花色の口紅

・二章最終話から数日後のお話。二章を完読してからこちらを読むことを推奨致します。

・「小さな手紙に託したもの」の続きものです。この話単体でもお楽しみいただけます。

・ヨル×スズネ

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 美しいでしょう、と紅を差しだされて即座に頷いてしまった自分に、スズネは驚きを隠せないでいた。

 祭り期間中の神都は、何処も彼処も人で溢れかえっている。休息をとらなくても良い、という精霊の性質上、街から人影が消えることは滅多にないそうだが、それでも深夜よりは昼間の方が人の密集率が高くなる。昼間は精霊に加えてその契約者である人間達が商売に取り組んだり観光に勤しんだりするためである。

 そんな昼間に新都を出歩くのは、スズネにとっては至難の業であった。

 そのまま歩いていれば簡単に押し潰されそうな人混みに揉まれながら、スズネが真っ直ぐに道を歩けるのは、一重に『迷子防止』という名目で手を繋いだヨルが道を先導してくれるおかげであった。彼はどうにも人と人の隙間を歩くのが上手いようで、スズネがもたつく間に素早く進路を確保する。そのあまりに洗練された仕草と文句の言葉を一つも吐かない態度に、ヨルの紳士ぶりを実感させられた。

 繋いだ手が離れてしまったら最後、人波に流されてはぐれてしまうのは明白なこと。二度も同じ迷惑は掛けまい。はぐれないように、とヨルの手を強く握りしめれば、前方で、ヨルが可笑しそうに笑う声がした。四方から飛び交う商人の呼び込みや観光客の談笑に紛れていても、その声だけは聞き逃さない。


「な、なんですか?」

「なんでもない。よっぽどはぐれるの嫌なんだな、と思って」


 僅かに振り向いたヨルは、普段と比べて、多少なり気を許したような無防備な笑顔を浮かべていた。くすくす、と揶揄うように付け足された声に、何処となく羞恥心を駆られる。カッと急上昇した体温が密着した手の平から伝わらないことを祈りつつ、スズネは、周囲の雑多とした喧騒に呑まれぬようにと声を張り上げた。


「い、痛かったですか? ごめんなさい、強く握っちゃって」

「いいよ、そのままで。可愛いとか面白いとか抜きに、はぐれたら困るのは本当だし」

「かわっ……おもしろ……いえ、あの、はい。はぐれたら困ります」


 言葉を詰まらせるスズネは、彼にとって酷く面白い対象であるらしい。無邪気に笑顔を浮かべたヨルが、再び前を向く。人混みの合間を縫うようにして歩くヨルは、そのまま、何でもないことのようにスズネの手を強く握った。

 二人が新都を歩いているのは、一重に、『おつかい』を熟すためであった。宿屋のベッドで寝た切り状態のシンヤから――これは彼の真意ではなく、ジンとの戦いで負った怪我を治療するためである――言い渡された物品を購入するため、ヨルとスズネは神都の大通りを散策していた。

 方向音痴の気質がある上、人混みの中を歩くのが壊滅的に下手なスズネ一人には、買い物を任せることができない。そこでシンヤはヨルにメモ書きを渡し、援助要請を出したのである。尚、ヨルが頑なにメモを見せようとしないので、スズネはシンヤが欲している物質が何かは理解していない。さらに言えば、実際にメモに書いてある文言が『気を利かせてやったんだから新都で適当にふらふらと歩いて来い』という、実質的なデートの指示であることもスズネは知らない。それを知った上でこの散策に望んでいるのはヨルだけである。

 この散策に目的など最初から無いことを知らないまま、スズネは必死に左右に視線を向けていた。何を買うのかは知らないが、ともかく何かを探さねばならない。そんな使命感と純粋な好奇心によって多少頭のネジが緩んだスズネは、きょろきょろと忙しなく周囲を見渡す。


「本当に、神都って色んなものがありますね、ヨルくん」

「うん。樹の里にも店はあったけど、こんなに画期的なのは無かったな」

「色んな里から色んな商人と物品が集まるんですもんね。精霊とその契約者だけでもこの数なんて、驚いてしまいま――」


 他愛のない会話を紡いでいたスズネの声は、不自然な部分でぴたりと止む。どうしたの、と振り向いたヨルに視線を向けられなかったのは、スズネの視線が、ある一点で釘付けになったからだ。

