シンヤは決して怒らない

・現パロ。登場人物は全員ただの人間で、本編にない設定を盛り込んでいます。

・シンヤ×コハル。付き合ってます

・「花香る」「こたつの秘密」と同じ世界線ですが、話は特に繋がっていませんし設定も大きく使用してはいませんので、そちらを読まなくてもお楽しみいただけます

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 シンヤは決して怒らない。そんなことを言えば、コハルの周囲にいる人間は揃いも揃って首を傾げた。しかし、コハルから言わせてみれば、そんな反応にこそ首を傾げてしまうのだ。

 シンヤは決して怒らない。少なくとも、コハルには。

 幼馴染であるシンヤの隣を歩いて、もう何年になるだろう。その間、シンヤは決して、コハルに対して怒りの感情を見せたことがなかった。

 少し温かくなり始めた、春の予感がする或る日。春の訪れが間近に迫った季節といえど、夕陽が沈み始めた頃合いの気温は決して高くない。デートから帰宅して、その寒さから逃げ込むように上がったシンヤの家で、その事件は起こった。


「――ネックレスが、ない?」

「え?」


 コハルの絶望を含んだ言葉に、シンヤは首を傾げた。

 コハルは、大慌てで洗面所の鏡を覗き込む。シンヤの几帳面さを物語るほどに磨き抜かれた鏡には、驚愕した自分の顔と、がら空きの首元だけが映る。指先で首元に触れて何度確認しても、そこにあるべきネックレスの感触は見当たらない。

 その事実に気が付いた瞬間に、コハルは顔を蒼褪めさせた。どうやら、ネックレスの金具を上手く固定できていなかったらしい。どこかで落としたのだ、と気が付いて、コハルの頭は真っ白に染まりあがった。

 物を失くしてしまう、というのは、実はコハルにとって珍しいことではない。物を大切にしていないという訳ではないけれど、気付いたら見当たらなくなっていることが屡々ある。それ自体は、決して珍しいことではない。ないのだが――そのネックレスだけは、失くしてはいけないものだった。

 何故って、それは、その日のデート先でシンヤに買ってもらったものだったからだ。さらに言うならば、そのネックレスはシンヤとお揃いのデザインの代物なのである。

 コハルの言葉に釣られて、シンヤが洗面所に顔を出した。どうしたの、と言いたげな表情を浮かべた顔の下で、コハルとお揃いだったはずのネックレスが静かにきらめきを放っている。シンヤの首元にはしっかりとネックレスがある以上、彼とコハルがお揃いでネックレスを購入したのは間違いなく現実の思い出である。しかし、コハルの首元にはそのネックレスがない。自分の失態を突きつけられている気持ちになり、コハルはますます己の顔を歪めた。


「あ、あのね、ネックレスが見当たらなくて」


 声が震えたのは、自分の失態を告白することによって、シンヤの怒りを買うのが不安だったからである。無論それだけではない。好きな人とのお揃いを失くしてしまった喪失感、罪悪感、己への嫌悪感、様々な感情によって、コハルの声は怯えた調子になってしまう。

 シンヤが瞬きを数度繰り返した辺りで、コハルは彼の顔を見れなくなってしまった。

 ネックレスを買ってもらった時の記憶が鮮明に蘇る。少し前までは、それは幸福で満ち足りた時間だったというのに、それを失くした今となっては、コハルの罪悪を物語る恐ろしい記憶となっていた。


「ポケットとかは?」

「な、ない。いっぱい確認したけどないの。私、ちゃんとつけたつもりだったけど、上手くついてなかったんだと思う。どこかで落としちゃったんだ、どうしよう」

「コハル、一回落ち着いて」

「ごめんなさい、シンヤくんが折角買ってくれてお揃いで、私、私」

「コハル」


 シンヤの宥めの声も、今のコハルには届かない。自分で言葉を紡ぐ度、コハルの心は焼けるような焦燥と刺されるような痛みを訴えた。それらに首を絞められるような気分で、コハルの視界が徐々に歪む。コハルが涙ぐんだ気配を感じ取ったのか、シンヤは酷く優しい声を投げかけた。


