ボーダーランナー

myz

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 悲しみが襲ってくる。

 べつにどうということはない。

 大切な人を突然に喪ったとか、そんなことはなにも。

 けれど、どこかから湧き出してきた感情が、心に覆い被さってくるときがある。

 備えることはできない。

 爽やかな四月の空の下を歩いているとき、旧友と親しく言葉を交わしているとき、自室でひとり静かにくつろいでいるとき、それはふいにやってくる。

 悲しみの発作、とわたしは呼ぶことにした。

 涙が溢れるほどの感傷はない。

 ただ、ひたひたと足先を濡らす湖岸の水が、すっと心の襞の一枚一枚の隙間にまで滲み徹ってくるような感触がある。

 為す術はない。

 いつもただじっとそれが流れ去ってくれるのを待つ。

 夜半だった。

 読み終わった本を閉じて、表紙をそっとなぞる。

 親しんだ作家のエッセイの、滋味に溢れた文章の余韻に浸る感覚と綯い交ぜになって、わたしはそれがまた訪れたことにしばらく気がつかないでいた。それにはなぜかしら、どこか甘くやさしいところがある。

 自分が今、どうしようもなく悲しいのだ、ということに気づいて、静かにため息をつく。

 家の中は寝静まっている。

 部屋着から着替え直すと、一本だけ点いた蛍光灯と、生温い夜気をかきまぜ続けている扇風機をそのままにして、わたしはそっと家から出た。

 深更の街路に人影はない。ぽつりぽつりと立つ街灯の明かりが白々しい。

 その中を、とぼとぼと歩く。

 すれ違う車のヘッドライトが一瞬わたしを照らし出して、通り過ぎてゆく。

 理由はないと思う。

 仕事はそれなりにうまくやっている。ささやかなやり甲斐も感じている。

 同居している老親との関係も悪くない。

 引きこもりがちなわたしを折につけ連れ出してくれる友人もいる。

 多分、幸せなのだろう。

 それなのに、時折こうやって湧き起こってくる感情を処理する仕方を、わたしはいつまでも身に着けられないでいる。

 橋のたもとに差し掛かる。

 町の中央を南北に貫いて流れる川に架かる鉄橋は、わたしの生まれる以前よりそこにある。

 度々補修が繰り返され、赤いペンキの色が闇の中でなまめかしい。

 脇を見ると、堤防の道が真っ暗な闇の中に溶け込んでいる。

 わたしは橋の歩道に足を踏み入れた。

 一往復、橋の上を行き戻りして、家に帰ろう。そう思った。それぐらいすれば、この発作が治まるのには十分な時間が経つはずだった。

 橋の上と、なにもない空中とを隔てる手摺も、真っ赤に塗られている。その向こうには、濃密な闇。覗き込めば、下方には黒々とした水が滔々と流れている。橋の上にいる間は、その逆巻く音が絶えず耳鳴りのように微かに響き続ける。

 こんなときはよく、暗い川の流れに身を沈めてゆくことを思い描く。

 橋の上から飛び降りるようなことはしない。川岸から一歩一歩、水の中に足を踏み入れていく。深みに向かって、淡々と、ゆるやかに。やがて水面が頭上を越え、わたしは川に抱かれるようにして、流れとひとつになる。

