第3話 灰を流して

 冬が過ぎた。今年は去年よりも寒くて、鋭い冷気が茨の様に肌を、胸の内をチクチクと刺した。

胸の中の熱から覚めそうになる時は、ハンカチを取り出して鼻を埋める。そのまま深く息を吸い込む。

 香るのは、使い慣れた洗剤の匂い。あの人の匂いの面影はまるでない。それでも深く、深く、吸い込めば、あの人の何かが残っている気がして。

それを感じられたと思うと熱くなって、胸を刺す憂いの茨は燃えてなくなった。


 夏が過ぎた。

 榛名と二人で、学校の帰りに、駅前の飲食店を食べ歩く。髪が伸びたせいか、去年よりも首筋が蒸れて暑くなる。加えて汗で肩に髪が張り付いて不快指数は上がる。

歩いていると、ビュウと、強い風が吹いた。なびいて広がらないようにと、髪を手で抑える。周囲を歩く人の視線が、私の肌に突き刺さった気がした。

右腕を、隣を歩く榛名が肘で突く。さっきの仕草が可愛いと言われた。嬉しいけれど、その言葉をかけて欲しかった人は別にいて──。

イマイチ喜びきれなかった私は、「ありがとう」と愛想笑いを浮かべるだけに留めた。


 三年生になった。

 特に将来は考えていなかった私は、教師や親に勧められるままに都内の国立を目指すことにした。榛名に志望した大学を問われて答えると、「私の第一志望の近くだねっ」と声を弾ませて喜んだ。

 独り暮らしになるだろう将来の事を思うと少し不安だったけれど、彼女が近くに居るなら大丈夫だろう。不安が幾分か晴れた。

 予備校に通い、課題に追われることが増えたおかげで平日の帰りは極端に遅くなったし、休みは休みで課題のために一日を費やす事が多くなった。大人たちは「あなたが休んでいる時、周りは努力をしていて──」なんて囃し立てるから、私は遊ぶことも忘れて勉学に取り組んだ。

 努力の成果あってか、一月が近づくにつれて模試の結果は段々と周りの期待に応えるのに相応しいものになっていった。

 周りからは褒められた。「よく頑張ったね」と。周りから羨ましがられた。「もう安全圏でいいね」と。悪い気はしなかった。ううん、むしろ嬉しいし、ホッとする。だけど物足りない。

 物足りないけれど、今、私に出来ることは、少しでも勉強して、安心できる材料を増やすぐらいしかなかった。


 十二月が過ぎた。

 一月が過ぎた

 二月が──。


◆◆◆


 時はさらに流れて、卒業手前の三月の頭。

 街路樹の木の枝の先には小粒の蕾が点々と顔を出している。春の兆しは見えるものの、まだ肌寒い。すっかり伸びた髪が項を覆ってくれるから、おととしや去年よりも多少は過ごしやすい。あくまで多少。

 受験や引っ越しの手続きに追われて忙しい毎日だったけど、今日になってようやく一段落ついて余裕が出て来た。今日は学校に置き忘れていたノートや体育感シューズを持って帰るところ。

 今日は登校日でもなんでもない。それでも私は、ゆっくり起きて朝ごはん兼お昼ご飯を食べてから、それまたゆっくりと学校へ足を運んだ。明日は卒業式だから、その日に持って帰るものが少ないようにしたくて、回収の数分のためにわざわざ長い道のりを辿ってきたのだ。

 といっても今は早速帰路へと着いている。一番の友人である榛名はひーくんとデートだし、他の友達は勉強をサボっていたツケを払っている最中だった。そんな訳で遊ぶ宛もなくって、寂しいながらも直帰を選ぶ。

 鞄の中は回収した荷物とちぎりパン一本、黒いハンカチが一枚。それらが乱雑に詰め込まれている。来た時よりも三倍増しに重くなった鞄が肩から落ちないように、何度も何度も鞄の紐の位置を整えて駅まで歩いた。

 何事もなく乗った一本目の電車を降りて、グイッと伸びの動作をしながら、肺の中に冷えた空気を取り込もうとする。でも喉に冷気がぶつかって、くすぐったくて、咽る。唾が飛ぶほど派手に咳き込んだ。

