第3話 雨あがりの懐古

「おや、お久しぶりです。お散歩ですか?」

「うん。気持ちよく晴れてくれたから」

焦げたキャラメル色のドアを開ければ、からん、と銅製のベルが鳴った。

香ばしさと甘味を含んだ珈琲の香り。

1週間ぶりの晴天の光が、古い吹き硝子をきらきらと瞬かせて見せる。僕は、胸いっぱいに珈琲の香りを吸い込みながら、カウンターに立つタツミに手を振った。

柔らかそうな麻のシャツに黒いスラックス。灰色の瞳に、笑い皺の目立つ目尻。

穏やかな物腰に落ち着いた低い声のタツミは親から継いだこの古い喫茶店を経営している。

大きくはないが、静かでタツミの心配りの行き届いたこの店が、僕はとても好きだ。研究熱心なタツミは時折町に出て流行りの食べ物を調べて、限定メニューに加えてはこの村の人々の生活に彩を添えてくれる。

僕は、カウンターの奥から3番目の席に腰を下ろした。ベルベットの張られた丸椅子が小さく軋む音を立てて、持ち直したように黙りこむ。

誰か先客がいない限り大抵ここが僕の指定席だ。店の雰囲気やざわめきが丁度良い具合に聞こえて、その割に誰とでも気楽に話せる。村の住人のほとんどが親世代からの知り合いのこの村では、人と人との距離が近い。特に、僕のようにずっと住んでいるものにとっては尚のこと。

いつもより早い時間に来たせいか、今のところ僕以外は誰もいないようだった。

店内に人の話す声は無く、タツミが料理の下ごしらえか何かをしている音と小さく流れるピアノの旋律が川の下流を流れる水のように静かに揺蕩っている。

「タツミ、おすすめの珈琲ってあるかい?」

「そうですね、新しい豆を仕入れたのですが・・・今日はどんなものが飲みたい気分ですか?」

カウンターの向こうでクレソンを刻んでいたタツミが手を止めて、僕に尋ねた。しゃきしゃきと水分をたっぷり含んだクレソンの鮮やかな緑の葉は今にも跳ね出しそうな程に新鮮だ。

「実は今日はまだご飯を食べてないんだ。だから、酸味が強いのはちょっとなあ。

飲みやすくて、酸味の少ないものがいいな」

「珍しいですね。何かあったんですか?」

タツミが気遣わしげに眉をひそめた。心配症なところは、タツミの母親そっくりだ。

「いや、何もなかったんだけど、起きたらあんまりよい天気で。

久々の洗濯日和にすっかり舞い上がってしまって、家のことを片づけてたらこんな時間になったってだけなんだよ。そのまま、気分も妙にすっきりしたから散歩がてらにここで珈琲でも飲もうかなって思いついて」

そうでしたか、とタツミは安心したように笑う。

僕は僕で人に説明するとあんまりにも欲望に忠実というか、気分に合わせて好き勝手している自分の生活を振り返ってしまってどうにも居た堪れない。

天気が良いだけで、こんなに気分も良くなるだなんて、子供でもあるまいし。

そうは言っても天気の良しあしで人の体調や気分は影響されると昨晩先生も言っていたことだし、仕方がないのかもしれない。そういうことにしよう。

「なら、少し深煎りの『深緑』をさっと淹れたのにしますね。

あんまり濃すぎても飲みにくいでしょうし」

「それがいいな。じゃあ、それで」

かしこまりました、とタツミはぴかぴかに磨かれた珈琲用の薬缶を火にかける。

植物を思わせる滑らかな曲線を描く注ぎ口は何時見ても不思議と目を奪われる。この形の方がお湯を注ぐ量を調節しやすく美味しい珈琲を淹れられるのだと、先代店主のタツミの父親が言っていたのを思い出す。実用性を追求した結果の造形というのは美しい。それは例えば、チーターの足の筋肉だったり、鳥の骨格だったり、魚の鰭の形だったり、そういうものと良く似ている。

