わたしのしあわせ

pray

一話完結

幸せって何。あの時の私はわからなかった。幸せが当たり前ではないことや、本当の幸せとは何なのかを。


「奏、終わりにしよう」

その恋が終わりを告げてから一年がたった。理由は高校受験。お互いの将来を考えた避けられない選択だったが、半年間付き合っていた彼を失ったのはかなり大きなダメージだった。

彼を忘れられない。彼を超える人物が他にいない。

寺坂樹。

名門私立校に通っていて成績優秀。部活は野球で先輩に混じって練習をしている。性格が良いだけでなく、背も高い。

それに比べて私は、受験に失敗し、第二志望であるダンススクールの近くの私立校に通っている。お母さん一人で家庭を支えているので、生活は決して贅沢ではない。一応ダンスをやっているが、夢である世界で通用するレベルではない。

自分との格差は目に見えていた。それでも諦められなくて中学卒業の時、もう一度伝えようと思ったがそれができなかった。単に勇気がなかっただけだ。彼と私は別れてからも連絡を取り合っていた。返ってそれが私の気持ちを苦しめていたのかもしれない。今のいい友達関係を壊すことが怖かった。

それを伝えられないまま時間だけが過ぎて行き、季節は高校生活最初の夏を迎えようとしていた。


ダンスの練習だけに時間を費やす夏。世界で通用するダンサーになるために、まずは秋の大会で優勝することを目標している。憧れである『pippop girls』の、龍崎伊織さんのようなダンサーになるために。

「カナ!大会の振り付け、どこまで覚えた?」

振り向くと、幼馴染の高城陸が立っていた。陸とは小学校からの仲で、高校では同じクラス、ダンスではペアを組んでいる、私の大切な仲間だ。そして、今度の秋の大会には二人でペア部門に出場することになっている。

「Aメロは一通り覚えたよ。陸は?」

「俺はサビまでやった。教えてやるよ奏ちゃん?」

「ちゃん付けしないで。それに陸は『奏』じゃなくて『カナ』でしょ」

「そうだった。ごめんごめん」

私が陸や他の友達に『奏』と呼ばれない理由は、私が無理矢理呼ばせないようにしているからだ。樹にだけ『奏』と呼ばれたかったので、他の友達にはそう言っていた。

「くだらないこと言ってないでさっさとサビの振り付け覚えろよ。伊織さんみたくなるんだろ?」

「わかってるよ」

今は樹のことは考えずに練習をしよう。でもそれは私にとって難しいことでもあった。


家に帰ってからスマホを開いた。樹からメールが届いていた。

(ダンスの調子はどう?俺は紅白戦やって疲れたよ。夏の一日練習は辛いよ)

こうやって付き合っていた時と同じように接してくれるのが嬉しい。

(サビまでできた。陸と一緒に頑張ってるよ。樹も暑い中おつかれさま。明後日は私も一日練習だから頑張らないとだね)

(おう!がんばれ!)

樹のおかげで疲れた気持ちも吹き飛んでしまいそうな気持ちになれる。

「姉ちゃん!樹くんが今度の地区大会でベンチ入りしてる」

三つ下の弟の竜が高校野球の雑誌を見せてきた。

「まだ一年生なのにすごいよね」

「俺、守備位置は違うけど樹くんみたいな選手になれるように頑張る」

「いいね!その調子だ」

雑誌ではなく、樹の口から直接聞きたかったなと寂しく思ったが、頑張っているところを見ると、私も頑張ろうって思える。なんだかすごい魔法みたい。

こんな日常がいつまでも続いていくと思っていたのに、全てが私の思い通りにはいかなかった。


「奏さん!この人知ってますか?高校野球の地区大会を前に注目されてる選手ですよ」

声をかけてきたのは私の一つ下の桐谷琴音。琴音は地元の中学校に通っている三年生だ。後輩にあたるが、振り付けを覚えるのが早く、私も一目置いている存在だ。彼女が見せてきたのは、昨日家で竜が見せてくれた雑誌と同じものだった。

「琴音も野球好きだもんね。実はこの選手、私の小学校と中学校の同級生なの」

「え!知りませんでした。ならば陸さんも知ってるってことですね」

「そうだね。樹と陸は仲良かったよ」

「すごいですね。こんな有名人とお友達だなんて。しかもこの人の通っている学校って名門私立校ですよね。いかにも文武両道って感じです。顔もカッコいいし」

「琴音はいつも顔から入るよね」

「そんなことないですよ」

「はい。切り替えて練習するよ」

「はい!」

この時、私は心配だった。琴音はモテるし、少し小悪魔的な性格も持っているので、樹を取られてしまうかもしれないと思ってしまった。


次の日、休憩時間になったら琴音に話しかけられた。

「奏さん聞いてください!寺坂選手のSNS見つけてフォローしたら、向こうもフォローしてくれました。ダイレクトメッセージでやり取りしたんですけど、とても優しい方で好きになっちゃいそうです」

始まった。琴音はSNSのフォロワー数がはっきり言って異常だ。なので人脈も広いし、すぐに友達になってしまう。たまに悪い噂も聞いたりする。例えば、今まで付き合った彼氏が何人いるとか…。樹のSNSは私もフォローしているし、私の方が彼のことを知っている自信もあるのに、なんだか気持ちがもやもやしてしまった。

「奏さーん。聞いてますか」

「ごめん。ちょっとぼーっとしちゃって」

「そうですか。体調悪いのかと思って心配しましたよ。ではメンバーが待ってますので先に行きますね」

そう言って琴音は話をやめて行ってしまった。いつもみたいにニコニコしていなかったのが目に見えてわかった。琴音を敵に回してしまったらこの先どうなるかわからないので、しばらく距離を置きたいと思いながら練習場所へと戻った。


