くべられる初恋
翠風 鶯歌
第1話 夏の熱が染みるから
天蓋の天辺から、ジリジリと刺すような熱い光が教室に差し込む。教室からは浮足立った喧噪と、どこか年季が感じられる空調の鈍い音が合唱をしてる。正直言うと煩い。口には出さないけど。
この過ごしにくい季節の名前は、夏。その頭に『高校生最初の』なんて付けたら、ありがたい響きが出てくるかも。だけど結局、夏なんて毎年訪れるもの。貴重さなんて欠片もない。ありふれてる。
そんなありふれた季節の中で、私、高梨優花は、窓辺の席にて、鋭い日差しを体に突き刺していた。手に持っているのは、鞄に入れていた二本のちぎりパン、その片方。感じているのは、ありったけの熱さと眩しさ、ちょっぴりの空腹。
他の季節だったら、窓辺の席なんて頬杖ついて外を眺めるにお誂え向きだろう。だけど風情を楽しむ余裕なんて、お日様が与えてくれない。
腕白な日差しの雨は、砂場だろうがトラックだろうがお構いなく反射して、煌々と景色を照らしているのだ。目が痛くって外の景色なんて見られたもんじゃない。
一つ幸いなことと言えば、先月に「夏休みに入るから」と、大した理由もなくバッサリ髪を切ったこと。おかげで今年は肌に髪が張り付くことは無く、比較的快適。ついでに好物のちぎりパンも齧り付きやすくなった。
「さて」 ベリっと袋を破いて、パンを露出させる。そして早速喰らおうとすると──、
「よっ、優花! 相変わらずちぎらないね、ちぎりパン。せっかくだから千切ってその欠片を私に寄越したらどう? どうどう?」
横からポンと、肩を叩かれる。刺激が加えられた方向を見ると、眼前まで友人の月島榛名の顔が迫っていた。
ブラウンの瞳が、好奇心の旺盛さを際立たせるようにキョロリと覗いている。体が動くと長くウェーブがかった髪が揺れて、シャンプーの匂いらしいバニラの香りを漂わせる。
「イヤだし。デザインが好きで買ってるんじゃないし。味が好きで買ってるんだし。あげないし」
付き合いは長い方で、普段は仲の良い友人同士。だけれどこの時ばかりは素っ気なく突っぱねる。
面倒な午前いっぱい使ったホームルームが終わって、やっと好物をお腹に迎えられるのだ。それを邪魔されたら、誰だってご立腹になろう。
怒りの感情が伝わるよう、露骨に眉間に皺を寄せてみせるけど、榛名はお構いなしで──。
「いいじゃんー。ちょっとくらい私にちょーだいよ! この食いしん坊ぉ!」
図々しくも私の手元のパンを指さして、大口を開けて見せる。
間抜けな顔だなと思うけれど、こんな性格でいて榛名は顔が可愛い。長い睫毛、ぷっくりした唇、垂れ気味の目じり、柔らかそうな頬。
所謂ロリ系の雰囲気を醸す彼女は、どんなに変な顔をしてもそれなりに映えてしまう。それがまったく憎らしい。
それでいて愛嬌があるから、何をやっても大抵の人が『仕方ないな』となる。そのおかげで彼女自身が苦労したこともあるのだけど。
でも私は、その『大抵』の括りにはいない。
「イヤ。榛名にあげるくらいなら一人で平らげる」
「それじゃいつも通りじゃん。ケチぃ……」
眉をハの字に曲げて分かりやすくしょげる榛名。可愛らしく上目遣いをしても、わざとらしくない所が彼女の凄いところ。
でもパンは絶対に渡さない。このチョコクリームの入ったちぎりパンは、何度でも言うけれど、私の大好物なのだ。
「もう、そんなに好きなの? まあ私も結構好きだけど……。でもまるでタコが我が子を守るような獰猛さを出さなくっても」
そう言って小さな両手を広げると、タコの触手を模すように十本の指をうねうねと動かし始める。その様子が面白くて「ぶふっ」と噴き出してしまう。
「もう、榛名の例えは相変わらず分かりにくいなぁ。とにかく、好きだよ。高級な肉とちぎりパン、どちらかと言われれば肉を取るくらいには好き」
「負けてんじゃんか、ちぎりパン君。敗者は去る運命。悲しいけど、私の口の中へ──」
「私は敗者を見捨てないから。……お肉くれるなら別だけど」
「ホントけちぃ!! それだったら私だって肉食うよ!!」
そうして会話が一段落着いて、ようやく私はパンを食べることが出来る。長いちぎりパンを口元まで持ち上げて、やっぱり千切らず齧り付いた。
横からジーッと見つめる榛名の視線を無視して、一口、また一口と食べ進める。二口目にはチョコクリームが口に広がった。うん、甘い。
