真っ赤な並雲

01. 熱い手の平

 遠くで、カラスがカァカァ鳴いていた。私がそれを眺めて目を細めたのは、特別な感傷などではなかった。

「明日は雨かな」

「晴れるんじゃない? なんか鳴き方の良し悪しだった気がする」

「そうなんだ、知らなかった」

 取るに足りない会話をして、それに意味も無くて、別に一緒に居る理由も無いのに、この子は私の隣に居る。それに違和感を覚えないくらい、うんと小さな頃から私達は一緒で、隣に居る理由を探すことももうすっかり止めていた。

 カラスが鳴いたらどうだとか、夕焼けが赤かったらどうだとか、そんな予報は正直どうでもいい。明日が雨でも、晴れでもいい。ただ明日になったら、隣の女が死んでてくれたらいいのにと思った。

「邪魔なんだよね」

「何が?」

「……髪。切ろうかな」

「切ってあげようか」

「やだよ。人の髪、切ったことあんの」

「無い」

「最悪」

 何でもいいから死んでくれたらいいのに。殺したいほどの憎しみがあるわけじゃないけど、この子と一緒に居るといつもそんなことを考える。夕焼けが綺麗だから死んでくれたらいいのに。黒猫が前を横切ったから死んでくれたらいいのに。何でもいいから、居なくなってくれたらいいのに。私の隣からって言うか、この世界から。


 ――『二人って、名前もなんか似てるよね』

 私達について不意に気付かされたのは、第三者からの他愛ない言葉だった。私の名前は『あかね』と言い、もう一人の名前は『優陽ゆうひ』と言う。一文字も重ならないし、母音が同じわけでもない。そんなことは分かっているけれど、何故そう言われたのかも分かっている。私達の名前はまるで同じものを指していた。二人で歩く学校からの帰り道、私達を照らした夕暮れ色。照らしている光源と、それに照らされた空の色。違いはせいぜいその程度。

 だけど、何の繋がりも無い一人と一人であれば、誰もそんな指摘はしなかったに違いない。私達を『二人』だと考えて、並べるべきと思うから比較し、大したことのない共通点を見つける。また、相違点を見つけても「そこは違うんだね」と言われる。周りにとっては私達が同じであっても違ってもどうでもいいのだ。ただ、比較する。当たり前みたいに、私達は『二人』で話題になる。それを私達が求めようと求めまいと、一切お構いなしに。


 廊下に張り出された白くて大きな紙をぼんやり眺めてから教室に入れば、クラスメイトがこちらを見て笑顔を浮かべた。私はただ目を細めるだけでそれを受け止め、窓際の自席に着く。呼んでもいないのに二人ほどが機嫌良く席の近くへと歩いてきた。

「今回は茜の方が成績、上だったんだね」

「相変わらず二人が仲良く並んでて笑っちゃったよ」

 何が楽しいんだか。そう思いながらも私は軽く口角を上げて首を傾けた。張り出されていたのは、定期テストの学年順位だった。上の方に位置しているので目立つのだろうけれど、それだけが理由じゃない。狙えるようなものでもないはずなのに、私と優陽はいつも並んでいた。今回は、全教科の合計点がたったの二点差。別にいい、上でも下でも、近くても遠くても、どうでもいい。そう思っているのに、胃の奥がもったりと重たい気がした。むしろ、だったのだと思う。どうでもいいのに。何でそんなことが気になるのかも分からない。それでも周りが指摘する。そんな不可解さが、塊になって私に言い知れぬ不快感を押し付けていた。

 こんなことが繰り返されると、定期テストの順位が張り出される古めかしい学校の仕組みにも時折、辟易する。しかし進学校を選んだのは自分だ。だから本当のところ、順位の張り出しについては特別文句なんて無く、問題は、わざわざ人の順位まで確認して話題にしたがるこの子達なのだと思う。いや違う、問題は、

 ……思考は結局、いつも同じところに至る。この高校だって、一緒に選んだわけじゃなかったのに。


* * *


「――え?」

 私が振り返ると優陽は少し意外そうに眉を上げてから、ふわりと微笑む。西日の入り込む廊下の真ん中、元々少し茶色がかった色をしている優陽の髪が、その時はやけに明るい色に見えた。

