第2話 余熱

 約束を交わして一カ月が経過した。長く思えた夏休みは終わって、今日は始業式。

秋が近づいて、日差しは柔らかくなった。こうなると窓際席は日光浴が出来て居心地がいい。授業で退屈になっても山を彩る紅葉でも眺めたら心が穏やかになれる。

始業式ということで、教室前方にあるテレビには、校長先生の長くありがたい演説が映っている。頬杖を着いて聞き流していると、時計の短針が一周回った頃にようやく映像は切れた。その後はそそくさとホームルームが始まって、程なくして下校の時間を迎える。

 周りがどよめき始める中、私は席に座ったまま鞄を机にドンと置いて、その中から好物を取り出した。当然出したのはちぎりパン。本数はいつも通り二本。

 早速袋を剥いて齧りつこうとしていると、案の定、後ろから声がかかった。

「そこのお嬢さん。今日という今日は、その一欠けらだけでもいいから、置いていってもらうゼっ」

「強気なのか控えめなのか、ハッキリしないチンピラだね」

「へへへ、あたしゃあ淑女ですから」

「ツッコミ所多すぎない?」

 振り向くと、ガニ股気味に歩いてくる榛名が見えた。口にはタバコ、ではなく棒付きの飴が咥えられている。おまけに胡散臭いグラサンまでかけられていて、今日は気合が入っているみたい。

「こんな事のために、わざわざサングラスなんて買ったの? 持ってなかったよね?」

「ん? ちゃうちゃう。ひーくんが家に忘れてったの。今日の帰りに会うから、そん時に渡そうかと思って」

「……そう、なるほどね」

 あっけらかんとそう言う榛名の言葉に、今までにない胸の締め付けを覚えた。

『ひーくん』というのは榛名の彼氏、池澤光のあだ名。他校に居る榛名の幼馴染で、ハーモニカが大好きな渋い顔をした男の子。

 榛名に彼氏が居るのはとっくの昔に知っていた。今更思う事なんて無い筈だし、池澤君は別に私の好みでもなんでもない。それなのに、どうして息苦しさを覚えたのか。

 額に手を当てて考えてみるけど、答えは出なくって。榛名が「あれ、どうったの?」と顔を覗き込んできた辺りで、答えを探すのは一旦諦める事にする。胸の内はスッキリとしないまま、「ううん、何でもない」と返す。

「さておき! 今日という日は一欠片だけでも頂くよ!」

「しつこい。やらないよ」

「あいっかわらずケチだね! どうせ夏はクーラー効いた部屋でゴロゴロしてたんでしょう? 炭水化物の塊ばっか食べてると太っちゃうよ?」

 唇を尖らせて、威嚇するように手を挙げた榛名。いつもなら聞きながして食べ始めるけれど、今日だけはその気になれなかった。

「太る、か。太っちゃうのは、嫌かな」

「え、なに、どうしたの? どうして千切り始めるの?」

「いや、榛名が欲しいって言ったんじゃん。ほら、半分」

「えぇ……? まあ、受け取るけど。ありがと」

 私がちぎりパンをちぎる。七分の四の量を榛名に渡すと、榛名は困惑した顔で恐る恐る受け取った。自分で言ったくせに、おかしな友達。

 受け取ったパンを手に数秒固まると、バリボリと音を立てて口にしていた飴をかみ砕く。音が聞こえなくなると、喉元が蠢いたのが見えた。

 ゴミ箱まで一往復のシャトルランを唐突に終えると、棒だけになった飴は消えて、手元はパンだけになっていた。

「じゃあいただきます」と、榛名は頬にかかる髪を掻き分けてから小さな口を開けて、少しずつ食べ進めていく。一連の仕草を眺めていると、榛名は「ん?」と声を漏らして私を見つめた。私は見ていたのを隠すように「いただきます」と言ってパンに食らいついた。

