海に潜る

白瀬直

第1話


 初めは快さを求めて飛び込んだ。水面を泳ぐ者は多くいたが、そこから潜るとなると急に少なくなる。ほんの少し潜ったところには陸では手に入らない珍しい宝があった。それを持ち帰る度、潜らない人達は物珍しさを含めながらも私を誉めた。潜れば潜っただけ満足する宝が見つかっていた内は、恐怖よりも宝欲しさが勝っていた。そして、いつの頃からか宝の中身に拘るようになった。一つ見つかればその次を。二つ見つかればそれらより良いものを。息苦しさを耐え、何度も潜水を繰り返していくうちに既存の宝では満足できなくなってゆく。進めば進むほど、次の宝はより深い所でしか見つからなくなるのだ。

 そして今、海に深く沈んだ己を観測する。いつの間にこんな深いところまで来てしまったのか。それは驚きではなく呆れである。もはやどのようにしてここにたどり着いたのかも定かではない。水面の明かりすら見えぬ深さで、体に纏わりつく水はもはやただの圧力である。手足をばたつかせ力任せに藻掻く。全身が千切れるほどの力を込めても、前に進んでいる実感を得ることも儘ならない。これから自分の進む先も明確でなく、ともすれば自分がどこを向いているのか判らない時すらある。

 この海に飛び込んだ時の、あるいは浅瀬で満足できなかった己を嗤う。この深さまで来てしまうと快さなどない。深く暗い水の中を進み潜って行ったとて、今までのものより良いとはっきり判る宝や明るい竜宮の城などは見つからない。方向を見失い、己を見失い、ついには自分が何に溺れているのかすら把握できなくなる。こんな事態に陥るとは頭の片隅にもなく、ただ自分の力を過信し、その先に得られる大きなものに目が眩んだ過去の私に伝えるべきか。軽い気持ちでは無かっただろう。覚悟もあったと思う。だが、二度と戻れぬ深みまで来てしまえば決意や覚悟など何の役にも立たない。ただ、流れるように潜っていくのみだ。もはや、宝への興味すら失せてしまった。

 自分の思う儘に動けないことは焦りに繋がり、それを自覚すれば水の只中にあってなお肌から重い汗が滲み出るのを感じる。焦燥など、感じるだけ体力を消耗し寿命を縮めるだけだと判っている。だがそれを理性で抑えられるほど利口な生き物ならば、私は今、海に潜っていない。

 さりとて、藻掻きに藻掻き、苦しみに苦しみながら幾らかの時を過ごすと、どうやらいくら藻掻き苦しんだところで死にはしないのだと気付く時が来る。自由に動く事は儘ならず、前に進んでいるかどうかを見極めることも難しい。だが、どうやら動かずとて死ぬわけではないらしいのだ。それに気付いた時、自らは死の淵から離れた場所にいるのだといくらかの安心が去来する。安心とはすなわち心の平穏であり、これさえ持っていれば人は易く生きられる。そして、その場が生き易いと気付いたとき、人はそこを海の中だとは認識しなくなる。人が生き易いと感じるところは、やはり人の世なのだ。

 そんな感覚を得ると、周りを見渡す余裕が生まれ、自分の周りにいる生き物が見えてくる。他人だ。我々が普段目にする世間であり社会である。彼らは自らが海の中に沈んでいることなど知らない。自分が居るところが海であるなどと気付きもしていない。ただぼんやりと生きる彼らは、普段はぼんやりと我らを眺め、たまに無遠慮に触れたかと思えばその感覚を珍し気に楽しみ、時に我らを攻撃してくる。彼らの攻撃は苛烈ではないが執拗であり、彼らを原因として溺れ死んでしまう者もいる。彼らは直接的に被害を及ぼし殺害しようとするよりは、セイレーンの如き甘い誘惑で命を絶とうとしてくる。彼らの誘惑は安全欲求に訴える。ここで生きれば死ぬことはない、わざわざ危険を冒して他に行く必要などありはしないのだよ。

 彼らの誘惑に対して私が頑とした精神力をもって対抗したかと言えば、実の所そうではない。そもそも、その様な感覚は勘違いでしかなかったのだと気付いたのである。一度海に潜ってしまった以上、というよりも深くへ潜ろうとするような精神性を一度でも獲得した人間は、やはり他人とともに社会を生きていくとなれば否応なく違和を感じるものなのである。わざわざこの海に快さを見出したのは、そもそも人の世に生き易さを感じなかったからなのだ。海の底を人の世だと錯覚しようと、私は人の世に生き易さを感じられる類の生き物ではない。人の世で生き易くある彼らを羨むならば、海に飛び込む前にどうにかして生き易さを見つけるべきだったのだ。それをせず安易に海に飛び込み、より深く海に潜りたいと思ったのも、そしてより深く潜るために息苦しさを耐えると決めたのも、他でもない己であろう。であれば、その生き易さをこそ恐れるべきである。