日差しのせいか、いつもよりもクリームの粘性が無いけれど、それでも美味しい。
ふわふわと柔らかい生地と、この甘ったるいクリームの組み合わせが訳もなく好きで、毎日食べても飽きが来ない程だった。
目を細めて、時間を忘れて黙々と味わっていると、あっという間に欠片も残らなくなってしまった。
「いやぁ、良い食べっぷりだね。あ、いる? 粗茶ですが」
「よく選ばれる『あ』の付くお茶を粗茶とは失礼な。そもそも私のだし。勿論もらう」
私の鞄からいつの間にか引き抜いたのか、ペットボトルのお茶を差し出す榛名。その手元からお茶をふんだくって、チビチビと少しずつ喉に流し込む。口の甘ったるさもサッパリしていい気分。
力を抜いてふうと息を吐くと、椅子を引き、腰を上げて、鞄を引っ張り出す。私の様子を見て、榛名は「ありゃ?」と声をあげた。
「わざわざ一時間もかけて来たのに、もう帰っちゃう感じ? 折角半日なのに」
「まあ、惜しい気持ちはあるけどね。でも今日は親戚の男の子が来てるから、その相手をね。可愛いんだよ。まだ五歳で」
スマホを操作して、今朝撮ったばかりの親戚の子供の写真を表示して、榛名に突き出す。「おおー、これなら仕方にゃーね」と感嘆の言葉を漏らしてくれた。でもさらに付け加える。
「とはいえ、たまには青春もするんだよ? そのちぎりパンを分け合う仲の人でも作るとかね。あ、望むなら私でもいいですよ-? ワンちぎりで大安売りしてるとこなんだけど」
「お得というか、やっすい女だね」
「いやいや。なんと! 優花限定で! ここだけの話!」
「怪しい通販番組のMCか。そもそも、あんたには相手がいるでしょうに」
芸人のマネごとのように軽くツッコミを喰らわせると、榛名はワザとらしくグフッと声を出してその場にうずくまる。けれど、すぐさま立ち上がって、「もっと派手にツッコまないと! 音、音大事! バチンって!」とよく分からない批判を浴びせてくれた。
ふざけたやり取りをしばらく続けて一段落を終えると、榛名は私に別れを告げて、クラスの喧噪の中へと飛び込んで行った。その後ろ姿を見送ると帰路へと向かう。
◆◆◆
駅のホームの端で電車を待っていると、滴った汗が肌を伝っていく。その軌跡がくすぐったさを生むものだから、取り出したタオルでそそくさと顔面を拭った。
さて今更ながら、今日という日は、夏休みの半ばに一日だけある登校日だった。
教室の中でも辛かったけれど、外に出ると夏が届けてくれる苦痛のプレゼントは更に大きくなる。荒ぶる気温とヤンチャな太陽が放つ日差しのコラボレーション。それを直に受けて、不快指数はうなぎ登り。
日陰に居ても、熱がコンクリートを介して執拗に追撃してくれる。本当、堪らない。悪い意味で、堪らない。
こんな日でもなければ、家の中で冷房の効いた部屋でゴロゴロしていたのに。それに往復で三時間弱は登下校に費やされるから、たかが午前の数時間のために出向くのは、心底面倒臭かった。乗り継ぎもあるし、田舎のローカルだから接続も良くないし……。
とはいえ「制服が可愛いからここ!!」と駄々を捏ねた私の自業自得ではあるのだけど。
田舎とはいえ、近い学校なんていくらでもあった。お母さんにも「遠いけどいいの? 交通費はいいけどさ、時間凄くかかるよ?」と心配もされた。
それにも関わらず今の学校に固執したのは、他の誰でもなく私。だって制服が可愛かったから。地元のは、なんというか……、田舎臭くて嫌だった。どうしても。
ちなみに榛名も同類。私が「制服可愛いからこっち行く」って言ったら、「ほんとだね。なら私も優花についてくわー」みたいなノリで同じ進路を辿った。だから榛名も私と同じ時間をかけて通学してる。
そういう事で、汗をかきながらも、今の境遇を甘んじて耐えている。……甘んじてはいないか。
すでに一本目の電車は乗り継ぎが済んでる。あと一回の乗り継ぎをこなせば帰れるのだけれど、なかなか電車が来る気配がない。干からびてしまいそう。
このまま干物にでもなってしまうんじゃないか。どうせそうなるなら、美味しく食べられたいかな──、なんて。馬鹿みたいな事を思ってしまうのも、この暑さのせい。
この気温の中でまともな事を考えられる人がいたら、頭の何割かは機械か何かで出来てるんじゃないかって、私は疑うよ。
「はー、帰りたい。クーラーの効いた部屋でだらしない恰好で寝そべりたいー」