「大丈夫だよ、泣かないで。いや、泣いてもいいんだけど、落ち込まないで」

「でも、でも」

「ネックレスくらいまた買えばいいよ。大事なのは君が俺とお揃いつけてくれた気持ちと思い出だからさ。ね」

「でも……」

「大丈夫。怒ってないよ」


 平気だよ、と何度も繰り返すシンヤの声は、微塵も怒りの気配を感じさせない。一寸の失望さえしていないような穏やかな声音に鼓膜を撫でられ、コハルの頬をさらに大粒の涙が伝っていく。

 ぽたり、と洗面所の床に落ちた涙を見て、シンヤはその冷たい指先をコハルの目許に滑らせた。温い雫を拭うシンヤの指は、あまりに優しい。その手付きでさらに涙が込み上げて、シンヤの指先が涙に塗れていく。シンヤはそれを厭う様子もなく、そればかりか、コハルの背に優しく手を回すのだ。抱き寄せられるまま、コハルの身体はシンヤの腕の中へと納まる。

 幼少時から比べて明確になった男女の差。年齢は少ししか違わないのに、シンヤとコハルの間には、大きな差があるように見える。背丈や体格といった面だけではないその差は、コハルを包み込んで落ち着けるのと同時に、何処か小さな焦燥感を覚えさせるのだ。

 シンヤは決してコハルを怒らない。それは、彼がコハルを好いているからだ。


「……シンヤくん、どうして怒らないの?」

「怒る必要がないからだよ」

「だって、大切なものなくしちゃたんだよ。買ってもらった当日に」

「また買いに行こう? 君と出かける口実ができて嬉しいくらいだよ。だから平気。気にしないで」


 遠慮がちにしぼんだコハルの声に、微笑んだシンヤの温かい言葉が返される。出掛ける口実なんて「恋人だから」だけで十分なはずだ。コハルにだってそれが理解できるのだから、敏いシンヤがそれに気付いていないはずもない。

 シンヤはただ只管に優しい。冷徹だ、容赦がない、と人々に称されるシンヤの明確な愛情は、コハルに優しくすることなのだ。

 それは、自分が彼の特別であることを大いに物語る。そして同時に、いつ彼が『優しくなくなるか』を恐怖させるものでもあった。


「……ごめんね、本当に」

「いいよ。あのネックレスでも、別の可愛いのでも、お揃いまた買お。君とならいくらでも買い物いけるし」

「私も。シンヤくんとなら、いっぱいお揃いほしい」

「じゃあ買いにいこう。今日はもう遅いから、また今度ね」

「うん……」


 曖昧に頷いたコハルの頭を、シンヤの手が撫でる。骨ばって男性らしくなった彼の手は、いつだってそうやってコハルのことを安心させた。それに寄り添って、甘えてきたコハルは、最近になってそれを失う瞬間の恐ろしさを考える。

 コハルはシンヤのことが好きだ。シンヤがコハルを好いてくれるのと同じくらい、或いは、それ以上に、シンヤのことを好いている。だからこそ、シンヤに失望されるのが恐ろしい。

 ネックレスを失くしても、シンヤの怒りはコハルに向けられない。自分自身に対する怒りや自責の念が渦巻いている以上、コハルにはそれがどうしても理解できないのだ。彼が内心でどんなことを考えているのか、恐ろしくて堪らない。いつ失望されても可笑しくはない恐怖は、いつだってコハルを苛むのだ。特に、こういうことがあった日は。


「テレビでも見てなよ。ご飯俺が作るからさ」


 コハルの背を押してリビングのソファに座らせたシンヤは、丁重に頭を撫でてそう言った。有無を言わせぬ雰囲気があるように感じたのは、コハルに休んでいてほしいと切実に願うシンヤの優しさを知っているからだろう。

 無言で頷いたコハルを確認して、シンヤはキッチンに向かい始める。今日はシンヤの家で夕飯を食べられるから、と、楽しみにしていたのが遠い記憶のように思えた。美味しい食事はコハルにとって何にも代え難い楽しみだったが、今日に限っては、その余裕もない。何せ恋人とお揃いのネックレスを失くした直後である。