「それにしても、タツミは先代にそっくりだな」

珈琲を淹れて終わり、キリがいいところまで来たのか作業を手を休めたタツミは自分用の珈琲を淹れながら目尻を下げた。

「そうですか?子供の頃は母に似ているとよく言われたものでしたが」

「僕もそう思ってたよ。薄い唇とか、頭の形とかね。

だけど、お店に入って君の仕事姿を見る度にタツキが立っているみたいだって思うよ。

不思議だな。こうやって喋っていると君はどう考えたってタツミなのに」

「そんなに似てますか」

「笑うと目尻に皺が寄って、垂れ目になるところとか、あとは、そうだな、ちょっと猫背で立っているところとか、そういうところが良く似ている。結局人の似る似ないっていうのはそういうちょっとした動作だったり雰囲気だったりするのかもね」

「そうかもしれませんね。

それに、私もすっかり私の知っている父の年齢に達してしまいました。

この歳になってしまうと貴方に子供のように甘えることが難しくなってしまって困ります。それに、こんな風に大人ぶっていても、貴方が子供の私を知っているというのもなんだか、気恥ずかしいような嬉しいような、不思議な気持ちです」

僕ははて、と首を傾げた。

「気恥ずかしいのかい?恥ずかしがるようなことは無かったと思うけど」

「貴方が帰ってしまうのが悲しくて、袖を掴んで店で大泣きしたこととかですね」

僕は言われて嗚呼、と思い出した。

今よりずっとずっと小さな背丈。今よりずっとずっと小さな手足。

僕の服の袖を小さくふくふくと丸い手が必死に握っていて、僕を見上げる灰色の瞳一杯に涙を浮かべて顔を赤くしていた小さな子ども。熱く湿った掌に握り潰されてくしゃくしゃになった袖を僕はなんだかとても嬉しくて家に帰ってもずっと眺めていたのだったか。

あれは確かに可愛かったが、彼にとっては恥ずかしい駄々を捏ねた想い出なのだろう。

居心地悪そうに俯いて頭を掻くタツミに僕はつい吹き出してしまう。

その仕草は少年になったタツミがよくしていたものだった。そういえば。

あんまりいじめてやるのも止してくれ、とタツキが耳元で囁いたような気がして僕はその仕草について言及をするのはやめた。

「そういえば、そのクレソン、何かあるのかい?」

「これですね。うちの3軒隣で採れたすぎたみたいでおすそ分けして貰ったんです。

今日のランチはたっぷりクレソンとベーコンのサンドイッチにしようかと。子ども用にはマスタード抜きのマヨネーズで、大人用にはたっぷりマスタードのはいったピリ辛のマヨネーズソースをパンに塗ってもいいかな、と思ってます」

「それは美味しそうだな」

「きっと美味しいですよ。採れたてで歯触りも良いです。よかったら朝食も抜いてるみたいですし、食べていきますか?」

「これ飲んだら、僕にもひとつお願い」

かしこまりました、とタツミは小さく笑って珈琲を飲み干した。

おすすめ上手で、商売上手なところは母親似だ。

僕はまだ残っている珈琲を大事に飲みながら、タツミの背中を目で追う。

あと少しでランチの時間になるせいか、無駄のない動きでタツミはあちらこちらと作業を始めるようだった。

からん、と音がした。

「こんにちは。ってか、今日は珍しいお客さんね。」

「おや、早いね」

「たまたまよ、たまたま」

波打つ赤毛が一瞬入った扉からの光で鮮やかに瞬く。

純粋な好奇心を煮詰めて凝縮したような、深緑の瞳。

胸元が大きく開いた生成り色のワンピースに、黒いレースを引っかけた格好はすらりと細身で身長の高い彼女に良く似合う。

村の外れの森の入り口にひとり住む、森の智者。

魔女、とこの村の人から親愛と畏敬をこめて呼ばれている彼女だった。

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