今日から後輩

燦々東里

夜明け

 朝五時半。夜明けの空。

 ぐいっぐいっとペダルを踏む。口から白い息が漏れた。かじかんでいく頬に笑みがにじんだ。

 遠くの空では朝日が顔を見せ始めている。橙色と藍色の混じる空。橙色に背後から照らされた木々が真っ黒に見える。橙と黒のコントラストがこんなにも美しいとは知らなかった。

 それはきっと今日だから。茶会本番まであと三日。引退まで、あと三日。そんな今日。ずっと目指してきた今日。

 とにかく部室に先輩が来る前に、準備を終えなければいけない。練習に付き合ってもらうのだから、後輩として当然のことだ。

 私はぐっと背伸びをして、立ちこぎのスピードを速めた。



 ぼこぼことポットから音がする。あと数分でお湯が沸く。水指、建水、茶碗、茶入。すべて用意を終えた。先輩から見えない位置に、菓子器の用意も済ませた。普段はお菓子の練習はしないけど、今日は特別だ。

「おはよー」

「あっ、おはようございます!」

 入り口の方から先輩の声が聞こえる。私は勢いよく立って、入り口に向かった。先輩は私に気づくとゆるりと手を振った。その頭には小さな寝癖がついている。

『寝坊は日常茶飯事だからさ』

『自慢げに言わないでくださいよ』

 いつかそんな会話を交わした。今まで何度も練習を見てもらったけど、遅刻した日が何回もあった。今日は遅刻しなかった、なんてふざけたように笑う先輩と、それに怒ってみせる私。そんな光景はきっとこの部室にとけている。

 この部室にはきっと、私の覚えている『私と先輩』も、私の覚えていない『私と先輩』も、みんなみんなとけているんだ。

「準備もう終わってます」

「了解。始める前に一杯だけ茶、点てていい?」

「はーい」

 先輩は焦った風もなくそう言う。私は慣れたものと練習ノートで点前のポイントを確認する。

 先輩はいつだって自分のリズムを崩さない。誰かの気持ちを察することはできるけど、本当に必要なときだけ、人の気持ちに合わせる。そんな先輩の背中は、いつだって眩しい。

 先輩がポットを開けて、柄杓でお湯を入れる。シャカシャカシャカと聞きなれた音。のの字で茶筅を抜いて、先輩はゆっくり飲み始める。骨ばった男らしい指先が、そっと傾いていく。

「朝は寒いな」

「そうですね。まだ空暗いですしね」

「まあお陰で茶会前なのに、のんびり点前できる」

「じゃあ毎回六時で!」

「おい」

 先輩が笑う。私も笑った。先輩の持つ茶碗の液面が揺れる。私の瞳も揺れる。部室が明るい声に包まれる。

 こんな些細な日常が、大好きだった。

「よし、じゃあ始めよう」

「はい」

 飲み終えて、茶碗を洗い終えて、先輩は立ち上がる。私は点前座に座り、先輩は貴人畳に座った。扇子を前にして、行の礼。先輩の瞳が私を見つめる。空気ががらりと変わった。ここからは、笑顔もお喋りも必要ない。点前ともてなしとお茶だけ。

「炉の濃茶の平点前、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 ふざけるときはふざける。やるときはやる。いわばメリハリ。これも先輩がやっていること。私の目指している場所。

 いざ、私は菓子器を手に取った。

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