 冷たいソファの上で膝を抱えて、コハルは小さく目を伏せた。シンヤがつけていったテレビの液晶では、見知らぬ芸人が定番なのであろうギャグを言い、観客をドッと沸せている。

 普段のコハルなら、それをにこやかな笑顔で眺めたのだろうか。それとも、平生であっても、「あんまり面白くないね」なんて酷評をシンヤとしながら笑っていたのかもしれない。

 気が付いてしまえば、首元にネックレスの感触がないことがやけに気になる。指先で何度も首元に触れては、さらに喪失感が煽られた。眺めるだけでは楽しむことができないテレビを流し見して、ふと、コハルはとあることに気が付いた。

 あれは、駅からシンヤの自宅まで向かっている最中のこと。住宅街の小道を歩いている途中、ちょっとした段差に躓いたコハルを、シンヤが抱き留める、という一場面があった。

 シンヤが受け止めてくれなければ転倒したであろう。その程度には勢いよく躓いたし、コハルの身体は傾いた。その瞬間は「シンヤくんは頼りになるなぁ、好きだなぁ」なんて呑気な思考に呑まれていたのだが、思えば、ネックレスを落としたのはその時かもしれない。

 住宅街とはいえ、あの通りはコハルが住んでいる場所に比べて車の通りが多少多い。もしもあの周辺のネックレスを落としたのだとすれば、車に引かれて汚れてしまったり、引きずられてコハルの予期せぬ場所まで運ばれてしまう可能性も大いに考えられる。そうでなくたって、コハルはすぐにでもネックレスを取り戻したい。シンヤがどれだけ優しい言葉をかけてくれようとも、あのネックレスは、コハルにとっても大事なものなのだ。

 窓の外を覗き見れば、既に日が暮れていた。耳を澄ませれば、窓を打ち付ける風の音も聞こえてくる。しかし、暗さも寒さも、コハルの衝動を押し殺すには聊か力不足である。

 シンヤはコハルを怒らない。怒らないだけで、彼には温かい感情が、明確な優しさがあることを、コハルは知っている。

 ネックレスを取り戻したとき、彼は安堵したように笑うのだろう。コハルが落ち込まないで済む、という感情と同じくらい、お揃いのネックレスが喪失していない事実への喜びもあるはずなのだ。


「シンヤくん、私、ちょっと」

「ん、何? どうしたの?」


 控えめに声をかければ、料理中のシンヤから即座に返答がきた。その手元には、熱されたフライパンと、その中で熱に踊らされる玉ねぎの姿がある。ひき肉やら卵やらがシンヤの奥に見えているために、今晩のメニューはハンバーグだろう。ハンバーグが出来上がるまでの時間を予測しつつ、コハルは足音を殺してリビングの扉へと向かった。


「お手洗い、借りてもいい?」

「どうぞ。場所わかる?」

「わかるよ、有難う」


 簡素なやりとりの後、そそくさとリビングを抜け出したコハルは、音を消して玄関へと近づいた。

 履きやすい靴であるため、音を出さないまま素早く履きこなすのはそう難しいことではない。しかも、シンヤは今炒め物の真っ最中だ。気を付けて行動すれば、多少の物音は彼の耳には入らないだろう。

 みじん切りの玉ねぎ達に感謝しつつ、コハルは静かに玄関の扉を押した。都合の良いことに、シンヤから以前渡された合鍵はポケットの中に入っている。できる限り音を押し殺しての外出は、コハルの十六年の人生の中で初めてのことだった。

 罪悪感や胸のざわめきが、その行為に急速なブレーキを掛ける。けれど、それ以上に、コハルのネックレスへの執着は強かった。

 冷たい風がコハルの頬を撫でつける。シンヤの手とは似つかぬ感触に、コハルは目元を潤ませながら、それでも、と歩みを進めた。

 時折道路を走っていく車を横目に、コハルは目的地へと颯爽と移動し始めた。あまり時間的な猶予はない。シンヤにこのことが露見すれば、彼は大層心配するだろう。歩いてたった数分の場所にあるコンビニに向かうことすら心配して、コハルと一緒に外出するくらいの心配性だ。ネックレスがあるかもしれないから探しに行く、などと口を滑らせた暁には、「明日にしよう」だとか「また今度買いに行こう」だとか、そんな提案をするに違いない。