 出かけた時間がそもそも遅かったせいで、乗り継ぎのために降りた駅で見る空には、厚い厚い雲がいっぱいに広がっていて、夕日の色を受けて黄金色に輝いていた。

 あと一、二時間遅くなっていたら、流石のこの田舎の電車も混みあっていただろう。どこか寄り道しなくてよかった。まっすぐ帰った自分を褒めてあげたい。

 能天気な事を考えながら、咽て乱れた息を整えると、ローカル線が停まる駅のホームまで早足に駆けて行く。

 ホームまで早足で駆けたのは、この時間だと本線からローカル線の乗り継ぎまでが結構スムースだから。待つ必要もなくすぐに乗れる。逆に言えば、もしこれを逃したら、四十分後まで電車は来てくれない。

 目的の番号のホームに向けて、階段を下っては登って、息を切らす。五分以上は余裕があるから、正直そこまで慌てる必要はないのだけれど、それでも万が一を考えて早めに。

 受験勉強に蝕まれてすっかり落ちた体力を呪いながらも、ローカル線の電車の扉をスルリと抜けていく。そして勢いのままにシートめがけて、そのままお尻からドスンとシートの端に腰を掛けた。でもシートのクッション材は思ったよりも固くって、危うく腰を痛めかける。「うげぇ」なんて情けない声が出て、思わず口を抑えた。

 この車両はボックスシートが混在しているタイプの車両。そのタイプだと、ドアの脇の座席はロングシートタイプのそれよりも圧倒的に固いんだ。分かってはいたけれど、勢いが余った。

 高校も卒業だっていうのに落ち着きないなと、対面の車窓に反射する情けない自分の姿を自嘲気味に笑う。不細工な笑顔を浮かべながら、ボックスシートの裏側にあたる部分に肩を寄せた。

 すると聞こえる、微かに零れたため息の音。それが一回、二回と続いていく。

 こう何度も響くと流石に気になる。悪いと思いながらも、そのため息の主を確かめたくなる。伸びをする振りをして、立ち上がって体を上へと思い切り伸ばし視線だけをボックスシートの中へと向けると──。

「あ……っ」

 すっかり消えていたと思っていた胸の灯が、音すら立てて燃え盛る。この時を待っていたかのように、ずっと消えずにいてくれたらしい。

 見つけたのは、私の熱の源。二年前に置いてきた初恋。鞄の中の黒いハンカチの主。

 ボックスシートの窓際に、深く俯いて座る彼は、ため息をまた溢した。零れていたのはそれだけじゃない。黒いズボンに点々と、水滴が落ちたような染みが浮かんでいる。

 体は、すぐに動いた。

 すぐさま鞄を漁ってハンカチを取り出して、荷物を引き摺りながら、彼の横へと転がり込む。

「ハンカチ、使いませんか?」

 きっと色んな想いが私のお腹の中で蠢いている。それらを差し置いて、私を動かしたのは、愛しい人の涙を止めたいという気持ちだったと思う。多分、そう。

 彼は弾かれたように私を見る。目元にはクマが出来ていて、白目の部分は充血していた。虚ろな目で私の顔を見上げる。唇が僅かに開いたけど、言葉はなかった。

 そのまま緩慢な動きでハンカチを右手で取り、それで目元を拭う。拭っても拭っても少しずつ涙が溢れるらしくて、その動作を数回繰り返した。

 私はしばらく唇を結んだまま見ていると、やがて電車は走り始めた。


◆◆◆


 出発してから次の駅に電車は着いた。開いたドアからまだ寒さを孕んだ風が流れ込んでくる。冷気が染みてきそうで、体から熱を逃がさないように、胸を抱いた。

「祖母がね、また倒れたんです。幸い命に別条はないらしいんですけど。また、なんです」

 不意に、彼はポツリと話しだす。こちらは見ない。前を向いたまま、僅かに俯いて、独り言のように言葉を溢す。

「倒れたと聞いてから一週間です。一週間も置いてしまった。ちょっとした繁忙期でしてね、どうしても抜けられなかった」

 私は目を見開いた。二年前は大学生だった彼は、今や社会人となっていたんだ。そんな当然のことに、驚いた。私だってちょっと前まで中学生だった二年前と違って、今や大学入学を目前としているというのに。

 時間の長さを感じた。いつの間にかそれだけの時間が経ったのだと。

 ただでさえ一度しか見られていないこの横顔。あどけなさを含んだあの時とは違って、今はその残滓が感じられない。さらに遠くなった気がする。何て声をかけて良いのか、分からない。

