05. 黒い積乱雲 (完)

 退院の日、梅雨はすっかり遠のいて、車の中から見上げた空は青々としていた。並雲がいくつも浮かび、遠くには入道雲が見える。

「暑そう」

 後部座席で一人呟いた声を、運転席と助手席に座っている両親は拾わない。寄り道することなく自宅へと向かう車。何だか機嫌良く話をしている両親の声をBGMに、私はずっと外の景色を眺めていた。特別楽しいものではなかったが、近所の道すらも久しぶりに見るのだということが感慨深かったのだ。結局、私は一ヶ月近くも入院していた。

「着いたわよ。ああ、起きているわね」

「うん」

 自宅に到着すると、母が後部座席を振り返る。私が静かだったから、寝ていると思ったらしい。持つべき荷物も何も無い。父が車を車庫へ入れる前に、私と母は玄関前で下りた。振り返れば見慣れた茜の家が見える。在宅だろうが、住人の姿は一つも確認できなかった。正直、本庄家のことだから家の前で並んで私を待っていそうだと思っていたけれど、今回ばかりは流石に、気を遣ってくれたのかもしれない。

「優陽、このまま行ける?」

 リビングに入って荷物を置くと同時に、母がそう言った。軽く頷く。父はのんびりとソファに座って、新聞を広げている。一緒に行かないらしい。私と母二人で、落ち着いて腰を下ろす暇も無く、そのまま本庄家へと向かった。

 本庄家では、茜のお母さんが目を潤ませながら出迎えてくれた。「もう元気だよ」と笑えば、更に目が潤んでいた。茜のお父さんも、柔和な笑顔で黙って頷く。こんなに豊かな表情を浮かべる両親から、一体どうやって茜が生まれたのかと思うこともあるけれど、時折笑みを浮かべる茜の顔は、二人に良く似ていると思う。どちらかと言えば、お父さんの方に似ているかな。

「本当は玄関で待ってようかって言ったんだけど、ねえ、気を遣わせてしまうかもしれないと思って」

 茜のお母さんがそう言うので笑ってしまった。やっぱり出迎える案は出ていたらしい。だけど結局は私達の方から勝手に顔を出しに来たので、無意味にさせてしまった気遣いだ。

「茜、優陽ちゃん来てるわよ」

 二階に向かって、茜のお母さんが少し声を張って呼び掛けている。一分程の間があって、私が待ち望んでいた姿が現れる。茜は私を見ると、軽く首を傾け、口を開いた。

「おかえり」

 こういうところ、ずるい人だなと思う。抗えずに緩んでしまった顔はみっともなかったかもしれないけど、今更隠しようもなかったので「ただいま」と素直に返した。

「『退院おめでとう』でしょう、茜」

「あー、『退院おめでとう』」

 茜のお母さんから指摘を受けて、素直に復唱している様子はちょっと面白い。皆で笑うが、茜の表情は特別変化しないままだ。

「月曜は学校行けるの?」

「うん」

「そう、じゃあまた月曜に」

 それだけ告げると、茜はあっさりと部屋へ戻って行く。その背中を、誰も引き止めようとしなかった。私は改めて「なるほど」と思う。口数が減ったというのは、こういう対応も要因に含まれているのだろう。茜に話し掛ける人が減り、茜が話を切り上げようとした時に引き止める人が減る。元より会話を好まない人なんだから、結果的に口数が減るのは当然だ。私はそう思うけれど、互いの母達は、そう思わないらしい。

「茜、やっぱりまだ元気ないわねぇ」

「気にしているかしら。ごめんね、うちの子のせいで」

「何言ってるのよ、優陽ちゃんだって悪くないわよ」

 見当違いなことだ。けれど、訂正しない。茜もそうだろう。それが今の私達にとって、都合のいいことだったから。

 この訪問の主役は私のはずだけれど、口を開く隙が与えられることはほとんど無いまま、互いの母が楽しそうに会話をした後、長居することなく母と共に帰宅した。もう少し茜と話したい気持ちもあるにはあるが、「元気がない」と解釈された茜を私が追うのは、得策ではないと思った。親達が抱いてくれた『都合のいい』解釈に、水を差すこともない。

