あの日

「真紀ちゃん、このあと暇? 飯行こうよ」

「行きたいです!」

「よーし、行くぞ」

 今から一週間前、先輩はそう言って私に声をかけた。あの日は、きっと大きな転機だった。

 先輩は隠れ家的な飲食店に連れて行ってくれた。小さなお店の端の席で、私と先輩は注文を済ませた。

「本番までもう一週間くらいだなー。六席目か」

「そうですね。先輩が半東だから心配ないですけど」

「えー俺、真紀ちゃんのために頑張れないわー」

「やめてくださいよっ」

 そんなくだらない話でころころと笑い声を響かせる。

 一週間と三日先。その日にある茶会で、私たち二年生は引退する。二年生にとっての晴れ舞台だ。その茶会の濃茶席では、亭主が二年生から八人選ばれて、半東は三年生から選ばれる。

 最後に選ばれるかどうか、選ばれたら誰と組むか。それは二年生にとって、現役生活の一つの目標でもある。結果、私は先輩とペアだった。そんな予感はしていたけれど、嬉しかった。

「お待たせしました」

「おお、これこれ」

「好きなんですか?」

「うん。前に先輩が連れてきてくれたんだよねー」

「思い出の地ですね!」

「そゆこと」

 店員さんが料理を運んできて、食事を始める。先輩の前にはチーズとベーコンのパスタ。私の前には枝豆と昆布のパスタ。

 隠れ家の一角。フォークで運ぶ麺。食道を通って、胃に落ちる。

「……最近、元気ないよね。どした?」

 一瞬会話が止まった瞬間に、先輩はそう言った。私は先輩へと視線を移す。テーブルに置かれたコップの中で、からんと氷がとけた。液面が揺れる。

 先輩は面倒見がいい。

「うーん、なんかこの前練習で、点前の完成度は高いのに、濃茶はそんなでもないんだねって言われちゃったんです」

 そして私はそんな先輩のこと、よく知っている。だから今日の目的がこれだって、わかっていた。

「別に悪気があったとかではないんです。本当にただのつぶやき程度、冗談みたいな感じ……だったんですけど、なんか……きちゃって」

 濃茶。選ばれた二年生が本番で作るお茶。

 濃茶を練るには技術がいる。なじませ、練り、なじませ。ほんの数十秒の間に、様々なことを考えて、様々な技術を駆使して、濃茶を作らねばならない。

 でも私は、だめだった。

 茶道と向き合って、たくさん練習してきた。他の人より。その自負はある。だけど私より練習量が少ない人も、同等くらいの人も、私より美味しい濃茶を練っている。私は、まずくもなく美味しくもない。パッとしない味ばかり。完成度が低い。

 何気ない一言で、現実を突きつけられただけ。

「練り方を変えても、茶碗の持ち方を変えても。色々な先輩のアドバイス聞いても……どんなに練習しても、なんでかな、追いつけないんです……美味しい濃茶、納得のいく濃茶、全然できないんです……」

 先輩は黙って聞いている。その手は動いていない。いつも丁寧な点前、綺麗な礼をする手は、止まっている。

 きっと本番も綺麗な行の礼で、私の後ろで、喋る。そんな先輩の手は、止まっている。止まらせているのは、私。

「あと一週間しかないのに、どうしたらいいんですかね。時間がない。わかっているんです。それなのに何もわからなくて……」

 私は、先輩の手元から目を逸らす。私の食べかけのパスタがこちらを見ている。中途半端な食べ物が、私の感情をかき回す。ふよふよと汁に浮いた昆布は、私の心みたいだ。

「真紀ちゃんって、なんのために濃茶を練るの?」

「えっ……? なんのため……」

「そう。本番が近い。濃茶の練習をする。美味しい濃茶を作る。その理由は?」

 先輩の声が脳内に響く。昆布が揺れる。枝豆が汁に滑り落ちる。

 わからない。わからなかった。

 本番のために練習をするのは当たり前だ。私にはそれしかなかった。

「責任感とか、周りの期待とか、たぶん真紀ちゃんは感じているよね。今までずっと頑張ってきたから。同期を引っ張ってきたから。でも一回、そういうの投げてみよう」

 投げてみよう。そう言った先輩の声は、いつもと変わりない。柔らかくて、温かくて、優しい。いつも私に寄り添ってくれる、大事な先輩の声。

 そんないつも通りの声は、私の心にころんと転がってきた。

「どう練ろう、どう茶筅を当てよう。そんなことも忘れてさ。誰のために練りたいかってことだけ、考えてみてもいいんじゃない?」

「誰のために……」

 その声は、私の心に風を生んだ。私は思わず顔を上げる。そこには先輩がいた。

 茶会をやるのは、お客さんのため。私が本番で練るのはお客さんのため。でも私が誰のために、何のために練りたいかは、きっと。

「うん、平気そうだな」

 先輩が笑う。

 嬉しそうな表情。大事な後輩である私の、悩みを解決できたからだろう。

「ありがとうございます」

先輩は面倒見がいい。後輩一人一人に寄り添って、前に進ませようとしてくれる。頼もしい背中で、そのストイックな姿で、後輩を引っ張ってくれる。

 それはずっと変わらないんだ。最初から。

 だから私も、後輩になりたい。今日から一週間と三日先。先輩の後輩でなくなるその日を、後輩として迎えたい。だからそのために、することがある。

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