 やがてお互いが食べ終えたところで、満足そうに頬を緩ませた榛名に問いかける。

「男の人って、やっぱり髪が長い方が好きなのかな?」

「ぶっ!? なんなの? 今日の優花ちゃんってば、おかしくない?」

「いいから、答えて」

「んー」と悩ましい声をあげながら頬を膨らませて数秒。シンキングタイムを終えたのか、口を開くと、頬に溜めていた空気が抜けていった。

「無難な答えだけど、人それぞれとしか。でもそれだけじゃ納得しないと思うから言うけど、優花は髪伸ばしてた時の方が男の子っちが目を向けてたと思うよ? 私もそっちのが似合うと思ったし」

「え、本当?」

「ほんとほんと。むしろ気付いてなかったんだね、視線」

 気付いてるとばかり。そうボソリという榛名に、首を横に振って応える。

 視線なんて全部榛名に吸い寄せられていたと思っていたから、心の底から意外だった。でもそういう事なら、また髪を伸ばしてみたい。未だ持ち歩いている黒いハンカチの持ち主に会うまでに伸びているといいなと、自分の短い髪を弄びながらそう思った。

 疑いの眼差しで嘗め回すように私を眺めた榛名は、やがて「ああ」と声をだして、耳元に唇を寄せてきてこんな事を呟いた。

「やっぱり男? 男なの?」

「……、何をいきなり」

「えー、まじなの? パンが男に見え始めたとかじゃないよね?」

「れっきとした男の人だよ!!」

 この子は私を何だと思っているのかと、つい小声ツッコミを入れてしまってしまう。そこから慌てて口を抑えた。ニヤリと悪い顔を浮かべた榛名を見て、自白させられたのに気づいたから。

「あららー、夏は女を変えるのね。いいですよー? この榛名ちゃんが、お悩み全部聞いてあげますよー? ただし何があったかは吐いて貰うけどねぇ」

 両手の平をすり合わせながら「ひっひっひ」とワザとらしく笑う。胡散臭さをこれでもかと漂わせてジリジリとにじり寄ってくるから、私は座っている椅子ごと窓際へと退いて行く。

「ほらぁ、こうやってネタにされるから言いたくなかったんだよ」

「よく言うべ! 優花だって私が付き合いたての頃は、パンをもしゃもしゃ咥えながら色々聞いてきたじゃん!」

「うっ……。そう言われると弱いな。いやでも。友達が変な男に引っ掛かったら嫌だったし。本当に心配してたんだよ?」

 確かに面白がる気持ちはあった。でも心配してたのも本当だった。榛名は昔から『無駄』に人気のある子だから、隙さえ見せれば色んな人が寄って来た。いろんな思惑を抱えて。そういう背景があるから、「付き合い始めた」と言われれば当然心配もした。

 結果的に杞憂だったし、男の影が見えた事で言い寄られる事も殆ど無くなったけど。

「……心配してくれてたのは、分かってるよ」

 私の言葉に、さっきまでのふざけた雰囲気は鳴りを潜めた。はしゃぐような声色から、何かを押し殺したような声色に変わる。

「ちょっと場所、変えない? ついて来て」

「え、なに」

「いいから。私が真面目トーンで話したら周りから怪しまれるでしょ。それに周りに聞かれたい話でもないでしょうに」

 口調を強くして真顔になる榛名に、私は何が何だか分からないまま「わかった、けど」とだけ答えて従うことにする。

 足元の私の鞄を押し付けられ、榛名も自分の鞄を担ぐ。それから私の空いている右手を取って、早足で歩き始めた。私は引き摺られるようについて行く。

 ズカズカと変わらず足早に廊下を行き、階段を登り、それを繰り返して、やがてその歩みは止まる。辿り着いたのは屋上へ続く扉の手前。今は閉鎖されていて、この扉が開くことはない。

「ふぅ。三階分上がるのはちょっと息が切れるね」

「ほんと、だよ。はぁ、……ふぅ。で、いきなり、どうしたの」

「真面目な話をちょこっとね」

 そう言い切ってから小さな深呼吸を二回繰り返すと、榛名の息は整った。それから目つきを鋭くさせ、少し冷たさを感じさせる声で話す。

「ごめんね。あんまシリアスになるのは悪いとは思うけど、言いたいから言う」

 ひーくんと付き合う前の、人間不信になりかけていた時の榛名を思い出した。圧力を放って、人を寄せ付けないように振る舞う。会ったばかりの彼女はこんな感じだった。

「正直なとこ、自分で言うのも嘘くさく聞こえるかもしれないけどさ、私だって心配するよ、そういう話は」

「でも、心配する要素なんて──」

「あるよ。男の視線にも気付かないくらい、異性に鈍感な優花だもん。すっごく心配。中学の頃なんて、私ばっか見てたせいでさ、無自覚に数人振ってたの気付いてなかったでしょ? それに、騙されそうになった事も」

