第二章 【ハジマリ】

話し出すと長くなる、それが今日のメインディッシュなのだから、それでいいのだけれど。あまり気乗りしない話であることは、うん。確かだ。え、じゃあ何で私を呼んだのかって?それは、僕が愚痴を言えるようなやつがお前しかいないからに決まってるじゃないか。意地悪なやつだな。ま、それはいい。望み通り本題へと、斬り込もうじゃないか。僕にはせいぜい切り込むぐらいのことしかできないだろうけど。

あれは、春らしいそよ風が心地良い日のことだった。地元の大学にそのまま進学した僕は、冷たい風に吹かれるような心持ちでキャンパスを歩いていた。まるで真逆なことを言うと思うかもしれないが、想像してみれば分かるだろう?友達という摩訶不思議なやつがお前くらいしかいない僕は、新しい生活に心躍っている連中とは違って、地に足ついた落ち葉のような気持ちで過ごしていたのさ。そんな風に、貴重な人生の夏休みを浪費していた男に、ある日突然話しかけてきた女の子がいた。名前はミキ。美しいに、貴いと書いて、美貴。長く艷やかな黒髪に、薄く茶色に透き通った大きな瞳。僕みたいなやつには、いくつのレールを跨ごうと関わることのできないような、女の子だった。何で話しかけられたのかと言えば、それは至極単純で、僕が軽音部のビラを持っていたからというものだった。軽音部のチャラそうなやつらが、面白半分、寄ってたかってビラを押し付けたせいで、僕は15枚ほどの紙切れを持っていた。それを見た美貴が、どうやらこの人は軽音部の先輩らしいと思ったのだそうだ。一見災難に見える出来事が幸と転じることをなんといったっけ、ああ、そう。怪我の功名ってやつだ。もちろん、僕は軽音部なんかじゃないし、ましてや上級生でもなかったから、「あ、違います。」と一言だけ残して去ってしまった。去ったというよりかは、例のごとく“逃げ出した”と言ったほうが正しいかもしれないが。そりゃあ、誰でもあんなに可愛い、清廉な女の子に突然話しかけられれば、逃げたくもなるというものだろう。え、違う?いや、誰でもの誰は僕みたいなやつのことを指すんだよ。はいはい、僕みたいなやつが少数だってことも分かってるよ。もう、話を戻そう。大量のビラを抱えたまま逃げ出した僕は、途轍もない後悔に襲われていた。ただでさえ友達のいない僕が、友人とはいかないまでも、知人と呼べるくらいの関係になれるチャンスを、自ら放棄してしまったのだから。普段であれば、まあいいかと忘れてしまうところだが、何せ相手は逃げ出したくなるほどの美少女。こんな奴でも一応男の端くれだ。忘れようにも忘れられなかった僕は、持てるコミュ力の全てを振り絞って軽音部へ向かうことにした。幸いなことに、招待状はたくさん持っていたし。心臓が潰れるような面持ちでドアの前に立ち、ええいままよとノブを引いたその時。きゃっ!という悲鳴とともに女の子が倒れかかってきた。びっくりした僕は、思わずそれを避けてしまう。バランスを失った女の子は綺麗に床へとひっくり返った。あらわになった顔を見て、潰れかけた心臓は完全に拍動を止めてしまった。そう、その女の子こそが、戦地に赴く気持ちで追いかけてきた美少女だったのだ。『ご、ごめん!大丈夫!?』月並みな台詞を吐き、すぐさましゃがみ込む。

『痛っ、』そう呟く彼女を抱き起こしてやればいいものをそんな文化を持たない僕は、ただただ顰めっ面も美しい少女の顔を覗き込むだけだった。

「何やってんだ美貴ちゃん!大丈夫か?おい、そこの男!突っ立ってないで、手貸せよ!」目に毒なのではないかと思うほどに明るい金髪の男に怒鳴られた僕は、すっぽんに噛まれるような気持ちでおずおずと手を差し出す。「あ、ありがと」彼女はそう言うと僕の手をギュッと握った。いや、事実を言うならば手を掴んだだけであるが、そんな経験のない僕にとって、『女子に手を掴まれる』とは『女子に手を握られる』と全く変わらないことだったのだ。ふらふらしながら立ち上がった少女は、僕に文句の一つも言うことなく、照れくさそうに笑う。それを見て安心した僕も、思わず笑った。振り返ってみれば、始まりから終わりまで。ずっと僕たちの関係はこんな感じだったのかもしれない。

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来る明日 いきもの @ikimono1223

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