羽佐の雪

天宮 佐奈

羽佐の雪

 蟻坂一豊の次女寿子としこは、たいへんなブスだったと伝えられている。 

 東北のかたすみに、羽佐藩うさはんというのがあった。羽佐藩は6万石で、北に伊達藩南に福島藩という強藩に囲まれた小藩であるが、中世より戸嶋家が同領を治め、以降一度も途切れずに幕末を迎えた稀有な藩である。

 時代は、嘉永四年(1851年)、幕末変革の香りが立ち始めた頃のことである。

 藩主戸嶋重信に仕えている家老に、蟻坂一豊というのがいた。戸嶋家には家老が三名いる。一名は江戸におり留守居として幕府や他藩との交渉にあたっている。在郷の二名のうち、軍事と目付を担っているのが蟻坂だ。6万石というのは今の企業でいうと地方の優良企業程度の規模、家臣は2,200人、主産業は米である。蟻坂が担当する軍部である「番組」は、徳川幕府開闢以来大掛かりな戦闘も起きていないため縮小の一方だ。

 とはいえ、番組頭を筆頭に、馬廻り・徒組・物頭と総勢800人の陣容を誇る。広い領内に配置している数カ所の検め所と藩境の関所も蟻坂の担当である。毎日が当然に忙しい。

 そんななか、どうしても気になる悩みごとがあった。

 蟻坂には、娘が二人いた。長女の茉子は、母親に似ておっとりとした楽天家で、現在勘定奉行を務めている神田宇一郎へ嫁に行って10年近い。子も3人いて安泰な生活を送っている。

 茉子から8歳離れてできた次女寿子は今年数えで24歳、しかしこの寿子が嫁入りする気配がない。この時代の女性としてはいきおくれである。

 なぜというに、たいへんな醜女であったからだ。

 顔の作りが悪いということではない。造作そのものはいたって普通、むしろ肌の白さや肌理の細かさは並以上である。しかし、残念なことに幼い頃にかかった疱疹の跡が顔のいたるところにアバタを作っていた。物心付く前にかかった病気だったが、寿子は自分の顔が並ではないことにすぐに気がついた。鏡を嫌い、人とも会わずに過ごした。姉の婚礼には出席しなかった。姉の婚礼衣装を見て、自分には一生縁のないものだと諦めていると語った。

 幼少期から少女にかけて、引きこもりの鬱々とした毎日を過ごしたあと、自分は嫁に行けない、そのかわり父上のよき部下になろうと思ったそうである。

 12歳を数えたある日、長い髪をきりきりと頭頂部に結い上げ、アバタだらけの顔を恥ずかしげもなく晒し、剣術から薙刀、馬術、弓術を習うと言って家中の腕自慢に教えを乞うた。始めは引きこもりのお嬢様に同情しておざなりな稽古をしていた家臣たちも、本気でかかってくる寿子に真剣になり、今では小さな頃から稽古を続けている並の男子よりも腕を上げていた。

 その評判を聞いて、藩主が藩校に通ってみるか、と気まぐれに声をかけた。英邁な四代ほど前の藩主が、身分や地位だけの愚昧な家臣を嫌い作った藩校である。親の身分を全く考慮しないというわけではないが、藩校では実力だけが評価された。藩校そのものには、身分・性別による制限を設けていなかった。入学試験となる試案を提出し合格したものは、武士・町人を問わず誰でも三年の登校を許され、そのかわり半年ごとに行われる試験に合格しなければ退学となる。いままでに町民が通うことがあっても女性は受験すらした記録がない。そのなかで、寿子は薦められるままに試案を15歳で提出し、みごとに入学を認められた。その後、三年間、無事各期の試験を合格し、あげくは卒業時の点数は並み居る男性を押しのけて最高位を取った。藩では、毎年最高位者を身分に関わらず士分として採用していた。ときの藩主重信公は、女性を藩政に登用することに戸惑いながらも自分が藩校に入学してみればと声をかけた手前、受け入れることに決めた。