この時間帯で、この田舎にしか繋がらない電車に乗ろうと思う人なんて、居やしない。そう思って独り言を大きく吐き出してみると、目の端にビクリと、人の動く気配を捉えた。予想外の事で瞼を剥きそうになる。
すぐに横を見ると、人の良さそうな顔をした大学生くらいの男の人がいた。左手首にはキラリと銀の腕時計が光る。階段付近の壁に隠れるように立っていたから今まで気づかなかった。
視線を少し上げる。結構身長はあるし体格もいい。一八〇センチはあるかもしれない。表情からは人畜無害な穏やかな雰囲気が漂っている。全体的に気は優しくて力持ちといった印象。胸元から覗く鎖骨には汗が溜まっているのが見えた。なんだか扇情的。
私と目が合いそうになると、彼は少し戸惑った雰囲気で余所余所しく目を逸らした。
きっと気弱な人なのだろう。急に大声を出して申し訳ない。態々謝ったらそれこそ戸惑ってしまいそうで。だからこそ特に絡む事はしなかった。
手持ち無沙汰になってポケットをまさぐり、スマホを取り出す。でも弄ぼうとした矢先、タイミングがいいのか悪いのか、乗ろうとしていた電車が来てしまう。
微妙な顔を浮かべながら、とりあえずは電車に乗ろうと、画面を弄りながら足を動かす。ふらりと進むと、ドアを潜る手前でさっきの彼と対面した。お互いホームの端に居たものだから、当然、二人とも近いドアが同じ。
申し訳ない事に、私の前方不注意で、危うく激突しかけた。すぐさま小さく頭を下げると、あちらも同じように頭を下げる。悪いのは私なのに、律儀というか、なんて人の良い。
こうなったからといって避けるのも、意識のし過ぎと思われそう。引きつった笑顔を浮かべながら、改めて軽く会釈して先に入るよう譲る。でも男性は遠慮するように私が先に入るよう手で促してくれた。
いやはや、連続で迷惑をかけた私が、こんな小さい事すら譲れないのはいかがなものか。私は大袈裟に首を振り、男性の動作を真似るように手で入るように促す。でも入ってはくれない。
それからお互い無言の譲り合いを三回も繰り返した末、結局私が折れて先に搭乗することにした。傍から見たら随分間抜けな二人だったろう。このつまらない漫才にギャラリーが居なくて良かった。
◆◆◆
乗り込んだこの車両にボックス席は無く、ロングシートしかない。私は足早に乗り込んで、ドアのすぐ脇にあるシートの端に腰を勢いよく下ろす。――勢いが良すぎた。シート台座部分のクッション材が抵抗して、私のお尻を僅かに浮かせる。
その時には彼も車両内に足を踏み入れていて、トランポリンで跳ねる子供のような私は、その横目にガッツリと映ってしまう。
「あ、あのこれは、そのぉ!!」
子供みたいに思われたかも。度重なる失態、あるいは醜態を見られて、三回目にして私の許容を何かが超える。羞恥が頬を焼いて、私の体は少しでもそれを見られまいと肩を縮み込ませる。
そしてそのまま弁解の言葉を述べようとした所で、盛大に語尾が上擦った。
クスクスと、私の様子を見た彼は、口元に手を当てて小さく笑う。それは子供のようなあどけない笑み。
瞬間、スローモーションになったかのように流れる世界。遅くなった時間の中で、私の瞳は笑みを捉えた。
でもその錯覚も一瞬で終わる。「大丈夫ですよ」 小さくとも明確な言葉が耳に届くと、時間は元の形を取り戻した。
彼は私の慌てた様子が落ち着いたのを確認してから、向かいのシートに座った。私と向かい合わないように、位置はずらして。
彼の動きを目でジーッと追っていると、顔をあげた彼とまた目が合った。私は弾かれたように視線を逸らして、何でもない振りをしてスマホを弄り始める。
恥じらいで生まれていた頬の熱は、いつのまにかじんわりと柔らかい熱に変わっていた気がした。
程なくして、金属同士が叩きあうような音を立てながら、電車は動き始める。
十分ちょっともすると、浮かんでいた熱も幾分か冷めてくる。スマホに映るタイムラインも、窓から見える外の景色も、代り映えがなくて退屈になってきた。
一度何かから意識が逸れると、今度はお腹が空いてくる。一時間くらい前にパンを一個食べた気もするけれど、それでもお腹が空いている。
小腹を満たすだけに抑えたくはあるけれど、手持ちにはちぎりパンしかない。こんな続け様に、花の女子高生が炭水化物の塊に食らいついて良いものか? 甚だ疑問なところ。でもやっぱりお腹が食を求めるから仕方ない。