練習場所に戻ると、陸に声をかけられた。

「さっき琴音に話しかけられてたよな。樹のことで」

「聞いてたの?悪趣味だね」

「違うよ。あいつの声が大きいから聞こえちゃったんだよ。それにカナはいいのかよ、樹を琴音に取られても。まだ好きな気持ちが残ってるのなんて、目に見えてわかるぞ」

「まだ琴音が樹を好きって決まったわけじゃないじゃん。ずっと一人を想い続けていて何も変わっていないヘタレにそんなこと言われたくありません」

「痛いところをついてくるな。一途だねって言いなさい」

「そうですか。一途ですね。くだらないから練習しよ」

陸に全部を見透かされている気がして嫌だったので、話を打ち切ってしまった。そんなの分かってる。いつまで経っても物事に終止符をつけられない私の悪いところだ。今は目の前のことに集中しようと思った。今思っている自分の感情を踊りに表現しながら。


(ずっと一人を想い続けていて何も変わっていないヘタレにそんなこと言われたくありません)

その言葉が俺に突き刺さった。傷ついたのではなく、事実だったからだ。俺がずっと想い続けているのはカナだ。それも小学校1年生の頃から。同じクラスで席が近かったあの時を今でも思い出す。

(どういたしまして)

落とした消しゴムを拾ってくれたカナにお礼を言い、返事が返ってきた時の笑顔に釘付けになった。それから何日かして、親に連れられてダンススクールの体験に行った。その時にカナが踊っている姿を見て、小さいながらに『運命』を感じた。それから一緒に過ごしていく時間が多くなり、気がつけば高校生になっていたというわけだ。中学の頃、カナと樹が付き合うのを知り、祝福することができなかった。もともと、樹はクラスの中でも仲がいい方だった。俺自身も野球観戦が好きで話が合うからだ。仲良くしていたはずなのに、樹がカナのことが好きだと気がつかず、いつしかカナは手の届かない存在になっていた。別れたと聞いてからも、カナのほうはまだ好きなようだが、自分の知っている限りでは、二人は卒業式の日から会っていないはずだ。今回は手を引かないことにする。今度の秋の大会、2人で優勝したら伝えよう。


練習後、スマホを見ると樹からメールが来ていた。

(ダンス終わった?勉強教えてほしいから駅前のコンビニで待ってる)

樹に会うのは卒業式ぶりだ。急に緊張感が現れた。

(ごめん。今気づいた。すぐに向かうね)

送られてきたメールが二十分前だったので、私は急いで駅まで走り、電車に飛び乗った。家の最寄り駅のコンビニに着いた。高ぶる気持ちを抑えて店の中に入った。

「久しぶり」

樹が休憩スペースで座っていた。

「久々だね。でもメールしてたからあまり久しぶりって感じではないかも。不思議な感じだね」

「そうだな。元気にしてた?」

「メールしてたんだから生存確認してるでしょ」

「そういうことじゃなくて。奏は疲れたり無理してたりするとすぐ顔に出るから、見ておかないとね」

こういうところに私は惚れたのだと思う。

「ところでわからないのはどこ?」

「今日の授業で習った英文法がさっぱりわからなくて。中学の頃、奏は英語が得意だったから、せっかくだし教えてもらおうと思って」

「なるほど。じゃあ始めるね」

コンビニで買ったものを口にしながら、三十分くらい一緒に勉強した。でも時間が経つのは早くてそろそろお開きになろうとしていた。

「とりあえず理解できた。ありがとう」

「いえいえ。また何かあったら言ってね」

もう少しだけ一緒にいたい。もう彼氏ではないのにそう思ってしまう自分がいる。

「せっかく会ったことだし、少し話さない?」

そう言ってきたのは私ではなく樹のほうからだった。

「そうだね。私ももう少し話したかった」

樹は私の素直さを引き出してくれる。それが一緒にいて落ち着く、最大の理由だった。お互いの高校生活の話、樹の野球の話など、久しぶりに話すことができてとても楽しかった。

「ところで、奏は秋に大会があるんだよね?どんな曲にしたの?」

「今回はペア部門で陸と一緒なんだけど、お互い本気で優勝を狙ってるから、早いテンポの曲にした。ガシガシ踊ることで疾走感を出していきたいと思って。プラクティス動画があるから今出すね」

そう言ってダンス用のタブレットを開こうとしたが見当たらない。確かにリュックに入れたはずなのに。慌てて出てきてしまったので忘れたかもしれない。今日の夜に振り付けの編集をするつもりだったのに。

「どうした?」

「ダンス用のタブレットがない。今日中に振り付けの件で編集が必要だから自分が持ってないといけないのに」

ダンススクールまでは家の最寄り駅から電車で3駅のところにある。先生はまだ残っているだろうし、まだ間に合うと思った。

「今から取りに行きたいから帰ろう」

「待って!」

ふいに手首を掴まれた。そこだけ熱を持ったように熱くなる。

「え?」

「夜なんだから一人で行くなんて危険すぎる。どうしても今日中じゃないといけないなら俺が着いていく」

「それは悪いよ。慣れてるから大丈夫だよ」

「何かあってからじゃ遅いから。なるべく早く帰って来られるように今すぐ行くぞ」

こうと決めたらそれに一直線なのが樹だ。今日は素直に彼に従うことにした。ダンススクールに行くまでの間にたくさん話をした。次会えるのはいつになるか分からないことが少しだけ寂しかった。

「じゃあ俺はここで待ってるから」

「うん。ちょっと行ってくるね」

ダンススクールでは、先生がまだ残っていて琴音が個人練習をしていた。

「奏さん!どうしたんですか?」

「ダンス用のタブレットを忘れちゃって」

「そうだったんですか。お疲れ様です」

「琴音もお疲れ様。あまり遅くならないようにね」

「はい」

樹が待っているので琴音や先生とはあまり話さずダンススクールをあとにした。


「奏さんがこんな時間に一人で来るなんて珍しいですね」

私の率直な疑問を先生に投げかけてみる。

「そうね。忘れ物だったみたい。でも奏、一人でここまで来たわけじゃないみたいよ。玄関のところにもう一人いたのよね。確かどこかで見たことのある子だったわ」

「ダンスで有名な人ですか?」

「違うわ。でもどこかで見たことがあるのよね。ちょっと思い出せないわ。困ったわね。雑誌か何かだったかしら。そんなに気になるなら覗いてくれば?まだ近くにいるんじゃない?」

