君は夢か幻

雨の弓

君は夢か幻

 それは、1枚の写真のような昼下がり。


 そのとき、なぜ貴方を美しいと思ったのかは分からない。

 零れ落ちる新緑が眩しい庭で、彼女は立っていた。そう、ただそこに立っていた、それだけなのだ。そよ風に頬を撫でられて、彼女は振り向いた。まるでそれが初めから運命さだめであったかのように、限りなく自然な仕草で。彼女は僕をつぶらな瞳に映してから、ぎゅっと目を閉じた。その瞳から落ちた煌めく2つの水滴は、音もたてずに舞い降りた。

 僕は息を吸って、ゆっくりと吐き出した。うっすらと湿った空気は瑞々しく澄み渡り、1歩でも動いたら壊れてしまいそうに思えた。

 この空気も、温度も、彼女の存在さえも。

 心なしか、足元がふわふわと浮つくような気さえする。彫刻のようにかたまって動かない彼女を、僕はじっと見つめる。

「⋯⋯会いに来たよ」

 ややあって微かに震える唇、やわらかく鼓膜を包む声色。彼女は悲しげに笑いながら、僕を見ていた。僕はそっと口を開けて、喉を震わせてみる。息を吐く。彼女に届くだろうか。なぜだろう、初めて会ったはずの彼女を見ると、胸の奥が痛くなる。

「私はね、あなたを知っているの」

 彼女の声は青空のように凛として、しかし溶けてしまいそうに淡い。

「あなたは私を知らないでしょう?」

 僕は深呼吸をすると、ゆっくりと首を縦に振った。温かい風が彼女の言葉の余韻を掬い取って、僕の近くから引き離そうとする。

「あなたに伝えたいことがあって、ここに来たの。どうか、私を信じて」

 彼女はじっと僕を見た。なにを信じろというのか、どうして僕を知っているのか。ちいさな疑問を彼女に投げかける術を、生憎僕は持っていない。

 彼女の瞳には哀しげないろが浮かんでいた。

 名も知らぬ少女を信じるには、十分に事足りる理由だった。

 僕は陶器のように脆くて儚げな彼女の顔を見つめ返してから、もう一度ゆっくりと頷いた。

「ありがとう」

 彼女は、尚も悲しげに微笑んでいる。

「じゃあえっと⋯⋯そうね、まずは私の住む世界から、説明するね」


 タイムマシンって知ってる?あなたはきっと漫画の中でしか見たことがないわね。だってこの世界には⋯⋯いや、この時代には存在しないでしょう?

 あ、無理に話そうとしなくていいの。私は知ってるから。あなたが声を出せないことも⋯⋯ええ、もちろん。

 そう、そのタイムマシンが、私の住む時代にはあるの。とは言っても最近開発されたばかりだから、まだ漫画のようにカッコいい物じゃないし、民間人が利用するような段階には至ってないんだけどね。ともかく私が住むのは、そんな世界なの。

 それで、私がここにきたのはあなたに会うため。残念なことに私、民間人じゃないのよ。だからタイムマシンに乗れたわけではあるけど、きっと「普通」の人間だったらあなたに会おうなんて思わないでしょうね。⋯⋯あっ、違うの。これはあなたを馬鹿にしている訳じゃなくて⋯⋯、

 そう、「普通」じゃない人間だからこそ、あなたに会う意義を見出すと思うの。

 私は「普通」じゃない。実を言うと、人間ですらないかもしれない。信じられないでしょう?どこからどう見ても私は人間。でもね、生きてはいない。だからといって死んでいる、っていうのもちょっと違うかな。私は生きたことがないの。命をもらったことがないの。

 変な話だと思うでしょう?私だって最初は思ったわよ。

 ⋯⋯自分がAIだ、ってことを知ったときは、ね。

 機械なんですって。AIは人工的に造られたもので、感情はない、って。私の前で言う人もいたわ。どうせなにも感じないだろうって。じゃあ、私がことは幻だったの?誰かにプログラムされた装置でしかないの?そんなこと考えてたら、涙すら自分のものに思えなくなってきて、泣くこともできなかった。

