お別れ

 先輩の視線を感じる。今、点前はかきわけに入った。アスタリスクを描くように茶杓を動かして、茶をかきわける。小さく茶杓を打って、手は柄杓へ。

 お湯を掬う。たっぷりと。茶碗の上に持っていき、注ぐ。余ったお湯は釜に戻して、茶筅を取る。

 私は、誰のために練りたいのか。誰に美味しいと言ってほしいのか。決まっている。ずっと決まっている。

 目の前に顔が浮かぶ。その人のために美味しい濃茶を練りたい。想いを込めて、籠めて、篭めて。

 手に伝わる熱い感触。練ることで揺れる黒樂の茶碗。部室に響く茶筅の音。湯気。

 二杓目のあとのなじませも終え、のの字で茶筅を抜いた。濃い緑色の液面が、つやつやと光っている。私の想いも全て、そこにとけている。

右手で茶碗を取って、二回回して、出す。先輩がそれを取って、感謝して、飲んだ。

「……お服加減はいかがでしょう」

「大変結構……いや、言うことなし」

 先輩がそう言いなおして微笑んだ。ぐっと私の目のあたりにしわが寄る。私は目を閉じ、開ける。そして茶銘問答の準備をした。

「真紀ちゃんも飲んでみ」

 私が客付を向いたところで先輩が茶碗を渡してくる。飲んでみた。

 言うことなし。

 その通りだった。今まで練った中で一番美味しい。

 全て飲み終えて、一旦炉畳の隣に茶碗を置く。行の礼で先輩を見る。

「大変けっこうに頂戴いたしました。ただいまのお茶銘は」

「雲門の昔でございます」

「お詰めは」

「一保堂でございます」

「先刻のお菓子も結構に頂戴いたしました」

 目線で礼をして手を畳から離す。

「めっちゃ美味しいじゃん。先週から練習した?」

 間髪入れずに先輩が言う。

「はい。先輩に言われた通り、飲んでほしい人のことを考えたら、うまくいくようになりました」

「そっか。よかった」

「でもたぶん、もう……」

「ん?」

「いや、何でもないです」

 先輩が不思議そうに見てくる。私は曖昧に笑った。

 たぶんもう作れない。この濃茶は作れない。それは、今日が、今日だから。本番の、引退の、三日前だから。私が、後輩になる日だから。

「そう? じゃあ続けるか」

「はい」

 私は定座に戻る。蓋置を取って、置いて。柄杓を持って、構えて。

 終わりが近づいてくる。



「朝早くからありがとうございました」

「いいえー。これで本番は平気そうだね」

「はい! 先輩の前で堂々と点前しますね。超絶頼りにしてます!」

 部室の鍵を閉めて、部室棟から出る。もうすっかり朝日が昇っていた。太陽の光が、秋の気温にちょうどいい。

「期待しすぎ」

「だって先輩ですもん。私の頼もしい先輩です」

「はいはい」

 先輩はひらひらと手を振る。あしらわないでくださいーと言えば、真紀ちゃんだからと言われる。

 真紀ちゃんだから。

 言葉がふわふわ心にとけていく。心の深くまで染みていく。これは私の特権だ。先輩と一番仲のいい後輩の、特権。

 なんだか泣きたくなった。でも、まだだ。

「先輩はこれから授業ですか?」

「おう。別のキャンパスだから地下鉄向かう」

「じゃあここでお別れですね」

「そうだな」

 お別れ。何とはなしに言った一言が、心に突き刺さった。私のあらゆる感情が、その一言にとけていく。

「じゃあ……」

「あの、先輩」

「ん?」

 先輩を見つめる。私より頭一つ分高い視線。いつもと変わらない後輩を見る目。

頼もしい人。ずっとそう。

 先輩は面倒見がいい。ずっとそう。

 先輩との思い出がぐるぐる目の前を巡る。一生忘れない。ずっと大切にする。そんな思い出を目の前から振り払う。

 今は、目の前の先輩。

「好きでした」

 先輩が好きだった。違う、好きだ。でも、好きだった。ずっとそう。

 先輩の目は少しだけ大きくなって、それからすぐに元通りになる。ゆるりと笑って、私の頭に手を置いた。じわりと熱が、先輩の熱が、私にとけてくる。

 狡い。けれどこれも、優しさかもしれない。

「本番、頑張りましょう」

「もちろん」

 先輩は手を離した。身を翻して去っていく。

 これで私とお別れだ。

 先輩を好きな私とお別れして、先輩の後輩に戻る。そのための今日。本番は、先輩の後輩として、点前をする。もう先輩のために濃茶を練る私ではない。お客さんのために練る私だ。

 だから一番美味しい濃茶は練れない。美味しい濃茶しか練れない。

 でもこれが、お客さんにも先輩にも、失礼でない方法だ。

「好きでした」

 私の声はとけていく。広い青空にとけていく。

 ついでに私の涙も、一緒にとかしてくれないだろうか。












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今日から後輩 燦々東里 @iriacvc64

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