「どうかした?」

「……いや」

 思わず反応をしてしまったことに不快さを感じ、私は顔を逸らすようにして元の方向へと向き直した。歩き出すと、少し遅れてから、優陽が後ろをついてくる気配がした。彼女に届かないように静かに息を吐き出す。優陽が今伝えてきた進路志望は、私が既に学校へと提出したものと同じだった。進学校の、指定校推薦。

「もしかして、茜も一緒だった?」

「あー、うん」

「そうなんだ。……茜が進学校に興味あると思ってなかったから、ちょっと意外。枠、少ないもんね、二人で通れたらいいね」

 優陽の言葉に私は生返事を返した。いずれにせよ、『意外』はこちらの台詞だと思った。優陽の方こそ、そんなものに興味がある素振りは今までに無かった。と言ってしまえば私が彼女のことを何でも知っているような口振りになるので気分が悪いけれど、仕方がない。私と優陽の家は向かい合わせに建っており、家族ぐるみの付き合いがある。私がどれだけ優陽への興味が無くたって、顔を合わすことは他の者に比べれば多く、家の中でも話題に上がってしまえば嫌でも耳にする。

 そんな中でも、優陽が進学校だなんて、誰も言わなかった。もちろん、優陽自身も。だから彼女は地元の高校へ進学するんだと思い込んでいた。それで私は、……いや、私の方の志望理由は、当然だけど、優陽じゃない。狙えるだけの学力が折角あるんだから、将来的に有利になると思ったし、進路の幅も広がるだろうと思って選んだ。そのに、いい加減、解放されるだろうと考えただけだ。優陽は、私の全てにおいてどうでもいい。理由になることは無い。

 推薦枠は三つだった。応募は四人だったらしい。私と優陽は校内選考に通り、二人とも枠に入れたわけだから優陽が私の邪魔になったかと言えば、結果的には、ならなかった。ただ、結果を聞いた後でも、……居なければ争うことすらなかったのにと思った。

 憎いわけじゃない。嫌いなのかと聞かれたら、それも違うと答えるだろう。好きという気持ちも全く無い。私にとって優陽は、『何でもない』。特別と呼べるような感情は一つも無く、ただただ、居なければ楽なのにと、思うことがある。それだけ。


* * *


 明日の日直当番を黒板へ書き込み、手に付いたチョークの粉を軽く払う。私以外、もう誰も残っていない教室に、姿なくとも持ち主の存在を主張しているのは優陽の鞄。教室のど真ん中、優陽の席。鞄だけを置き去りに、何処かへ行っているらしい。それがある限り、彼女はこの教室に戻ってくるのだと私に伝えている。

 小さな溜息と共に視線を逸らし、私は自分の席へと腰を下ろす。日誌を開くと同時に、教室の扉が開いた。誰だか分かっていたから、視線を向けなかった。

「茜、まだ掛かりそう? いつものバス、乗れなくなるよ」

「んー、間に合わないから、先帰っていいよ」

「はは」

 私の返答に、何故か優陽は楽しそうに笑って、教室へ入り込んできた。自分の席から鞄を回収し、私の前の席へとそれを移動させる。我が物顔で椅子に座れば、私の机の上に右肘をついた。日誌を書く邪魔にはならないが、控え目とは思わない。こういうところは今更だから、別にどうでもいいけど。

「私が先に帰らないこと知ってて、いつもそう言うんだもんなぁ、茜は」

 その言葉に、返事はしなかった。優陽も返答を求めたつもりはないのだろう、何も言わなかった。

 私達は毎日一緒に登下校しているが、理由は無い。少なくとも私の方には無かった。ただ色々仕方がない『要因』はあって、結果的に決まりごとのようになった。

 わざわざ推薦まで取って進学したこの高校は、私が住む地区から少し遠い。また、地元も都会と呼べる場所ではない為に、家の近くまで走ってくれるバスの本数が少なく、遅い時間にはもう無くなる。もし部活でもやっていたら最終バスには毎日乗れず、最寄り駅から四十分の夜道を歩くことになるだろう。