きっとお腹が空いているのは、目の前の彼とのやり取りのせいで体内のカロリーが消費されたせい。なら、またまた何かを摂取しても問題ない筈。失った物を埋めるだけ。
そう自分に言い聞かせる、対する内なる己からは特に何も反論はない。説得完了。
鞄の中にある、手を着けていなかったもう一本のちぎりパンを取り出す。いくら好きだからといっても二本は多いだろう。そう思われるかも。でもいいじゃない、好きなんだから。
パンの袋をパリパリと開け放って、出てくるのは白くて厚い生地。炎天下を潜ったおかげで多少くたびれているけれど、この程度では味やら品質やらには何の影響もない、はず。
生唾をごくりと飲み込んで、好感度が高級肉に僅かに劣るこのパンに早速齧りつこうとしてみると──、
ぐうう。
何処からともなく、鈍く唸るような音が響いた。顔を上げて辺りを見渡してみると対面のシートに笑顔を引きつらせている人がいる。さっきの男性だ。というか彼しか人はいない。
夏休みの真昼間という時間帯では、このローカル線に乗る人数はいくら駅に停まった所で増えはしない。他所の車両は知らないけれど、ここは相変わらず私と彼しかいないのが現状。
目線をあからさまに彼へと向けてみると、ばつが悪そうに少し視線を逸らした。かと思えば思いついたように私の後ろの窓を見つめ始める。そして「ふ、風景が綺麗だ」と小声で感情が離れた声色で呟いた。
「……ぷっ、ふふ」 我慢しようと思った。でも唇から漏れてしまったんだ、笑い声が。
急いで口元を抑えるけれど、私の反応で彼は恥じらうように頬を染める。そして居心地悪そうに首の後ろをゆっくりと掻く仕草をした。どうやら彼の照れ隠しの癖らしい。
体つきはとても頼り甲斐がありそうなのに、どうして仕草とか表情とかが一々あどけないのか。
ああ、可愛い。
心に浮かぶ言葉。男性にそういった感想を抱くのは初めてだった。かつてない刺激に胸の内がざわつき始める。思わず胸に手の平を当てて、拳を握る。
再び浮かぶ頬の熱。それが私に確信をくれる。先にも現れたこの熱さは、何も羞恥だけで生まれたものではないのだと。
昂りを見せたその熱は、今まで私の中に眠っていた用途不明の歯車を回す。私の体は動き始め、席を立っては鞄を持ち、一歩、また一歩と前進していく。
この衝動はきっと止められるのだろう。でも止まらない。止めたくない。胸の内まで照らす灯になった熱が見せてくれたんだ。新たに浮かんだ欲望の形を。私はそれを求めたくて仕方ない。
進んだ足が、進めた足が、目の前の彼のすぐ傍まで体を運んでくれる。私はその隣の空間にゲンコツ三つ分くらいの感覚を空けて腰を下ろして、手元の物を彼の方向へ傾けた。
「良かったら食べてください。さっき驚かせてしまったので、お詫びみたいな何かです! まだ口を付けてないので、安心していいですから!」
見ず知らずの他人からパンを差し出される。冷静に考えれば普通は受け取る人はいないだろう。普通なら誰だって断る。でも逆上せていた私はその可能性が視野の内には入っていなかった。
どうやら彼は常識の範疇に居たようで、分かりやすく狼狽えながら、私に向かって手を立てて「い、いいですよ。悪いですし」と断る素振りを見せてくれる。
一方の私は熱に浮かされて常識を飛び越えていたので、お構いなしに食い下がった。必死だったんだ。ここを逃したら、きっと二度と機会なんて無いと思うから。
「さっきお腹鳴ってたの、ばっちり聞いてたんですからね。食べましょう、夏ですもの。水分とカロリー、大事です。ここにはカロリーが詰まってます」
「で、でも……」
見せるのは煮え切らない態度。ここはあともうひと押しかともう一言二言加えるために口を開きかけた時だった。
ぐうぅと、鈍く唸る音がまた響く。
「やっぱり、お兄さんのお腹の音ですよね? 我慢は毒ですよ。ささ、ガブッと言っちゃってください」
よくお腹の空いた榛名の前で見せる意地悪な笑みを浮かべながら、手元のパンに指さして彼の顔を覗き込む。
そうして数秒、次の駅にまもなく着くというアナウンスが流れ、それが止むと彼は口を開いてくれた。
「そこまで言うのなら、是非貰いたいです。実は朝から何も食べて無くって。お腹が空いて仕方ないんですよ。……交通費のために食費をケチってしまいましてね」
