第十二話十三話十四話十五話
第十二話 失
私の隣の子供の向こうで夫は寝息を立てている。静かな室内にすうすうという呼吸音とかさかさという衣擦れの音が聞こえている。子供のか弱く小さな吐息はかき消され、こんな側にいる私の耳にも届かない。
かつてはこの夫の寝息が愛しかった。心地よかった。この寝息を聞きながら眠ると安心することできた。でも今は子供の吐息を聞くことの邪魔でしかない。
どんどんどんどん私の心は夫から離れてゆく。夫の心は変わらずに私のそばにある。そして子供のそばにもある。どうして男はこんなにも器用なのだろう。
一度に二つのものを愛せるなんて。
子供は成長する。ほんの一週間その姿を見なければ、自分の子とわからなくなるほどに急速に育つ。子供の成長とともに愛情も成長する。そして夫への感情はどんどん薄れてゆく。あれほど愛していたのに。
みんみんと世界を騒がすせみの声を疎ましく思いながら、これからの人生に思いを馳せる。子供とずっと一緒に暮らしたい。ずっと手元に置いておきたい。こうして一生抱いていたい。そのためにはどうしたらいい?
静寂の闇の中に動く影がある。
「タエコ・・・」
夫が私の名前を呼ぶ。私の体を愛しながらささやく「タエコ」という言葉は睦の言葉。
夫の体が熱い。私の体に覆いかぶさり激しく動き私に快楽を与えようと必死になっている。
夫の動きにあわせてジンジンと腰から快楽が湧き上がってくる。
昔はこの時間が堪らなかった。待ち遠しくて仕方なかった。
仕事を持っていた頃は、この時間のために生きているといっても良いほどに好きだった。
それが今では子供と過ごす時間の邪魔をしているとしか感じられない。
体は快感に反応しつつも、その快楽におぼれる肉体を冷静に見つめる自分がいる。
自分のあげる嬌声を冷静に聞いている自分がいる。
「おぎゃ、おぎゃ」
突然に子供が泣き声をあげる。その瞬間に快楽に身をゆだねる私は消え去り、冷静に自分の姿を観察していた自分だけになる。夫の体を跳ね除け、子供を抱きかかえに走る。
この時ばかりは優しい夫も不機嫌な態度になり、快楽の余韻を屹立させたまま不愉快そうに私と子供の顔をじっと見つめるのだ。
けれども、私はその顔を見ない。夫の感情は背中に受け、心は子供に向ける。
乳房に赤子の顔を寄せるとすぐに乳首に吸い付く。
歯の生えかけた赤子は乳首をかみながら吸い、夫とはまた別の感覚を私に与える。乳首に僅かな痛みが走り、その痛みは子供を育てているという喜びを私の中に呼び覚ますのだ。
第十三話 夜陰
透明な青色の月が出ていた。満月までもう少し。
木枯らしが吹き始め、紅葉の残り香が舞い散り寒気が肌を刺し始めた頃の事。
風はピシピシと窓ガラスを鳴かせ、夜の闇の中に冷たい静寂が染み渡っていた。
昔、こんな夜があったな
すっかり寝付いた赤子を闇の中から見つめながら、過去に思いを馳せる。あの夜は何をしていたのだろう?はっきりと思い出すことができない。何か、とても重い気持ちになったような気がする。何がおきたか覚えてはいないけれど、心の重みだけは甦って来る。
赤子の幸せそうな寝顔を月明かりが照らし出している。その向こうで眠る夫の顔は青い月明かりをまぶしく感じるのか、それとも悪夢でも見ているのか、苦しそうに歪んでいる。
いかにも苦しそう・・・
でもなにもしない、してあげるつもりもない。もしかしたらこの人はこのまま死んでしまうのではないかしら? そんな気もする。
もし、本当に死んでしまえば。
この子は私一人だけのもの。
ずっとずっと抱いていられる。
私だけが可愛いがれる、私だけの赤ちゃん。
そして翌朝、夫は赤子の隣で冷たくなっていた。
第十四話 目的
夫が死んだ後、会う人々は必ずこう言った。
「これから大変ね」
「優しいご主人だったのに。何であんな善い人が。」
何も知らずに同情の言葉を口にする。
これから大変になるのではない。これから子供と二人だけの楽しい生活が始まるのだ。
優しくて善い人ではあったけれど、それだけではだめなのだ。
喪服に悲壮を顔に浮かべ、私は心で喜んでいる。
弔問の客の向ける同情と哀れみの視線を心地よく受け止め、涙という笑顔で答えを返すのだ。
子供、子供、子供、子供が大事。子供と過ごす時間こそが私の全て。
他の何者も要らない。子供さえいればそれでよい。
お願いだから、もう誰も決して私の邪魔をしないで。私たち二人きりにしておいて。
心の底からそう思う。
けれども、目に見えぬどこかから声が聞こえてくる。
「あんなことをしておいて虫のよい」
それはきっと私の中に眠る良心が上げる声。
私の犯した罪をあがなえという声。
過去の罪を清算せずに、幸をつかもうとする私への、私自身の批判の声。
でも、その声を聞くわけにはいかない。私は守らなければならない。
なんとしてでも子供を守り、二人で幸せに暮らしていかなければならない。それが私の望みで生涯の目的。
第十五話 喜
夫が死んで初めての冬。肌を刺す冷たい空気が室内を制す夜、子供が始めて言葉を発した。
「パパ」
といったようにも聞こえた。でも、そんなことはありえない。この子の父親はもういない。
きっと
「はは」
と言ったのだ。きっとそうだ。そうに決まっている。素直に「はは」という言葉を喜ぼう。
そう思うと、冷たいはずの空気が突然熱を帯び、室内全体が春のようにほんわかとした暖かい空気に変化するのが不思議。
幸せで幸せでどうしようもない生活。夫の生命保険であと何年かはこうして二人きりで暮らせる。そのあとは、看護婦の仕事に戻ろう。
子供と少しはなれることになるけれど、仕方がない。
子供の生活を考えなくてはいけない。私は夫とは違う。ただ優しいだけじゃない。子供を養う強さもきちんと持っている。
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