03. 梅雨寒
暑かったと思ったら、急に気温が下がったり、妙に身体が怠かったりする日々は、実際に起こっている事柄を全て取り除いても私の精神や体力をじわじわと削っていた。それが理由になったかどうかは分からない。けれどそんな理由すら取り込んでいなければ納得のしようもない。勝ったとか負けたとか、そんな結論にもならなかった。自分が何をさせられたのか、何度も考えている。身構える時間は無かったのに、振り返る時間だけは、嫌になるほど多く与えられたから。
* * *
長い雨が続いて、状態が悪いグラウンドを眺め、私はホームルームの時間を過ごしていた。私の名前がちらほら出ているけれど、その行方など、どうでもよかった。
「例年通り、先週のタイムで……今回、女子のリレー代表は
「はぁい」
担任教師に呼ばれた優陽は、のんびりと返事をした。桂木優陽。小さい頃から優陽と呼んでいるので、名字の方が私には馴染まないし、時々忘れる。他のクラスメイトは名字だけを覚えているので、逆に下の名前に自信が無い。以前、クラスメイトから「桂木さんのことだけ下の名前で呼ぶんだね」と指摘されたことがあったが、先に覚えた方で呼んでいるだけだ。クラスメイトだって、名前の方を覚えてしまえばきっと名字の方を忘れる。そんな説明を口にした気がするが、彼女達が納得したかどうかは知らない。
そんなことを考えながら、私は窓を打つ水滴だけを見ていた。意味があったわけではないが、ホームルームの内容よりは退屈しなかった。しかし突然、名前を呼ばれ、ささやかな退屈しのぎは奪われる。
「
一瞬で、頭痛がした。どうしてそんなことを聞く必要があるのだろう。私が駄目だと言って、何かが変わるのだろうか。問う意味が全く理解出来なくて、三秒間たっぷりとその顔を見つめてしまった。
「……勿論」
「じゃあ、決まりだな」
優陽の次にタイムが早かったのが私だから気を遣ったつもりなのか。それとも去年の代表が私だったからか。どっちにしろ下らない気遣いだと思う。そんなもの競った覚えは無い。タイムなんて体育の授業で必要だから取っただけで、リレーの代表になる為でも、まして優陽と競い合う為でもない。一々勝手に感情や理由を妄想され押し付けられる状況に、毎度のことながら辟易した。
「あー、本庄はこっちだな、二〇〇メートル走」
この学校にはよく分からない伝統がいくつもある。まず、体育祭は九月にあるが、各種目の走者は七月初旬に決定する。次に、優陽が選ばれた『リレー代表』というのはクラスから男女一人ずつを選出されるもので、先程教師が口にした通り、クラスで一番早いタイムを持つ者が選ばれる。それぞれ他の学年や他のクラスから選ばれた者とチームを組んでリレーを行う。最後に、私が今指名を受けた二〇〇メートル走。これも、各クラス男女一人ずつ、クラスの中で二番目に早いタイムを持つ者が選ばれることになっている。何十年も前からずっとそういう形であるらしい。誰が決めて、何の為に続けているのかは分からないが、興味も無いので文句も無かった。
「本庄はこっちで一番もぎ取って来てくれよ」
「はい」
足に自信があるのは事実だが、端的に答えたのは自信を表わしたかったのではなく早く話題を切りたかったからだ。しかし一番を取るという宣言だと解釈したらしい生徒が数人、黄色い声と共に「かっこいい!」と叫んだ。全員男子だった。あんたらどっからその声出したの? 私が呆れた笑いと共に首を傾げると、それを合図に皆が笑い出す。教師も「静かにしろー」と言葉だけで注意していたが、言う本人も笑ってしまっているので誰も聞かない。
そんな中、一瞬視界に入った優陽は、のんびりした笑みを浮かべつつも目だけは妙に冷たかった。優陽は男が嫌いらしい。そうだとはっきり聞いたわけでもないけれど、男の話題に関しては常に吐き捨てるような言い方をする。今回も、男子が変にふざけたことが、優陽の気に障ったのかもしれない。