 蟻坂は、城の奥勤めというならまだしも、表での務めを認めると聞いて大反対、藩校までは未婚時代の経験として許すとしても藩の政に関わるなど女のすることではない、第一嫁の貰い手がなくなる、と断ろうとした。

 しかし当の娘から、「なにをいまさら。私がどこに嫁入りできるというのです。一生嫁に行かないのならば、自分で食い扶持を稼ぐのは当たり前のことではありませぬか。」と切り返されてしまった。もはやこの時点で、蟻坂よりも娘のほうが一枚上手である。理論ではかなわない。認めるしかなかった。

 そして藩の仕事を始めてすでに5年。きりりと袴を履き、奏者番としてほぼ毎日を城の玄関そばの控所で待機している。

 藩への申し出や来客の取次、緊急時の防犯役として玄関を守っている。

 女性として、なにか不埒ないたずらでもされないかと、父としては登城し始めた頃は心配していたが、寿子の醜女っぷりと武芸の確かさでみなその気にならないらしい。また、父が家老であるということにも遠慮している。寿子にからかいのひとつもかけようものなら、みな首が飛ぶとも噂されていた。

 蟻坂は、このことで奥方より寿子が不憫だと散々に言われ続けた。

「藩校などに行かせず、あなたのお力でどこぞいい方を見つけて嫁入りさせればこのようなことにならなかったのです。」と、毎晩嘆かれる。

 しかし蟻坂は、寿子がそれでいいならずっとこの家にいてもいいいと思っている。アバタ面の寿子でも自分にとっては可愛い娘だ。子供の頃から自分の容姿に自信がないせいで寡黙で人づきあいも苦手だが、なにより純粋でまっすぐに育っている。仕事はもちろんのこと、現在でも週に3日は通っている剣術の道場でも大真面目に木刀を振るう。持参金目当てや家老との付き合いで致し方なく嫁入りしたところで、義理だけの婚姻では婚家にまともに扱ってもらえないかもしれない。いままで顔のことで辛い思いをさせたぶん、寿子がのびのびと毎日を過ごせることを父としては一番に希望していた。


 だから、その寿子が気にかけている男がいると聞いて、一番驚いたのも蟻坂だった。

「寿子が恋慕している、だと?」

 蟻坂は、家臣の小野にぎらりと目を向けた。

「はあ、しかとはわかりかねますが…私の見るところ、まず、そのような心持ちかと。」

 小野は、蟻坂家の先代からの用人で家中のことなら隅々まで知っている。寿子のことも、生まれたときからずっと可愛がっている。寿子ももうひとりの爺さまのように慕っている。寿子の剣術の最初の師でもあった。

「して、相手は!まさか不埒な身分のものではあるまいな」

「いえ、御家中の馬廻り平士、でございます。黒田荘三郎と申しまして、先日家督を継いだばかりの若者で。」

「黒田?どこの組だ。」

「家老様が直接お目が届くような身分ではございませぬが…三番頭佐々木龍興どの配下、馬廻り先頭の黒田茂兵衛の息子です。先日、家督を継ぎまして、三月ほど前から出仕しております。」

「おお、あの黒田か。たしかにその申し出は受け取っておる。家督を継いだばかり…となると年はいかほどだったか。」

「今年で20歳と聞いております。」

 蟻坂は苦い顔で黙り込んだ。

 寿子は、当年24歳である。なにをきっかけに知り合ったかは知らないが、4歳も年上の、しかも醜女を若い男が気に入るはずもない。身分差もある。おいそれと叶う話しではない。

 もし寿子の気持ちが小野の考えの通りとしても、それは寿子の一方的な片思いなのではないか。寿子の、無いと思っていた恋心だの男女の情事だの、そういった一面を思わず想像して蟻坂は動揺した。不憫にも思った。これは、かなわぬ恋だ。親としては気が付かぬふりをするに越したことは無い。