 時間が経過すればするほど、ネックレスはコハルの手元から遠ざかって行く。同じものを買ったって、コハルがネックレスを失くしてしまったという事実は書き換えられない。その事実がある限りは、コハルが素直にネックレスの輝きを楽しむ日は来ないだろう。そして、シンヤの失望を買わないかと怯える時間だけが過ぎていくのである。


「確か、この辺りに……」


 辺りはとうに暗くなっていた。住宅街の窓からちらほらと零れる光を浴びながら、コハルは自分が転びかけた地点に漸く辿りついた。

 強い風が通り抜ける。周囲には街灯が見当たらず、住宅地の灯り以外に手元を照らす照明がない。星灯りも月明かりも心許なく、視界が十分に確保できないこの場所で、ネックレスを探すのは至難を極める行為であった。

 急ぎ過ぎてスマートフォンをテーブルの上に置いてきてしまった。そのことを後悔しつつ、コハルは暗がりで必死に目を凝らす。

 歩道の片隅から力強く顔を出す雑草や、手摺の下。闇の中では目を凝らしても上手く視認することができない。焦れたコハルはその場に勢いよくしゃがみ込み、恐る恐る指先を地面に滑らせた。指の腹に触れるのはアスファルトの小さな凹凸の感触ばかりで、ネックレスの艶やかさはどこにも見当たらない。

 夜の冷たい空気は、コハルの華奢な体を容易く突き刺した。身体の芯から凍りそうな寒さの中、コハルは必死に地面に指を滑らせる。

 何処にも無い。ここにないのなら、あとは、電車の中か、それとも買い物先の人混みの中か。

 そうなってしまっては探しようがない。ここにある、と、半ば縋る様な気持ちで立ち上がったコハルは、しゃがみ込む場所を変えようと慌てて足を踏み出す。

 次の瞬間、コハルの身体は勢いよく前のめりに重心を崩した。

――歩道と車道の段差が暗がりで見えなかったのだ、と気付いたのは、自分の身体が車道に放り出されてからである。

 どさり、と勢いよく転倒したコハルは、打ち付けた身体に走る鋭いのか鈍いのかも曖昧な痛みに顔を顰めた。咄嗟に地面についた手の平と膝の痛みに、嘲笑されているような気分になる。シンヤがいたなら受け止めてくれただろう。彼がいなければ立ち上がることも難しいのかと、過剰に惨めになる気分が、コハルの心中を支配する。


「……私、なんでこんな……」


 情けない気持ちが溢れて、コハルはそんな独り言を零した。

 ネックレスを失くしたのも、こうして転んでしまうのも、なんて情けないんだろう。そんな自己嫌悪に苛まれ、コハルの目の奥が再び痛いほど熱くなる。元々暗くて確保されていない視界は、滲むこともなかった。

 シンヤの家を出てから、体感ではあるが、もう随分経つ。ハンバーグが出来上がって、コハルがいつまでも戻ってこない違和感に、シンヤが気付き始めるだろう。否、彼ならとっくに気付いているはずだ。

 スマートフォンは置いてきた。玄関を確認されてしまえば、コハルの靴がなくなっているのがバレてしまう。心配性なシンヤは、連絡もつかずに突然家を飛び出したコハルの後を追うに違いない。

 そろそろ戻ろう。打ち付けた部位に感じる痛みに気をとられていたコハルは、ふと視界を過った光に顔を上げた。

――顔を上げた瞬間、コハルの目が眩む。強い光が二つ分、猛スピードで迫ってくる光景に、コハルはシンヤが夕方に口に出していた話を思い出した。

 この近くには曲がり角も公園もない。況して、こんな時間に子供は出歩かない。その判断故か、仕事で蓄積した疲労を早く解消したいという欲求のせいか、この時間帯になると、この道を猛スピードで走り抜ける車がいるのだ、と。