「そうですね」

そう言って私は練習を中断し、玄関へ向かった。もしかしたら奏さんの彼氏かもしれない。歩く二人の後ろ姿を見て驚いた。笑顔の奏さんの隣にいたのは、私が好きになりかけていた寺坂選手だったから。しばらくその場に立ち尽くしていた。正直奏さんより自分の方が可愛いと思っていたし、もう少し仲良くなればいけると思っていた。私の中にあった気持ちはすぐに奏さんへの怒りに変わっていった。


「お待たせ!ありがとう。ここまで着いて来てくれて」

「何かあってからじゃ遅いって言ったでしょ。女の子に一人でここまで行かせられません」

「それはそれはありがとうございます」

最寄り駅まで帰るときは今後の話になった。来年は文理選択があり、私は迷っていることを話した。

「ねえ樹」

「ん?」

「文理選択のことなんだけど、ダンスで無理だったら看護師になりたいから悩んでて。ほら、看護師って理系でしょ?得意を優先して文系にするのと、将来のために必要な理系にするの、樹ならどっちを選ぶ?みんなはカナに理系は無理でしょって感じなんだけど」

看護師を選んだ理由は、直接的な治療以外のところでたくさんの人を救いたいと思ったから。

「俺だったら少しでも夢に近づける方を選ぶかな。得意を優先して進んだところで、その勉強をした上で選んだ仕事が自分に合っていなかったら、この先続かないだろ?まわりの空気より奏の気持ちの方が大事だと思うよ」

確かにそうだと思った。樹に相談するといつも的確な答えを返してくれる。私の知っている限りで樹が質問の答えを曖昧にしたことはなかった。

「まあ奏が目指してる看護師は理系の勉強が必要なんだろ?もし奏がつまずいたら、俺が理系教えてやるから」

「それは心強いね」

「だろ。そのかわり文系は頼んだわ」

そうこう話しているうちに最寄り駅に着いてしまった。

「家まで送ろうか?」

「大丈夫だよ。反対方向だし、それは逆に申し訳ないから」

「わかった。またこうやって時間作って会えるといいね」

「そうだね。樹も気をつけてね」

「うん」

また会えることを楽しみにして、明日からも頑張ろうと思った。家に帰ってからも今日の出来事が頭から離れず、なかなか眠れなかった。


次の日も学校が終わってからダンススクールで練習をした。昨日の夜、タブレットを取りに行って振り付けの編集をしたおかげで、陸との練習もスムーズに進んだ。だんだん大会に向けて完成度が上がってきているように感じて楽しかった。だが休憩時間に琴音に呼び出された。場所は連絡階段。状況と顔つきから明らかにいい話ではないように思った。

「話ってなに?」

「昨日の夜、奏さんが忘れ物を取りに帰って来た時、誰とここまで来ましたか?」

「友達とだけど」

「名前は?」

「なんでそこまで言わないといけないの?仮に琴音にも同じことがあったとしても、私はそこまで聞いたりしないよ」

「話をそれさないでください。寺坂選手と一緒にいましたよね」

なんだその話かと正直思った。そこまで尋問してくるならやっぱり好きなんじゃん。

「何よ。私のことを詮索しないでほしい。友達だってこの前も言ったよね?」

「奏さんはずるいです」

「何が?」

「陸さんから聞きました。以前、奏さんと寺坂選手は恋人同士でまだ奏さんのほうが好きかもしれないって。私が寺坂選手のこと好きになりそうってことを知ってて近づいたんですよね」

「そんなつもりじゃ…」

「陸さんのことだってそうです!奏さんは知らないでしょうけど、それについて話してる時、陸さん、辛い顔してました。きっと陸さんは奏さんのことが好きです。そうやって誰にでも色目使ってる奏さんにとてもムカついています」

陸が私のことを?ありえない。ずっと一緒にやって来た仲間だ。しかも誰にでも色目使うなんてそんなことはしていない。後輩だけどこっちだって容赦しない。

「私はそんなことしていない。自分の方こそ、その態度とか見直したらどうなの?」

「あなたにだけは言われたくない!」

それを言われた時、急に視界が真っ暗になり、右腕に痛みが走った。そこから私の記憶はなくなった。


休憩は10分。カナが決めたはずなのに帰ってこない。琴音と話していたことから嫌な予感がしなくもなかった。ちょっと探しに行ってみようと思った時、

「陸さん!ちょっと来てください!」

「!」

別班の後輩のさくらに連れられて行った場所は連絡階段の下。そこにいたのは右腕を押さえて倒れているカナだった。

「カナ!」「奏さん!」

「さくら、あまりゆすらない方がいい。先生に連絡して、救護室開けてもらって」

「はい!」

さくらが走って行ったのを見届けてから、誰かの視線に気がついた。憔悴しきった顔をした琴音だった。

「お前、自分が何をしたか分かってんのか!あとで先生に自分の口から説明しろ。今はこいつを運ぶのが最優先だ」

「カナ、聞こえるか」

「陸、ありがとう」

小さい声だが返事がかすかに聞こえた。頭は打っていないようだ。腕を折ってるかもしれないので、慎重に抱きかかえて救護室まで運んだ。運んでいるうちにカナは寝てしまったようだ。

「陸、今日はもう帰ってもいいわよ。奏がいないと練習も進まないだろうし」

先生はそう言ったが俺は納得できなかった。

「いえ。目を覚ますまでここにいます」

「なら助かるわ。起きたら事情聞くからね」

そう言って先生は部屋を出て行った。

三十分くらい時間が経っただろうか。カナの手が少し動いたような気がした。

「カナ、わかるか?」

「うん」

「よかった。先生呼んでくる」

正直言って一番俺が焦っていた。でも目を覚まして安心した。


目を覚まして少しすると記憶が戻ってきた。ここまで陸が運んでくれたんだ。琴音が言っていたことが本当なら、陸はどう思っていたのだろう。そう思っているうちに先生、陸、琴音が入ってきた。琴音は私たちの前で今回の経緯を全て話した。先生も怒っていたが、それ以上に陸が相当怒っていた。