 小野は、じっと黙り込んでいる蟻坂を見て、やれやれと肩を落とした。


 数日して、黒田はまた小野に聞いてみた。

「先日の話しだがの、黒田というのはどんな男だ。」

 小野は、主君のそう問いかける眼差しに、なにかの決意を浮かべているのを見てちょっと驚いた。

「黒田荘三郎は、その、親の黒田茂兵衛というのが少し前に腰を傷めまして、これはギックリ腰と思いますがな、思いの外重症で三月ほど経っても床から離れられませぬ。それでゆっくり養生したいと引退願いを出しました。その家督を継いだのが、三男の荘三郎です。」

「三男なのか」

「黒田は、早くに長男を病気で亡くしまして、次男は数年前に医術の修行をしたいと江戸に出て、それから行方しれずとなっております。なにやら、大坂やら長崎やら行くとも噂があったようですが、本当のところはわかりません。今回、次男の行方不明届けを出して、三男が家督を継いだわけです。といっても、次男がふらりと家を出てからは自分が家督を次ぐというのは言い含められていたようでして、早くから剣術と算盤指南も行っていたそうで二年前には藩校も卒業しております。藩校の成績は凡庸だと聞いておりますが、剣術のほうは石崎流で免許皆伝の腕とか。」

「小野、おまえ随分詳しいの。なにか心構えがあって調べていたのか?」

「いやあ、お嬢様の気になる人ですからね、調べて損はありません。こんなことは初めてですから、念入りにしませんと。」

「石崎流か、剣の腕はいいとして、人となりはどうか…」蟻坂はぶつぶつと呟いた。

「黒田家は裕福ではありませぬ。しかし、着るもの・持ち物に凝ったものを付けていると藩校時代から評判になっていると聞きまして、気になったので調べてみました。」

「ほう?なにか剣呑なことでもしているのか」

「それが、絵を書いております」

「なに、絵だと」

「黄本や洒落本の挿絵程度ですがね、それはもう器用で。読本なんてこのご城下で作っているとは知りませんでしたが、おんなこどもの読むような本に、貸本屋(出版元)から頼まれて絵を書いて、それでちょっと小遣を稼いでいるようです。」

 江戸時代、小説は読本、雑誌は黄本といった呼び方で世の中に出ていた。出版元が作家に依頼して書いてもらうのは今と同じだが、作家の多くが副業で書いていた。特に、武士階級には知識層が多かったため、手慰みにちょっと・・というのはよくあることだ。幕府や藩を批判したり世の中を騒がすことがなければ、その副業には目をつぶるのが通常だった。あまりに評判が良くて武士をやめて作家に専念するものもいたが、その逆に派手なことをしてちくりと叱られ副業を断念するものもいた。

「遊び人なのか」

「いえ、お人柄は逆に真面目というか朴念仁のような方でして。廻りにお追従を言うことも苦手な部類のかたですね。」

「許嫁のたぐいは…」

「これはわかりませんでしたな。周りも、知らないと思います。」

 ふうむ、と腕を組み、蟻坂はまた考える。

 いけない手ではないかもしれん、身分差といってもしょせん士分同士、我が藩には女性の藩政参加を認めた酔狂な藩主もいることだし、本人の気持ちが確かならば、これはない話ではないかもしれん。


 黒田荘三郎が家老に呼び出されたのは、数日後だった。

(なんだろう、家老様のお屋敷に呼ばれるとは。なにか粗相をしただろうか。)

 黒田はちょっと不安に思ったが、堂々と表玄関から訪いを入れた。

「参る、黒田荘三郎でございます、御家老蟻坂様お呼び出しにより参上仕りまして」

 訪いの途中で、待ち構えていたのか、すぐに頭の真っ白になった家臣が控えた。

「お待ち申し上げておりました。蟻坂家番頭小野でござる。さあ、お上がりくださって」

 番頭直々に案内に立つのも異例だが、この待ち構えていました歓迎感はなんなのか。つんけんと冷たい対応をされる方がよっぽど落ち着く。そわそわと腰が落ち着かないまま、黒田は蟻坂家に足を踏み入れた。

