第38話 裁判
激動の昭和二十年は改革の波に飲まれるように幕を下ろし、昭和二十一年の二月を迎えていた。新潟は冬の景色の中に沈み、そのあらゆる色彩は白という色に塗りつぶされた。村の交通網は麻痺し滞った。港ではイカ獲り漁船が忙しなく運行し、夜になるとライトを灯した漁船が、暗い海に浮かび上がる鬼火のように漂った。
そして二月は坂内正平の裁判を控えていた。この時点ではまだ日本国憲法は公布されておらず、四本の骨子のみが新聞によって報道されていた。その四本の骨子とは「象徴天皇制」、「国民主権」、「戦争放棄」、「基本的人権の尊重」、である。刑事訴訟法も歴史的な岐路に立たされており、司法制度は新しい色に塗り替えられるまでの一瞬の空白があり、滞りを見せていた。
正平は坂内朝美傷害致死の容疑で起訴されていた。この裁判が行われるにあたって、正平には、結城(ゆうき)忠孝(ただたか)という弁護士が弁護人制度によって選ばれ、正平の弁護をすることが決まった。結城は五十代前半で、黒縁の眼鏡をいつもかけており、目がぎょろりとし、唇が厚く、シャツの上からでも下腹が出ていることが確認できたが、しかし足は細かった。結城は元検事だった。極めて理論的な考察をすることを評価されており、検事長も務めていた。結城は敗戦を機に、検事長の椅子から降り、弁護士に転身した。日本の刑事裁判では起訴された容疑者の99%が有罪になっていた。誤審、あるいは冤罪は国家ぐるみで隠蔽されていた疑いがあった。特に政治犯、思想犯とされた人々は、その身柄を拘束され、ずいぶんひどい拷問を受け、その後、獄中生活を余儀なくされた。彼らは罪なき罪のために、獄中生活を送り、その過酷な環境の中で命を失い、あるいは絶った。もっとも生き残った者は、戦後、次から次へと釈放されていった。
結城が初めに眼を付けた弁護資料はやはり、正平の妻、坂内朝美に不倫の事実があったことであった。結城は徹底した実務家であったが、朝美の不倫相手は、どんなに洗っても、綻びが出ることはなかった。
結城と正平が実際に対面したのは事件から二ヶ月以上が過ぎた、昭和二十年十一月二日のことであった。結城は「正平さん、虚飾を廃し、真実のみを語りなさい」と命じた。正平は鼻で笑い「あんたが俺を弁護する、雇われ良心ってやつか」。言った。すると結城は黒縁の眼鏡をくいと上げると、「言葉を慎みなさい。あなたのために」と言った。
結城忠孝弁護士は調書で正平の略歴を読んでいた。この神に見放され(あるいは神を見放し)、神も、もちろん人間も信じられなくなった男が、いきなり「雇われ良心」にすべてを語るとは思われなかった。しかし結城は彼に同情するほど若くはないし、感情移入するほどの人情家でもなかった。このスタンスは結城が法曹関係者になって以来、一貫されたものだった。
結局、この初対面で捜査が進行するような話は、一度たりとて聞かれることはなかった。正平は事件を、一瞬の悪夢だと思っていたし、あの夜のことを理路整然と話すことができるとはとうてい思えなかった(正平は実に口下手なのだ)。
結城忠孝はそれ以来、正平のもとへ足繁く通うことになった。正平はだいたい機嫌が悪かった。正平は自分が被疑者として勾留されている自覚もあまりなかった。そして結城を見くびってもいた。もしもこの世界に「真実」や「真理」みたいなものがあるとすれば、事件は自ずから解明されるだろうし、それを結城ごときに「小手先の弁護」をされることなど、最初から笑止であった。
その日も結城は正平のもとを訪ねていた。結城が「私はかつて検事だった」と言った。曇った眼鏡を外し、それを拭いた。外はもうずいぶん冷え込んでいるんだな。正平は思った。結城が「この日本には、冤罪が多い。実に多い」。続け、「私はかつて私が担当した事件に思いを馳せた。国家権力を守り抜くことが、正義だと考えていた。国家という巨大な生き物を守るためであれば、有害な細胞を廃しても良いと考えていた。しかしこれからの主権は国民が――一つ一つの細胞が担ってゆくことになる。この新生日本で、冤罪を起こさないようにするのが、私の義務であり、これまでにしてきたことへの贖罪である。だから私は弁護士に転身した」。言った。
「弁護士さん、あんたは俺を信じられるのか?」正平が言った。
結城は少し考えた。俺は本当に犯罪者の――坂内正平を信じているのだろうか? 信じ抜けるのだろうか? 罪を免れるために、平気で嘘を吐く人間は決して少なくない。俺はそんな中で坂内正平を信じても、間違わないで、裁判を戦い抜けるのか?