「琴音、お前にはここをやめてもらいたい。俺の意見としては、個人的な感情で人の夢を壊すようなやつと一緒に踊ることはできない」

先生は陸の意見に対して、言い方が強すぎると注意しつつも、琴音に対して百パーセント許しているわけではなかった。

「あの…」

「奏?何かある?」

「いえ。琴音をやめさせるという意見に私は反対なんです。もちろん今回の出来事について、私も百パーセント許していませんし、今後もそれは変わらないと思っています。でも琴音はダンスの振り付けを覚えるのがとても早い。後輩ながらも私は尊敬してます。それは後輩たちの模範であると思います。その琴音がやめてしまうのは、チームにとっても大きな戦力ダウンだと思います」

先生と陸は驚いた顔をしていた。もちろん琴音も。

「そう思っていたのね。琴音、奏の意見に感謝しなさい」

「はい。本当にすみませんでした」

琴音の謝罪によりこの件は終わった。幸い私も後日の診察で右腕に異常は見られず、ダンスもそのままやっていていいと言われた。

「なぁカナ。あの選択で本当に良かったのかよ」

次の日の学校で陸に話しかけられた。

「うん。正直あの場でやめさせても良かったかもしれない。でもあれが原因で琴音がダンス自体をやめてしまうのは嫌だったの。だからせめてここに残そうと思ってさ」

これは本心だった。それより昨日のことが気になって仕方なかった。

「ねえ。琴音と喧嘩したとき変なこと言ってたんだけどさあ陸は…」

「あー。その話はまたあとでな」

「またそうやって逃げようとする」

何の話なのか気になったが、いつもの日々が戻ったようで良かったと思う。これで一件落着かと思いきや、そうはいかなかった。


時は過ぎ、秋になった。大会まで残り一ヶ月。ダンスに打ち込む毎日が続いた。また、ダンスのあとに樹と勉強会をした。電話をしたり、いつものコンビニだったり、図書館だったり。進路のことを話す日もあって、今までよりも樹と一緒にいる時間が長くなった。その中でお互い何でも言える関係になっていった。

「奏はさぁ、高校に入ってから好きな人とかできたの?」

突然すぎて焦ったけど普通に答えたつもり。

「自分のまわりにいい人はいないし。高校で彼氏作る気はもともとなかったから」

これは少しだけ嘘になる。確かに自分の高校で恋愛をするつもりはないが、自分の相手があの時のように、樹だったならなと考えたことは何度かある。

「すごく意外。奏は入学して何ヶ月かしたら彼氏作っているんだろうなって思ってた。何で彼氏作らないの?」

「うーん。やっぱり今はダンスに集中したいからかな。あとは高校の勉強も難しくなってるし、自分がその人のために何かしてあげられる自信がなくて」

今度は半分本当で半分嘘。樹を超える人がいないから彼氏を作らないだけなのに。

「そうなんだ。俺は奏のこと、もう友達の次元を超えちゃってるなって思ってるよ。だから何でも言えるし、つい頼りにしちゃう」

唐突にそんなこと言うから顔が赤くなるのが分かる。樹にバレていないか心配になった。

「逆に奏は俺のこと、どう思ってるの?」

「『忘れられない人』って感じかな」

自分で言って恥ずかしくなる。ちょっと言い過ぎたかなとも思った。

「めっちゃ嬉しい。奏がそう思ってくれていたなんて」

「こちらこそ話してくれてありがとう」

お互い恥ずかしくてしばらく話題が見つからず、結局ダンスの話になってしまった。琴音との一件があってから、樹はよくダンスの話題を出すようになった。おかげで樹がダンスに詳しくなってくれたような気がする。そして私はその時間がとても楽しかった。次に私たちが会うのはずっと先になるとは知らずに。


「ただいま」

今日はダンスのレッスンが休みなので、久しぶりの三人での夕食だった。夕食が終わってからお母さんから話があった。

「奏、竜、話があるから座ってちょうだい」

改まって話すのは久しぶりでどんな話をするのか想像がつかなかった。

「落ち着いて聞いてね。まずはこれを見て欲しいの」

受け取った紙、それは『健康診断の結果』

中を開けると事細かく検査結果が書いてあり、『異常なし』のところにたくさん丸がついていた。だが、最後の方の項目で目を疑った。そこに書いてあったものは『大腸ガン』。この項目だけは異常なしのところに丸がついていなかった。

「え…これ本当にお母さんの検査結果?」

思わず聞いてしまったが、名前は『村山恵』お母さんの名前だ。私は現実が信じられなかった。お母さんは家族の中でも一番健康に気を使っていた。私たちのことに関しても、成績を上げることや、ダンスや野球の上達よりも、早寝早起きを優先させるように言ってきた人だ。そのお母さんが…。

「これは正真正銘、私の検査結果。そしてここからが二人に聞いて欲しいことなの。この検査結果が届いてすぐに病院に行った。先生が詳しい診断を出してくださって知ったの。余命二カ月だそう。見つかった時点で結構遅い状態だったらしくて、専門の治療をしても、完治どころか効果が得られる保証はないそうなの。でも私もできるだけ頑張ってみるつもりだから、明日から蔵島総合病院に入院することになったの」

言葉が出なかった。驚いたとか悲しいとかそんな感情ではなく、本当に衝撃すぎて何も感じなかった。隣にいた竜も呆然としていた。

「だから、二人にはこれから迷惑かけちゃうと思うけど、少しでもいい方向に向かうように頑張るから」

お母さんは泣いていた。でも私は泣くことができなかった。どうしても信じられなかった。お母さんみたいな人が病気になるなんて納得がいかなかった。お母さんには、「みんなで協力してやっていこうね」とは言ったものの、現実を信じられないまま朝を迎えた。