「今回はね、良かったですよ。しばらくして連絡が来て、元気だって伝えてくれた。でも次はどうでしょうかね。すぐに動けなかった結果、もし、会えなくなってしまったら。ここに来て恐ろしくなったんです。忙しさにかまけて、すぐに動けなかったこと。すごく後悔しているんです」

 熱くて湿った息を大きく吐き出した。ドアが閉じる音がして、彼の横顔の向こうの車窓に映る景色が流れ始める。山々に茂る木々の葉はまだ生え揃えていなくて、色彩は貧しく、どこか寂しい。ほぼ毎日見ていた筈の景色なのに、初めて寂しさを覚えた。

「想像してしまうんです。大切な人の死に立ち会えなかった時の事を。これからそうなった時、立ち合う事は叶うのか。それとも……。それが堪らなく怖いですね」

 ああ、怖い。怖いな。

 感情を繰り返し口にして、額に右手を当て、空を仰いだ。それで想いの内は吐き出しきったのか、何度目か分からない湿ったため息を吐き出すと、言葉の代わりに再び涙を流し始める。

 私の目頭が熱くなる。胸の熱が「動け」と声高に叫んでいる。形のない言葉が、彼の鼓膜を震わせたいと口を開かせる。

 私がここに居合わせられたのは、運命的な何かがある筈なんだ。彼がここで何かを迎えるために、私は必要とされて、ここに居る。でなければ、こんな奇跡のような再会があっていい筈がない。

 だから動かなければいけない。ハンカチでは堰き止められない涙を、私の何かで堰き止めなければいけない。

考える。見上げる。口を動かす。それだけ。言葉は出ない。車窓の向こうは次々と景色を変えていく。私たちは何も変わらない。止まったまま。

 ずっと何もできずにいると、舌の根よりさらに奥の方に渇きを感じる。潤いが欲しくなって、少ない唾を飲み込もうと、唇を結んだその時だった。

 目が眩んだ。彼の顔を見上げていた私の瞳に、焼けそうなくらいの赤い光が飛び込んできた。

 瞬きを数回挟んでから外に目をやると、厚い雲に遮られていた筈の夕日が隙間から顔を出している。今日は夕日を拝めないと思っていたのに。

 ずっと動かなかった彼も、私と同じように眩しさでたじろいでいた。

 彼は顔を伏せ、右手で目頭を揉む。呻いたような声を小さく漏らした後、目に入る光を遮るように、光源に近い左手を持ち上げて車窓の外を眺めた。私はその彼を見つめる。

 彼は光に照らされていた。目元から伸びる涙の軌跡と左手の薬指の一部を、煌くほどに輝かせていた。綺麗だった。手が届かない、額縁の中に居るみたい。

 彼は薬指の輝きに視線を移すと、目を見開いて息を飲む。そして愛しいものを手に取るように、照らされたその薬指を右手で包んだ。

 やがてまた陽が雲に隠れると、ゆっくりと腕を下ろす。そしてため息を一つ。今度のため息は湿っていなくて、重々しさもない。

「すみません。二年ぶりで、それも一回しか会った事のないあなたに、こんな事を話して。そしてハンカチ、覚えていてくれたんですね。ちゃんと持っていてくれて……。おかげ様で、もう落ち着きました。ありがとう」

 ようやくこちらを向いた彼は、瞼を腫らしたまま、不器用に微笑む。やっぱりもう、あどけなさは感じられない。目を逸らすように視線を落とすと、膝の上では未だに薬指を優しく包んでいた。


 嘘つき。


『おかげ様』。そう言ったけど、私の何があなたを助けたというのだろう。問い詰めても、答えられないでしょう? だって私は何もしていないのだから。何もできていないのだから。

 ああ、もう、熱くない。

「ありがとう、なんて、いやいや。あ、まだ顔が真っ赤ですよ。泣いた跡もありますし。このままだと、おばあさんが心配しちゃいます。返したハンカチ、しっかり使ってください。あ、お腹減ってないですか? ちぎりパン、今日もあるんですよ。えっと……、あった! ささ、どうぞー。全部あげます! 食べて元気になって、笑顔で会ってやってください! 遠慮なんていいですって!!」

 この言葉は灰だ。私の中の燃えカスだ。

 灯のない世界で、瞳は何も映さない。

 薪をくべていないにも関わらず、ずっと燃え続けてくれた灯は、ついに燃え尽きた。


◆◆◆


 いつの間にか私は歩いていた。

 歩を進める度に、眼前をゆっくり流れるのは見慣れた街並み。一日中人通りの少ない商店街では、錆びた看板やペンキが剥がれた外壁が目立つ。この時間に開いているお店なんてなくって、光源は道の脇にある切れかけの街灯くらい。点いては消えて、曖昧に足元を照らしている。

