのため(不安だったのだ)村の頭屋組の面々を引き連れて裁判所を訪れていた。巌老人はTPOに見合った服装を一着も持っていなかった。スーツに袖を通した経験もなかった。まさか祝言でもあるまいし紋付き袴姿で訪れるのも、何かが違う気がして疑った。そこで巌老人は国民服を着用することに決し、その襟に、桜色の蝶ネクタイを結んだ。それを欧米スタイルであると豪語していた。なので、巌老人は村から裁判所までの道中、スーツを着てネクタイを締めていた頭屋組の面々をイモ呼ばわりし、欧米スタイルの蝶ネクタイをこれみよがしに見せつけていた。ところが実際に裁判所まで足を運ぶと、そこは桜色とは程遠い世界が広がっていた。巌老人は一気に顔が青ざめ、頭の中からちょうちょが飛び去って行った。そこで引き連れてきた頭屋組のネクタイをいきなり引っこ抜くと、すぐに衣料品店に行って、桜色の蝶ネクタイを買い求めさせた。そしてそれを頭屋組の面々に結ぶことを強いたのだった(もっとも巌老人がネクタイを買い替えるべきだった)。

 いよいよ公判が始まろうとしていた。誰に指示されるわけでもなく、皆が口をつぐんだ。巌老人は「正平のやつ、大丈夫なんだろうか」。独りつぶやいた。

 最初に裁判所に見えたのは浅原道義検事だった。彼は重々しく椅子に腰かけると、持っていた風呂敷を解いて、油っ気のない髪を掻き上げた。

「見てみろよ」巌老人はぶつくさ言った。「あのでかい頭をよう。きっと鬼のような法律が詰め込まれているんだ」

「イワさん、きっと頭がいいんだよ」頭屋組の一人が真顔で言った。

 次に法廷に入ったのは弁護士の結城忠孝だった。彼は黒縁の眼鏡をかけ、落ち着いた様子で弁護資料を机の上に並べた。巌老人にはその弁護資料の山が何だか頼もしく見えた。

 しばらくすると(定刻通りに)、裁判官が三名入廷し、「静粛に」と傍聴席に呼びかけた。そして裁判の開廷が高らかに宣しめられた。

 そしてついに坂内正平が入廷した。正平の傍には警備員が付き添っていた。正平は裁判所の指示で貸し与えられた暗褐色のスーツを着用し、やはり暗褐色のストライプ柄のネクタイを巻いていた。神妙な顔で入廷し、そのとき、頭をぺこりと下げた。正平は被告人席に腰を下ろした。巌老人が「あいつ、葬式みたいな恰好しているぜ」。ぶつぶつ言った。すると村人は「当たり前じゃないか、あいつは今日、死刑になるかもしれないんだ」。声を殺し言った。巌老人は「まさか、ここで処刑が行われるってのか? 怖いところだな。裁判所って」。ぎくりとした。



 日本には陪審員制があったことを予め述べておく必要がある。明治四十二(1909)年、立憲政友会議員によって「陪審制度設立ニ関スル決議案」が提出され、衆議院を通過するに至ったが、この時点で明治憲法における違憲性が指摘され、実現を見なかった。

 しかし大正デモクラシーの昂揚に伴い、国民の政治参加が高まりを見せる中で、裁判への参加も高らかに謳われるようになった。そこで大正七(1918)年、原敬(はらたかし)内閣の成立と同時に、原首相は陪審員制度の導入に着手した。しかし、枢密院議員や法学者である、美濃部(みのべ)達吉(たつきち)らによって、ここでも明治憲法二十四条(日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ權ヲ奪ハルコトナシ)への違憲性が指摘され、「陪審員の評決が必ずしも裁判官を拘束しない」との大幅な変更を迫られ、これを受け入れる形で高橋(たかはし)是(これ)清(きよ)内閣のもとに陪審法が成立した。しかし裁判官に大きな権限が与えられ、陪審員の評決は裁判官のもとに制限されていたため(陪審の更新)、実質的な陪審員制度は骨抜き状態にされていたのが実情だった。陪審の更新とは裁判官が陪審員の評決に不服を認めた場合に、他の陪審員に評議を持ちかけることができる権限のことを言う。この権限のために裁判官は何度でも違う陪審員に評決を持ちかけることができたのだ。この捩れ現象こそが日本に陪審制度を根付かせなかった最大の要因であった。

世はまさに普通選挙法の獲得運動が盛り上がりを見せていた。陪審法は普選法や治安維持法と対にして語られることが多いが、その実態はともかく、国民が司法権に関与する機会を与えられた最初の段階だったと言える。

陪審法は大正十二(1923)年に公布され、昭和三〈1928〉年に施行されるのだが、その間、政府は全国七十一カ所に陪審法廷を準備し、その広報活動にも熱心に取り組んだ。そして全国でのべ三千三百三十九回に及ぶ講演会を催し、国民の関心を裁判に向けさせようとしていた。陪審員に関して当時のパンフレットをめくると、『素人デアル一般国民ニモ、裁判手続キノ一部ニ参与セシメタナラハ、一層裁判ニ対スル国民ノ信頼モ高マリ、同時ニ法律知識ノ涵養ヤ、裁判ニ対スル理解ヲ増シ、裁判制度ノ運用ヲ一層円滑ナラシメヤウトスル精神カラ採用サレルコトニナツタ』と陪審員の意義について触れている。