次の日、学校とダンスが休みだったので、お母さんの入院準備をして病院に行った。お母さんが部屋に案内されている間、どうしても納得できなかった私は診断を下した先生を訪ねた。

「先生の診断に文句をつけるつもりではありません。しかし、母ほど健康に気を使っていた人がなぜガンになってしまったのかが気になって。しかも末期の」

「お母さんは仕事を掛け持ちしていたそうだ。娘さんは知らないと思うが、離婚したお父さんの借金を返そうと頑張っていたところ、疲労から病気につながったんだ」

「ちょっと待ってください。父親の借金ってどういうことですか。母はシングルです。仕事をしたり、私たちのための用事を済ませたり、時には趣味に時間を費やしたりしていました。もう一つの仕事と掛け持ちする時間はなかったはずです」

「借金の存在は二年前に知り、それから少しずつ返し始めたらしい。金額は最初の時点で五百万。今の時点で残りは四百万だ。また趣味とは?」

「英会話です。オリンピックがあるからと言って週に三回、夜になったら家を出ていました。とても好きだったようですが」

「その時間だ、もう一つの仕事をしていたのは。習い事は君たち二人に心配をかけないようにするための口実だと私は思う」

私たちを心配させないための優しい嘘。思わず涙が溢れた。お母さんの病気を知ってから初めて泣いた。

「どんな…仕事を…していたんですか」

「運送会社のアシスタントだ」

「力仕事…」

「その通りだ」

どうして話してくれなかったのだろう。一人で背負って私たちのためにお金を稼いで、借金を返して。

「そうですか。本当のことが知れて良かったです。お忙しい中すみませんでした」

先生にお礼を言い、部屋を後にした。お母さんが無理をしていたことよりも父親が借金を残して家を出て行ったことの方が許せなかった。父親が家を出たのは私と竜が小学生の頃だった。仕事をクビになり、お母さんとの喧嘩も多くなった。そして二人は離婚することを決めた。私の大好きなお母さんをどこまで苦しめれば気がすむのか。『許せない』その感情だけしかなかった。


午後になって野球から帰ってきた竜が合流し、病院の食堂で今日あったことの全てを話した。竜も父親の行動に腹を立てていた。どんなに憎んでも連絡がつかない。それが一番悔しかった。

「私、アルバイトする」

「え?」

「どんなに嘆いても今の状況は変わらない。だったらお母さんの病気が少しでも良くなって、一日でも長く生きられるように、私たちだけで頑張ろうよ」

そう。それがお母さんにとって少しでも恩返しになれば嬉しいし、娘が稼いだお金で借金を返す、それを父親が知ったらどんな気持ちだろう。

「でも姉ちゃんのダンスは?」

「今はそんなこと言ってる余裕はない。秋の大会は出ずにバイトと学校に専念する」

「それはもったいないよ。姉ちゃんあんなに頑張っていたのに」

「学費を払えなくて、二人とも学校に行けなくなったらどうなるの。竜にはまだまだ伸びしろがある。野球のこともサポートするから頑張っていこう」

そう言うしかなかった。自分だって世界で通用するダンサーになるために、できるのならば休んでいたくない。私の選択は竜と二人で生きていくことだった。それから学校に事情を話したりしてその日は忙しかった。ダンススクールの先生は

「奏が大会を断念するのは正直もったいないと思う。でもそれがあなたの選択なら最後までやりなさい。私もできる限りサポートするし、たまにでいいから踊りに来なさい」と言ってくださった。

一緒にペアを組む陸にも全部話した。昔から一緒にいて、お母さんのこともよく知ってるからすごく驚いていた。でも私の決断を尊重してくれて、残り一カ月でソロ部門に挑戦すると言っていた。みんなが私たちを支えてくれていて、とても心強かった。竜も中学校に話すことができたようだ。そして忙しい一日が終わった。その時私は気がつかなかった。

(今空いてる?少し話せない?)

という樹からのメッセージに。


お母さんの入院が始まってから二週間がたった。忙しい毎日のせいか、私は樹のことを考えなくなった。そんな暇がなかった。私は平日に学校の近くのファミレスで、休日は家の近くのコーヒーショップでアルバイトを始めた。もちろん仕事と学校の勉強と、時にお母さんのお見舞いとで、友達と会ったり、スマホを見る時間もなくなった。それに比例して未読のメールもたまってきていた。竜は野球を続けていて、弁当を自分で作ったり、仕事から帰ってきた私にご飯を作ってくれたりした。二人でうまく生活できている気がしていた。ダンスは二週間に一回くらいしか通うことができくなったが、みんなは私を暖かく歓迎してくれた。でも中途半端ではいけないと思い、ダンスをやめるという選択肢も自分の中に出始めていた。そこで、自分の力では決断することが出来ないと思い、伊織さんにファンレターを出してみることにした。伊織さんなら何かいい答えを出してくれると思った。

(私は家庭の事情でアルバイトを掛け持ちしながら高校に通っています。ダンスが好きでいつか伊織さんのように世界でパフォーマンスしたいと思っています。正直今は踊る時間もありません。続けたほうがいいと言う人もいるけれど、きっぱりやめたほうがいいのでしょうか)

一週間後くらいに返事がきた。そこに書いてある文章を読んで驚いた。

(お手紙ありがとう。大変だよね。でも高校生のうちにできることをたくさんしてほしい。だからダンスをやめないでほしい。でも体のほうが大事だから、今の状況が落ち着くまでスクールをやめて趣味で踊り続けるのも一つの選択肢だよ。最終的にはまわりの空気より自分の意思が大事になります。頑張って奏ちゃん! 伊織)

文理選択の時に樹が言ってくれた言葉と全く同じだった。樹に会いたい気持ちと、忙しい現実とが自分の中で交錯していた。


伊織さんの手紙が届いてから一週間後、私の身の回りで急展開が起きた。お母さんの容体が悪化した。バイト中に連絡が入り、すぐに病院に駆けつけた。私が着いた頃には落ち着いていたが、三日前にお見舞いに行ったときより、痩せて元気がないように見えた。それから、それぞれのバイト先の店長に休みをもらい、私は毎日必死でお母さんを励ました。