 そう思った私は、翌日の日曜日に、改めて一人で本庄家を訪ねた。茜には「また月曜」と言われていたので、向こうは私に会う予定など一切無い。嫌な顔をしそうだとは思う。でも良い顔をしてくれたことなど一度も無いのだから、今更気にするところじゃない。

 日曜日は、私にとって都合がいい曜日だった。茜のお母さんは昼過ぎから仕事があって居ないことが多く、お父さんはゴルフに行っていることが多い。つまり家に茜しか居なくなるのが、日曜日。茜のお母さんが出勤する少し前の時間に、狙いを定めて家を訪ねる。そうすると迎え入れてくれるのはお母さんだから、門前払いは絶対にされない。

「ごめんね、私は仕事に行かなきゃいけないから、構ってあげられないけど」

 申し訳なさそうに言われるのを、大丈夫だと笑って返す。何度も心配そうに振り返ってくれたお母さんを、茜に代わってお見送りしてから、私は勝手に二階へと上がった。ノックをすれば、茜の声が聞こえる。こんなことも、久しぶりのことだと思えば妙に嬉しい。

「私」

「……はぁ?」

 予想外だったことを告げる返答に思わず笑ってしまう。扉を開けた茜は、案の定、少し驚いた顔をしていた。ただ、いつもとは違った。最初の違和感は、この時。茜が真っ直ぐに私の目を見ていたこと。しかしそれに戸惑って、私までこのまま静止するわけにはいかなかった。

「入ってもいい?」

「いいけど」

 そう答える時にはもう、茜の視線は違う方向へと行った。珍しく見つめてきたのは、ただ驚いただけか。扉を開け放ったままで私に背を向ける様子は、招き入れるというよりは「勝手に入れ」と言わんばかりだが、それこそいつものことだ。部屋に入り込んで、後ろ手に扉を閉める。

「うちのお母さん、まだ居たの?」

「うん、入れ違いだった」

「ふうん」

 ローテーブルの近くに座った私を横目に、茜は勉強机の方へと歩いていく。私の方へは、視線は勿論、顔も、身体も向けられていない。何も変わらないそんな様子に、先程の違和感は霧散していった。その代わりに私の中に湧いてくるのは、こっちを向いてほしいと思う欲求。求める前に見つめられたら『違和感』と思うのに、向けられた背にはこんなことを考える。我儘だという自覚はあるが、気持ちを失くすことは出来ない。そんなことが出来るなら、不毛な願いを持つ以前に、とうに果たしている。

「なんか、『茜が助けようとした』って話になってるらしいね」

 苛立ちでも何でも良いから、振り向いてほしくて言った。茜の嫌いそうな話だと思う。その予想通り、一瞬だけだったけれど、茜は私の近くへと視線を落とした。

「何それ」

「シャツのボタンが取れてたの、茜が助けようとしたからだってお母さんが言ってたよ。知らない?」

「ああ、それ。保険医がそう言ってたのを黙って聞いてたら、そうなった。優陽のお母さんに伝えたんだね」

「なるほどね」

 会話の間、茜はずっと鞄や机の辺りをごそごそして、取り出した数冊のノートをぱらぱら確認している。手持無沙汰なのか、私が居て落ち着かないのか、本当に何かしている最中に私が来てしまったのか。何にせよ、「忙しいから帰れ」などとは言わないし、気にしないことにした。

「茜が上手く誤魔化しておいてくれて、助かったよ」

「……黙ってただけ。嘘は吐いてない」

「そうだろうね」

 茜は滅多なことで嘘を吐かない。心情的なことは時々誤魔化しているけれど、事実を曲げるような言葉は無い。言う必要が無いと思うことを、言わないだけだ。元々、私達について想像するのが得意な周囲の人が、今回も勝手にストーリーを作ったのだろう。クラスメイトだけでなく、保険医までも創作を披露してきたというのだから、いよいよ面白い。茜はそれを、どんな顔で聞いたのだろう。想像するだけで、もう観る機会の得られないそれに、私は少し落胆した。