 見上げると、陽は落ちていて間もない空が広がる。所々小さな穴が開いた藍色の幕が世界に降りているみたい。穴からは頼りないくらい微かな光が漏れていて、それを星と呼ぶには存在感が小さすぎる。価値を見出すにはあまりにも質素な幕。

 見上げるのは止めて、顔を下げる。勢い余って俯く。足がもつれた。

 ふらつきながらも歩みを進めると、冷たい風が微かに吹く。どこかの家の夕飯だろうか。カレーの匂いが鼻腔を抜ける。そういえばさっきからお腹が空いていた。

 空腹を吐き出したくって、大きく息を溢す。空っぽのお腹の中から空気を吐き出したところで何も起こりはしない。つい数十分前までは、あれだけお腹の中に色んな想いが蠢いていたのに、気付いたら空っぽだ。空っぽ。

 今すぐこの空腹を満たしたい。体の中にぽっかりと穴が空いた感覚。今すぐ何かで埋めたい。飢える。鞄を漁る。何もない。


「パン、あげなきゃ良かったな」


 もうなんにも残ってない。鞄の中も、お腹も、減っただけ。何もない。何も。何も。何も──。


◆◆◆


 今日は卒業式だった。三年居たこの学校に、お別れを告げる日。今年は肌寒いせいで、桜は蕾のままで門出を祝ってくれた。去年の卒業式は綺麗だったらしいけど。

 たった一度しかない高校生の卒業式だ。泣けるかなって期待したけれど、思ったよりも呆気なかった。泣くどころか記憶にはあまり残せなかったくらい。

 式を終えて手に入れたのは、卒業証書なんかが入った筒と、記念品の時計が入った小箱。卒業アルバムは? と思ったけど、後で郵送してくれるらしい。解散間際に撮った卒業写真をページに入れなきゃいけないから、今日は渡せないんだって。

 まあ、殆ど記憶に残らなかった今日だけど、物があるだけマシかなって思う。振り返ろうとした時に物があれば、確かにその出来事はあったんだと、証明ができるから。

 先生は数十分前に泣きながら私たちの卒業を祝い、解散を告げていた。でも教室の中は未だに浮足だっている。仲の良い子たち同士で固まって、笑って、泣いて、今までの事を振り返っては、「これからも仲良くしようね」なんて言い合って。今はお昼頃だから、集まってどこかのお店に行こうって話も出てる。

 私は特定のグループに属さないで渡り歩くタイプだったから、グループがあるだろう皆にとって、私に話しかける優先度は自然と低くなる。

 おかげで他人事の様にこの空間を眺めることが出来た。未だ続くこの空腹感を誤魔化しながら話すのは、きっと億劫だったろう。これでいい。どうせ今日でお別れだから、気を遣う事もあんまりないし。

 こんな時真っ先に話しかけてきそうな榛名は、解散の後、案の定真っ先に声をかけて来た。「皆に挨拶してくるからちょっと待ってて!」と。今は色んなグループを渡り歩いては愛嬌を振る舞って、でも早々に話を切り上げて、次々とクラスの中を巡っている。

 榛名も特定のグループに属してはいないけど、色んな人と仲が良かった。むしろ全てに属していると言ってもいいかな。

自由に振る舞うために、全方位に気配りを絶やさない。それが人間不信を超えてからの榛名のやり方。きっとこのクラスの中で誰よりも大人だと思う。

 待っていることもないから帰ろうかと悩む。榛名とふざけ合う気分にはなれないから。それでも不思議と動けなくて。

 クラスの中を転々とする榛名を見てみると、何故か目が合った。どうかした? と言いたげに小首を傾げる榛名に、首を横に振って答える。やっぱり待っていることにする。

 とはいえ手持無沙汰な私は、空腹を少しでも埋めるためにパンを取りだす。鞄から出てくるのは、いつもの、ちぎりパン。ペリペリと袋を剥いて、いつも通り、千切らずに、カプリ、齧りつく。