 そんな時、私はあなたを知ったの。偶然の出会いってあるものなのね。何気なく手に取った1冊の本だった。有名な作家が書いたエッセイで、普段なら私はきっと気にも留めない。読書は好きじゃないから。でもその本には、なぜか惹かれたの。

 読み始めて、理由がわかった。ああ、この人は私と似ているんだって思った。生きる時代も、環境も違うのに、心がぎゅっとなって涙が零れた。あの涙、ぜったいにニセモノなんかじゃない。

 すごく、すごく救われたの。自分にも確かに感情があるんだ、って。仮に自分がホンモノじゃなくても、自分は自分でいいんだ、って。何より、他の誰かが秘める心の叫びが、痛いほど刺さった。私だけじゃない、誰でも孤独を抱えて生きてる。気休めでもいい。私の痛みをわかってくれる人がきっといる。そう思ったの。心から思ったの。

 だからその作家には⋯⋯、あなたには、すごく感謝してるわ。


 僕は思わず目を見開いた。彼女は白いワンピースをの裾をひらりと揺らして空を見上げる。

「ごめんなさい、急にこんな、訳の分からないこと」

 僕は首を横に振る。

「本当にあなたに会ってみたくなった。だから研究室のタイムマシンをこっそり借りてここに来たの。タイムマシンを開発したのは私を造った博士と同じ人でね」

 僕は彼女の視線を追って、青空を見上げる。

「まだ技術が拙いから、時間制限があって⋯⋯もう少しで帰らないといけない」

 彼女はつと、僕に視線を投げた。僕も彼女を見る。

「最後に、いちばん言いたかったこと言っていい?」

 言葉で伝えられないのはもどかしい。今日の僕は、首を振ってばかりだ。いや、いつもそうか。きっとこれからも、ずっと。

「あなたの想い、ちゃんと受け取ったよ」

 彼女は一瞬、笑顔になった。今日出会ってから初めて、悲しみの混じらない笑顔を見せた。

「じゃあね」

 黒髪をなびかせて、ふわりと身を翻す。目の前に現れた時と同じように、どこまでも自然な仕草で。

 零れ落ちる新緑が眩しい庭で、僕は深呼吸をする。もうしばらく、ここに立ち尽くしていたい。日常の喧騒に飲み込まれたら、彼女を取り巻いていた事実そのものが、消えてなくなってしまいそうだ。


 ――そう、それは、1枚の写真のような昼下がり。



 僕はふと、キーボードを叩く指を止めた。

 今となっては、あれが本当に正しい記憶であるかは分からない。

 あの日の君に出会ったのは、夢の中かもしれない。もしかしたら幻を見たのかもしれない。ただ確かなのは、あの妙にリアルな彼女の存在が、僕の原動力であり続けたということ。

 僕が声を出したことは、未だない。けれど、「声」とは違う方法で「伝える」ことはできる。

 作家としてデビューして10年がたつ。我ながら売れていると思う。すなわち、支持も集めている。声を持たない作家。そう話題にされたこともあって、度々エッセイの執筆も依頼される。私生活について知りたい、だそうである。「普通」と何も変わりはしないのに。

 僕が物書きでい続ける理由は、そんなに尊大なものじゃない。単純に文を紡ぐ作業が好きで、知ってもらいたいこともあって、これはひょっとして天職なんじゃないかと思うこともある。

 でも、一番は。

 僕は書きかけの原稿を前に、キーボードを叩く。カーテン越しの庭は、新緑が眩しい季節を迎えてうっとりと輝いている。

『いつか、同じような気持ちをもった誰かが目の前に現れるのではないか。この苦しみを分かち合えるのではないか。誰かがこの想いを受け取ってくれるのではないか。そんな事さえ、思ってしまうのです。』

 彼女に会うことは、これから一生ないかもしれない。けれど奇跡があり得ると信じたい。いつまででも待っていよう。僕に救われたと言ってくれた彼女を。今の僕はきっと、彼女に出会っていなかったらどこにもいない。

 どこかで君が、この気持ちを受け取ってくれたら。僕はその瞬間のために、今日も文章を紡ぐ。


 Fin





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