第十六話~最終話

第十六話 成長


 子供は育つ。

みるみる成長し、あっという間に大人へなってゆく。

幼稚園、小学校、中学校。子の成長とともに、どんどん一緒に過ごす時間が減ってゆく。

そして子供の心も私から離れ、友達や女に移っていく。

でもそれでいい。この子は私のものに違いない。子供が選ぶこと、選ぶ道は全て正しい。私はそれを受け入れよう。子の選択を素直に受け入れよう。友達も女も、この子が選ぶのならばそれは全て正しいこと。私が口を出すことではない。

心が私から離れなければそれでいい。

 そして、息子は結婚し、そして私の元から女の元へと去っていった。

悲しいけれど、息子の選んだ道。今は分かれても、いつか私の元へと帰ってくる。きっと。

 子供のいない家は生気がすっかり抜け落ち、空気だけが充満する閑散とした空間になりはてた。それは私の心と一緒。

 もしかして、間違いだったのだろうか?

子供の選択が正しいと思うのは。

私はすっかり幸せではなくなってしまった。寂しさが私の心に忍び込み、子供を私の元から連れ去った女に恨みがましい気持ちがわき上がってきた。

いっそのこと、女を。

いけない思いが私の心にわき上がる。


「母さん、僕に子供ができた」

うれしそうに息子は言った。

私の子供に子ができた。そして妻と子を連れ、この家に帰ってきた。私の元へと帰ってきたのだ。

何年も妊娠しなかった嫁がようやく孕み、そして出産したのだ。

息子のうれしそうな顔。

この顔を見ると幸せを感じる。

見つめれば、何年か離れて暮らすうちに顔に小じわができている。その小じわが微笑むことで余計に目立っている。

それすらが愛おしく感じられる。苦労したのかと問いたくなる。

しかし、それを問うても優しいこの子は「なにもない」と答えるのがわかっている。だから、顔を見つめるだけで何も聞かない。

心が通じているから、それでいい。

 嫁の出産の時の苦痛を乗せた息子の顔を思い出す。

あの時、無事に子供が生まれていなかったら、この子は今頃どんな苦しみの中にいたのだろう。ついそんなことを考えてしまう。

少し、子供のことを気にかけすぎると自分でも思う。

でもそれが親心なのだろうとも思う。なにしろとてもとても大事な私の子供なのだから。


第十七話 思考


 昼下がり。息子は仕事に出かけ、家に残るのは三人だけ。

窓を透かして入ってくる柔らかな光の下、嫁が子供を抱き、幸せそうな笑顔を浮かべている。

 私にもこんな時期があった。だから、今嫁がどんな気持ちでいるのか手に取るようにわかる。子供を食べてしまいたいくらいに可愛く感じるだけでなく、本当に食べてしまうことを考えてしまうほど愛おしいのだ。

それにしても、自分の孫なのに、息子ほどは愛情も感じなければ、可愛くも感じないのはなぜだろう。

おなかを痛めていないからか。

 母親の胸の中で赤子は、ああ、ああ、と鳴き声をあげている。

これが自分の子であれば、堪らない響きだったのに。

あと一年ほどもたてば、言葉にならない鳴き声から、少しずつ言葉を喋るようになるだろう。

最初の言葉は何かしら?


第十八話 言葉


 息子が仕事でいない時の事。いつものように柔らかい光に包まれたのんびりとした昼下がり。

赤子の最初の言葉は「ママ」だった。

「お母さん、今聞きました? ママってこの子が」

嫁の顔はうれしさというよりも感動を浮かべていた。目に涙さえ浮かべている。

「そお? 私には、ああ、ああ、としか聞こえなかったけど」

少し意地悪をいってみる。嫁が喜びいっぱいの顔から一転して、眉毛をしかめ不快感をあらわにする。

「嘘よ。確かにママって聞こえたわね」

「そうですよねえ、この子確かにママっていいましたよねえ」

再び一転して明るい声を張り上げる嫁。

「単純な娘」

そう思う。

「でも、いいの? 息子はなんていうかしら?

男の立場としては、パパって最初に言って欲しいんじゃないかしら?」

嫁はコロコロと表情を変える。今度は暗さを表情に浮かべため息までつき始める。

「はあ、そうなんですよねえ。あの人、子供が喋るの楽しみにしていたから残念がるでしょうねえ」

「夫のことを考えるのも妻の務めよ。あの子が喜ぶ顔を思い浮かべてごらんなさい。どんなに喜ぶか」

「そうですよねえ、旦那を喜ばせるのって大事ですよねえ」

甲高い声を張り上げぎみにして、にこにこと笑顔を浮かべる。

「本当に単純な娘。息子が喜んでうれしいのは、あんたより私」

言葉にはせず、表情にも見せず、そういう言葉を吐いたが、嫁は少しも気づかない。

「パパって言ったことにします」

呑気な言葉を吐いている。

 初めての言葉は「パパ」

息子はやはり喜んだ。これ以上ないほどに喜んだ。長い間暮らしてきて、初めてみる喜び方だった。息子のことは全て知っているつもりだったけれど、息子がこんな顔ができるということは初めて知った。