 蟻坂家老は、床の間付きの立派な客間で待っていた。黒田の家格ならば、土間からの面会でも非礼にはあたらない。それが、こうして畳の間で同格の装いでお茶まで出してもてなされる。破格である。黒田は、なんとなく帰りたくなってきた。悪い予感しかしない。

 しかし、蟻坂はにこやかに招き入れ、当たり障りのない世間話を始める。黒田は、はあとかいえ、とか対応するだけで精一杯だった。

「ところで、ご両親とも健在とか」

「は、いえ、父は先日腰を傷めまして。寝たり起きたりの生活となってしまいましたが」

「うむ、その話は聞いておる。お見舞い申し上げる。しかし、ギックリ腰というのは養生していけばそのうち良くなるもの、気長に治されよ。」

「母は、父の世話をしながら過ごしておりますが、趣味の書やら歌やらをして毎日すごしております。」

「ほう母御は歌が趣味か」

「はい、私には歌の良し悪しはわかりかねますが、書は能くするほうでして、頼まれて掛け軸や色紙などに揮毫しております。」

「母御はどちらの出か」

「八戸からと聞いております。父のいとこがあちらにおりまして、世話をしてくれる人がいたのだとか」

「ほう、それでは君もあちらから嫁を取られるのか?」

「は、嫁…」

 なるほど、そちらが本命か、と黒田は初めて腑に落ちた。

 近頃、御書院に届け物を何度か承った際に案内を乞うたのが蟻坂の娘だったことは気がついていた。城下でも有名な、醜女で頭が良くて女ながらお城務めをしていると聞いていた。初めて会ったときは、奏者として女が出てきたことに驚いた。しかし、キビキビとした受け答えで女性にありがちな曖昧な態度など微塵もなく、下手な男よりよほど気が利く。今では、頼もしい上役として尊敬もしている。時々、お役目で会うときには目礼なども交わすようになっていた。

(ふむ、俺は蟻坂の娘にはちっとも女としての興味はないんだが、もしかしたらあっちはそうでは無かったのかもしれん。だいたい、家老の娘を俺がどうにかできるなんて想像もしておらん。だが、ほんとうにそういった話なのか?)

「おぬし、決まった方はおるのか?」

 黙り込んだ黒田に、蟻坂はやや焦って畳かけた。寿子の嫁取りの話だと気づかれて、でもやはり寿子に興味がなければ有耶無耶にして話にならずに終わってしまうかもしれない。相手の出方がわからず、蟻坂もひょいと本音が出る。

「まだ、おりませぬ。いずれは、と思っておりますがまだ若輩ゆえ…それに私の家は平士です、こんな家に嫁に来るものがおるかどうか。今の給金では親子三人が精一杯でして」

 黒田はちら、と蟻坂を見上げた。お互い、本心を隠しつつ本題の周りをぐるぐると迷走する。

 蟻坂は、寿子を嫁にほしいと言ってほしい。黒田は、この際なにかの恩恵がほしい。蟻坂とて、この婚儀がまとまれば黒田になんらかの手当を考えていた。すぐに昇格するのは難しいが、空いた席に優先的に推奨するのはやぶさかではない。親の贔屓と見てもいい。第一、家老の娘婿になるのだ、いつまでも平士に甘んじているわけにもいかない。

「そなたの力量ならばいずれめきめきと昇格するにやぶさかではなかろう。…たとえば気になるおなごはおるのか」

 黒田は、急な展開に気が動転している。なんの前触れもなく呼びつけられた、いきなり嫁にどうだと言われた(らしい)。あの醜女を嫁にするのか。黒田は寿子の顔を思い浮かべた。アバタの傷が額から鼻筋までとおり、頬のあちこちにくびれた穴の跡が白い顔に痛々しい陰影を付けている。最初はギョッとした。しかし何度も見ているうちに気にならなくなった。でも、それは仕事の先輩として見ているからで嫁として同衾できるかというと。だが俺には今好きな女もいないではないか。あの賢女が幸運付きで嫁に来るというのなら…。