正平は今、何かを語ろうとしている。結城ははっと固唾を呑み込んだ。結城は自分がこれまで用意してきた弁護資料を紐解き、中身を確認した。正平は多少、苛立ち「やっぱりあんたも一緒だな」。吐き捨てるように言った。結城は「少し時間がほしい」。と言って、その日は帰路に就いた。
結城が次に正平のもとを訪れたのは、その三日後だった。この三日間、結城は弁護資料を読み漁っていた。もしも坂内正平が、坂内朝美を殺害していなかったとすれば――この仮説を頭の中で地道に組み上げていた。結城は「正平さん」と言い、「私はあなたを信じよう。しかし真実のみを話してほしい」。言った。正平は鼻で笑い、「真実だと?」と反芻した。それから「真実を知りたいなら、簡単なことだ。あんたがそれを信じればいい」。言った。結城は「それを虚飾という」と答えた。正平はしばらく考えた。
「俺はあの夜」と正平は語り始めた。「朝美の不義を知った。殺そうと思ったよ。俺はこの右手であいつの顔面をがつんとやった。二発だ。がつんとやった。だけど、あの夜に起こったことはそれだけだ」
「あなたはそれから諏訪神社に行き、暴行を働いている」
「俺が諏訪様に? そうだ。俺は諏訪様にいたかもしれない」
「かもしれない、しゃなくて、いたのです。何をしたか、覚えていますか?」
「破壊してやった。欺瞞を」
結城は注意深く正平の表情を視ていた。
「物的証拠は、あなたの坂内家の屋号が彫り込まれた包丁だけだ」結城は言った。「これについて、何か心当たりはありませんか?」
正平は思わし気な顔をした。
「思い当たることはありませんか?」結城は繰り返し尋ねた。「その包丁には、あなたの指紋が付着していた」
「当たり前だ、うちの包丁に、俺の指紋が付いていて何がおかしい?」
正平の眼は鈍く光っていた。正平は「起こったことしか、起きてないんだ。俺は朝美を殴って殺した。それ以上でも、以下でもない」。吐き捨てた。
結城はまた少し考えた。「殴っただけなんですね?」。尋ねた。手帳を繰りながら、正平の話を頭の中で組み立てた。何かがおかしい。結城は考え、もう一度、弁護資料を紐解いた。それからまた少し考え、「正平さん、あの日の夜のことを、できるだけ詳細に話してほしい。本当に冤罪かもしれない」。結城はつぶやいて、正平の話を聴き取った。
正平は無論、警察からも取り調べを受けた。警察は正平の敵として俄然と立ちはだかった。取り調べを行ったのは、所轄署の見るからに厳めしい四十代の男で、名を霜(しも)垣(かき)といった。肩書は警部だった。霜垣警部は「お前が殺ったんだろう?」と正平に迫った。あるときは河田重治巡査部長を呼び出した。河田巡査部長は正平を前にすると、かんかんに怒り、「お前が俺の頭をかち割ったんだ!」。喚き散らした。河田巡査部長は頭を四針縫う怪我を負わされていた。正平が「あんたたちはしつこいんだよ。俺が朝美を殺したと言っているだろう」。ほとんど呆れたように言った。河田巡査部長はまたもや激昂し、「ふざけるな! どうやって殺した?」。叫んだ。正平は「殴り殺した」と言った。霜垣警部は自白調書を取りながら、「お前は四宮公園で坂内朝美に柳刃包丁を突き刺し、坂内朝美は出血性ショックで死んでいる。間違いがないか?」。尋ねた。
取り調べはひどいものになると一日十八時間にも及んだ。正平は一貫性のないことばかり言っていた。朝美を殺したのは自分だ、と言った。しかし殺していない、身に覚えがない、とも言っていた。霜垣警部は正平に精神分裂症の疑いがあることを自白調書に書き留めた。
正平が新潟地検の検事、浅原(あさはら)道義(みちよし)と対面したのは、やはり結城忠孝弁護士と初対面した時期とほとんど変わらず、十一月八日のことだった。浅原は中肉中背で頭が大きかった。昆布みたいに油っ気のない髪を被っているようだった。浅原は霜垣警部が書き留めた自白調書に沿って話を進めていった。こちらはひどく事務的だったが、もう正平を坂内朝美殺しの犯人だと、確信していた。あとはどのような量刑を与えれば済むのだろうか。考えていた。正平は相変わらず、すこぶる機嫌が悪かった。