「これ、ノート」

「ん?」

「優陽が居ない間の」

 さっきから何をしているのかと思ったら。私が不在の間、茜はわざわざ私用に授業のノートを取っていたらしい。それを今、書き終えているかどうか簡単に確認していたのか。らしくないことをするものだと目を丸めたのは一瞬で、おそらくは、親か教師から言われたんだろうと、納得した。

「ありがとう。助かるなぁ、茜のノートなら間違いないね」

「どうかな、ノートに無いことテストに出ても怒らないでよ」

「あはは! 大丈夫、教科書も見るよ」

 ノートにも教科書にも記載が無いとなればお手上げだが、茜に近い点さえ取れれば満足な私からすれば、茜のノートに無いものを必要とは思わない。

 目的のものを渡してしまえば特にやることが無くなったのか、茜は私の斜め前に腰を下ろす。そして視線が、また一瞬だけ、私の方へと向いた。

「その腕、どうなるの?」

 ギプスに覆われ、肩から力なく吊るされている私の右腕を指して、茜が問う。珍しいと思った。茜からこんな風に私に対して質問をすることはほとんど無い。「気になる?」と返した私にも、一切表情を歪めることなく「それなりに」と答えてきた。あの一件で、いや、私が離れている間に、限界まで張り詰めていた茜のストレスが緩和されているように思えた。やっぱり『二番目』の幸せは、失敗により遠のいている。リベンジの可能性がゼロでは無いと思っているが、以前よりずっと難しいことは間違いなさそうだ。心の中で悔しさを飲み込んで、殊更明るい口調で、茜の質問に答えた。

「二回目の手術でもなんか頑張ってくれたらしいんだけど、結局、麻痺は残るってさ。細かい話は難しくて忘れちゃった」

「そう。利き腕なのに、不便だね」

「そうだねぇ」

 頭から落ちたと思っていたが、一番酷い怪我は右腕だった。変な転がり方をして、厄介な骨折の仕方をしたらしい。元通りにならないとのことで、右腕はもう肩ぐらいしか動かせない。麻痺のお陰で痛みも分からないのは幸いだ。一方、頭は血が出たわりに掠り傷で、大した怪我は無かった。私って頭が丈夫なんだなと思った。色んな意味で。

「ああ、お茶無いの忘れてた、取ってくる」

 茜は唐突にそう言うと、立ち上がって部屋を出ていく。

 一人残された部屋の中、ぐるりと見回してみる。大した意味は無いけれど、一ヶ月の間に変わったことが無いかを確認したかった。記憶の限り、最後に訪れた日から大きく変化した場所は無い。カレンダーが翌月になっていることくらいだろう。その事実は、間違いなく私を安堵させた。茜の傍を長く離れたことが無かったから、先程から、小さな変化に一々、怯えてしまっている気がする。茜は茜、ずっと見てきた彼女のまま、変わるはずがない。

「下に饅頭あったから持ってきたけど。食べる?」

「わーい、食べたい。ありがとう」

 宣言通り、冷たい麦茶と共に戻ってきた茜は、おまけに二つの饅頭を持っていた。頷いたから、彼女はそれを私に渡す。けれど、受け取った私はそのままの形で一度それを茜へと返した。茜は一瞬だけ不思議そうな顔をして、すぐに「ああ、そっか」と納得したように呟く。私が続けた「ごめんね」の言葉に返事も反応も無かったが、煩わしい顔はされなかった。薄い紙で包装されているそれを開けることは、片手でも出来なくはない。けれど、下手をすると床に転がしてしまいそうだ。勿論、お願いした最大の理由は、それではないけれど。

「茜が居ないと、生きていけない身体になっちゃったなぁ」

 私はこの傷のことを、都合がいいと思っていた。あの一件で、私には取り返しの付かない怪我が残った。茜が付けてくれたこの傷を理由に、私は永遠に、茜を傍に縫い留めよう。例え突き放されたとしても、それならこれを理由に死ねばいい。そうすれば私は、茜が付けた傷を持ったまま、茜を理由に一生を終えられる。――それが私の、『三番目』の幸せ。もう勝ち筋しかない。今度こそ、間違いなく得ることの出来る幸せだ。私はそう、確信していた。