「は、私はかねがね寿子さまを敬愛しておりました。あのようなしっかりした頼もしい女性が我が伴侶でありましたら、我が生涯は安泰であろうと。」

「ほ、寿子か。なに、そなたがそう言うなら考えんでもない。」

 蟻坂は、ほっとした顔でうんうんとうなずいた。思い通り、寿子に縁談が来た。というか、無理やり引き寄せたというべきか。ここで肝心なのは、親が無理にお膳立てしたのではない、寿子が見初めた相手だということだ。


 話はトントン拍子に進んだ。

 その夜、下城してきて「縁談が来た」と寿子に告げると、あからさまに嫌な顔をして、

「お父様、まさかどこかに無理強いでもしたのですか」と決めつけた。

「なにをいう、向こうから言ってきたのだ、身分違いだが添えればこの上ない幸せだと、そう言っておったぞ。」

 相手の名を言うと、寿子はあからさまに狼狽えた。小野の目は確かだったようだ。女だ、とか醜女だ、とかいう目を持たずに他に対するのと同じように寿子に対応してくれた若き平士、黒田に好感を持っていたのは間違いない。それが嫁に行きたいとか添いたいとか言うほどまでには気持ちが出来上がっていなかったものの、縁談を断ることはなかった。


 婚姻の夜、二人きりになって黒田は初めて安堵の息をついた。

 それまで家老の娘、格上の相手、と割り切って寿子に丁寧に接してきたが、やっと様々な儀式がすみ、気が緩んだ。

「ああ、やっとゆっくりできる。家老の婿になるのは肩がこる。寿子どのも疲れたであろう、ゆっくり休むといい」

 寿子はその黒田の様子を見て、やはり、と息をのんだ。

「む、どうした」

「いえ、やはり、父上に頼まれての婚儀でしたのね。こんな私を見初めていただいたのかと、このふたつきほどはまさかまさかと幸運に感謝しておりましたが…」

 寿子はすっと手を伸ばして2つならんだ枕をそっと離した。

「もうしわけありません、こんなおばあさんで醜女の私を…むりに抱いていただかなくても結構です」

 寿子は、首をかしげると肩を落として、静かに泣いた。

 黒田は、ちょっと、いやかなりびっくりした。

 寿子は婚姻の準備のあいだ、毅然として対応していた。周りに冷やかされようが、陰口を叩かれようが、態度も気持ちも崩れることはなかった。黒田が寿子どの、と声をかけると嬉しそうに笑った。二人きりで出かけることはなかったが、家老屋敷に訪問するといつも黒田の好物を作って待っていてくれた。朗らかに笑っていてくれた。

「寿子どの、あ、いや寿子。俺はいやいや結婚するのではない」

 寿子はこくり、とうなずく。

 わかっています、あなたが私を嫌っていないことは。でも、好きだったわけでは無いですね、と体で訴えていた。

 今までの人生で、寿子の評価は、顔で決められていた。どんなに剣術ができても、藩校を一番で卒業しても、やはり顔がひどいから仕事をするしかないのだ、と陰口を叩かれていた。黒田が現れたことで寿子は己に対する評価を変えた。黒田に嫁にほしいと言ってくれる女だと、そう評価を変えた。でも。

 父の娘だから娶る。その一言で、作り上げた寿子の人生が壊れた。どんなに辛かったか、どんなに悔しかったか。

「こんな女を、抱いてもらおうとは思いません。お捨て置きください。」

 寿子は布団の端できつく拳を握って黒田に背を向けた。

 黒田は、その一言に寿子の苦しい人生を知った。婚姻の話が出てから、正直自分のことしか考えていなかった。これを気に昇進するかもしれない、楽な人生が送れるかもしれない、寿子は最初だけ抱けばいいだろう、子供なんてあってもなくても、とにかく祝言さえ上げれば終わりだ、と。