彼は自分の胸の前で自分の指と指をくっつけて、照れた笑みを見せてくれる。漂う印象はやっぱり何処かあどけない。
失礼かもしれないけど、昨日、五歳の親戚の子が私の宿題に落書きをして私に見つかった時もこんな表情をしていた気がする。
もっと見たい。この人のそういう表情が、そういう仕草が。
欲に駆られて、ゲンコツ三個分あった距離を半分程に縮めてみる。私はバレないように小さく、鼻から肺の一個を満たすくらいに息を吸ってみた。鼻孔には柔軟剤と汗の匂いがいっぱいに通り抜ける。
すると不思議な事にちょっとした浮遊感が訪れた。お父さんが出張帰りに買ってくれた、アルコールの入ったお高いチョコを食べた後みたい。
近付いた私のせいで瞳の黒を右往左往させると、それを誤魔化すようにコホンと咳払いをして「でも、半分だけでいいですからね」と、向かい側の窓を見ながら呟いた。
「そうですか? じゃあお兄さんが半分まで食べ進めてください。後は私が食べますので」
「え、」
「ふふ、冗談です。ちぎりますよ、綺麗に半分に。ちぎりパンですから」
面白いな。年上の男の人が、私みたいな子供に振り回されて、可愛らしく戸惑ってくれる。もっと揶揄いたくなる。
とはいえやり過ぎはいけないと、今更ながらの自重をして、パンに刻まれた線を数えて半分になる位置を探し始める。そういえば今までこのパンをこの線の通りに千切った事なんて無かったっけ。
数えてみるとこのパンは七等分されているみたい。ぴったり半分にするには目盛りを無視する他ない。
せっかく初めて人に分け与えるために千切るんだ。綺麗に千切って分け与えたい。
袋からパンの頭を露出させて、仕方なしに上から四つ目の線の位置に左手の人差し指と親指を掛ける。でもかけた指はそのままに、少し間を置く。
『そのちぎりパンを分け合う仲の人でも作るとかね』
今日別れる少し前に友人が言った言葉を思い出すと、頬が緩まっていくのを感じる。
少し浮かれた胸の内を抱えて、そのまま指に力を掛けると……、
「あ、あぁー」
溢れた、クリームが。指で割った生地の隙間から、ドロドロと、熱ですっかり粘性が弱くなったクリームが。
「あの、大丈夫ですか?」
「ま、まあ。――それより!! 何か拭くものないですか!? ティッシュとか、何でも。なんか動くと絶対悲惨な事になると思うんで!」
このまま動いたら更に垂れてきそうだった。それが怖くて動くに動けない私は、情けなくも、ちぎりパンで両手を塞ぎながらあたふたするしかない。
今は辛うじて手を汚すだけに収まっているけれど、あと少ししたらスカートの上にクリームが滴り落ちそうだった。
「ちょっと待ってくださいね」 彼はズボンのポケットすべてを手で叩くものの、ポケットティッシュが鳴らしそうな「クシュ」という音はすることはなかった。
ポケットを叩いても無い何が増える事はないし、無いものが出てくる訳でもない。合計四つ付いているポケットを叩き終えると、さてどうした物かと言いたげな悩ましい顔つきをする。
それから顎に手を添えて五秒程すると、緩慢な動きでポケットから布を取り出した。黒くて質の良さそうなハンカチだった。
「ハンカチを下に添えてますから、何とか袋の中に戻せそうですか?」
「あ、はい。やってみます、けど、汚しちゃっても大丈夫なんでしょうか!?」
「気にしないでください。ハンカチなんて汚れてなんぼですよ」
そうして浮かべた笑みは、さっきまで見ていた子供っぽい笑みとは違かった。年相応の大人しい笑み。
こんな表情も浮かべられたんだと一瞬見惚れかけたけど、手を止めた私に訝しそうな目線を向けられて慌てながらもゆっくりとパンを袋の中に押し戻していく。
途中で何回かクリームが微かに零れたけれど、彼がしっかりとハンカチで受け止めてくれたおかげで意図した場所以外を汚さずに済んだ。そしてそのままそっと脇に置く。
細長いビニール袋の中にべったりとクリームを貼り付けながら、パンはしまわれた。ちぎりパン好きの私でも、食べるのをほんの少し躊躇うくらいの見た目になっている。
好物を無残な姿にしてしまったのと、要らないかもしれないお節介すら果たせなかったのとが相まって、さっきまで自分に生まれていた灯はすっかり消沈していた。
今となっては、よくもまあ会ったばかりの男の人にこんな態度を取れたなと、呆れ半分、哀しさ半分。