優陽は激情家だ。このクラスの誰もそう言わないだろうけど、私はそう思う。普段の立ち居振る舞いはおっとりとしていて、常に笑みを浮かべている。だからこの学校では皆が優陽のことを「落ち着いている」「温厚」などの言葉で表すが、私からすれば理解不能なほどに感情的なのが優陽であり、どの言葉もしっくり来ない。かといって代わりに最適な言葉を見付けようとも思わないけれど、時々、皆は一体誰の話をしているんだろうと思う。同じようにそれを聞く優陽は、いつだって肯定も否定もしないで笑っていた。そういうところが、皆にそう思わせる要因なんだろう。しかし、地元の同級生なら苦笑いを零すに違いない。――小学生の頃、癇癪を起こして同級生の男子を鋏で刺した女が、『温厚』だなんて笑わせる。私が止めなかったら殺していたと思う。大袈裟ではなく、優陽はそれくらいに激情家なのだ。一度爆発すると、手が付けられない。
幸か不幸かその騒動で優陽は罪に問われなかった。相手が軽傷だったこと、そして先に手を出したのが向こうだったということから、互いの親が話し合って有耶無耶になった。「幸か不幸か」とは勿論、私側の話。不幸なのは、折角消えてくれるチャンスだったのに、優陽がまだ私の傍に居ること。幸いだったのは、騒動の発端が私であったこと。私に絡んでいた男子生徒を、優陽が批難し、言い争いの末に男子生徒が暴れて私も優陽も殴られた。結果、優陽がぶち切れた。私は全く相手にしてなかったから言い争いにも参加していなかったし、発端とは言え、いっそ巻き込まれた気がするのだけど、何にせよ私も当事者。優陽が罪に問われた場合、私もどうなっていた分かったものではない。何事も無かった。そういう意味ではやはり、この結果は幸いだったのだろう。
ただ、常に何事も無くあってほしい私にとって、優陽はどこまでも、踏めば爆発する地雷だ。私の日常をいつ粉砕してくるものか分からない。消えてほしい。早く誰かに、どうにかして、取り除いてほしい。
* * *
意志を確かめようともせず、無遠慮に口内へ入り込んでくる舌先を受け止めながら、齧ってやったらどうなるんだろうかと考える。そんなことしてまで拒む理由は無く、反応を知りたいと思うわけでもない。ただ、優陽は私にそうされることを考えないのだろうかと、呆れるような気持ちが浮かんでいた。
「恋人がすることじゃないの、こういうの」
「そうだろうね」
疑問を容易く肯定しながらも、優陽はそれを議題とする様子も無く、むしろ肯定することで話を終わらせようとしていた。許可なく剥ぎ取られた私の衣服は、ベッドの下に放られている。制服であれば皺になるから等と手を止めさせる理由になったのだろうが、帰宅後に着替えた部屋着だった。なお、優陽が制服のままであることを指摘してやろうというつもりは全く無い。
「じゃあ、私らは恋人になったらいいのかな」
「それこそ理由が無いでしょ」
この話をしたくないんじゃなかったのか。途切れた会話を忘れそうになるほど長く私の肌に触れた後、優陽は不意に話を蒸し返した。こいつの考えること、やっぱり私には予測できない。深呼吸のような溜息を吐いたところで、優陽は堪えてくれるわけもない。手も止めようとしない。不定期に降ってくる口付けは、やっぱり私に言葉を紡がせないようにしているように感じるが、優陽の方は好きに喋る。つまるところ、私の言葉を聞く気は無いが自分は喋りたいという、身勝手な優陽らしい行動とも言える。
「……暑い」
「はは、茜はそればっかりだね」
暑いものは暑い。こんな季節に、いくら冷房を効かせていたって肌を重ねていれば暑い。行為の間、優陽の体温は嫌に高いし、滴り落ちてくる汗はいつも煩わしかった。途中からは自分のものと混ざり合って、どっちの汗かも分からない。優陽ぐらいの変わり者になると、逆に『暑くて不快だから』こんな行為を求めているのかもしれない。そんな馬鹿げた考えが浮かぶほど、私にとっては異常なものだった。何処までも、気が合わない。私はこんなもの少しも求めていないし、少しも興味が湧かない。
「――でもさ、後で飲む冷たい麦茶とか美味しいじゃない?」