「え、本当?」

 言われたような経験をした覚えは無かった。一体どの場面の事だと、こめかみに手を当て改めて記憶を探るけど、該当する記憶はまるで無い。疑うように視線を向けると、榛名は呆れた様に首を振った。

「本当本当。各方面が可哀想になるから、それ以上は掘り起こさないけどさ。だから証明も出来ないけれど」

「榛名がこういう時に嘘つかないのくらい分かるよ」

「そう? ありがと。じゃあこれで自分が鈍感な事には気付いてくれた?」

「うん、まあ」

「ならいいけど。……そんな訳で、異性絡みの話はちょこっと心配します。どんな相手かは知らないけど、異性に鈍感な自覚はちゃんと持ってください。危ない目に遭うの、私は見たくないから。真面目な話はとりあえず、おしまい」

「……わかった。ありがとう、榛名」

「どうしたしまして」 慣れない事をしたなと、居心地悪そうな顔をして頬を掻く。それも束の間、一度大きく息を吸って、吐いて、それが終わる頃にはケロリとしたいつものふざけた榛名の顔つきに戻っていた。

 正直実感は湧かない。でも、かつて榛名に降りかかりそうになった危険を、私自身が持つ要素が原因で被る可能性が少なからずある。多分そういう事だと納得することにした。信じがたいけど、ここまで来てその言葉を無碍にするほど私たちの仲は浅くないんだ。

「んで、こっからは私の好奇心。鈍感な優花ちゃんが惚れた男の話、ちょー聞きたいんだけど? 聞かせてくれるよね? 私達、友達だもんね!?」

「他人から言われたら信用できない言葉だよね、それ」

 苦い薬を口に含んだまま浮かべたような笑みを向けると、榛名は「他人ならでしょ?」と鼻を鳴らす。

「でももう身内みたいなものじゃない? 将来は重婚できる国にひーくんと優花と三人で行って籍を入れるつもりだし。優花は私の妻としてね。どう、未来形で身内でしょ?」

「ほら、って言われても。何、その将来設計。私、聞いてない」

 さも当然と、何の淀みも出すことなくスラスラとそう言う榛名に、私はどんな感情を抱けばいいのか。

 榛名からの好意は感じていたけれど、そこまでだったの? それとも冗談? どちらに傾けばいいのか分からない私の中の天秤は、ただ直立不動のまま均衡を保つだけ。固まって動けなかった。

 フリーズ状態の私を見て何を思ったかは分からないけど、一歩近づいて榛名は私の両肩に手を軽く置いてこう言う。「大丈夫、ひーくんは器がおっきい男だから」

「そんな心配してない。……冗談ですよね?」

「さあ、早く吐いて。いや、吐け?」

「嘘だと言って欲しかったなぁ。まあ、いいけどさ」

 天秤からは測るべき材料が零れ落ちて、ようやく硬直から解放される。フラフラと揺れる私のポンコツな秤では冗談か否かの判断がつかないので、それは一旦他所へと置いておいて──。

 ここまで来たら隠す事でもないかと、観念して全て話す事にした。

 私だってこの浮ついた気持ちを吐き出したかった。今ここにある現実の誰かに、この気持ちを聞いて貰いたかった。今も胸に残るこの熱を、取り出して晒してみたかった。

「じゃあ、話すけどさ」

 そんな前置きを置いて、十分にも満たない時間、私はツラツラと思い出を語る。思い出せる範囲を全て、つまるところ一部始終。語る。語る。


 きっと世間から見たら、何周も遅れた初恋のお話。駅のホームから始まって電車の中で終わる呆気ない淡泊な展開。それでいて完結もしてなければ落ちもない。話としては不出来過ぎる。