少し寂しく感じた。

 日を追うごとに赤子は言葉を吐く回数を増やしている。

ああ、ああ、という生きている証でしかない声に、時折ぱぱ、ままとはっきり聞き取れる言葉が混ざり、そしてただの命の証を圧倒しはじめている。

 赤子の言葉が家に漏れるたびに、息子や嫁の言葉の端々から、動きの端々から、「幸福」という春の日差しの香りににた暖かくて優しい軽やかな空気が流れ出してくる。

「満ちている」

息子の心は今幸せに満ちている。おそらくは今までの人生の中で一番、心は幸せで満たされている。

私が育ててきた間、息子はこんなにも幸せを感じてくれたことはあるだろうか?

私と一緒にいて、深い安心感はあったろう。愛情も感じていたろう。でも幸福感というのは、あったのだろうか?

もしかして、私は赤子に嫉妬しているのだろうか?

息子が女に盗られたときも、こんな気持ちにはならなかった。

恨みがましい気持ちにのもなったし、ここまでの嫉妬の気持ちはわき上がらなかった。

心は通じていると信じられたから。

でも今は違う。不安が押し寄せている。息子の心が完全に赤子に持って行かれ、二度と私の元へ帰ってこないのではないか? 

そんな不安が私の心に満ちてきはじめている。


第十九話 心


 ねたみ、恨み、嫉妬、そういう感情が私の心の中に渦巻いている。

時には嵐の時の海のような暗黒色と濃灰色の入り交じった雲のような気持ちにもなり、時には黒い赤色の液体の中に身を沈めたような気持ちにもなる。

一体どうしたらこの感情を抑えられるのだろう?

いや、もしかしたら押さえる必要などないのではないか?

あの時のように。夫の命が消え去ったときのように。

いけない、こんな事を考えてはいけない。

赤子が死ねば、息子は悲しむ。きっと悲しむ。そんなことは許せない。息子が悲しみに暮れる顔など見たくない。

私は死ぬまで息子の悲しむ顔など見たくはないのだ。

死ぬまで息子を守り、息子に幸せな笑顔を作り続けさせるのだ。

でも、息子は私のこんな気持ちをわかってくれているのだろうか?本当は何もわかっていないのではないだろうか?

私が息子を愛しているほどに、息子は私のことを愛していないのではないだろうか? 私より赤子の方がずっと大事だと思っているのではないだろうか?

赤子が死ぬのと、私が死ぬのと、息子は一体どちらを悲しむだろうか? 

不安になる。

いっそ、試してみようか?

そんな思いも私の心にわき上がる。

でもそんなことをしたら、息子はきっと悲しむ。

私の心は最近ずっと堂々巡り。


第二十話 息子


 息子は相変わらず私に優しい。とても優しい。昔と変わらずに私にとても優しくしてくれる。嫁も私に優しくしてくれる。

私の期待を超えて優しくしてくれる。

でも、赤子にかける優しさに比べれば、二人の優しさは、なんてことないもの。やはり、息子の心は赤子に向いている。


第二十一話 二人


 透明な青色の月がでていた。満月までもう少し。

息子も嫁も今夜はいない。子供ができてから初めて二人で夜の町へ出かけていった。私が送り出したのだ。

「たまには二人で」

そう言って二人だけになる時間を作ってあげたのだ。いや、私が私のために無理矢理作ったのだ。私と赤子と二人だけになるために。

なぜ、そんなことをするのだろう? 自分の行動が自分でも理解できない。私の心はどうしてしまったのだろう。

 この家には今夜は私と赤子の二人だけ。

その赤子もすやすやと寝入り、布団にくるまれ、ぴくりともしない。

すーすーと寝息が響く。私はその赤子を見つめている。

身じろぎもせず、じっと見つめている。なぜか、そうせずにはいられない。そうせずにいられない何かを、私は感じ取っていた。

 かたかたと風が窓ガラスを揺らす。ほんの僅かに出入りするすきま風が唯一家の中で動いている。

静かな夜。とても静かな夜。

昔もこんな夜があった。そしてまたこんな夜が来た。

今夜何かが起きる、そんな気がする。

いやな予感。

それは自分で招いたことである。それはわかっている。けれども、このいやな感じというのは、自分に原因があるとわかっていてもけっして拭えない。

この夜を不穏に過ごさないために、一刻も早く通り過ぎるために、今夜はもう寝てしまおう。

 私は後悔している。赤子と二人きりになってしまったことを。


第二十一話 啼く


 部屋の明かりを消す。

窓から青い月明かりが入り、赤子の顔を照らす。その光は赤みの差す健康的な頬を死人のような青に染め上げる。

 部屋を出ようと立ち上がると、ふと、耳に届く声のようなものがある。それが声なのか音なのかは、はっきりしない。

なんだろう?