はあ、とため息を一つ。肩は一段と重くなった気がした。さながら倉庫にしまわれた需要不明のカラクリ人形の気分。
「ありがとうございました……」
それだけ告げると、どこにも付けないようにとベタついた左手を浮かせながら、お尻をずらしてゲンコツ三つ分の距離まで戻る。
拭くものがないせいで現代っ子らしくスマホを触ってやり過ごす訳にもいかないし、気を遣わせそうだからこれ以上離れる訳にもいかない。ましてや人前で手のクリームを舐めとるなんて論外だ。家ならクリーム目的でやっていたかもしれないけど。
私が降りる駅まではあと十五分以上ある。このまま気まずい時間を過ごすのかと、そう思ったら、「はあ」と再び、ため息が零れた。
私を見かねてか、はたまた出遅れた親切心か。「あの」と、彼はおずおずと声をかけてくれる。差し出されていた手には、さっきのハンカチが握られていた。汚れた箇所は、包むように畳まれていた。
「ウェットティッシュとかじゃないんで、綺麗には拭えませんが……、使いますか?」
瞳には柔らかい優しさが浮かべられていた。口元は緩んでいるように見えて、僅かに力んでいるようにも見える。
満足にパンすら千切れない私に優しさを与えるなんて、追い打ちを喰らわせるようなものではなかろうか。気を遣うなら、ほっといて欲しかった。でも、それはそれでさっき思ったように気まずいだけなんだろう。
これからどうなれば私にとって気が楽なのか。きっとそれは考えても思いつかないので置いておいて。さて、私はこのハンカチを取るべきか、取らざるべきか。
視線を彼の手元と口元を交互に見比べて、三往復。
思考の末に、これ以上汚す訳には、なんて言葉を口に出そうとすると、「もう汚れちゃってるから、気にしなくていいです」とおっしゃってくれた。悲しい事に逃げ道を塞がれる。
それでも何か施しを受けてしまうと、何か遠退いてしまう気がする。特に根拠はないけど。
でも、ただでさえ今日会ったばかりの二人だから、このまま二度と会わないとしても何か借りを作ったままで別れるのは嫌だった。返す宛のない借りを持ったまま生きるのは、少しだけ生き辛いと思う。何とも想っていない相手ならまだしも。
幾つかの刹那を重ねる間、窓の外の景色が流れていくのを瞳に映して考えるけど、結局断る言い訳は思いつかない。何かを伝えようとして開いた口からは、「いや、いやいや」と薄っぺらな文字の羅列がツラツラと零れていく。すると彼は瞼を強く閉じてから眉間に皺を寄せ始めた。
機嫌を損ねさせてしまったんじゃないか。浮かべられた表情に、胸が痛みを湧かせる。どうしたものかと取るべき態度を模索するけど、手をべたつかせた小娘には冴えた軌道修正なんか思いつきやしなかった。
何も出来ないままに、これから起こるだろう何かしらを見守っていると、ついに彼は目を見開く。
「そうだ、えっと、そうだよ。僕はお腹が空ているんですよ。だから、その、パンをくれませんか? あいにく手持ちは少ないので、せめてこのハンカチで勘弁してくれたら嬉しいです」
見開かれた目には、さっきもあった優しさと、秘めても滲む戸惑いみたいなものが混じっている気がした。発言はどこかおどけているし、つっかえつっかえだし、口調も定まっていないし──。
「あははっ」 噴き出すしかない。不器用さがいっぱいに現れた振る舞いと言葉。無理のある言い訳。まとう雰囲気が全部面白くって。
意地を張っている私がバカみたいに思えて、気まずさとか居心地の悪さはどこかへ飛んで行ってしまった。
「ひどいなぁ」 吹き出した私に対して、頬を微かに染めて首の後ろを掻き始める。彼の可愛らしい振る舞いに免じて、仕方なく、見るに耐えない傍らのパンを差し出す。勿論汚れていない右手を使って。
「じゃあ、お言葉に甘えたいです」
もう平気だと伝えるように、笑みを作って顔を上げる。彼は安心したらじく声を弾ませた。「そうかっ。なら、交換しましょう」
何が嬉しいのか分からないけれど、私も何か嬉しくなって、お互いに手の中の物を押し付け合う。
そしてそれぞれの物が手に渡ると、私は左手を念入りに拭い、一方の彼は舞台俳優のような仰々しい動きでパンに食らいついた。
不格好なトレードを終えてから、また一つ駅を通過する頃。
「ごちそうさまでした。美味しいですね、えっと……」