 それでも榛名は語る私が退屈しないように、不安にならないように振る舞ってくれた。「うんうん!」、「で、それでどうったの?」、なんて彼女が楽しみにしていた映画でも見るみたいな面持ちで反応を見せてくれる。おかげで語りきるのは難しくなかった。

「それでこれがそのハンカチね。これでおしまい」

 いつ会っても返せるようにと、鞄に忍ばせていたハンカチを見せびらかすように目の前につり下げて、私はようやくこの不出来な物語の語りを終える。

 榛名はそれを聞き終えて、呆けていたのか思考をしていたのか、固まったように動かない。数秒してから、言葉の機能を思い出したかのように小さく口を開けた。

「おしまいなの?」

「え? うん」

「……ほー、へー、ふーん」

「何その反応」

「思いの外あっさり、というか何も起こってなくって、結構複雑な気分っていうか」

 顔の半分はいやらしい笑み。もう半分は引きつった笑み。複雑な表情を浮かべる榛名の気持ちは汲み取りかねた。確かに話したかったから話したけども、自分から聞いておいてそのリアクションは無いでしょう。

 不機嫌さを露骨に表すように眉間に皺を寄せて睨みつけてみると、「でも、いやー、優花さんはロマンチストよね」と肩をすくめた。

「会って間もない人に、そこまで詰め寄ってハンカチを強奪した割にはだよ? 連絡先を聞くとか、直近の約束を取り付けるとか、そういう事をしなかったのはなんで?」

「え、あ、そうだね。……え、なんでだろう?」

「自覚なしかー。きっと運命的な再会に期待したかったんじゃないの?」

 榛名の言葉を受け止めて、手に転がして、その言葉の意味をマジマジと観察してみる。

 勿論そんなつもりはない。とはいえ、どんな繋がりでもいいから欲しいと思ったのなら、何もあんな歪な約束でなくても良かった筈。それこそ榛名が言ったような言葉でも。

 考える。想像してみる。明確な約束を取り付けて再会するのと、不確かな約束だけ交わしてある日ふと再開するのと。望むのならどちらだろうと。

 答えはすぐ出た。それなら断然後者。胸が熱くなるのは、絶対にそっち。例えあの場に戻って二つの選択肢が頭に浮かんでいたとしても、私は同じことを言う。

「榛名の言う通りかも」 笑われると思いながらも素直に答える。榛名は笑った。でも少し乾いた笑みだった。「そっか」と寂しそうに言った。

「ハンカチはずっと持ってたの? 出かける時は欠かさずに、ずっと」

「そうだけど?」

 そうじゃないとまた会った時に返せないじゃない。何を当然の事を聞いてくるのかと不思議に思って顔を上げると、榛名は目を少し逸らしていた。その時にはもう笑みは潜められていた。

「辛くない? もう一カ月だよね。会いたい人と会えずに、また会える確証もなしに」

「うーん。ちょっと疲れる時はあるよ。けど、平気。今度会ったら何を話そうかって、むしろ楽しみなくらい?」

 榛名の言葉に心配の色が含まれている。私はそれが杞憂だって言いたくって、少しおどけた様に話してみた。でも榛名の表情は変わらない。

「榛名ちゃんのシリアスパート、延長いい? 延長料は初回無料」

「それ以降はお金取るんだ……。なら、せっかくだから一回だけ」

「ご延長ありがとうございます。ではでは」 真顔のままに榛名はコホンと咳払いを一つして、それから瞼を閉じて大きく息を吸った。そしてゆっくり目を開けると、榛名の自選は私の目を射抜く。

「余計なお世話だけども。これからもっと辛くなるよ。運命的なことは、なかなか起きないんだよ」

 向けられた瞳は、幼い頃によく向けられた母の視線に似ていた。捕まえた魚をお世話が足りなくて死なせてしまった時や、喧嘩して誰かを傷つけた時、こんな瞳を向けられたっけ。