 違う。寿子にとっては、今日が始まりだ。いままでの人生で、押し殺してきた気持ち、仕事以外には逃げ場がなかった居場所、いつでも出せる笑顔。それが、黒田の心無い態度で無にされた。

 黒田は、胸が苦しくなった。悲しませたいわけじゃない、お前ひとりが悲しんでどうする。

 寿子に近寄った黒田は、静かに抱きしめた。寿子は体をこわばらせている。

「寿子、私を見て」

 寿子はかたくなに下を向いている。

「寿子、あなたは醜くない。あなたはいつも私を笑顔で迎えてくれた。身分も年も下で、なにもわからずうろうろしていた私を、軽蔑もせず導いてくれた。あなたを敬愛していた。」

 黒田は寿子に顔を両手で挟んでスルスルと撫でた。

「たしかに、ここに傷がある。でも、これは表面の傷でしかない。私はあなたのことを誰よりもきれいだと思う。」

 寿子は静かに涙を流した。

 黒田は流れた涙を唇でそっと拭い、ぎゅっと抱きしめた。

「うそ。私を、慰めるだけならそんな嘘言わなくても…」

「…言ってない」


 その夜の二人の会話は、これきりだった。

 静かに、宇佐の夜に雪が降っていた。

 そして、ふたりの心はしっかりと結びついた。


 婚姻に際しては、寿子の務めをどうするかでひともめあった。その優秀さで、あちこちの仕事を引き受けていた寿子は、仕事を引き継げる人員がすぐにはいなかった。結婚してもややしばらくは現職を続けることになった。同時に、黒田の配置替えを行った。まさか夫人が旦那よりも高い地位で仕事をするわけにも行くまいという藩主の気遣いであった。現在に置き換えれば男尊女卑と叱られそうだが、黒田には予想していたことだったので鷹揚に受けた。番頭配下馬廻役平士から大目付配下目付役中士となった。

 二人の仲は、周りがびっくりするほど良かった。金や地位につられて結婚したのだろうと揶揄していた者たちは、黒田が寿子との結婚生活に満足し、しかも頭も気も回る奥方に愛情深く世話をされるのをあっけに取られて見ていた。寿子はまもなく城務めを退き、子供が生まれると肌ツヤも一層良くなり、アバタの傷跡は気にならぬほどに薄れ、持ち前の美貌が現れた。時折子供を連れて里帰りする寿子が、夫婦仲良く暮らしていること、黒田が寿子をとても慈しんでくれることを嬉しそうに話して蟻坂を驚かせた。


 時代は幕末、明治維新と進んでいく。

 羽佐藩は、当初幕府に従い奥羽列藩同盟に参加し新政府に対抗したが、1865年、東北に進軍してきた鎮撫総督軍にすぐに降伏し、所領安堵の沙汰を受けた。しかし、その後明治になると藩が解体となり、藩士はすべて無職となる。

 そのころ、蟻坂はすでに隠居していた。

 黒田は、はじめ城下警備の仕事をしていたが、明治7年(1874年)に屯田兵制が交付され、士族による北海道での開拓と警備を行うと募集されると、15歳になっていた長男の名前ですぐに申し込んだ。北海道に移ったのは、長男と次男そして自分の三人で、寿子と17歳になる長女は羽佐に残した。やがて旭川の地で開拓に成功すると、寿子を呼び寄せようとしたが、すでに40歳を超えていた寿子は、体力を考えて羽佐に残り、北海道の地へ渡ることはなかった。

 旭川に今も残る子孫の手元には、寿子が嫁入りの際に持参したという大振りの象嵌入の文箱が残されている。

              おわり




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羽佐の雪 天宮 佐奈 @ama-sana

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