第4話 雨上がりの朝

たまたまだった。

その夢を見るのはこれが初めてでもなく、むしろ夢の中では頻繁に見る類のものだった。

予知夢のように役に立つこともない、ただの夢。私が人間だった名残のようなもので、それがまだ残存することは時折私の気を重くさせる。それが悪いことでもなんでもないことだと頭ではわかっていても、森の魔女たる私がそんなものに拘泥しているという事実は感情との折り合いがどうにも悪い。だいじょうぶ、だいじょうぶ、と優しく笑って頭を撫でてくれる手などもうとっくの昔に無くなってしまっているというのに。それをどこかで求めている。

親を求める幼い子供のように。

真っ黒な髪の隙間から、涙を湛えたヘーゼル色の瞳が覗く。

痩せた手足は小枝のように今にもぽきりと軽い音を立てて折れてしまいそうな程に細く頼り無い。子どもは襤褸を纏って、小さく蹲っていた。

零れ落ちた涙がまた一粒、水面に落ちて波紋を広げる。

私はゆっくりとその子どもに近づいた。静かに手を伸ばすとごわついて肌触りの悪い黒髪に指先が触れる。私はごくり、と知らず知らずのうちに生唾を飲み込む。そのまま掌を頭に乗せるとじわりと侵食するように冷気が腕を伝った。

ちがう、と子どもが呟いた。

私を見上げるくすんだ赤味がかった黄色い瞳。虹彩に所々緑が混じり、光の加減で表情を変えるそれが今はどこか淀んでいるように見えた。

揺れる眼球に映るのは、赤毛の魔女の姿だった。

まぎれもなく、「瑛」の姿。

「お前じゃない。お前は違う。偽物だ」

呪詛を吐くような、低い声。

黒髪がざわめきながら掌に巻きつき、腕へと侵略していく。

触れた部分が凍傷のよう痛むが植物の蔓のように巻きつく髪を私は剥がすことが出来ない。


「返せよ、返してよ。私の、本物の、瑛を」


子どもが叫んだ。


土鳩のどこか間抜けな鳴き声。

雨に洗われたばかりでしっとりと冷えた空気。

1週間ぶりの太陽の眩しさに顔を顰めながら目を覚まして、私はゆっくりと伸びをした。

村の南側に住むシロウに依頼されて夢蝋燭をあの男に託したのが2日前。

シロウはこの村に珍しくない農業を営んでいる老人で、そろそろ雨が止んでくれなければ作物が駄目になってしまって困る、ということで私に依頼をしてきたのだったか。

昔から変わらないぶっきらぼうで、ともすれば横暴にも受け取れる口調で言ってくるものだから、最初は気が乗らなかったが、シロウと長く生活を共にしている連れ合いの清葉のアップルパイに釣られてしまった。シナモンと林檎を惜しみなく使ったアップルパイは絶品で、最近町で仕入れた紅茶とも相性が良い。せっかく美味しい紅茶を手に入れたのだから、より美味しく頂く手間を惜しむべきでない、と私は対価として清葉のアップルパイとシロウの野菜を要求した。

シロウも口は悪いが野菜は美味しい。大地の栄養をぎっしりと詰め込んだ野菜は見た目こそあまり良くないとはいえ、味が濃く、そのまま食べても十分なごちそうになってしまう。

どのみちそろそろ庭のハーブが悪くなってしまうし、洗濯ものが乾かない日々にうんざりし始めていたところだったというのは彼らには秘密だ。

あの男も首尾よくやってくれたようなので、近々お礼に何か持って行ってやろうか。

仏頂面のあの男に贈りがいというものは皆無だが、手伝わせた恩は早めに返してしまいたい。

顔を洗って、長い髪に櫛を通す。

手早く身支度を整え、まだぼんやりとする頭を抱えながら水を入れた薬缶をコンロに。

軽くコンロを撫でれば紅い炎がちらちらと瞬きながら薬缶の底を静かに包んだ。

うちのコンロに住んでいるサラマンダーは、物静かだが魔力と静かな住処さえ与えれば仕事はきっちりしてくれる気の良いやつだ。

月に一度、鱗の手入れをしてもらうのがお気に入りのようでジャムや煮込み料理をする前にすると絶妙な火加減で煮てくれる。

乾燥させた西洋薄荷を一掴み、大雑把にティーポットに入れて私は椅子に腰かける。

にゃあ、と鳴き声が響いた。

「ああ、おはよう」

ソファで身体を丸めていた、キースが大きな欠伸をしながら伸びをした。

大きなエメラルドグリーンの瞳を瞬かせながら顔を仕切りに撫でる。

「おはよう。今日は君に珍しく、早起きのようだな。何の予定もないのに」

そうか、と私は壁掛け時計に目をやる。確かに今はまだ午前中もいいところだ。そんな風に言われると予定もなければ昼過ぎまで寝こけている怠惰なやつだと言われているようなもので些か不満だが、それもまた本当なので返す言葉もない。