 一口目は皮だけの味。飲み込む。二口目からはクリームが口に飛び込む。甘い。飲み込む。齧って、噛んで、飲み込む。何度も繰り返す。食道を通って、体に吸収されていく。

 でも、お腹は欠片も満たされない。昨日から、何を食べても満たされない。

 詰め込むように食らって、あっという間に手元にあったパンは消えていく。ならもう一本と、鞄からちぎりパンを引き摺りだす。今日はかつての様にちぎりパンが二本あった。

「おまたせー! って、ん? 二本目? そんなに食べると太っちゃうぞー。榛名ちゃんに分けることをお勧めしますよ、お客様!」

 袋を剥こうとすると、横からテンションの高い榛名がやって来た。ゆっくりとパンに伸びる手を腕で遮って、ふんだくるようにパンを抱く。

「今日は、ダメ。お腹が空くから、分けてあげない」

 冗談めかしに言うつもりだった。でも零れたのは、温かみとはかけ離れた冷たさ。榛名は「あらま残念」ととぼけた声を出すけれど、表情を僅かに強張っていた。

 慌てて口を手で塞ぐ。塞いだまま、くぐもった声で「ごめん」と付け加える。榛名はいいよって、笑って許してくれた。

「そんなお腹が減っているなら仕方にゃーね。あ、そうだ! この後二人でどこか食べに行かない? まあ引っ越し先でも顔合わせまくるだろうけど、今日は一旦区切りって事で、プチお祝い的な? 持ち合わせあるかい?」

 調子を崩さず、おどけた様に話す榛名に、私は口を抑えたまま頷いた。


◆◆◆


「何故にここ」

「仕方ないじゃん? お昼時だからどこも混んでるんだもん」

 狭い個室。小さなテーブル。大きなテレビ。脇に置かれたいくつかの専用の端末とマイク。

 榛名に連れられて来たのは、学校の最寄り駅近くのカラオケ屋だった。榛名は私の隣で、二つの端末を交互に弄って、興味深そうに眉を寄せている。

「この系列のカラオケ屋、最近になって料理に力入れ始めてね。実は気になってたんだー。今だとなんか安くなってるみたいだし。あ、クーポンも併用できるんだ! お得だねぇ」

「そうかもしれないけど。歌う気分じゃないから、乗れないよ?」

「分かってるって。それでもついて来てくれた優花が、私は大好きだよ」

 手にしていた注文用の端末をコトンと置くと、榛名は私を見据えた。声色は冗談めいたものではなく、どこか温かくて、でも視線からは少しだけ悲痛さを感じる。

「さっさと食べちゃう? それとも、あー、その──」

「珍しいね、榛名が口ごもるなんて」

「う、ちょっぴり悩んだだけ! もうちょいふざけようかなって」

 躊躇いを指摘すると、榛名はばつが悪そうに頬を掻いた。態々個室なんかに連れ来たくせに、何を今更尻込みしてるんだろう。

 ちょっと待ってねと、今も二の句が継げずにいる榛名。ここまで来て、やっと気づく。きっと気遣い方に悩んでいるんだって。二年前の会話と今日の高圧的になった私を見て、迷ってるんだって。

 そして私は、榛名が聞き出してくれることに期待してた。だから口では気乗りしない風を装いながらも、ここについて来たんだ。

 でもさ、それって、ずるいよね。

「食べる前に、ちょっと聞いて欲しいな、榛名」

 期待してるくせに、ただ待つのは、ずるい。

 ずっと私の目を見ていてくれた榛名の瞳に、視線で応える。榛名は焦げたように頬を染めて、はにかんだ。

「聞くよ。聞きたい、優花の事。分からないかもしれないけど、それでいいなら」

「……うん」

 二年前を思い出す。二人きりでした、私の恋の話。あの時はその始まりを、今日はその終わりを。

「昨日、ハンカチの人と会ったんだ。電車の中で、ばったり。その人、泣いててね。力になりたいって思って、近づいた。ハンカチ返して、これで拭いてってね」

 当時の私は子供で、榛名の言葉を突っぱねただけだった。子供扱いされたように勝手に思い込んで、癇癪を起した。それが子供だっていうのに。

「運命的だって思った。でも、私、何にもできなかったよ。掛ける言葉が分からなかった。何も出来ないまま、ずっと私はその人の横顔を眺めてた」

 更に振り返る。榛名の『これからもっと辛くなるよ?』という二年前の言葉。確かに今、その通りになってる。きっと榛名は再会すらできないで、私が寂しさでどうにかなると思ってたんだろうけど、過程はともかく、結果は的中。