優陽の気が済んだ後は、二人で冷えた麦茶を飲む。そうしたいわけではなく、そうしなければ熱中症になりそうだからだ。結局、こんな季節に興じるべきではない遊びだと思う。
「それが理由なら、外でも走ってきたら?」
「あはは、絶対やだ」
真っ当な指摘だと思うが、優陽は大体を笑い飛ばす。私も特別問い詰めたいと思うことはない。どうせ、元より大した理由は優陽には無いんだろう。今思い付いたから、口にしてみただけ。一つ一つを気にしていたらきりがない。考えるだけ無駄なのだ。そう思いながら会話を無感情に流してみても、優陽は私の神経を逆撫でするのが上手かった。同級生より、教師より、誰よりも上手かった。
「でも茜だって、気持ちいいでしょ」
もしもあの日に頬を引っ叩いてなかったとしても、今日がその日になったかもしれないと思う。
優陽が触れることに私の身体がどう知覚しようと、どう反応しようと、それは私が望むから起こることじゃない。真っ当な身体をしていれば刺激には真っ当な反応が出る。そんな当然の現象に対して都合のいい解釈をして、こちらに行為の理由を押し付ける言葉に吐き気がした。何も言わずに視線だけで不快を示すと、優陽は元々垂れ気味の目尻を更に下げた。
「ふふ、茜って時々、冷たい目するよね。私のこと、大嫌いみたい」
「……好きとか嫌いとか、そういう風に考えてない」
背中を向けて優陽を視界から追い出しても、くすくすと耳障りな笑い声がいつまでも後ろから私に纏わりついていた。夏の暑さより、湿度より、連日の気温変化よりも、優陽の笑い声が不快だった。
* * *
クラスメイトが私の腕に触れたのを、振り払いたくなったのはこれが初めてだった。触れられた時、優陽の体温を思い出して、ひどい暑さと不快感を思い出したのが理由。幸い、手を洗っている最中だったから、下手に動けば自分が濡れると思ってじっとしていた。この状況でなければ、衝動的に振り払っていたかもしれない。ゆっくりと水気を切ってから、ハンカチで丁寧に手を拭いた。
「暑いから、べたべた触らないで」
「え~、優陽なんて、もっと触ってるでしょ」
意識していなかったが、言われて思い返せば優陽が接触してくる頻度は以前よりずっと上がっている気がした。考えるほどに不快感は増し、無意識に大きく溜息を吐いていた。
「優陽は言っても聞かないだけ。同じことするバカ、二人も要らないよ」
言い方がきつくなり過ぎたことは、零してすぐに気が付いた。もう吐き出してしまったから取り消せない。私や優陽の一挙一動を流行りのゴシップとでも思っていそうなクラスメイトがそれを聞き逃すわけがなく、好奇の目が不躾に注がれた。
「茜も怒ったりするんだね」
「……別に、怒ってないよ。嫌だって言っても続けるなら、まあ、怒るかもしれないけど」
それ以上の言葉を振り切るようにして、私は立ち去った。授業はまだ残っていたのに、教室に戻らなかった。戻る気になるわけがない。こんな下らないことでも新しい話題を得たとばかりに、彼女はクラスの中で仲間を増やし、好奇の目を増やすのだろう。何が楽しくてそんな場所に行かなきゃいけないのかが分からない。心底下らないと思った。そんな風に苛立っている自分が、また話題として見つめられるのが、気に入らなかった。
「珍しいね、サボりとか。初めてじゃない?」
「……何でいるの」
声と言うよりも、影に反応して目を開ければ、優陽が立っていた。私がイヤホンを外すのを見守ってから掛けられた言葉に答える気にもならず、逆に質問を返す。優陽は少し困った様子で笑みを浮かべるだけで、それを咎めることはなかった。
「ホームルーム終わったからでしょ。チャイム、聞こえなかったんだね」
ふと見れば、生徒らが続々と校舎から吐き出されるように出て行く。どうやらすっかり放課後になっていたらしい。大音量で曲を聞きながら屋上で居眠っていた私には、時間の経過はよく分からなかった。
「何かあったの?」
「別に、何も。気分じゃなかった」