「お母さん、元気になったら一緒に竜の試合、観に行こうね。今ピッチャー頑張ってるよ」

「栃木の紅葉が見頃なんだって。見に行きたいね」

「今日の調理実習でちらし寿司作ったよ。今度作って三人で食べたいね」

お母さんの病気が治ったらやりたいことをたくさんたくさん話した。それに対してお母さんも「少しでも多く実現したいね」とか「早く治さないとね」とか言っていた。私はこの時気がついていれば良かったんだ。お母さんがもう長くないことを。


その五日後。

今日のお見舞いは竜だけ。私は土曜授業だったので学校だった。午前中で授業が終わるので、午後から病院に合流しようと思っていた矢先だった。最後の授業の終了まで残り数分の時、校内に響いたのはチャイムではなく校内放送だった。

(一年三組、村山奏さん、至急職員室まで来てください、村山さん、職員室まで来てください)

頭の中が真っ白になった。まさか…。きっとお母さんに関係していることだと思った。パニックになって足が動かなかった。

「カナ!!早く行け!」

陸の声で目が覚め、私は授業中なんて考えずに職員室まで全力で走った。職員室の先生が電話を囲んでいた。私が来たのに気がついた校長先生が優しく私に話し始めた。

「村山さん、落ち着いて聞いてください。お母さんが亡くなったそうです。つい先程、容体が急変してそうで…。非常に残念です」

校長先生の話がちゃんと耳に入ってこなかった。『余命二ヶ月』はもう少し先だったはずだ。昨日まで普通に一緒に話していた人が私の前からいなくなった。

「今、弟さんが病院にいる。私が蔵島総合病院まで送るから準備しなさい」

「はい」

そこからの記憶はまるでなかった。どうやって荷物を教室から持ってきたのか、どうやって眠っているお母さんの前までたどり着いたのか。全く覚えていない。

もう何も聞こえないだろうお母さんに話しかける。

「お母さん、最期にそばにいられなくてごめんなさい。今までたくさん迷惑かけたね。でもこれからはお母さんの生きる姿から学んだこと、教えてもらったことから竜と二人で頑張っていくね。今までありがとう」

途中から泣いて何言ってるか全く分からなかったと思う。でも家族だから心は通じてるって信じてた。遅すぎたけど、今の思いを伝えられた。それから先生や看護師さんがお母さんの体を綺麗にしている間、病院の食堂で竜と話した。

「竜はお母さんが亡くなる前に何か話せたの?」

「実は最後にナースコール押したのは俺なんだ。バイタルが安定していなくて。そしたら先生たちが駆けつけてくれたけど、手の施しようがなかったらしくて。一旦外に出てたんだけど、呼ばれて事情話されて、それで言いたいことは全部言ったかな」

「そっか」

私はお母さんの最期を見届けることができなかった。それは一生後悔することになるだろう。簡単に切り替えるのは難しいけれど、前に進むしかなかった。


お母さんが亡くなって一週間がたった。私たち二人だけでは大変なので、叔父さん叔母さんの力を借りて、葬儀を執り行った。葬儀には、陸、ダンスの先生、校長先生、担任の先生などたくさんの人が来てくださった。親族代表の挨拶では私が自分からやらせてくださいと頼み込んだ。お母さんと過ごした思い出の話、最期に立ち会えなかった悔しい気持ち、これから三人でしたかったことなど、全部言いたかったことを話した。自分の挨拶が終わり、お母さんと最後のお別れをした。棺の中で眠っているお母さんは少し微笑んでいるように見えた。笑ってお別れしようと決めていたけれど、結局泣いてしまった。泣きながらお母さんの頬と足のそばに花を置いた。お母さんが大好きだった黄色い花を二つ。親戚の方はもっと私に花を分けようとしたが断った。この二ヶ所だけにしたのには意味があった。小さい頃、ダンスで緊張していた私の頬を優しい手で包み、安心させてくれたからその位置に一つ。もう一つは、お母さんが無事に天国までたどり着けるようにと意味を込めて足に置いた。そして、お母さんは無事に天国へと旅立っていった。


お母さんの葬儀が終わってからもバタバタな毎日は続き、バイトと学校の勉強に明け暮れていた。またファミレスの倉庫でスマホを壊してしまい、陸やダンスの先生や親戚の人以外とは連絡が取れなくなってしまった。ダンスの先生から連絡があり、たまたまバイトが休みの日があったので久々に顔を出すことにした。先生には少し痩せたと心配されたが、お母さんがいなくなってから、食べる量が減ったのは事実だ。ロビーには、秋の大会の結果が貼り出されていた。ソロ部門の優勝はなんと陸だった。私のせいで一ヶ月しか練習していないはずなのに。紙を眺めていると先生が声をかけてきた。

「この一ヶ月、陸は毎日残って個人練習してた。奏の分まで頑張るって言ってね」

陸…。努力してたんだ。でも私は決めてしまったんだ。もう変わることはない。

「先生、今日は報告しにきたんです。お母さんの葬儀が終わっても私の毎日は忙しいです。なのでダンススクールやめようと思ってます。続けたい気持ちは山々だけど、現実ちょっと厳しくて」

先生は驚いた顔をしていた。まるで予想していなかったかのように。

「そうなの奏。今までよく…」

「ちょっと待ってください!!」

振り向くと声の主は琴音だった。琴音と話すのはあの一件以来だった。

「陸さんから聞きました。今、奏さん大変な状態だって。あんなことしておいて、私が言える立場ではないですが、やめさせませんから。奏さんのダンスは人を惹きつける力があります。今までみたいな頻度で通うことができなくても、遊びに来る程度でいいです。またアドバイスしてください」