 君には俺がついているから大丈夫だとは思うけど、この段差には気を付けてね、なんて言ったシンヤの表情が、鮮明に思い出された。

 車は急には止まれません、と習ったのは、確か、小学生の頃である。何を当然のことを、と思っていたかつてのコハルの心の声が、今になって自分に突き刺さった。

 人影に気付いたらしい運転手が、閑静な住宅街に似つかわぬクラクションを鳴らす。耳を劈く大きな音に肩を揺らしたコハルは、全身に痛みを纏ったまま、慌てて立ち上がった。


「いたっ」


 しかし、立ち上がった拍子に、再びコハルの重心が揺らいだ。右足首に走った鈍い痛みが、コハルの動作を大きく阻む。コハルは咄嗟に近くの手摺に掴まったものの、その体は、未だ車の正面にいた。

 どうやら、先ほど段差から足を踏み外した際に挫いたらしい。最悪のタイミングでそれを思い知らされたコハルは、勢いよく己に迫ってくる車に再び視線をやった。

 激しいクラクションの音。車とは所詮鉄の塊である。あの速度の車と人体が接触すればどうなるか、車の免許を所持していないコハルにも容易に予測がつく。

 日常生活に、こんな命の危機が潜んでいるとは思わなかった。認識はしていても、その危険は自分とは程遠いものだと信じて疑わなかった。

 強張った全身が、動くことを拒絶する。死への恐怖、痛み、突然のことへの困惑が、コハルの反応を大きく鈍らせる。


――私、死ぬのかな。


 そんな言葉が脳内を掠めて、コハルは静かに口を結んだ。

 車のライトを受けた道路に、ネックレスは見当たらない。在りもしないものを探して努力した時間も、そんなことでこんな結末を招いた自分の愚かさも、全てが滑稽だった。

 真っ白に染まった脳内で、コハルが思ったことは、唯一つ。世界で最も愛おしい恋人への、懺悔の言葉だった。


「……シンヤくん、ごめ――」

「コハル!」


 聞き慣れた声が鼓膜を劈いた。クラクションよりも大きいような気がしたその声に、コハルは大きく瞳を見開く。

 懺悔の言葉は、紡ぐことすら赦されなかった。

 次の瞬間。コハルの手首を、誰かが折れてしまいそうなくらい握り閉める。腕がとれてしまいそうなほど力強く引っ張られた次の瞬間、住宅街に鳴り響いていたクラクションは、コハルの背後を掠めるように通り過ぎた。

 コハルの後頭部を抑える大きな手が、誰かの胸板にコハルの顔を押し付ける。その硬い胸は激しく上下しており、また、そこから察せる通り、酷く心拍音が乱れていた。コハルの頭上で繰り返される呼吸音が大きい。地面に打ち付けた身体の痛みも、挫いた足の痛みも引いていなかったが、それ以上に、誰かに握られて引っ張られた手首とその肩のが余程痛かった。

 生きている。その事実を、自分を抱き留める誰かの心臓の音を聞くことで実感させられた。

 突然のこと過ぎて、コハルの脳内は全ての理解を放棄していた。何が起きたのか、何故生きているのか、訳が分からないまま、コハルの双眸は瞬きを繰り返す。


「気を付けろ! クソ!」


 仕事終わりで苛ついているのか、人を牽きそうになった事実故か、窓から顔を出した車の運転手はそんな罵りを叫ぶ。大きな声は勿論、誰かからの罵倒に慣れていないコハルがそれに怯えなかったのは、それ以上に恐ろしい思いを直前にしていたからだろうか。

 そのまま車が走り去っていく音だけが聞こえる。それを引き止めたり、ナンバーを確認したり、だなんて余裕は、コハルには残されていなかった。そして、当然のように目の前のその人にも。

 随分急いで走ったらしい。未だ整うことのない乱れた呼吸を繰り返すその人は、力強くコハルを抱きしめたまま、掠れた声を絞り出すように言葉を紡いだ。


「ッ、コハル、怪我! 怪我は、してない?」

「……シンヤ、くん……?」

「ねえ、何処も痛くない? 怪我してない? 生きてる? 何事もない?」


 コハルがいつまでも質問の答えを出せないでいるのに焦れたらしい。次の瞬間、コハルは肩を力強く掴まれ、勢いよく目の前の身体から引きはがされた。

 あまりにも聞き慣れたその声と、暗がりの中で微かに見えるその顔は、間違いなくシンヤのものだ。それなのに本当に彼なのかを確認する声が上がってしまったのは、「ここにシンヤがいるはずがない」という困惑と、「シンヤらしからぬ態度」のせいである。