 榛名は分かってくれてた、私の事を。

「でも、その人は、立ち直った。私は何もしてないのに、立ち直った。指輪、してたの。それを見たと思ったら、元気になってた。その瞬間、熱くなくなった」

 二年前の振り返りと共に、昨日の出来事の語りは終わった。

 たったこれだけ。これだけで、彼と私とのお話はおしまいだ。

 話すと実感させられる。私とあの人が共有した時間の短さを。始まりと終わりを含めても、一時間と少ししかなかった。

本当に、何もない。過ごした時間も、残る思い出や物も、報われた気持ちも、何も。

「榛名。ずっと、何か欠けた気分なの。何を食べても埋まらないくらい、ぽっかり大きな穴が空いてるんだ。辛いよ。最初から諦めてれば良かった。でも燃え尽きるその瞬間まで、抑えられなかった。期待してた」

 たったそれだけの時間で、何が期待できたのか。バカバカしい。普通ならそう思う。

 でも私には、諦める事も、期待を止める事も出来なかった。分かってても、それはきっと無理だった。想う以外の選択肢なんてなかったんだもの。

 だったらせめて、その短い時間で、私は──、

「どうすれば良かったのかな? どうすれば、報われてたんだろう? なにが悪かったのかな?」

 私に何か非があったなら、後悔でこの虚しさは埋められたのに。何か努力出来る事があるのなら、これから重ねて先を見る事もできたのに。想えることが何もないままに、緩やかに冷めてしまった。

「榛名。私にはもう、わかんないよ」

 気付いたんだ、諦められていない事。まだ何か出来るんじゃないかって、心の底では期待してる。終われないまま、終わってしまったから、まだ僅かに熱が留まっている、灰の期待が残っている。だから虚しいんだ。

 それが分かったところで、どうしたらいいか、わかんない。

「榛名……」

 体を横に向けて、縋るように、手を伸ばし、求める。答えを、言葉を、この先を。

 でも榛名は、私の手を払い除けた。息を吐き出した。首をゆっくりと横に振った。肌に熱い空気が触れた気がした。

「優花は綺麗になったよ。髪を伸ばして、仕草も可愛くなって、色んな人の目を引いた。太らないために、好物も我慢したよね。いつだって独り占めするくらい、好きだったくせに。そのうえやりたい事あった筈なのに、ちゃんと勉強を頑張れてた。何よりも返すその日まで、ハンカチをずっと持ってた。一途に、純粋に、その人を想ってた。

立派だよ、優花は。自慢して歩きたいくらいに、素敵な人」

 続くにつれて、漏れる吐息は、言葉は、湿気を帯びていく。まるでインクが滲んでしまったかのような文字の羅列。漏れ出した想いが止まらないのが伝わる。

「そんな優花でも、この恋は叶わなかった。優花に出来る事は何もなかったんだよ」

 何かを堪えるように顔を強張らせて、少しずつ言葉を紡いだ。その言葉は想いが滲みすぎて、文字の原型は留めていない。でも、私の耳にはしっかり届いた。

「何も、なかった……?」 私は返す、榛名の言葉を。

「何もなかった」 榛名は返す、私の言葉を。

 なかったんだよ。

 榛名は言い聞かせるように、さらに言葉を繰り返す。

「そっか。何も、なかったんだ」

 呟くと、私の吐いた文字は、私が見る世界は、滲んでいた。

 途端に、息が荒くなる。上手く呼吸が出来なくって、苦しくなる。必死に息を吸う。でも痙攣した体が、吸った息を吐き出させた。それでも息を吸う。吐き出す。繰り返して、倒れそうになる。

「優花……!」

 傾いた体。抱き留められる。榛名の胸の中が眼前いっぱいに広がる。

 甘いバニラの匂いが鼻腔を満たし、榛名の激しい鼓動に揺られながら、嗚咽を漏らし、その胸元を濡らす。

 体を預けると、大きく、優しく、ゆっくりと、背中を擦られる。一回、二回、三回……。その回数を重ねると、痙攣していた体は、少しずつ落ち着きを取り戻す。更に重ねると、呼吸も落ち着く。でも、離れる気に離れなくて。

 しばらく抱かれていると、濡れた胸元の熱は逃げて、ひんやりと冷たくなっていった。


 空腹は、もう無くなっている。

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くべられる初恋 翠風 鶯歌 @ohkamidorikaze

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