「あはは、ワルだねぇ」
むしろ優陽にこそ『何かあった』のかと思うくらいに、やけに機嫌が良さそうだった。それとも私自身の機嫌が悪かったから、その対比で、テンションの高い優陽が妙に目に付くのかもしれない。
「もうみんな帰ったから、教室戻ろうよ。雨も降りそうだし」
サボる為に屋上に出たのは、日差しが無くて、雨が降っていなかったから。日差しがきつければ陰が良かったし、雨が降っていれば屋根の下が良かった。だけど今日はそうじゃなくて、どちらも選ぶ必要が無かった。湿度ばかりが高い室内よりは風が通る方がいい。そんな理由で此処に居た。多分、放課後になって無情にも冷房が切られた教室より、此処の方がいくらか涼しいと思うけれど、優陽が言うや否や、足元にいくつかの雨粒が落ちてくる。私は何も言わず、先を歩く優陽に続いた。
例えばこの時、雨が降り出さなければ。私が屋上以外の場所に居たなら。一つ一つ、ページを捲るようにして『もしも』を考える。きっと一つでも条件が欠けていれば、“何も”起こらなかったのに。
「なんか、私の話題で怒ったんだって?」
「……何の話?」
対面で言われたら、私のこめかみがぴくりと震えたことは見つかっていたのだろうと思う。優陽がこちらを見ていなくて良かった。此処に、クラスメイトが居なくて良かった。頭の片隅でそう思った。
「茜と手洗い場で会ったって子が、何か怒らせたかもって言ってたよ」
「怒った覚えなんかない」
「ま、そうだろうね。だって、茜が私以外に、怒るわけがないよね。……ねぇ?」
優陽はそう言って振り返ると、左頬を指先でとんとんと示してみせた。引っ叩いたあの日のことを言っているのに気付いて、右手がじわじわと疼く。まるであの日の感触が蘇ったようで、気持ちが悪かった。
「あれはびっくりしただけだって言った」
「そうだけど」
優陽の機嫌は良さそうだ。私の気分はどんどん悪くなっていく。閉ざされた屋上への扉は空気の流れを遮断して、暑さが肌に侵食してくる。なのに指先ばかりが、異常に冷たかった。含みのある言い方で、笑い方で、いつまでも足を止めて私を見つめている優陽を、目を細めて見つめ返す。
「なに。言いたいことあるなら、言えば」
「別に大したことじゃないよ。……ただ、結局、興味ないなんて言ってたって、茜は私が『特別』なんだなぁって」
この時、優陽は今まで見た中でも一等気分の悪くなる笑みを浮かべた。
いつだったか、クラスメイトが言っていた。『優陽』の名前は優陽に似合うと。穏やかで優しい優陽には、よく似合うんだと。その時から、私はずっと異を唱えている。――こんなに性格の悪い女、私は一人も知らない。
感情は堰を切って外に溢れ出した。何よりも言われたくない言葉を、誰よりも言われたくないやつに言われた。限界まで降り積もっていたフラストレーションを爆発させるには、それは十分な火種だった。
勢いよく優陽の襟ぐりを掴んで押し上げる。優陽の喉からは言葉を成さない音が漏れ出て、そして一拍置いてから、盛大に咳き込んでいた。その咳すら、外に出ることは困難であるように乱れた音をしている。
「いい加減に、して」
声が震えていた。小説を読んでいれば『怒りで声が震える』なんて表現は至るところで見付けていたけれど、どんな状態なのかを知ったのは、この日が初めてだった。何故震えるのかも全く分からないのに、真っ直ぐな声を出すことが、どうしても出来なかった。
「特別なんか、あるわけないでしょ、優陽も、他の誰も、どうでもいい。全部、周りが勝手に決めて押し付けてることじゃない」
一歩、二歩と踏み出せば、優陽の左足が浮いた。後ろは階段だった。右足は辛うじて地面に触れているが、落ちた左足は宙を彷徨い、地面を探すように優陽の視線が微かに下に向く。
落してやろうと思ったわけじゃない。ただ、伝われと思った。どんなに私が優陽を疎ましく思っているか、邪魔だと思っているか、消えてほしいと思っているか、そのほんのひと欠片でもいいから、いい加減、理解してほしかった。怒りを人に向けるという行為が、相手を怯ませて不満を伝える手段なのだとしたら、私はこの行為で、優陽が怯むことを願った。