 シンヤという人物は、恋人贔屓を抜いても、何処までも限りなく格好良い人間だった。

 大抵のことは余裕で熟すし、それに対して苦労や疲労といった部分を決して見せない。声を荒げることは滅多になく、感情を露わにすることは少ない。コハルの前で浮かべる笑顔が特別なのだと、気付いたのはいつの話だったか。運動直後で多少息切れを起こしたって、直ぐに回復して何でもない顔をしている。そして何より、恋人であるコハルのことを、宝石以上に丁重に扱うのだ。コハルが知るシンヤという人物は、いつだってそれらの条件を一貫していた。

 こんな風に声を荒げ、力強く――乱暴とすら称せる勢いで――コハルに触れるシンヤは、見たことも聞いたこともない。

 唖然としたコハルのことを、顔を顰めたシンヤが見下ろす。暗闇と殆ど同化している瞳の奥に見える感情は、彼がもつにしては、あまりにも激しいものだった。


「……いき、て、ます」

「そう。そうだよね。よかった。生きてる。間に合った」

「……シンヤくん、なんでここに」

「君がいないから、靴もないし、スマホも置いてってるし。ご飯すっぽかして外出ていく理由なんて、ネックレス以外に見当たらない。ネックレス探すなら、まず君なら真っ先に転んだここに来ると判断して、判断して急いで走ってたら、君が、車に牽かれそうになってて」


 途切れ途切れの呼吸を繰り返して、シンヤが断片的な説明を紡ぐ。彼にしては言葉の整理がついていない説明でも、コハルのために必死になっていた、という事実だけは明確に伝わってきた。


「……私のために……そんなに息が切れるまで走ってくれたの……?」


 呆然としたコハルの一言に、シンヤが大きな息を吐く。それが、呆れからくるものなのか、呼吸を整えるために吐かれたものだったのか、コハルには決して判断がつかなかった。

 コハルに対して吐かれた暴言を無視する辺り、シンヤに余裕がないことは伺える。コハルの肩を掴む手に、今も痛いほど力が入っていることすら、恐らく彼は気付いていない。

 数拍の間。漸く夜に相応しい静寂が訪れた住宅街で、シンヤの激しい呼吸音だけが鳴り響く。それが僅かに落ち着いてきた頃合いで、シンヤは静かに息を吐くと、突然口を開き始めた。


「馬鹿じゃないの」

「え」

「何考えてんの、あと少しで死ぬところだった!」

「え、あ」

「馬鹿!」


 率直な罵り。否、正しく彼の真意を汲み取るなら、これは説教である。

 釣り上がったシンヤの目を見て、コハルが大きく目を見開く。

 シンヤが「馬鹿」と口にするのは珍しいことではない。けれどそれは、こんなに熱量を持った言葉ではなかったし、決してコハルに向けられるものでもなかった。

 鼓膜に残る大声に、コハルが唖然と目を開く。

 シンヤにとっては、呆れや嫌悪を示す言葉であるはずだ。彼を一番近くで見て、理解しているコハルだからこそ、その確信は得ている。しかし、今日に限っては、この「馬鹿」という言葉はそのどちらの意味も持っていないようだった。

 だって、呆れというには熱が籠りすぎていて、嫌悪というには愛情がありすぎる。では、彼がその胸中に抱く感情は何かと探った時、コハルが思い浮かぶ名称は、たった一つしか無かった。


「……シンヤくん、怒ってる、の?」

「怒る。怒るよ。怒るでしょこんなの。馬鹿」

「私に?」

「そうだよ君に。あの車のポンコツ運転手にも怒ってるけど、でも君に。何やってるの。ネックレス探してるんだよね。そんなの分かる。でも違う。馬鹿。何やってんの本当に」


 錯乱しているようにさえ聞こえるシンヤの言葉に、コハルは肩を竦めることすらできなかった。風船が徐々に萎んでいく様に、シンヤの声は後半になるにつれて、どんどん声量を小さくしていった。それでもその言葉を見失わなかったのは、シンヤがしっかりとコハルを抱きしめたからである。