「まず初めに」と浅原は言った。「あなたには黙秘の権利があることをお伝えしておきます。しかしそれによってあなたが不利になる可能性がありますので、その点だけはよく注意しておいて頂きたい」
浅原は「あなたが坂内朝美を殺した。間違いないですね?」。尋ねた。正平は「俺が朝美を殺した」と言った。浅原は続けて、「包丁で殺した、間違いないですね?」。尋ねた。すると正平はそれを否定した。正平は「何度も言わせるな!」。怒鳴り散らした。浅原は意に介することもなく「あなたは、あの夜、記憶がなくなるほど、酒を飲んでいる。どれくらい飲みましたか?」。尋ねた。正平は「それが分かっていたら、記憶なんてなくさない」。もっともなことを言った。
浅原は「ふん、非国民め」。吐き捨て、「あなたがあの日、身にまとっていた国民服には、大量の血のシミがあります。これについて知っていることを話せ」。ほとんど高圧的に命じた。正平は黙っていた。すると浅原は「坂内朝美の返り血なんだろう?」。語気を強めた。これに関しても、正平は黙っていた。しかし「あいつの血だろうな」と正平はつぶやくように言った。浅原は険しい顔をして、「何故、殺したんだ?」と尋ねた。正平はバカらしくなってきた。「何度も言ってるだろう」と答えた。「同じことなんだよ」と正平は言った。「あいつには罰が下った。結果的にあいつは死んだ。起こったことしか、起こらない。あいつは死刑になって当然だった」。言った。浅原は極めて冷静に「それは、あなたが決めることではありません。司法権の決めることです。そしてあなたは裁かれなければならない」。口にした。正平は「それも同じことなんだよ」と苛立ちと怒りを隠さず、「俺は生きようが、死のうが、どちらでも構わないんだ。あいつは結果的に死んだんだ。それだけで充分じゃないか。だから俺は生きて、娑婆に出ようと、刑務所で、首吊りになろうと、それは『等価値』でしかないんだよ」。言った。浅原は再び冷静に「あなたがどんな価値観を持っているのかは良く分かりました。素晴らしい価値観です(皮肉っぽく笑った)。しかしあまりにも事件に関係のない話に私には思えるんですがね」と冷ややかに言った。浅原は続けて「あなたが望もうが、望むまいが、国家はあなたを裁きにかけ、そして罰を与えます。この国は法治国家なのですから、例えその罰が『神』という存在の下した罰であっても、それは私刑であり、認められることではありません。お分かりですか?」。怜悧(れいり)に言った。浅原は「こんな言葉遊びに意味はありません」と言った。続けて「あなたには責任能力があると思いますか?」。尋ねた。正平は鼻で笑って、肩を竦めさせた。正平は「俺に責任能力がないとしたなら、お前は何のために俺と話をしている?」。逆に問い返してやった。
結城忠孝弁護士は正平と密に話を進め、あの夜に何が行われたのか、詳細を解明していった。坂内正平、無実! 結城は確信へと誘われた。他方、浅原道義検事は正平の一貫性のない答えに振り回され、ついに正平の精神鑑定の必要性を認めた。もちろんこれは形式だけのものであって、その精神鑑定を行ったのも専門医ではなく、日下幸作医師が担当した。幸作の分析によれば、正平は「完全なる平常者であり、その責任能力は充分に認められる」とした。浅原道義検事は、その鑑定結果を聴いてにやりと微笑をこぼした。もはや裁判は早いに越したことはない。
「さぁ、結城先生、どう出る?」
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