琴音がこんなこと思っていたなんて知らなかった。正直嬉しかった。

「俺もやめさせねーよ」

陸だった。

「俺がこの一ヶ月頑張ってきたのはカナのためだ。またいつかカナに俺と踊りたいって思ってもらえるように。その本人がやめたら俺の頑張りはどうなるんだよ」

陸が思っていたことも知らなかった。

「みんなありがとう。もう少し続けてみる」

やっぱり私が一番好きなのはダンスだ。それを手放したら何が残る?『今しかできないことをたくさんやること』伊織さんの言う通りだったなとつくづく実感した。

「じゃあ奏、今日は何する?」

「今日は陸の練習見てきます」

そう言って陸の練習を見つつ、大会の動画を見てアドバイスをしたりした。

「あ、ありがとう。いろいろ助けてもらっちゃって。お母さんのことでバタバタしてて、なかなかお礼言えなかったから」

「全然気にすんなよ。ところでカナさぁ」

「ん?」

「秋の大会で優勝したら言おうと思ってたんだけど」

「うん」

「好きです。カナの心に違う人がずっといるのは分かっていたけれど、諦められなくて」

普通の人だったら、告白されたら慌てるはずだが、私は至って冷静だった。

「ごめんね。今はそれどころじゃないの。陸もわかってると思うけど、今は竜と二人で一日一日生きるのに精一杯。彼氏だとか言ってる暇ないんだ。本当にごめんなさい。でも伝えてくれてありがとう」

今はそんな暇はない。それは事実だった。

「そうか。そりゃそうだよな。タイミングが悪かったわ。じゃあ後輩の練習見てくる」

なんだか申し訳なかったし、私から目を背けた陸が泣いているようにも見えた。


「ごめんね。今はそれどころじゃないの」

ああ振られたな。やっぱりダメだったか。たしかに今の奏にそんな余裕はない。お母さんを失った傷もかなり大きいだろう。自分で秋の大会で優勝したら伝えようと思っていた。自分のことだけ考えていて奏のことは少しも分かっていなかった。振られたのを気に、奏への想いを断ち切ろうと決めた。俺に勝ち目はない。でも少しだけ気になったことがある。俺が言った『違う人』とは樹のことだ。でも奏は忙しいことを理由にして、そのことについては何も言わなかった。それが少し気がかりだった。


あの日から陸とは少し気まずかった。学校でも、たまに顔を出すダンスでも、話す頻度が減った。そして私の毎日のサイクルは同じまま、季節だけが巡っていった。


二年後ー。

三年生になった。私は二年生から理系に進んだ。今のままでダンスで世界に出ることは相当難しいので、本気で看護師を目指すことにした。もとから気になってはいたが、お母さんの病院の看護師さんを見てきて、もっとなりたいという気持ちが高まった。陸をはじめ、ダンスの友達とは連絡を取っていたが、他の友達の連絡先は未だに入手していなかった。

今年は私も竜も受験があるため、バイトは毎日休まず通い、お金を稼いだ。そんな時だった。ファミレスのバイトの休憩時間に店長に呼ばれた。最初はクビになるかもしれないと思ってビクビクしていた。でも、店長からの話の内容は全く違うものだった。

「実は今度新店舗を開店することになった。そこで夏休みから入ってくれる高校生アルバイトさんを増やすためのPRに力を入れることになったんだ。ここの店舗からも一人出してもらえるかという話が来た。そこで私は村山さんを推薦したいと思う。村山さんは学生アルバイトの中でも長く働いているし、他の人の模範とも言える。新店舗の場所を含めていい話だと思わないか」

店長が見せてきた地図に示された新店舗は、私の家の最寄り駅から徒歩で少しのところだった。悪くない話だと思った。

「私でよければやらせていただきます」

自分が今まで頑張ってきたのが評価されていてとても嬉しかった。そして、一週間後の開店から新店舗で働くことになった。


新店舗で働きはじめて約一週間が過ぎた。先輩として他の人に教えるのは難しいけれど、自分の貴重な経験になった。PRの効果が出るのが早く、ホールスタッフの半分は高校生アルバイトで店を回している。そんな時だった。休憩中に料理長に呼び出された。「村山さんに会いにきた客がいる」と。はじめは陸か誰かかと思った。身だしなみを整え、ホールに戻ると、私を待っていた人物は樹だった。二年ぶりに見た樹は背が伸びていて、今まで以上にガタイが良くなっていた。休憩中だったので一番端の席に座り、話をすることになった。約二年ぶりの再会。最後に会ったのは確か、文理選択の相談をした時だった。

「久しぶりだね。元気にしてた?」

私が聞くと、珍しく樹が怒っていた。

「どれだけ心配したと思ってるんだよ。連絡もよこさずに」

「スマホ壊れちゃって、ダンスの人以外に会ってないから樹の連絡先も一緒に消えちゃって」

「中学の同級生も奏に連絡つかないってみんな言ってたんだぞ。誕生日に送っても既読つかないし。まあスマホ壊したのはしょうがないとしてこの二年間何があった?奏に起きたこと隅から隅まで全部話せ」

お母さんの病気と父親の借金が見つかったこと、二つのアルバイトを始めたこと、お母さんの死に立ち会えなかったこと、理系に進んだこと、ダンスをやめようか迷ったこと、陸に告白されたこと、樹の言うように隅から隅まで全部話した。連絡を取っていなかったから、樹が知らなかったことの方が多くて、終始驚いていた。

「そうか、そんなことが。この二年で随分と奏のまわりの環境が変わったんだな」

「うん」

「学校はどうしてるの?」

「補助金を利用しながら今まで通り通ってる。結局ダンスもやめずに続けているよ。月に何回かしか顔出せないけど。竜も野球をやめずに続けてる」

「頑張ってるんだな。二人とも体調気をつけろよ。あと連絡先渡しとくね」

樹の連絡先。心の奥底で欲しいと思っていたもの。

「また頼っていい?」

「全然いいよ」

「ありがとう」

樹に会って元気が出てきた気がした。そろそろ休憩が終わりそうだったので、話はそれで終わった。バイトから帰ってから、さっそく樹からお疲れ様メールが届いていた。それだけで嬉しい一日になった。二年ぶりの恋が動き出そうとしていた。