 説教をされながら、馬鹿だと罵倒をされながら抱きしめられるのは、妙に不思議な気分を煽られた。硬直したまま抱きしめ返せもしないコハルを、シンヤはただ力強く抱きしめる。シンヤに怒られている、という現状を、コハルは未だに呑み込めないでいた。


「やめてよ、ネックレス探して君が死んじゃったら元も子もない。ネックレスなんていくらでも代わりあるけど君は君しかいないんだから」

「……でも、ネックレス見つかったらシンヤくん喜ぶかと思って、私だってネックレス見つけたくて」

「俺が外暗くなってから君を一人で出歩かせたことある? 昼間だって常に一緒に出掛けたいのにこんな時間に外で歩かないでよ。止めて。危ない。馬鹿。ネックレスなんかより君の方が大事だよ。俺が間に合わなかったらどうなってたかちゃんと分かってる?」

「でも私、シンヤくんに失望されたくなくて、嫌われたくなくて」

「ネックレス如きで俺が君のこと嫌いになるはずない。失望もしない。分かんなかった?」

「……き、嫌いに」

「なってないからこんなに怒ってる」


 間髪入れずに告げられたシンヤの言葉に、コハルはおずおずと身を丸くした。苦しいほどに力強い抱擁は、シンヤがコハルの生命確認をしているのだと悟ることができる。どんなに言葉を交わしても、彼はまだコハルが死んでいないか不安で仕方がないようだった。

 初めてシンヤに声を荒げられ、馬鹿だと怒られて、コハルの心は漸く現状を理解し始める。家にいた頃はとても冷たかったシンヤの手は、現在はすっかり熱を帯びている。彼の嘘は何処にもないことを悟った瞬間、コハルは今度こそ瞳を涙で潤ませることとなった。


「ごめんなさい」


 たった一言、謝罪が零れる。あまりにも簡素な謝罪だったし、この一言で全てが許されると思っていたわけでもないが、他に出てくる言葉はなかった。

 シンヤは何も言わない。「いいよ」も「怒ってないよ」も飛び出さないその唇は固く閉ざされ、ただ、コハルの生存を確認するように何度も頬ずりだけが繰り返される。コハルの体を強く抱きしめるその腕は、決して彼がコハルを嫌いになっていない事実を明確に物語っていた。


「……ハンバーグ焼けてるから帰ろ? ね。シャワー浴びてさ。ネックレス探しはもういいでしょ。また買いにいこうよ」

「……うん。本当にごめんね」

「暫くはいいよって言ってあげない。ほら、帰ろ」

「ごめんなさい」

「あんまり謝られると反射でいいよって言っちゃいそうだからもうそれ以上言わないで。家帰ってハンバーグ食べて俺と一緒に寝るのが今日の君の仕事だよ」


 早口で告げられた自分の『仕事』に、コハルは無言で頷く。その言葉がシンヤなりの許しであること、それからコハルを落ち込ませないための気遣いであることは、今までの彼の姿を見ていれば簡単に理解できることだった。

 コハルが帰宅に対して同意を見せると、シンヤは初めて安堵したように表情を緩める。そのまま、彼の手が膝裏と肩に回って簡単に抱き上げられるのも、コハルは無言で受け入れることにした。彼はとっくに、コハルが足をくじいて怪我をしたことにも気が付いているようだった。

 無言のシンヤに抱かれる帰り道は、何処か気まずさが漂っていた。他愛のない会話がない、怒ったシンヤの気配は、平生と比べてやはり恐ろしい。シンヤのことを「怖い」と称する人々の思考が、コハルにも漸く理解することができた。

 けれど、その思考に共感することは難しい。だって、やはりシンヤは限りなくコハルに優しいのだ。コハルに触れる手はもう穏やかさを取り戻していて、彼の表情にも尖った感情の気配はない。恐る恐る、コハルがその首裏に手を回せば、愛おしそうに頬を寄せてくる始末だ。