目の前の彼は、パンの袋を綺麗に畳みながらそう言った。気を付けて食べたつもりだろうけど、口元には少しだけクリームが付いている。その位置を、私の顔に指を指して教えると、恥ずかしそうに手で拭った。
「ちぎりパンです! 覚えてください!」
「そ、そうですか。いやぁ、すみません。基本的にパスタばっかだったから、名前がパッと出てこなくって」
「もう、偶はパンも構ってあげてください。ま、美味しかったなら何よりですけど」
「はは、偶にはそうしてみますね」 軽い悪戯を叱られた子供みたいな表情で、口元にクリームを貼りつけながら笑う彼の顔を見つめる。目を細める。あとこの姿を何分見られるのだろうと、想いを馳せる。
頬にはまた、じんわりとした熱が感じられた。両手を持ち上げて頬を挟んでみる。やっぱりこの熱は確かにあるものらしい。
私の行動を、小首を傾げて不思議そうに見守る彼。それを見て、ああこうしては居られないと、背筋をピンと伸ばした。
もっとこの時間を濃くしたい。残り少ないこの時間を、もっと味わいたい。
「お兄さんは、どうしてこんな田舎に来たんですか? 私は見ての通り、ここら辺の学生ですけれども」
当たり障りない話題を出したところで、ちょっとした思いつきと欲が湧いた。
自分のお気に入りの制服とそれを身にまとった私を見て欲しくって、立ち上がって彼の目の前に躍り出て、舞うように一回転。
「ここら辺って言っても、制服目当てで少し離れた学校に通ってますけどね。可愛いと思いませんか?」
自分で出来る限りの一番の笑みを作りながら、少し屈んで彼の表情を伺う。すると彼は少し照れた様にこう言ってくれた。
「そう、ですね。可愛らしいと思います。良く似合ってる」
「そうです? なら良かったっ」 心の中ではありったけのガッツポーズをしながら、でも浮かれた気持ちを隠すように涼しさを装ってその言葉だけを返す。収めきれない気持ちが語尾を弾ませてしまったのが、恥ずかしかった。
「えっと。すみません、話、脱線させちゃいました。お兄さんのお話も、良かったら、聞いてみたいです! ……何せ田舎者なんで、お外の方の話題には興味津々で」
閃いたそれっぽい言い訳を付け加えながら、自分で逸らした話題を元に戻して聞いてみる。彼は「そうだな……」と前置きをしてから、ぽつぽつと話しだしてくれた。
彼が話し始めてから三駅過ぎた辺りで、お話は一段落つく。長らく二人きりだった車両も、徐々に人が入り始めてくる。
彼から聞いた話をまとめると──、
彼は東京の大学に通う四年生で、ようやく卒業研究に一区切りついたからとここへ来た目的地はこの電車の終点で、これから祖父母に会いに行くそう。何でも先月に祖母が少し体調を崩したらしい。今は元気になっているけど、不安に思う事もあって、今のうちに会っておきたかった、と。
主にそういった内容の事を語ってくれた。それからはポツポツと祖父母との昔話も。
思い出話は祖父が描いてくれる絵が綺麗だったとか、祖母が漬けてくれるきゅうりの漬物が美味しかったとか、そういった話だった。
祖母が体調を崩した事を話す時は叱られた子犬を連想させえるような顔つきになって、祖父母との思い出を語る時は少年のようなキラキラした顔つきをしていた。
直接好意の言葉を口にした訳ではないけれど、これらを聞けば誰が見ても相当なおじいちゃん子、おばあちゃん子なのが伝わる筈。それくらいに話す彼の口調には熱量が込められていた。
彼が時折浮かべるあどけなさは、幼少期から変わらない祖父母への想いの強さに結びついているものなのかもしれない。
「あぁ、結構な時間話してしまいましたね。すみません。あなたが興味深そうに聞いてくれるから、つい」
彼の想いの丈に感心していて反応がおざなりになったせいか、彼は腕時計に視線を向けてから申し訳なさそうな声色で話す。伏せた目からは哀愁が漂う。私が興味を失ったと勘違いしたのはすぐに分かった。
「謝らないでください! 聞いて良かったです、お話。おばあちゃんやおじいさんの事を想ってるの、とっても伝わって、なんかこう、ぐっと来てました!」
曇った顔をすぐさま晴らしたくって、さっきよりも高めの声で話しながら胸の前で拳を握り締める。すると私の行動に驚いたのか、目を見開いて微かに肩を震わせた。それからすぐ私の言葉を飲み込んでくれたのか、喉仏がうねりを見せてから、ホッと胸をなで下ろす。
