石を蹴る女
紫 李鳥
石を蹴る女
対岸で絵を描くその女を見掛けるようになったのは、六月に入って間も無くだった。
家の前にある川は、水草が生い茂り、水鳥たちが
「お父さん、また来てるわよ」
「……ん?」
「絵を描く女」
「……ん」
興味がないのか、上の空だった。
「こんなちっぽけな川なんか描いて、何が楽しいんだろ。じゃ、行って来るね」
「……ああ」
毎度の事ながら、気の抜けた返事だった。
去年定年退職した父は専業主夫と化し、婚期を逃して何年にもなるキャリアウーマンの私の世話をしてくれていた。
三年前に他界した母の味付けのようにはいかないものの、それでも料理本を片手に鼻歌交じりで台所に立つエプロン姿の父は、いかにも楽しそうだ。
テレビを観ながら、自分で作った
その日は休日だった。
「父さん、またまた来てるわよ、例の女」
「別にいいじゃないか、絵を描くのが好きなんだろ」
遅い朝食を終えて新聞を広げていた父が、眼鏡の上から
「別にいいけどさ。……どんな絵を描くんだろうね」
「今度、俺が見てきてやるよ」
「父さんの見る目は当てになんないけどね」
「馬鹿にしやがって。これでも、若い時分はゴッホやモネに
「へえ、そんな頃があったんだ? 人は見掛けによらないもんだね?」
「ったく。ちっとは親を
「じゃ、
「
「へへへ。昼は
「もう昼飯の話か? 今、朝飯食ったばかりだろ」
「色気より食い気」
「早く嫁に行け」
「フン。私が嫁に行ったら寂しがるくせに」
「……行かず
「……だって、これって言う男が居ないんだもん」
「結婚は
「じゃ、父さんは妥協して母さんと結婚したの?」
「馬鹿。……例えばの話だ」
その時の父の表情に、
その翌日だった。帰宅すると、
「……石を蹴ってるんだよ」
突然、父が妙な事を
「石? ……女の人が?」
「ああ。何かが落ちる水音がして窓から
「なんのために?」
「さあな。……分からん」
それから間も無くして、女の姿が消えた。と同時に、“ちょっと出掛けてくる。二、三日帰らん”の書き置きを残して父の姿も消えた。
父からの手紙が届いたのは、それから数日後だった。
温子 父さんを許してくれ
何から話そうか まず 絵を描いていた女は知り合いだった
声をかけて振り向いた顔を見て驚いた 少し
恭子は末期の乳がんらしい いつ逝くか分からぬ身の上になり 忘れられなかった俺のそばに居たそうだ
絵を描いていれば不審に思われない そう考えての事だったそうだ
川に石を蹴っていたのは 俺に気付いてほしかったからに違いない
病魔に
勝手だが 恭子が逝くまでそばに居てやりたい すまん
父より
私は
恭子という女の目的は、絵を描く事ではなく、父の
末期がん……。濃霧に被われた孤独の闇に、独り佇む不安と淋しさ。
忘れられぬ男に最期を
もう母は居ないのだから、もし恭子という女が末期のがんでなければ、父と結婚できたかもしれない。
淋しい人生を送ってきたに違いない顔も知らない恭子という女の事を思うと、知らず知らずに涙が
ここに父が帰る時は、同時に恭子が逝った事を教える。
私は心のどこかで、父の帰りが遅くなる事を願っていた。
ふと、窓の外に目をやると、鍔の広い帽子を被った女の姿が見えて、ギクッとした。
不意に上げたその顔は少し
完
石を蹴る女 紫 李鳥 @shiritori
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