 そんな姿を見ていると、コハルの胸は強く締め付けられた。目を伏せたコハルは、そのまま、遠慮がちに言葉を紡ぐ。


「……次は」

「ん?」

「次も、同じネックレスが欲しい。シンヤくんと同じ、お揃いのやつがいい」

「いいよ。買いに行こう?」


 穏やか且つ優しい承諾の言葉に、コハルは己の胸を安堵で撫で下ろした。冷たい風も、シンヤに抱かれている間は気にならない。彼が歩く度に身体が揺れるのを感じながら、コハルは静かに目を閉じる。

 シンヤは、決して怒らない――ということはないらしい。でも、やはり、コハルに説教をするのは得意ではない様だ。何故分かるのかと言えば――恐らく声を荒げたことを反省して――普段よりも声が控えめになっているからである。


「ありがとう。怒ってくれて」


 コハルが感謝を告げた頃合いで、シンヤの自宅が見えてきた。

掠れた声で「どういたしまして」と呟いたシンヤは、随分とくたびれたようだった。





 先にシャワー浴びておいで、と促されて、コハルは脱衣所にいた。転んだせいで、服の所々が汚れている。風呂が苦手――というよりも、身体が濡れるのが得意ではない――なコハルも、今日ばかりは逆らう気になれない。

 身体の節々が訴える痛みを呑み込みつつ、どうにか服を脱いだ瞬間。コハルは、何気なく視線を落とした自分の下着姿を見て、悲鳴に近い大声を上げることになった。


「し、し、し、シンヤく、シンヤくん!」

「え、は」

「シンヤくん!」


 閉じられた脱衣所の扉が、コハルの腕で力強く開け放たれる。そこから飛び出して来た下着姿のコハルを見て、食事の準備をしていたシンヤはギョッと目を見開いた。

 流石の彼でも、恋人の素肌を見て気恥ずかしいと思う感情は人並みにはあるらしい。突然のことに珍しく顔を赤くしたシンヤが「服着て」と口に出すより先に、コハルは、自分の下着に引っかかっていた『それ』――ネックレスを彼に見せつけた。


「これ! 引っかかってたの! 下着に!」

「……は……」

「あった! あったよぅ、よかった、なくしてなかった」


 あった、あった、と子供のようにはしゃいで、コハルはその場に座り込む。自分が下着姿である、という認識以上に、ネックレスがそこにあった、という事実が大きかった。

 自分の上着をコハルの肩に羽織らせながら、シンヤは静かに肩を竦めた。シンヤの胸元には、コハルの手が握りしめているものと同じデザインのネックレスが輝いている。コハルが外に飛び出してまで探し求めたそのネックレスは、間違いなく、コハルの手の中にあった。


「今度からちゃんと服脱いで確認する……」

「うん……それは、そうだね。俺のいないところで脱いで。びっくりするよ」

「あってよかった、本当によかった」

「ねえコハル、服。羽織らせてはいるけど、ネックレスあってよかったけど、それ以上に色々心配するものがあるでしょ、ねえ」


 シンヤの言葉も、今はコハルの耳に届かない。

 コハルの手中で、ネックレスは照明の光を浴びて美しく輝く。それが、コハルにとってどれだけ嬉しいことか。

 もう暫くは手放せない。ネックレスの金具がついているか確認する癖をつけよう、と決意しつつ、コハルは静かにネックレスを自分の頬に寄せた。

涙目でネックレスに頬ずりをするコハルの姿に、シンヤはやれやれと呆れた様子で肩を竦める。しかし、次の瞬間には、世界で一番愛おしい恋人が喜ぶ姿に頬を緩めてしまうのだ。

 恋人が喜んでいる場面に水を差すのはあまりにも無粋である。せめてコハルが落ち着くまでは、無遠慮な言葉を投げるのは避けることにする。

 そうしてシンヤは、本日二度目の説教の言葉を静かに喉奥へと押しこんだのだった。

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眠る春の夜に鈴が鳴る。ー番外編ー 深夜みく @sinnyamiku39

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