それから前と同じように、なにかと樹のことを考えがちになった。たまにメールのやり取りをするようになり、キツキツの生活に少し心のゆとりを持てるようになった。メールのやり取りをする中でどんどん好きになっていってしまうのが少しだけ怖かった。

(私は本当に幸せになっていいのか)と。

悩んだ時には迷わずペンを取っていた。

(前にも手紙。書いた奏です。二年前、前回の手紙を書いたあと私のお母さんが病気で亡くなりました。今でもダンスは続けていますが、今日は違うことで相談したいです。私には中学の時からずっと好きで忘れられない人がいます。その人はいかにも文武両道な人です。私はアルバイトをしているような人です。それに父親の借金を返すのに精一杯の生活をしています。お母さんを置いて幸せになるのが怖いです。この想いは伝えない方がいいですか?)

宛先はもちろん伊織さんへ。

(お手紙ありがとう。本当に辛かったよね。自分にとっての幸せってなんだろうって考えてみるのは大事。私にとっての幸せは踊り続けるのもそうだけど、好きな人と好きな時間に好きなことを好きなだけやることかな。後悔しないように、自分の選択を大切にしてください。頑張って奏ちゃん! 伊織)

伊織さんからの手紙を読むといつも泣いてしまう。感慨にふけていると家の電話がなった。

「もしもし」

「村山さんのお宅ですか。蔵島総合病院です」

「村山です。どうなさいましたか」

「先日、お母様の次に入られた長期入院の患者様が退院されまして、その時にそのご家族の方がお二人宛に書かれたお手紙を見つけたとおっしゃっていました。近々取りに来られることは可能でしょうか」

お母さんからの手紙…。つまり遺書。

「こちらも見つけるのが遅くなり大変申し訳ございません」

「いえいえ。明日伺います」

次の日の朝、竜と一緒に蔵島総合病院に手紙を取りに行った。力の抜けたような弱々しい筆跡だったが、間違いなくお母さんの字だった。

(奏、十六年間私の娘でいてくれてありがとう。奏はダンスで世界に行くという大きな夢を持っているだけでなく、意外と現実を見てるところもあって看護師のお勉強もしていたね。当時のお母さんはそんなに優秀じゃなかったぞ。私が入院してからたくさん迷惑かけたね。奏のことだからお父さんの借金も今後、誰の手も借りず、自分で全て返すと言い出すことでしょう。体調には十分気をつけて、たまにはまわりの人を頼りなさい。そして幸せになってください。今は辛いことがたくさんで嫌になったりするよね。でもそれ以上の愛や夢や幸せに出会える時がきっと来ます。今頑張っていることは決して無駄ではありません。あなたの幸せを空から願っています。自慢の娘でした。ありがとう。 恵)

どれだけ涙を流しただろう。竜も自分への手紙を読んでいてやはり泣いていた。二年ぶりにお母さんが身近に感じられた時間だった。そして、その手紙の力をバネに私たち二人は第一志望の大学・高校に合格するために勉強した。アルバイトとの両立も自分なりに頑張った。時々樹と一緒に勉強して受験までの時間を過ごした。その結果、二人とも第一志望に合格した。


竜は高校でも野球を続けて、アルバイトも始めると言っていた。新しい高校の三年生にはなんと琴音が通っている。二人が友達になってくれないかなと考えてしまう。陸はプロダンサーになりたいということで、高校を卒業してすぐに上京した。今は伊織さんの事務所の研究生になり、毎日ダンスに励んでいると連絡が来た。そしてそこで知り合った同期のダンサーとお付き合いをしているらしい。私はファミレスのバイトは継続し、コーヒーショップのバイトは三月でやめることにした。そのかわり、通っていたダンススクールの講師として雇っていただくことになった。自分が先生に教えてもらったように、次の世代の子供たちにダンスの楽しさを伝えたいと思っている。そして大学では看護師の資格を取るために勉強をしている。新たな生活のためにそれぞれが動き出している中、樹からメールが入った。

(今から会えない?)

(いいよ。いつものコンビニで待ってるね)

私が着いたら樹がいて待っていてくれた。

「お待たせしました」

「私服可愛いじゃん」

「あ、ありがとう」

不意に言われて緊張してしまうのは昔から変わらない。

「大学はどこに決まったの?」

「城智大学の看護学科で看護師になるための勉強しようと思って。でもファミレスのバイトも続けつつ、休みの日を使ってダンスの講師やったりとかする。また忙しくなるだろうな。借金も残ってるし」

「待って。俺も城智なんだけど。第一志望は落ちたんだけど、商社に勤めたいから社会学科で勉強するつもり。まあプロ野球も諦めてないけどな。奏と一緒に学校行けるかもな!」

「それは嬉しい!」

朝から一緒に行くなんてなんか想像できない。

「でもさ、第一志望合格したら言おうと思ってたことあったんだけど、言えなくなっちゃった」

「そうなの?」

「うん。でも大学入る前に伝えたかったから。約束果たせなかったけど聞いてくれる?」

「いいよ」

「奏のことがずっと忘れられなかった。だいすき」

自分からいつか言えるように頑張るって思ってたけど、まさか樹から。しかも私が好き?でも…。

「急に混乱しちゃうよね。ごめん」

「嬉しい。私もずっと好きでした」

「過去形…なんだね」

「本当に私でいいの?借金あるんだよ。忙しいし、してあげられること何もないんだよ」

「でも奏がいい。辛い時は支えるから、また二人で頑張っていこう」

「はい。お願いします」


幸せは案外すぐそばに会ったりするものだね、お母さん。私が歩もうとしていた道は決して間違ってはいなかった。それを証明してくれたのは樹だった。幸せへと走り続けることの意味を教えてくれたのも樹だった。今度は好きな人じゃなくて、自分が信じた人と一緒に夢を叶えたい。樹、ありがとう。


努力し続けた者にだけ、本当の愛と夢と幸せが待っている。













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