「こんなこと、私じゃなくてもいいと思うけど」

 饅頭の包装を丁寧に剥がしながら答えた茜は、思った以上にあっさりしているように感じた。言うことは分からなくもない。饅頭くらい、誰にだって包装を剥がすことは出来る。それでも私は、こんなことであっても、他の誰かに頼む未来は思い描けなかった。

「茜以外に、私が頼るわけないでしょ」

「……そうかもね」

 そう返す様子も感情が無く、私は幾らか拍子抜けしていた。包装を外した饅頭を向けられて、大人しく受け取る。苛立ちを募らせていた茜ならもう少し楽しい反応をしてくれたと思うのに、こうも穏やかな人だっただろうか。失敗した日までは面白いくらい思い通りに反応してくれていただけに、落差が大きく思う。記憶を辿りつつ饅頭を頬張っていれば、茜はテーブルに二人分の麦茶を置きながら、視線だけをまた私に向けた。

「優陽って、死にたかったの?」

「んん? まさかぁ」

 先程から、問い掛けが唐突だ。返事は饅頭に邪魔されて声が籠ったけれど、多分、伝わったと思う。前に置かれた麦茶で流し込みたかったが、そうか、饅頭を持っている左手しか今は使えないのだった。まあいいか、食べてしまおう。二口目を頬張る。茜も二口、三口と食べ進めているが、器用なもので、麦茶に手を伸ばさなくても茜の言葉は、全く饅頭に邪魔されていなかった。

「じゃあ、私に殺されたかったんだ?」

 饅頭の邪魔はともかくとして、私は何も言わずにただ目を細める。茜が私の考えを推測だなんて珍しい。余程あの日のことは茜にとって不可解で、居ない間に、じっくりと考えなければならないことだったのだろうか。あの日を迎えるまでなら、気付かれてしまえば届かなくなってしまうと焦っていたかもしれない。けれど既に失敗した私は、知られてしまうかどうかなど、どうでも良いことに思えた。

「そうだよ」

 簡単にそう答えて、私はのんびりと笑う。茜から新しい反応は無い。横顔は涼し気なもので、何の感情も浮かべていなかった。しかし何とも思っていないなんてことは、流石に無いだろう。そうでなければ、茜が、私に質問なんてするはずもないのだから。

「そしたら幸せだなって、ずっと思ってたの。気持ち悪い?」

「別に。頭のおかしいやつだとは思うけどね。でも、優陽は昔からそうだった」

「あはは」

 饅頭を食べ終えてからようやく麦茶へと手を伸ばす。茜はとっくに食べ終えて、二杯目の麦茶を自分のグラスへと注いでいた。どうにかしてこの涼しい顔を崩したかった私は、タイミングを今だと思った。

「ねえ、えっちしようよ」

「ば、……ばかでしょ」

 最初の音に、やけに息が混ざっていて、言いながら茜は慌てて顔を背けていた。この反応、驚いた時のものじゃない。逆に私の方が驚いて、目を丸める。

「今、笑いそうになったの?」

「想像以上のばかでびっくりしただけ」

 口元を押さえて、眉を顰めている。ああ、惜しいな。否定的な言い方をしたけれど、はっきり否定しない。きっと笑いそうになったんだ。軽く笑う様子は時々見せてくれるけれど、私との会話の中では極端に少ないことだった。でも、それに対して食い下がっても絶対に笑ってくれない。諦めて、話を前に進めようと思った。

「まあ確かに、右手これだし、左手ではちょっと自信ないし。っていうか、片手が動かない状態って流石に難しそうだなとは思ってる」

 茜の中に触れる時、それぞれの手をどう動かしていたかなどを思い出す。片腕が丸ごと使えない状態というのは、そもそも出来るのか。不可能ではないだろうけれど。神妙な顔で考え込む私の横で、茜は目を細めて沈黙している。笑いを堪えてくれているなら楽しいんだけど、これは多分、呆れてる顔だな。