 優陽が私を一人で帰さない理由はそれだった。

「茜を置いて帰ると、うちの親がうるさいんだよね、明るい内は大丈夫だって言ってもさ、まあ田舎だし」

「……田舎とまでは思わないんだけど」

「あはは、まあ、でもこの辺りと比べたらね」

 事実、家の近所は街灯も少なく人気も少ない。いくら道が明るくても、人通りが少なければ夕方に女一人で歩かせたくないということなのだろう。過保護なことだ。私の親ではなくて優陽の親が私に対してそうであるというのも、おかしなことだけど。

「うちは実際に言われたことは無いけど、……確かに、優陽を置いて帰れば怒られるかもね」

「でしょ~」

 優陽の両親が私を可愛がってくれているのと同じく、うちの両親も優陽を可愛がっている。おあいこなのだろう。今までずっと、優陽と同じ時間を過ごさざるを得なかったのは、それも理由の一つだ。望んだわけでは無かった。私も、優陽も。

 そうして何も特別じゃない会話の後、沈黙が落ちる。別に優陽と話すことが毎日毎時間あるわけじゃないから私は気に留めず、日誌の続きを書き込んでいく。この学校は不思議とこういう古めかしいことに力を入れる。前のページを捲っても前の前のページを捲っても、空白少なく書き込まれた真面目な日誌が目に入る。そうするように教育を重ねられた結果だ。一年の頃はもう少し空白が目立っていたが、二年になった今、そんな日誌を書く者は居なくなった。私もそれらに倣って真面目に書き込んでいく。沢山書かなければならないから、すぐには終わらない。いつものことだ。

 しかし、いつものことで、いつもの沈黙だったのに、優陽はこの日に限って退屈になったのか、不意に指先を伸ばし、私の前髪に触れた。

「何?」

「邪魔って言ってたの、前髪?」

「いや、……後ろもかな、暑いし」

 ふうん、と納得したのかしていないのかも判断のつかない相槌を零すだけで、優陽は私の髪から手を離さなかった。振り払っても良かった。でも、そこまでするような理由も感情も無かった。どうでもいいから、放置した。

「束ねちゃえばいいんじゃない? ああ、そういえば茜のポニーテールって見たことないなぁ、綺麗だと思うよ?」

「んー、私の髪、解けやすいから」

「そっかぁ、異常にさらさらだもんね、茜」

 前髪を解放したと思えば、今度はサイドを一束取って弄ぶ。どうでもいいことには変わりないけれど、許し続けるのにも理由が要るように思った。

「そんなに触る必要ある?」

「え、茜の髪、好きだなぁって」

「はあ」

「私はほら、癖っ毛だから、憧れみたいな感じかなぁ」

 そんな対比も、クラスメイトがしていたことを思い返した。髪色と、髪質が違うね、長さは一緒なのにねと言っていたように思う。ほとんど違うでしょそんなの。分け目だって逆なんだから。比べる必要なんて全く無いのに、そうやって言うのが、クラスメイトは好きなようだ。身長が同じで体型も近いから、いや、胸は優陽の方が少し大きいか、何にせよそういう意味では比べ易かったのかもしれない。私にとっては、どうしたって下らない。

 私は髪を優陽から逃がすように、前のめりだった身体を起こして、日誌を閉じる。

「終わった――」

 そう報告しながら視線を少しだけ上げたら、開いたはずの優陽との距離は何故か縮んでいた。普段からあまり優陽を直視しないせいで、彼女を見ようとしていなかったから、何が起こったのか気付くのが遅れた。椅子の背もたれに身体を預けてもまだ開かない距離に異変を確信し、ようやく視線を優陽の顔まで上げた頃にはもう、避けようも無く、優陽の唇が私の唇に触れる。

 右手からシャープペンシルが落ちて、床にまで転がった。優陽の右目の下にある泣き黒子が視界に入り、自分の左目付近がどうしてかざわつく。左右対称にある、生まれた時から持たされたおそろいの泣き黒子を思い出して――視界の端が赤く染まったような感覚と共に、パンと何か弾けたみたいな音がした。


 じんじんと痺れた手の平の感覚。髪を乱した優陽の頬が赤くて、自分が何をしたのか理解した。

 項に、冷たい汗が流れていく。心臓がどくどく脈打って煩わしくて堪らない。苛立ちが身体中を這い回る。髪の隙間から見える優陽の口元が緩く弧を描いて、


 私はこいつに、今、負けたんだと思った。

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