 そう考えるとほとんど時を同じくして、「生き辛さ」こそ人が前に進むための活力の一つであり、それをこそ最良の燃料とする「人でなし」もこの世には人の形をして生きているということに気付いた。この海に己から飛び込みここまで潜る道中で数多の「人でなし」の群に出会ったのである。そもそもこの海に飛び込もうと思う時点で、あるいはそこからさらに深く潜ろうとする時点で「人でなし」しかいないのは判り切っていたのだが、その認識を持っていても「魑魅魍魎」と表現するに足る生き物を見かけることになった。彼らが私と同じなのは、海に潜っているというその一点だけで、潜り方も進む速度も使う道具も呼吸の仕方も生き方も死に方も、私と似たような所が一つ二つあれど全く同じものというのは存在しなかった。自分とは違う不思議な生き物と言葉を交わし、道具を見せ合い、互いの呼吸法に驚き、特徴を論い、自分にはできぬ潜り方に嫉妬を覚え、その生き様や死に様を眺めた。指摘されて始めて気付く自分の不格好さに辟易することはあれ、魑魅魍魎に何を言われた所で同じ穴の狢。似たような目的に突き進む阿呆という事に変わりはないのだから、といつからか気にすることもなくなった。

 中でも、とびきりの魑魅魍魎というのは自らの行いへの憂いをどこかに置き忘れたこの上ない阿呆のことである。少なくとも私の把握している限り二人ほど「とびきり」を知っているが、彼らの行動には覚悟など不要なのである。二度と上がれなくなるかもしれないであるとか、求める宝が見つからないかもしれないであるとか、ましてやそのために全力を出すことを苦痛に感じるであるとか、世の俗人が考えそうな常識が全て欠け落ちているのである。恐怖も苦痛も感じない人間に覚悟は生まれない。彼らはただ己の行うべきを行い、成し遂げるべきを成し遂げているだけなのである。潜ることそのものに取り憑かれ、その先の恐怖も苦痛も刹那たりとも考えたこともないというような姿勢を以て、私には到底出せぬような速度でその深淵へと歩を進める。それはやはり愚かであるのであろう。非常識であるのは間違いないし、手段の目的化だと嗤う者もあろう。だが、それでも同じ水底を目指す者であれば、彼らの生き様には関心を寄せずにはいられないのだ。阿呆と嘲り、天才と称え、嫉妬も憧れも一括りにして記憶の底へしまう。

 彼らのことを思い出すということは、そろそろ覚める頃合いだ。


「先生。先生!」

 明るい声が耳朶を叩く。暗い海から上がった私は人の世に生きる私の身体を取り戻した。久方ぶりに感じる陽の光に頭の奥に鈍い痛みを覚えた。重い瞼を力尽くで開ける。見慣れた白い天井。敷いた布団の柔らかい感覚。腹に掛かる薄いタオルケットと五月から働かせ通しの扇風機の送る風は夏が近いことを感じさせる。気温はともかく、湿度が高い。がばりと上半身を起こし、枕元のタオルで顔を拭う。

「魘されてましたが」

「いつもの夢だよ。気にしないでくれ」

 眠るたび「生き急ぎ」と呼ばれた彼らのことを思い出す。別段彼らの生き方を目標にしているわけではない。彼らのようになるということは、彼らの生き方を模倣することではなく、彼らが生きたように自分らしく素直に生きることだ。自らのできる範囲で不断の努力を行う。それ以外にこの海を進んでいく方法はない。いくら速く深く進んだとはいえ、死人はもはや浮くだけだ。

 目覚めてしまった以上、私は己の目的を思い出さなくてはならない。人と交わることに生き辛さを覚え、人と交わらぬことに寂しさを覚え、それらの感情を燃料にして海へ潜る。それは言の葉の海であり、感情の海である。森羅万象を内包する何よりも暗い深淵に、誰よりも深く潜る。その先にあるものへの興味などとうに失せている。潜ることでしか何者にもなれない。誰に言われるでもなく、自らの生き方を自らでそう決めてしまった愚か者のことを、

「じゃあ先生、原稿をください」

 小説家と呼ぶのだ。

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