 空疎な想像だ。

 水の流れは容赦なく冷たく、わたしは無様にもがき苦しんでから死ぬのだろう。

 死にたい、と口の中だけでそっと呟いてみる。

 そうして、舌の上で転がるその軽やかさに、呆気にとられる。

 死をこいねがうというにはあまりに透明で、淡い感情。

 それを引き連れたまま、橋の上を進む。

 半ばまで差し掛かったときだった。

 ぽつぽつと等間隔に点けられた橋の照明の下、なにかが閃いた気がした。

 わたしは思わず目をすがめる。

 また白いなにかが閃く。

 手摺の上、白い影が、照明の下と、その光の届かない陰の中を交互に通過して近づいてくるのが、ぱちぱちと星の瞬くように映る。

 わたしのすぐ隣の手摺の上で、ひらりと身を翻し、は立ち止まった。

「ごきげんよう」

 わたしに向かって、優雅な仕草で礼を執る、それは真っ白なワンピースを身に着けた、少女に見えた。肩口で切り揃えられた黒髪がはらりと揺れる。

「お迎えに上がりました」

 恭しく宣うそれに、わたしは言葉を返せなかった。

 言うべきことはいくらでもあるのかもしれなかった。

 そんなところに登っていたら危ないとか、そもそも子供がこんな夜更けに出歩いていることとか。

 しかし、そういう平凡な問いはすっかり喉の奥に引っ込んで、凝固してしまうくらい、それはそこに

 錆の浮き始めた手摺の赤い色はそれの白さを際立たせるために、狭い手摺の幅もその飾り気のないパンプスが伝い歩くのに丁度良いように、照明灯はおあつらえ向きのスポットライト。

 すべてが調ととのえられていて、わたしがここでそれに出会うのも、あらかじめめられていたことなのだ、という実感があった。

「あなたは」

 わたしは尖りそうになる声を抑えながら、それに問う。

「わたしはボーダーランナー」

 それは答える。

「境界を走るものです」

 気づけば、橋上を通り抜ける車影も絶えている。

 わたしは世界の中でひとり、それと見つめ合っている。

「わたしを、迎えに来た」

「はい」

 それが、こともなげに首肯する。

「あなたの絶望を払いに」

 どきりと心臓が跳ねた。

「わたしは」

 喉が詰まる。

「わたしは絶望している」

 言葉に出すと、それがいままでわたしに纏い付いていた希薄な感覚と一体となって、確かな質量を持って殴りかかってくるような気がした。

「はい」

 再度、それが首肯する。

「そうした人の前に、わたしは現れます」

 これまでわたしは、間違ってこなかっただけなのかもしれない、と思う。

 人生には正しい途と間違った途だけがあって、それをえらんでいけばいいのだと考えていた。

 けれど、それは本当は無数に枝分かれしていて、わたしはその最悪のものから逃げ続けていただけだった。

「むかし、画家になれると思っていたの」

 いつのまにか、涙が溢れていた。

「はい」

「でも、駄目にしてしまった」

「はい」

 温かいものは、後から後から流れてくる。

 子供の頃は、なんにだってなれると信じていた。

 でも、そうするにはわたしはあまりにも弱くて、間違わないように、間違わないように、ただそうやって流されてきただけだ。

 気づいたときには、わたしはもう何者にもなれなくなっている。

 そうやってわたしは、これからもこの階段の踊り場のような場所で、上に昇ることもできず、下に落ちることもできずに、ずっと足踏みし続けるのだろう。

 それがわたしの、ありふれた絶望。

「さあ」

 それが手を差し伸べてくる。

「こちらへ」

「向こう側に行けば、どうなるの」

「向こう側へは行けません」

 それがちらりと背後の川の上の闇を見遣る。

「ここがわたしたちの居場所です」

 細い手摺の上を爪先でなぞりながら、言う。

「どこにも辿り着くことはなく」

 その声が、唄うような響きを帯びる。

「なにものにも囚われることはなく」

 目を見映るような、華麗なターン。

永久とこしえに走り続けるのです」

 それは初めて、可憐に笑ってみせた。

「さあ、あなたもいっしょに」

 ふたたび伸ばされたその指の先に、わたしはそっと触れる。

 夏の夜風の温度がした。

「やっぱり、めておくわ」

 わたしは手を引きながら、ゆるゆると首を振る。

「これは、わたしがわたしで択んだ地獄だから」

 それは、微笑んだままだった。

然様さようですか」

 カーテンコールに応える礼。

 たちまち白い影は身を翻して、わたしの歩いてきた方へと、ぱっ、ぱっ、と瞬きながら橋の手摺を渡り、消えた。

 わたしはいつのまにか詰めていた息をついて、塗れた頬を拭う。

 元来た道へと戻ってゆく。

 その跡に悲しみが点々と落ちてゆく。

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