しゅんしゅん、と薬缶が音を立てて威勢よく蒸気を吐き出す音に「もういいよ、ありがとう」と返すと静かに火が消える。

「まあ、そんな日もあるさ」

「何か悪い夢でも見たのか?」

キースがソファに丸まったまま私を見上げる。飴玉のような瞳は人間のそれ程如実に感情を映すわけではないが、それでも不安や心配が薄く滲んでいるように見える。

「大したことじゃない。大丈夫、しばらくは平和そのものだろう。

それよりキース、私は朝食がわりにミントティーを飲むんだけれど、お前もミルクでも飲むかい」

「頂くよ。瑛の秘密主義は今に始まったことじゃない」

「科学は闇を照らす光。魔術は神秘と秘密のベールの向こうってね」

「はいはい」

舞台役者よろしく両手を広げて踊るように1回転。右手を内側に折り畳み深くお辞儀をしてみせる。

キースはもういいよ、というように尻尾を左右に大きく振った。鞭のようにしなる黒い尻尾が空気を裂いて、小さく音を立てた。

私は机の上に乱雑に積まれた読みかけの本を手に取る。こんな早くに起きたところでやることはそう無い。

皿に注がれたミルクをすっかり舐めつくしたキースはふらりと何処かへ行ってしまったようだった。あれは、魔女と暮らす時間が長過ぎたのか、元々の気質によるものなのか、どうにも人間くさい。猫の癖に、私よりも随分と活動的だ。そんな風に言えば「君が猫みたいにぐうたらなだけだ」とまた不機嫌な顔をされるだけなので口には出さないけれど。

紙を捲る音と風に揺られたカーテンが時折カーテンレールを滑る音。

敷き立てのシーツのようにぴんと張っていた朝の空気が風と日差しに掻き回されて、静かに緩んでくる。

「ただいま」

音も無くキースは私の足元に座ると膝に乗せろ、と言わんばかり右の前脚でかりかりと私のワンピースの裾を軽く引っ張る。

言われるままに両手で抱き上げて膝に乗せると尻尾が手遊びをする子どものように私の腕を撫でた。少し擽ったい。

「どうしたんだ?」

「さっきな、散歩してたらシラタマに会ったんだ。そしたら、タツミがシラタマの主人から沢山葉っぱを押し付けられてたって。

シャクシャクして辛いやつ。あんなの沢山は要らんだろうに、ってシラタマがぼやいてた。あんなのよりも猫草の方が余程美味しいだろうに人間って変だよな」

シャクシャクした辛いやつ。

クレソンだろうか。ネギのことを悪魔の植物だとか毒草だとかと口汚く罵るのが猫たちの常だけれど、そこまで言わないところを考えると。

そういえば、いつだかにヨシノがクレソンの栽培を始めたとシラタマが言っていたことを思い出す。

あの時も「もっと猫草を生やしてくれれば良いのに。もしくはマタタビ」とシラタマはもっちゃりとした身体を揺すりながらぼやいていた。仔猫の時はまさにシラタマの名に違わず小さな可愛らしい猫だったが、今ではオモチに改名した方が良い貫禄を備えた立派な成猫になってしまった。

丸まってぼやく姿はおっさんそのもの。

「タツミがねぇ。クレソンならそうだな。

たっぷりクレソン、キドニービーンズとゆで卵のシーザードレッシング和え、クレソンとカリカリベーコンのサラダ。いや、そのままサンドイッチにしても美味しそうだな」

想像しただけで唾が溜まる。

水気たっぷりのクレソンはきっとそのまま食べても爽やかな辛味がアクセントになっていくらでもいけるだろう。

そこまで考えると居ても立っても居られず、私は立ち上がって安っぽい赤色の電話を取った。掛ける先はもちろん、タツミの経営する喫茶店だ。この時間なら人もそういないだろうし、ちょうどクレソンを仕込んでいる途中かもしれない。天気が良いので、テラス席でタバコをふかしながらのんびりと昼食を摂るのも悪くない考えだ。

きっかり3回ベルが鳴って、がちゃり、と受話器が上がる。

「はい。喫茶、ラビットホールです」

「タツミ、クレソンあるか?」

「なんでそれを」

「まあ、猫の噂は早いのさ」

「ありますよ。たくさん。今日のランチはクレソンとカリカリベーコン、マスタードたっぷりのマヨネーズのサンドイッチです」

「流石、タツミだ。常連の好みをよく知っているじゃないか。1人分、予約を頼むよ。あと、別にカリカリベーコンだけも少し頼む」

「キースさんの分ですか?猫にしょっぱいものは毒ですよ」

動物好きなタツミが少し責めるような口調でいう。

「仕方ないじゃないか、本人が好きなんだから。大丈夫さ。まあ、アイツは酒も飲むし、アテが無いのも気の毒だろう」

仕方ないですね、おまけしときます。

ため息混じりにタツミは了承して、電話を切る。

私は台所のタイル床に寝そべって暇つぶしに溶けるキースを両手で抱き上げた。

「喜べキース。今日の私の昼食はクレソンのサンドイッチ、晩酌のお供はタツミのカリカリベーコンだ。うまいウイスキーでも開けようじゃないか」

「昼食はどうでもいいけど、ベーコンはいいね。あそこのベーコンは風味も良くて最高だ」

キースは心底鬱陶しそうに眉をしかめながら、ペロリ、と舌なめずりをした。

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最果ての村便り 津麦ツグム @tsumugitsugumu

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