耳を澄ましてみる。

子供だ、子供が何か言っているのだ。

新しい言葉を覚えたのだろうか?

耳を赤子の顔に近づける。

「タエコ」

冷気に心臓を捕まれたような気がした。私は私の耳を疑った。

「タエコ」と言ったのか? 確かに「タエコ」と聞こえた。

私の名前をこの子は覚えたのだろうか? 

でも、声が違う。いつもの赤子と違う声。でもどこかで聞いた声、確かにどこかで聞いた声。

「タエコ」

赤子が私を呼んでいる。

「タエコ、こんな夜だったなあ」

赤子はそう言った。

何のことだ? この子は何を言っているのか?

本当にこの子が喋っているのか?

「みぎゃあ」

赤子が啼いた。

どこかで聞いた啼き声。

「俺が死んだのはこんな夜だったなあ」

赤子は大きな瞳できろりと私の顔を見つめた。

「みぎゃあ」

再び啼いた。

青い月の光は赤子の顔を照らし、青く青く染め上げ、そして私の顔も赤子以上に青く染め上げている。

「あの夜も、青い月がでていたなあ。今夜の月とあの日の月は本当にそっくりだ。

あの夜、鼻と口をふさがれて、あれは苦しかったなあ。

そうして俺は死んだんだ。」

私は何も答えられない。

「おまえが俺を殺したんだよなあ」

大きな瞳で赤子は私を見つめ続ける。

「あんた」

夫の声だ。間違いなく夫の声。死んだはずの夫の声。

「タエコ」

タエコというのは私の名前。そして、夫とのかつての睦の言葉。その言葉が私を責める。

きろりとした大きな目は、私を見つめるが、何も訴えない。

憎しみも怒りも何もない。ただ虚無だけを浮かべている。

この目、どこかで見た目。

「みぎゃあ」

赤子は啼き続ける。


第二十二話 感触


 思わず私の手が伸びる。それは私の意志なのか、それとも慣れなのか。

 私は彼の柔らかな肌に指先で触れてみた。私と同じ温度がそこにあった。

大きく息を吸い、そして、ゆっくりと指先に力を込めた。

その時、私の指と同じ太さ、長さの生き物が手の甲をかすかに撫でた。それは、男に秘部を愛撫されるよりも遥かに大きな快楽を与える柔らかさだった。やはりこの快感味わっている。体がしっかりと覚えている。その快感に、込めていた指の力が緩み、触れ合っていた肌が一瞬離れた。赤子は大きく口を開け、ふしゅう、ふしゅうと呼吸する。

再び指に力を込め鼻と口をふさいだ。指の下で、何か言いたげに喉と口がわずかに振動した。

厭な感触。

それはいつか味わった感触。何度か経験した感触。

「この子はあの時の赤ん坊。そして私の夫」

一つ目で生まれてきた赤ん坊、苦しそうな呼吸をした夫。

死んだはずの、私が殺したはずの。あの日確かに彼岸を渡ったはずの。

 きっと、彼岸を渡って帰ってきたのだ。私に復讐するために。

私を苦しめるために。息子の子供の姿を借りて。そしてそれは成功している。

私はずっと苦しんでいるのだから。この子のために。この子が生まれたために。息子の愛情をこの子に奪われているのだから。

 だから、その苦しみから逃れるために、指に力を込める。力を込め続ける。無限の時間をかけ、そして指をそっと離す。


終章 彼岸


赤子はもう何も言わない、動かない。大きな瞳を見開いて、虚無だけを見つめている。死んだのか? 私が殺したのか?

そう、私がこの子を殺したのだ。

確かに赤子は再び彼岸へ旅立ったのだ。

 目の前には赤子だったものが転がっている。かっては夫だったものでもある。もはや何も語らない。啼くこともない。赤子の目にも何も浮かんではいない。空には変わらずに青く透明な月が出ている。

そして、私の心だけが変わっていた。

 安心感。

 嫉妬の喪失。

これで、息子の心は再び私に帰ってくるに違いない。そう思う。

が、同時に息子の悲しむ顔も浮かんで見えた。あんなに可愛がっていた子供が逝ってしまったのだから。彼岸を渡ってしまったのだから。

結局、私が息子を悲しませてしまうのか。私は息子の悲しむ顔を見る運命だったのか。

赤子は初めからこうなることを知っていたのか? だとしたら、赤子の復讐は確かになったのだ。最も私の恐れる形で。


がちゃりっ


玄関で扉を開ける音がした。息子夫婦が帰ってきたのだ。


さて。



本作は夏目漱石作『夢十夜 第三夜』より着想を得ました

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彼岸より 雪風摩耶 @yukikazemaya

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