第一章 【オウセ】
明くる日の朝、僕は普段足を踏み入れることの無い、喫茶店という場所にいた。木を基調とした柔らかな店装に、小洒落たクラシック・ジャズが流れる、僕のような陰に傾いた人間には似つかわしくないところだ。1枚かつ、表面しかないメニュー表には、僕の知らないコーヒーの類がずらりと並んでいて、どうしたものかと考えていると、『モカをホットで2つ。』という声が頭の上を通り過ぎた。助かった、と思いながら顔を上げると、昔の男勝りな面影はどこへやら、綺麗な都会の女を装った結衣がいた。『どうせ、そんなことだろうと思ったわ。』呆れたような表情でそう言った彼女は、
僕の正面へ静かに腰を下ろす。『綺麗なものとか、繊細なものが大好きなくせに。いざ自分がその中に入るとなると、ビビって逃げ出そうとするんだから。どうせそんなことを繰り返している内にフラれちゃったんでしょ?』まだ喉も潤さないうちにズバズバと斬り始めた結衣を1度睨んだあと、僕は窓の外を歩く幸せそうな人々を眺めようとした。『ほらね。耳の痛い話はそうやって聞いてないフリをして。会ったこともない彼女さんの苦労が目に浮かぶわ。』そう言い放たれたところで、大変上手い具合に髭を生やしたマスターが、湯気の昇るコーヒーを運んできた。『こちら、私が気に入っているカップでございまして、ですから投げつける際はこちらのナプキンでご容赦していただきたく存じます。』少し雰囲気が悪めな僕たちを気遣ってか、そんな上手な冗談を残すという粋な計らいも一緒に添えて。『ありがとうございます。』結衣はにこやかにそう返すと、砂糖もミルクも入っていないコーヒーに口を付けた。はあ、こいつも大人になったんだなあ。そう思いながらシュガーポットに手を伸ばし、大きな角砂糖を3つ拾い上げる。カップの中に溶け込んだそれらを見届けてから、ようやく僕も口を付けた。「変わったな。」小さな声でそう呟いたのを聞き逃さなかった彼女は、『あんたが変わらなさすぎるのよ。』とため息をつく。小中高と同じ学校ヘ通った僕らは、いわゆる幼馴染というやつであり、とっくの昔に腐りきった仲であった。高校を卒業し、都会の大学へと進学した結衣は、どうやら垢抜けた大人な女になったようで、すっかり僕のことを子供扱いしているようだ。「変わりたくても変わりきれないやつだって、世の中にはいるのさ。ちょうど、こんな風に。」そう言って肩をすくめてみせると、『そういう狡いところも変わってないのね。』と首を振る。『それで?彼女さんとの話を始めてくれる?』再会の余韻を楽しもうという様子も、淹れたてのコーヒーを味わおうという気もなさそうな様子の結衣は、すぐさま本題へと斬りかかった。「せっかちなやつだな、今も。まあ、長くなるし、ゆっくりと行こうじゃないか。」
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