 大通りには宿屋や元々そこに存在していた店などの建物が立ち並ぶ。精霊達はその前に自分達の敷地を確保して、地面に広げた布の上やら屋台やらで商売を営むのだ。

 その店は、後者であった。しっかりと作り込まれたらしい木製の手押しの屋台は、愛らしい花々で飾り立てられている。白の塗色を成された骨組みと、その上をちょこんと飾る屋根が酷く愛らしい。太い縦縞模様の屋根は白と緑のお洒落な塗装で、さらに植物の蔦や花で装飾をされている。一目見て『花の里の商品が売っている』と理解できる売り場は、他と比べても非常に愛らしい華やかさを持っていた。

 時に、スズネは可愛いものが好きな少女である。命を懸けた修羅場を潜り抜けようとも、命を懸けた旅の最中であろうとも、手を繋いだ誰かが前にいようとも、その事実は変わらない。どんなときでも愛らしいものに惹かれてしまう気持ちは存在するのである。


「あれ、気になる? 見てみようか?」


 ヨルの優しい一言に、悩む素振りも見せぬまま頷いてしまったのは、致し方ないことだった。

 自分に課せられた任務――無論、表向きであることを彼女は今も悟っていない――を忘れて、スズネはふらふらと屋台まで近付く。それと同時に視界に飛び込んできた数々の商品は、いとも容易くスズネの心臓を高鳴らせてみせた。

 花の里らしく、屋台の商品は全て花に関連したものである。例えば肌に潤いを与える液体に赤い花弁が散らされていたりだとか、花から色を抽出して創り出した化粧品だとか。スズネの知識の中にある化粧品は、もっと質素で簡素なものだったのだが、其処に並ぶ商品は軽々しくその知識を打ち壊す。あまりにも華やかな化粧品に感嘆の吐息を零すこと数十秒。その間黙り込んでまじまじと商品を眺めるスズネを、屋台の店主は獲物を見つけたような眼差しで眺めていた。


「是非お手にとってご覧くださいね。ここにあるのは何れも花の里自慢の新商品ですよ!」


 甲高い女店主の声に、化粧品の世界に惹き込まれていたスズネはふと正気に戻る。ガヤガヤとした人々の活気のある声が近くに戻ってきて、己が今立っている場所と買い物の途中であることを否応にも思い出す。

 慌てて横を伺えば、ヨルはスズネの様子を微笑ましそうに見守っていた。神都に居る間のスズネは、まるで子供のようにそこかしこに興味をそそられ、惹かれていた。せめて迷惑は掛けないように、恥ずかしい思いはしないように、と自分の心に釘を刺して自制していたのに、今回ばかりは理性が勝てなかった。


「す、すみません。買い物の途中なのに」

「いいよ、全然。ゆっくり見てて」


 僅かに頬を赤らめたスズネの謝罪に、ヨルは朗らかにそう返す。にこやかな笑顔の何処にも面倒くさいと感じている気配は見当たらない。そのことに安堵しつつ、それでも気が引けてしまうのは仕方のないことだった。何せ、ヨルは恐らく、スズネと違って化粧品などに興味が無いだろうことが予測されるからである。

 彼が積極的に口紅などを付けたがる印象はない。スズネの興味で一方的に付き合わせるのは気が引けた。

 スズネが商品に伸ばしかけていた手を引っ込めると同時に、目の前の商人は、キラリと目を光らせる。まるで逃がしてたまるか、と言いたげな眼光に晒された次の瞬間、女店主の猛攻は始まった。


「お客様にはこちらの商品が似合いそうですね。こちらはこの中で一番人気の商品で、残り一点しかない新作の口紅なんですよぉ!」

「えっ」

「赤過ぎず、薄過ぎず、丁度いい色合いが自然に唇を彩ってくれるんです! 唇の色が違うだけで印象ががらっと変わりますから! これ一点で、大分華やかで可愛らしい印象になるかと!」


 如何です、と熱い売り文句と共に眼前に突き出された口紅は、確かに、酷く愛らしい色合いだった。美しいでしょう、と差し出された口紅に、スズネは抗う暇もなく頷いてしまう。事実、その口紅はとても美しい。