「そうですか? そう言ってくれると嬉しいです。友達からはマザコンならぬグマコンとかグファコンとか、文字の並びが悪い称号を貰って笑われることばっかだったので」
「もはや何を指してるか分からないですよね、言葉の響きだけじゃ」
「全くです。冴えた名前なら喜んで受け取ったんですけどね」
「称号の内容自体は歓迎なんですね」
「大好きなのは否定できませんからねぇ」 彼はそう言って、白い歯を見せてはにかんでくれた。私も口に手を当てて、つられて笑う。
この時間、好きだな。
心からそう思える時間だった。でもいつだって時間には限りがある。柔らかな笑みを交わす二人の間に割って入るのは、気怠そうな電車内のアナウンス。
『次は──』
「あ……」 耳に入った名前は私が降りる駅だった。反応してしまったばっかりに、彼にもそれが分かったのか「次の駅ですか?」と問いかけられる。言葉で応えるとありったけの落胆が零れてしまいそうだったから、頷くだけにした。
「……そうですか。えっと、三十分は一緒にいたのかな。あっという間でしたね」
彼は話しながら自分の時計に目を通して時間を確かめた。声色には惜しむような感情が込められていた気がする。私の錯覚でなければいいな。
「そう、ですね。もっと、お話し、したかったです」 後ろ向きな感情が込められないように、一語一語ゆっくり丁寧に言葉を紡いでいく。
もう会えないかもしれない。そう思ったら、心臓がバクバクと暴れ出して胃を揺らす。気持ちが悪くなりそうだった。
思わず胸を抑えてうずくまりかけると、心配そうに顔を覗き込もうとする。彼が何か言う前に、顔を上げて「すっごくお腹空いてきちゃいました。お昼、たのしみだな」と早口気味に呟く。
彼は騙されてくれたみたいで「ふふ、食いしん坊ですね」とおかしそうに笑ってくれた。その笑顔に、胸の灯が私を焦がす。
よかった。別れ際に、私を熱くさせた笑顔が見られて。
痛いままの胸を張って、私も笑ってみせる。そして足元の鞄を抱えようとしたところで、膝の上に乗っかったままのハンカチの存在に気が付く。汚れた面を包むために、小さく小さく畳まれたハンカチ。すっかり返し忘れていた。
慌てて手に取って差し出しかけたところで、腕を止めた。少しだけ、我儘を言いたくなったんだ。
「あの、ハンカチなんですけど」
「はい」
「洗ってから、返していいですか? 今度会えた時に、絶対返しますから」
約束が欲しかった。次に会った時に話しかける口実が欲しかった。繋がりが欲しかった。この日、この時間、この出来事が確かにあったんだと教えてくれる証が欲しかった。
祈るように、彼の目線に合せるように、顔を上げ、手の平を合わせて願う。願うように問いかける。合わせた手の中にハンカチを握りしめながら。
彼にはきっと私の意図なんて分からなかっただろう。それを証拠に眉間に皺を寄せて、首をゆっくりと傾けている。
それでも、しばしの逡巡を重ねた後、小さくと頷いてくれた。
「分かりました。今度また会えたら」
「……! はい! 約束しますっ!」
嬉しかった。喜びのあまり大きく体を揺らすと、座席のクッション材がトランポリンの様に私を押し返す。私の体は、跳ねて跳ねてのツーバウンド。
びっくりして目を丸くしながら彼を見つめる。私の様子が面白かったのか、最後に白い歯を見せて「あはは」と大きく笑ってみせてくれた。
恥ずかしかったけど、それ以上に、どうしようもなく──。
彼の大笑いから一分もしないうちに、車窓から見える景色の流れはゆったりとしたものになる。
そろそろだと、私は足元の鞄を手に取って、側面のポケットから定期券を取り出した。
「じゃあ、また会いましょう」 そう言ってから席を立ち、ゆっくりとドアへと歩み寄る。後ろからは「はい、また」と優しそうな声が響く。その言葉はしっかりと鼓膜を揺らし、記憶に刻まれる。
牛歩の速度で進み、ドアの前までやって来た頃。顔を上げるとドアのガラスの向こうに映る景色は止まっていて、見慣れた駅のホームを映すだけ。
私がそれを確認するのを待っていたかのように、ドアは大袈裟な音を立てて開き始める。車内へと飛び込んでくる熱気に抗いながら、私は外へと一歩踏み出した。
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