けれど少しも、叶わなかった。まるで新しい遊具を見付けて遊ぶ子供みたいな無邪気さで、優陽は笑ってみせた。
「そんなに怒らなくていいじゃない」
いつもなら否定した。昨日までの私だったら否定した。もしかしたら明日の私なら否定したかもしれない。だけど、もうどうでも良かった。私は憤っていた。疑いようもなく、誤魔化しようもなく、怒りに思考がぐちゃぐちゃになっていた。矛先は優陽だったけれど、本当は世界の全てだったのかもしれない。何がこの場に乱入してきたとしても、多分もう、止められなかった。
「しつこいからでしょ! どいつもこいつも、あること無いこと勝手に喋って、挙句あんたがそうやって煽るからいつまでも無くならない!」
優陽の笑みが深まっていく。何が可笑しい。何が楽しい。理解が出来ない。視界の端が赤く染まっていく。生まれてこの方一度も経験したことがないような感情の渦に呑まれて、自分が何をしているのか、何を言っているのかも分かっていたとは思えない。どうすればこの激情を外に全て吐き出してしまえるのか、言葉を懸命に探していた。
「優陽さえ居なかったら、こんなに、不愉快なこと絶対に無かった!」
「じゃあどうするの? 仕方ないじゃない、幼馴染でしょ、お向かいさんでしょ。家族だって皆が仲良しでさ。自分の家族も全部振り払ってどっか行くつもり? はは、そんなこと、出来るならやってみなよ」
奥歯を噛み締める。握り締めていた優陽の襟を、自分の手が壊れるんじゃないかってくらい更に強く握り込んだ。出来るわけがなかった。私は優陽以外の誰も疎んでいない。優陽の両親だって、私にとったら家族みたいなものだった。こいつの為だけにその全てを、どうして私が捨てなくちゃいけないの。優陽だけが、優陽ただ一人だけが、邪魔なのに。
握る力を強めるほど、当然のように、手が痺れていった。優陽の体重を支えてる手が、少しずつ感覚を失っていた。気付いた時に足を引いて優陽を引き戻せばよかった。分かっていた。殺したいほどの憎しみは無かった。そこまでの怒りも無かった。ただ、居なくなればいいのにと願っていただけだった。
なのに、脳裏を過ぎった。このまま手を離せば、優陽は永遠に私の前から居なくなってくれるかもしれない。
不意に結び付いたその思考が、私を迷わせた。一瞬だけ迷わせて、足を引くことを躊躇った。優陽はそれを逃してはくれなかった。
促すように、優陽の温い指先がつうっと腕の内側をくすぐる。反射的に緩んだ手、ずるりと落ちる茜の身体。息を呑んでも、それは止められなかった。
「これが私の、」
「――あ」
優陽の唇の動きとか、行為の中でも見せなかった陶然とした瞳ばかりが目に焼き付いて、自分の手がどんな形をしていたのかを、私は覚えていない。力を緩めて自ら開いたのか、落とすまいと必死にしがみついていたのか、全く分からない。
「二番目の、幸せ」
今までに見たことがないような幸せそうな笑みを浮かべて、優陽は、私の手から離れて行った。糸の切られたマリオネットのように、それは無防備に無抵抗に、階段を転がり落ちた。
この日は、少しだけ気温が低かった。
これから更に長い雨が続き、数日冷え込むだろうと天気予報で言っていたのを思い出す。いつの間にか窓を叩く雨の音が聞こえていて、その訪れを知らせているように思えた。手を伸ばせば届く距離にあった一つの体温が遠のいて、燃え滾るようだった自分の身体が温度を落として、肌に滲んでいた汗が、今は少し寒い。
「……優陽」
呟く声は震えていた。それに何の意味があったのか、自分でもよく分からない。驚きだったか、絶望だったか、喪失だったか、それとも、歓喜だったのか。ただ、横たわるものを表す記号を確かめるように、私はその名前を口にしていた。
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