 似合いそう。一番人気。残り一点。これ一点で十分。購買意欲を実にそそる文言の数々に、そそくさと逃げようとしていたスズネの足は、再び屋台の前に止められた。自分の任務を遂行しなければ、と思う自制の心とは裏腹に、身体は、まるで縫い付けられたかのようにその場から動けないでいる。口紅に熱心に視線を注ぐスズネの姿を見て、店主は自身の勝利を確信したようだった。


「……いいんじゃない? スズネ。僕もキミに似合うと思うよ」


 あ、とかう、とか逡巡の声を漏らすスズネの横で、ヨルは静かにそう呟いた。まさか、店主以外から購入を勧める声が出るとは思ってもみない。え、とスズネが驚く頃には、ヨルは懐に入れていた小さな革袋からさっさと代金を取り出して店主に手渡していた。


「それお願いします」

「お買い上げ、有難うございまぁす!」


 ヨルの簡素な買い上げの声と、店主のご機嫌な感謝の声。スズネを置いてけぼりに上がった二つの声は、神都の賑わいをさらに助長させるものとして、空気の中に溶け込んでいく。


「よ、ヨルくん、そんな、悪いです。それに今後のこともありますし、今はこれにお金を使っている場合では……!」

「大丈夫だよ。シンヤがジンさんから交通費、食糧費として徴収した分、ミカさんに渡された謝礼金含め、多少の余裕はあるから。確かにそんなに贅沢はできないけど、これくらいはいいんじゃない?」

「でも……シンヤさんに頼まれた物もありますし……」

「平気平気」


 安心して、と微笑まれ、スズネはそれ以上言葉を発することをできなかった。基本的に、金銭を管理しているのはシンヤとヨルであり、彼はスズネ以上に財布事情を理解している。そのヨルが大丈夫だというのなら大丈夫なのだろう。何せ彼は慎重であるし、こう言った時、無理をして贈り物をするような人物に、シンヤは財布を預けたりはしない。こういった行動に出るということは、少なからず、シンヤから彼に余分な金銭が渡されていたはずである。

 そういった冷静な判断と口紅に惹かれている気持ちがスズネの口を閉ざした。大人しく頷いたスズネを、ヨルは満足そうに見つめている。それ以上に満足そうなのは店主の方で、彼女は花と蔦を模したであろうリボンを口紅に巻きつけてからヨルに差し出した。


「お買い上げ有難うございます! よろしければ、他の人気商品もご覧になりますか? 恋人さんへの贈り物にお勧めなものがもう一品御座いますがぁ」

「こいびっ……ち、ちが、違います!」


 間延びした店主の猫なで声に、スズネが慌てて訂正を入れる。しかし、口紅を購入してもらったこと、何より、迷子防止とはいえ手を繋いでいることで、二人の関係が店主に誤解されてしまうのは致し方のないことだった。あらあらと笑った店主はスズネの言葉をまともに取り合わず、そのまま、微笑ましそうにヨルに視線を向けている。彼はスズネとは違い、恋人という誤解を受けても、大して気にする様子を見せなかった。


「他の商品?」

「はい! こちら、マナによる品種改良を行った発光する薔薇で御座います!」


 店主はそう言って、化粧品の隣に陳列していた小瓶を摘み上げた。五センチほどの小瓶の中には、透明な液体と愛らしい桃色の薔薇が封入されている。花弁の色は、丁度スズネに勧められた口紅と同じ色合いをしていた。

 店主が手の平で瓶を包み込むようにして影を作ってやると、その中で、薔薇は確かに淡く発光していた。これも、スズネの知識にはない真新しさを持っている。


「これは、渡した相手と末永く幸せになれる、というおまじないが掛けられております。恋人や夫婦の方に大人気の品でして、愛情を込めて肌身離さず持っていれば、この光はさらに強くなっていくのです。二人の愛を量るためにご購入される方もいらっしゃいますねぇ」


 如何ですか、と目を輝かせた店主は、ヨルの反応を心待ちにしているようだった。スズネよりはヨルの方が購入されやすいと感じたのだろうか。スズネにも一応視線は向けてくるものの、主に、期待の眼差しはヨルに向けられている気がする。

 しかし、ヨルは先ほどと違って何らかの肯定的な反応を見せることは無かった。その顔に浮かんだ薄らとした笑顔は、どちらかというと仮面のような印象を受ける。店主は決してそうは感じなかったようだが、仲間としてそれなりに行動を共にしてきたスズネにはそう感じられた。この商品は、彼はあまりお気に召さなかったようである。