 先にも触れたが陪審員制は昭和三(1928)年から施行されるに至るのだが、日本独自のシステムで陪審員の請求という条文があった。これは請求陪審制と呼ばれ被告人が陪審員を請求するか否かを選択できるものであった。ところが被告人が敗訴した場合に多額の陪審員費用を負担されることや、事実認定の控訴ができないなどの理由から被告人が陪審員を忌避するという問題があった。従って陪審制度は大審院への上告しか認められない、二審制度であり、その危険な賭博性により被告人が陪審を請求しないという側面も併せ持っていた。その問題は法廷陪審事件二万五千九十七件のうち、実際に陪審に付されたのは四百四十八件しかなく、全体の0・01パーセントに過ぎなかった。

 実質を伴わない制度は頽廃する。陪審法もまた同様で、太平洋戦争の渦の中に飲み込まれてしまった。陪審員は抽選で選ばれた三十六名の候補者名簿から、十二名が陪審員になることを定めている。しかし戦争の激化に伴い、市町村の徴兵負担が過大になり、陪審員候補者名簿を作成することが困難になったのである。陪審員名簿を作成しても、そこから赤紙が届けられ戦争に赴く者は決して少なくなかった。そこで市町村からは陪審法の凍結を要望する声が高まり、東条英機内閣のもとに「陪審法ノ停止ニ関スル法律」が議決され、昭和十八(1943)年、四月を以て、日本の陪審制度はその短い歴史に幕を閉じた。しかし陪審法の凍結に伴い、『今次ノ戦争終了後再施行スル』と附則三項で規定されているが、それは実現を見ていなかった。



 まず裁判は裁判官の心得の諭告から始まり、この裁判が持つ意義を明確にした。そして宣誓が行われ、裁判長が人定質問を行った。被告人の名前、生年月日、住所、略歴を述べ、被告人が間違いなく坂内正平であることを証明し、被告人には黙秘の権利があることを明確にした。次に被告事件における起訴状の朗読を検事に促した。

 浅原検事は「はい」とくぐもった声を出して立ち上がった。

「被告人坂内正平(当三十三)は昭和二十年八月二十七日未明、同県同村に於ける諏訪町二百三番地二の一戸建て自宅に於いて被告人の妻である坂内朝美(当三十)の顔面を二度殴り付け、同県同村に於ける四宮町三十二番地一の四宮公園に於いて、刃渡り23cmの柳刃包丁で同坂内朝美の生命、及び身体に危害を加える、傷害に及び、同坂内朝美を出血性ショックで死に至らしめたものとする。罪名及び罰条。傷害致死罪 第百九十九条法令。其の法令に基づく刑罰を求刑するものとする。新潟地方検察庁、検察事務官 浅原道義」

 浅原検事が起訴状を読み上げると、裁判長は「それでは尋ねます。被告人は現在、読み上げられた起訴状について、その内容を認めますか? また何処か不審な点や相違点等はありますか?」。言うと、被告人坂内正平は「正確ではない」と答えた。裁判長は訝しい顔をして、「何処が正確ではないのですか?」。尋ねると、被告人坂内正平は「まず俺は四宮公園に行った記憶がない。柳刃包丁についても俺は記憶がない」と悪びれる様子もなく答えた。裁判長は「言葉遣いに気を付けなさい。この法廷に見合った言葉遣いをしなさい」と叱責した。続いて結城忠孝弁護士が、「被告人は被害者である坂内朝美の顔面を二度殴り付けたのは事実でありますが、その柳刃包丁による致死罪については完全に無実であります」。言った。続けて「被告人は八月二十七日に記憶を飛ばすほど酒を飲んでいます。しかし重要なことに関しては完璧に記憶しており、その発言は信用に足るものだということを頭に入れておいていただきたい」。結城は正平の証言に信憑性があることを裁判官に印象させた。

 ちなみに昭和二十年八月二十七日の夜、諏訪様に正平が乱入し暴行を加えた、十数名の男衆と、磯崎巌老人、飯尾秀太は被害届を提出しなかった。巌老人が「この件に関しては、余計な気を起こすな、尋ねられても応じるな」と釘を刺していたからである。さらに害された河田重治巡査部長も公務執行妨害の起訴状を提出しなかった。事件が明るみになると、飯尾秀太を別とすれば、殴り飛ばされた十数人の男衆も、磯崎巌老人も、河田重治巡査部長も正平に同情的であった。世間からはすこぶる疎まれていた正平だったが(正平と話したことのない者まで彼に悪意を持っていた)、彼を良く知る人物からは、信頼されていたし、人望もあった。なので、正平を良く知る、巌老人は被害届を出すことを禁じたし、河田重治巡査部長も起訴状を提出しなかった。

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