「分かるよね?」

 諭すように。言い聞かせるように。

 憐みとか、呆れとか、そういう色はない。ただただ私のためを思ってくれているのは分かった。

 幼い頃だったら、その優しさに気付けなかっただろう。意味もすぐにはよく分からなくって。でももう、子供じゃないんだよ、榛名。私は、もう高校生なんだ。

「余計なお世話だよ。分かってる、そんな事。それとも、私が漫画やアニメみたいな展開が必ず起きると思ってる、夢見る少女だとでも言いたいの?」

 すぐに会えないなんて分かってる。会えない可能性があるのだって。私だってバカじゃない。そんな目で見られなくったって、分かってる、分かってる。

「分かった上で、私は待ってるつもりだよ。それとも、なに? 榛名はこう言いたいの?このまますっかり忘れて、何もなかったように過ごせばいいって。そう言いたいの?」

 何を言われても、悪い可能性があっても、生まれて初めてのこの熱量を、無かったことに何て出来る訳ない。言われて無くせるような物なんかじゃない。

「榛名は好きな人にいつだって会えるもんね。だから私の気持ちなんて分かんないよ。私は、いっそ辛くなってもいい。想えるだけでも幸せ。幸せなんだよ。そういう恋だって、あるんだよ」

 間違ってなんか、ない。だから親が子供に間違いを認めるよう言い聞かせるみたいな、そんな言い方はやめてよ。私はこれで幸せなんだから。

 訳知ったような榛名の言葉の存在をかき消すように、声を荒げて、首を大きく横に振った。

 榛名はその間、何も言わない。榛名の言葉を蹴散らし終えるまで、目を逸らさず、黙って私の言葉を聞き入れてくれた。優しい瞳のままだった。

 食い下がると思っていた私の予想は裏切られて、おかげで体に入っていた力の行き場は失われた。

「ごめんね」 私が声を出すのを止めて熱い吐息を漏らすだけになった頃に、榛名はそう言った。

「私には分かんないよね、優花の気持ち。余計なお世話だった。本当にごめんね」

 榛名は半歩だけ私に近づいて、私の手に向かって腕を伸ばす。でも、途中で腕を止めて、引き戻した。

「分からない私には、きっと優花の恋は応援できない。でも、優花の事は、優花自身のことは、応援してるから。本当だから。それは否定しないで欲しい、かな」

「……分かってるよ」

「そっか。ありがと」 そう言い切る頃には、榛名の言う『シリアスモード』が切れたらしい。瞳に宿していた優しさは、いつもの好奇心の旺盛さに塗りつぶされていた。

「ならこの話もここでおしまい! 私はこれからデートだけども、優花ちゃんもどうどう? 私達の惚気に付き合う代わりに、美味しいものを奢ってあげるよー。主にひーくんが負担します!」

「よくもまあ、さっきの話の後でそんな提案出せたね!? 行かないから。邪魔したくないし、悪いし。二人で楽しんで」

「そんな気遣いなんか、いいっていいって。私は優花ちゃんが大好きだから、来てもらった方が嬉しいんだよ?」

「私が気遣ってるのは池澤君の方だから。てか私が楽しくない。いいから、早く行ってあげなよ。学校終わってもう結構時間経ってるよ?」

 私はそう言ってスマホの画面の時刻を榛名に見せつけた。もう一時間は経っているだろう。そう思っていたのに、実際の経過時間は二十分弱で。体感と現実の差に、体が一瞬震えた。

 でも榛名はそこまで驚かなかったらしい。「ありゃりゃ」と間抜けな声を出して、足元に転がっていた鞄を持ち上げた。

「んじゃ私は行くね。行っちゃうからね? あとから『やっぱ来たい!』って言っても……、喜んで迎えに行くからね!?」

「言わないわ。早く行きなさいって」

「はーい」

 唇を尖らせて不服そうな空気をありったけに出しながら、榛名はやっとこの場から一歩を踏み出してくれた。

 階段を下り、視界から消えるまで、何度も何度も私の方を振り返る。歩みを止める事は無かったものの、そのせいで一階にも満たない距離の階段を下りるまでに一分に近い時間を労していた。

「私も帰るかな」

 もう誰もいない階段を見下ろして、ポツリと呟く。足元の鞄を持ち上げて肩に掛ける。でも歩き出す前に、鞄の中のハンカチの存在を手だけで確認する。指先が綿の生地に触れたのが分かると、私も階段を下り始めた。


 そして今日から卒業に至るまで、私たちの間でこのハンカチの主に関わる話題が出る事は、一切なかった。

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