「だからさ、茜が触ってよ。やり方は分かるでしょ?」

 その提案を聞いた茜は、呆れた顔をそのままに、私の目をじっと見つめた。――。こんな決定的な差を、本当なら見落とすわけがなかった。見落としたわけじゃない、気付いていた。気付いていたけれど、茜が変わってしまったのだと確信できなかった。今だけ、今日だけの小さな変化なのだろうと思い込んだ。

「まあ、いいか」

 茜らしい諦めの言葉を零して、彼女は手に持っていた麦茶をテーブルに置いた。


 二人でベッドに上がり、慣れない様子で茜が私に触れる。素肌に茜が触れてくれているのが、信じられない。死に損なって、後遺症が残った私でなければ、到底叶えられなかった幸せだ。

「今殺してくれたら、最高かも……」

 思わずそう呟けば、茜は眉を顰めて、手を止めた。

「変態」

 言い得て妙だと、私は笑った。そうかもしれない。私は究極の変態なのだろう。茜限定ではあるけれど。ああ、それこそ茜にはいい迷惑だね。

 触れる順序は、今まで私が茜にしたことと全く同じだったけれど、触れ方はそうでもなかった。私に触れられたこと自体を大して記憶していないのか、覚えているけど真似たくないのか、他の理由なのかは分からない。でも、『茜の触れ方』なのだと思えば、私には褒美のようだ。

 幸せと、ご褒美。蕩けていく思考。これらが全て与えられているのではなく掴み取ったものだと信じて疑っていなかったこの瞬間が、もしかしたら私の人生で、一番の幸福だったのかもしれない。

「それでさぁ、思ったんだけど」

 茜の声が聞こえた。私の反応は鈍かった。自分の呼吸音が耳の中にうるさくて、よく聞こえていなかった。ただ茜が何かを言った、それだけに応じて、視線を上げた。

「私が死んだ場合、どうなるの、優陽のその屈折した『幸せ』って」

 瞬間、幸せにぼやけていた脳が冷えて、凍えたみたいに身体が震え、――ぞっとした。勝ち筋しかないと思っていた未来が、その全てのルートの根っこが茜に握られているのに気付いたのだ。違う、違うそれは違う、それじゃだめ。動揺して何も言えずにただ茜を見つめて固まっていれば、いつの間にか手に小さなナイフ持っていた茜が、私に見せつけるように、自身の喉元へとそれを引き寄せた。

「ぁあ!」

 私は不細工な悲鳴を上げて手を伸ばし、必死でそれを止めた。利き腕である右が動かせず、左腕だけで制止できたことが奇跡と思うほどに、それは一瞬の出来事だった。

 遠くで、雷が音を立てている。カーテンの隙間から差し込む光が薄らいでいた。背の高い雲が、近くに来ているらしい。

「あ、あかね、……や、止めてよ、こんなの」

 出した声が震えていた。茜の握るナイフが間違っても茜を傷付けないように、左腕と、自分の身体で押さえ込む。数秒の沈黙の後、茜が、堪えきれない様子で笑い声を上げた。その様を、私は呆然と見上げる。何が起こっているのだろう。そんな思考以外、頭の中には何も無かった。茜が、こんな風に笑うところを、生まれてこの方、狂ったように見つめ続けた日々の中でも、一度も見たことが無かった。

「あ、そう。じゃあ、まあ今日はいいや」

 そう言うと、茜はナイフをベッドの下に放り投げる。そして私の身体は、茜の右腕だけで簡単にベッドへと押し戻された。あまりの容易さに、私が今、茜を制止できていたのは、茜が本気じゃなかったからだと思い知る。もしも本気で実行しようとしたなら、あのナイフは、私という障害を意に介すことなく、茜の喉を切るのだ。身体の震えが、止まらなかった。