「――今回はこの口紅だけにしておきます」


 案の定、数秒の沈黙を置いて、ヨルはにこりと購入を断った。店主は一瞬残念そうな顔を浮かべたが、すぐさま笑顔になって「またいつでもお越しください」と頭を下げる。それを見届けたヨルは、再び大通りの散策を始めた。


「ヨルくん、あの薔薇好きじゃなかったですか?」

「ううん、そんなことないけど。どうして?」

「少し表情がぎこちなかったので……」

「そう? ふふ、何て断ったら失礼じゃないかと思ってさ。恋人じゃないのに貰ったって、スズネ困るでしょ? 僕が買うにしても、旅してる身じゃ飾れないし、飾れたとしてもあの性質は一人じゃちょっと虚しいし」


 スズネの問いかけに対して返ってきた答えは、至極真っ当なものであった。恋人、或いは夫婦といった層に向けて売り出されている商品を買う理由が、彼にはない。簡単な答えを聞いてしまった、と無性に恥ずかしくなったスズネは、ふと見たヨルの表情が、多少曇っていることに気が付いた。


「やっぱり、何かありましたか?」


 そう問いかけを重ねれば、ヨルは多少困ったように眉尻を下げる。言葉を選ぶように考え込んだヨルは、次第に諦めたように笑って、ふいと顔を前方に向けた。スズネからは、彼の表情を伺うことができない。


「大事な人に向けて贈る未来があるのかなと思ってただけだよ」


 気にしないで、と付け足された言葉に、スズネは瞬きを繰り返す。

 彼が言う「大事な人」というのは、言うまでもない。記憶の中に眠る、彼のかつての大事な人のことだ。

 ヨルがあの薔薇を贈るとしたら、それは、その大事な人が判明した後の話なのだろう。もしもここに立っているのがスズネではなく、彼の望む「大事な人」だったのであれば、ヨルは躊躇いなくあの薔薇を買ったのかもしれない。

 そう思うと、多少の申し訳なさと寂しさが湧き上がってくる。その理由を深く考えぬまま、スズネは小さく肩を竦めた。


「……いつか、きっと来ます。その日が」


 彼の大事な人が今も生きているのか、そうだったとしても再会できるのかどうか。確信を持てぬままそう発言することは躊躇われたが、ヨルは大して気を害さなかったようだ。そう信じてる、と頷いて振り向いたヨルの顔からは、先ほどの曇りの気配が綺麗さっぱり消えていた。


「そうだね。ところでスズネ、さっきの薔薇なんだけど」

「なんですか?」

「スズネの口紅と同じ色してたね」


 ……沈黙。

 彼の意図が見えぬ発言に、スズネは暫し、思考を巡らせた。

 確かに同じ色はしていたけれども、この会話の後でそんなことを指摘されると、なんだか間接的にあの薔薇を贈られた気分になってしまう。いやいや、そんなことある訳がない。ただの他愛ない会話である。いやでも、しかし、そんな。

 程なくして、スズネの思考は決壊した。じわり、と体の奥から滲んだ熱に脳を支配され、まともに考え事ができなくなってしまう。ヨルに手渡された口紅を握る手に力が入る。どうやらヨルはそれが面白いようで、くすくすと揶揄うような笑い声を零していた。

 その意図を聞けるほど、スズネの口は達者ではない。動くことを止めてしまった唇は、固まったまま動かない。ヨルも特にスズネの言葉を欲する態度をとることはなく、二人の間には、暫し沈黙の時間が流れていた。

 昼間の神都は最も人通りが多く、歩くことすら困難な賑わいを見せる。のびのびと観光をするには多少困難な時間帯であるけれども、一つ利点を上げるとするなら、こうして黙り込んでも、絶え間なく上がる喧騒のおかげで、少しも気まずくならないということだ。


「……口紅、有難うございます。大事に使います」


 絞り出すように呟いた一言を聞き、ヨルは面白そうに笑って頷いた。その穏やかな笑い声が鼓膜を撫でる度、スズネの体温はさらに上昇する。

 すっかり熱くなってしまった手の温度を隠す術は、何処にも無かった。

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