「今日、とかじゃない、茜が死ぬなんて、絶対にだめ」

 私が必死に言うのを、聞き慣れない笑い声がまた掻き消した。いつだって私を見なかった茜の瞳は、私の様子を観察するみたいに、少しも私から離れて行かない。

「優陽って、そんなに私のこと好きなの。へえ、――くっだらない」

 左腕しか動かせなくなってしまった身体では、茜に片手で押さえられるだけで、体勢を変えることすら出来ない。

 怖い、怖くてたまらない。見上げれば、茜は私だけを見つめていた。それを喜びと思うことは今までに何度もあったのに、怖くて仕方がないなんて、これが初めてのことだった。これは、これは復讐だ。茜がずっと大切に守り続けていた『最適』の世界を、あの日、私が壊そうとしたから。身を捩る私を見下ろして、茜は喉の奥でくっと笑う。

「暴れないでよ。怪我が悪化したら、私が怒られる」

 淡々とした声は聞き慣れた声なのに、その奥に、私が知らない感情がある気がした。私をベッドに押し付けていた手が、肌を滑っていく。怖ろしさに冷え切ったと思っていた身体は、まだ体温を高めたままで、茜が与える刺激に、可笑しいくらい素直に、熱を上げて応じた。

 必死で、勝ち筋を探していた。絶対に間違いがないと思ったのに、茜の命と天秤に掛けられてしまえば、何一つ見出せなくなっていた。だけど茜が遠慮なく触れてくるから、思考はまとまらないで、段々とぼやけていく。

「愛してほしかった?」

 不意に、茜が言った。それは耳の奥で何度も反響し、甘い余韻を身体に残した。

「なに……?」

「愛してあげよっか」

 意地悪く笑う茜に、身体は熱いままなのに、芯だけがやけに冷えて、背中に伝う汗が冷たい。

 無理やり引き摺り起こされた、『一番目』だった幸せ。触れられる喜びと合わせて、頭がぐらついていた。それでも本能的に理解していた。これは幸せじゃない、罠だ。負け筋だ。茜の目的が復讐であり、私から幸せを奪うことであるなら、この幸せは、身体に染み込んだ瞬間に奪われるものだ。それが分かっているのに、私から逸らされない瞳が、望んでやまなかったこの視線が、拒むことを、逃げることを私に選択させてくれない。この先が、……幸せでないことを、分かっているのに。

 身体の奥から熱が這い上がる。茜の手が止まらなくて、視線は逸らされなくて、見上げる度に視線が絡んで、茜の目尻が下がる。そんな顔、今まで一度も見せてくれなかった。視界が涙で歪んでいくと共に、ちかちかと明滅し始める。

 大きく身体が震えて、抑えきれない声が漏れた。けれど稲光と共に響いた雷鳴が、それを塗り潰して消した。悲鳴みたいな嬌声は、誰にも届かない。茜にも、届かなかった。


 雨音がいつの間にか、酷くなっていた。まだ日の高い時間だったはずが、外は嫌に暗くて、部屋はあまりに黒い。見上げた茜の顔が、よく見えない。まるでただの影で、訳も分からずに左手を伸ばす。影が徐にそれを掴んで、知らない笑い声がくつくつと、部屋に響いた。やっぱり、目の前の影が誰なのか、私には分からなかった。

「茜……」

「なに?」

 名前を呼んで応えたそれは、茜であるはずだ。私の、世界でただ一人の、茜であるはずだ。けれど、それは知らない色をした声で私に囁いた。

「ねえ、優陽。……好きだって言ってほしい?」

 残酷な問いが、降ってきた。茜は身を屈めて、影の中から抜け出す。ようやく見えたその姿は、私の知る茜に間違いはない。それでも、知らない表情をして、知らない瞳をしていた。その中に、私の像だけが映り込んでいる。その喜びを、彼女は一体いつから知っていたのだろう。

「言、」

 また、雷鳴が邪魔をした。茜に、私の声は届いたのだろうか。分からない。しかし強引に入り込んだ眩い光の中、茜の唇が弧を描いて、ゆっくりと動く。


 何と答えるのが、私の幸せだったのだろう。いや、もう、そんなものは、きっと。

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